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ベートーヴェン、7つの知られざるストーリー

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毎年日本でベトーヴェン交響曲第9番『合唱つき』が大ヒットする理由は?

ベートーヴェンが亡くなる間際に語った言葉、その本当の意味は?『楽聖は希代の大酒家!』

                

ドイチェ・ヴェレ 2019年12月19日

                   

日本の何千人もの人々が毎年「歓喜の歌」を歌うのはなぜですか?
ベートーヴェンは死の床でどんな別れを告げましたか?
ベートーヴェンのスペシャリストでさえ、今回ご紹介する面白いエピソードにおっと!思うかもかもしれません。

                 

1. 日本での大ヒット曲

1983年、日本中から集まった10,000人の人々がコーラスに加わり、ベートーベンの交響曲第9番の第4楽章『コラール』を演奏しました。
アマチュア合唱団は幾つものグループに分かれて日本の各地で何ヶ月もかけてドイツ語の歌詞を繰り返し練習し、リハーサルを重ね、スキルに磨きをかけました。

こうした演奏会は今では年末の恒例行事となり、クリスマスから大晦日まで歓喜の歌を聴くことができます。

                  

交響曲第9番への日本の熱意は、第一次世界大戦中のドイツ兵捕虜による演奏会にまで遡ります。
1918年、彼らは日本の捕虜収容所で『歓喜の歌』を合唱しました。
多くの日本人が大傑作という思いを込め、単に『第九(だいく)』と呼んでいます。

                 

  1. 自然が大好き

               

ベートーヴェンが生きたのは産業革命時代初期であり、ヨーロッパの大都市はすでにカオスの様相を呈していました。
蒸気エンジンから排出される排気ガスが空気を汚染し、馬車の車輪がやかましい音を立てながら玉石の舗装路の上を行き交っていました。
こうした都市での生活から逃れるために、ベートーヴェンはしばしばウィーンの郊外に脱出しました。
「ここにいれば苦痛でしかない騒音に悩まされることはありません。森の静けさは例えようもなく甘美です!」
ベートーヴェンは静かな自然についてこう書き記しました。

              

ベートーヴェンは彼の9つの交響曲作品のうちの6番目を自然に捧げました。
『牧歌的な交響曲または田舎の生活の思い出 / パターン化された音楽技法より豊かな感情表現』というのがこの作品の完全なタイトルです。

                     

自然愛好家であるベートーヴェンは、作曲中に慣れ親しんだ風景や自分の経験を思い起こしていました。
彼は、個々の楽章に名前を付けました。例えば、「小川が流れる風景」「田舎の人々の陽気な集まり」 「雷鳴、そして嵐」または「羊飼いの歌」。
こうした光景をベートーヴェンは音楽で再現しました。
オーケストラの各パートが鳥の鳴き声を真似、小川のせせらぎを奏でます。

                   

                   

2. 盛大な葬儀

                   

多くの芸術家は生きているうちに、望んでいたほどの名声を手に入れることはできませんでした。
しかしこうした原則はベートーヴェンには当てはまりませんでした。
作曲家ベートーヴェンは当時の真のスーパースターだったのです。

                   

彼の葬儀には2万人が参加しました。
これはウィーンの中心市街地の人口の約半分です。
学校は休みになり、葬列に随行させるために軍隊が派遣されました。
彼の棺には、フランツ・シューベルトや詩人フランツ・グリルパーツァーなど、ウィーンの最も重要な音楽家と芸術家が同行しました。
グリルパーツァーが書いた追悼の辞には大勢の人々が感動しました。

                   

ベートーヴェンの葬列と見送るウィーン市民

                

3. 未知なる存在への音楽のメッセージ

                

大切なのは第一印象だとよく言われますが、エイリアンが初めて人類が作り出した文化に触れる時に何を聞くことになるかご存知ですか?
それはベートーヴェンの音楽です。

              

1977年に発射されて以来、宇宙探査機ボイジャー1号とボイジャー2号は、太陽系を越えて旅を続けています。
船内にはグラフィック、サウンド、音楽が記録された金でメッキされた銅板、ゴールデンレコードが搭載されています。
音楽の大使はベートーヴェンだけではありません。
バッハ、モーツァルト、ストラヴィンスキーの作品、そして多くの民族の歌や聖歌も記録されています。
27のタイトルのうち、2つがベートーヴェンの作品です。
記録されているのは交響曲第5番(運命)の第1楽章と、弦楽四重奏曲第13番Bフラットメジャー作品番号130の第5楽章です。
ベートーヴェンの作品は現在も銀河系を周回しています。

                   

写真:ベートーヴェンの2つの作品が、宇宙探査機ボイジャー1号とボイジャー2号に搭載されたゴールデンレコードに記録され、宇宙を飛び回っています。

                   

5. ヨーロッパの国歌

                 

1972年、欧州評議会は「歓喜の歌」交響曲第9番の第4楽章をEU - ヨーロッパ連合の国歌であると正式に宣言しました。
ただしオリジナルの第4楽章の演奏時間25分は長すぎるため、ずいぶんと短くする必要がありました。
当時のスター指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが第140〜187小節を管楽器用にアレンジする役に選ばれました。

                

                

オリジナルとは異なり、アレンジ・バージョンには歌詞がありません。
アレンジ版は初演でセンセーションを巻き起こしました。
アレンジ版は、欧州連合の多言語主義と、一つの言語を別の言語よりも優先することはしないという外交的な配慮によるものと思われます。
しかしフリードリッヒ・シラーによって書かれたオリジナルの歌詞に込められた精神は、そのままヨーロッパ連合の国歌に生かされています。 「『歓喜に寄す』の詩の中で、シラーはすべての人類が兄弟になるという理想主義的なビジョンを表現しました。これはベートーヴェンも共有したビジョンなのです。」
欧州連合のウェブサイトはこう述べています。
「言語には関係なく、音楽という普遍的な言語によって自由、平和、連帯という欧州連合の真価を表現しているのです。」

               

6. タイムトラベル

                   

残された譜面と楽譜のおかげで、ベートーヴェンの全作品が過去200年間生き延びてきました。
しかしベートーヴェンの作品のオリジナル演奏はどんなものだったのでしょうか?
当時の楽器の性能は現代のものとは異なり、演奏会場も現在のベルリンのフィルハーモニーホールなど近代的コンサートホールとは異なる響きを持っていました。

                  

              

2014年以来、ウィーンのオーケストラ・ヴィエンナ・アカデミーは、ベートーヴェンの時代から残る演奏会場で当時の楽器を演奏することによりオリジナルの響きを再現しようと試みてきました。
「RESOUND Beethoven(リサウンド・ベートーヴェン)」と呼ばれるプロジェクトは、作曲家が作品を初演したウィーンの歴史的なホールにオーケストラ、合唱団、観客を配置して当時の様子を再現しようとしています。

                

7. 有名な最後の言葉

「残念だ、残念だ、がもう遅すぎる!」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1827年に死の床でこう別れを告げたと言われています。
(ドイツ語で「Schade、schade、zuspät!」)
しかし、作曲家は彼の最後の作品を完成させられなかったことに言及しているのではなく、まだ手元に配達されていなかったワインについて言及していたという説があります。
実は。 ベートーヴェンは大酒飲みだったと言われています。
音楽の天才は毎日ワイン3本飲んでいたと言う研究者もいます。

                    

https://www.dw.com/en/7-surprising-things-about-beethoven/a-51612123

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私が知っているベートーヴェンに関連するエピソードで、一番好きなのが次の話です。

                 

西暦1820年台後半、創作活動に行き詰まっていたシューベルトはベートーヴェンの死の床に呼ばれ、君こそ自分の次にヨーロッパの音楽界を背負って立てる人材だと告げられます。

ベートーヴェンが交響曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、すべての分野で革新的な傑作を次々と発表して行ったために、自分が活躍すべき場を奪われてしまっているという不遇感を囲っていたシューベルトは、ベートーヴェンがほとんど作品を発表しなかった歌曲の分野に自分の活路を見出そうとしていたと言われています。

                 

しかしベートーヴェンが次代を担う者として最も期待しているのが自分であることを知ったシューベルトは自宅に戻ると、驚くべきスピードで勇躍、クラシック音楽作品の最大傑作のひとつ交響曲第9番『ザ・グレート』を完成させました。

しかし売春宿に通いつめるなど荒んだ生活を続けていたシューベルトの健康はすでに蝕まれていました。

結局シューベルトは交響曲第9番『ザ・グレート』の初演すらできないまま、わずか31歳で、ベートーヴェンの死の翌年に亡くなってしまったのです。

                   

極貧のまま荒んだ生活をしていたシューベルトの音楽作品の遺品の整理をしたのが、その才能を惜しんだロベルト・シューマンでした。

彼はボランティアでシューベルトの遺品の整理をしていた時に、『ザ・グレート』の遺稿を発見するのです。

彼はその遺稿を整理・交響曲作品の形に整え、今日残されている形に『ザ・グレート』を蘇らせたのです。

シューマンは『ザ・グレート』を世に出すべく、親友のフェリックス・メンデルスゾーンに初演を依頼しました。

                 

こうしてベートーヴェンの言葉に触発されて作曲されたシューベルト生涯の大傑作・交響曲第9番『ザ・グレート』は、シューマンの手によって蘇り、メンデルスゾーンの演奏によってその素晴らしさが世界に発信されることになったのです。

               

ベートーヴェンはシューベルトに古典派の時代に幕を下ろし、ロマン派の時代の幕を上げるよう促そうとしたのかもしれません。

日本人が関わった2つの世界 : 第二次世界大戦の英語コミック2作品《後編》

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売り飛ばされ、拉致され、最後は『慰安所』に送り込まれた韓国人少女
厳しい現実に直面させられていた女の子たちに、さらに過酷な運命が襲いかかる

                     

                 

ジョージ・タケイ / ニューヨークタイムズ 2019年9月9日

                 

「何よりも、ゴヤは私たちに対し、現実から目を背けることなく事実を見つめるよう求めています。」
私の共同コラムニストであるヒラリー・シュートは、19世紀のスペインの芸術家を取り上げたシリーズ「戦争の惨事」の中でこう記しています。

                     

200年を経た韓国で女性漫画家のクム・スク・ジェンドリー-キムさんはこの芸術的課題に挑戦し、私たちは朝鮮半島が日本に支配されていた時代(1910年 - 1945年)に日本軍が韓国人女性と少女に売春を強制した性の奴隷(従軍慰安婦)制度の目撃者になったのです。
彼女の作品、悲惨な物語を綴った『Grass』はジャネット・ホン、ジェンドリー・キムによって英訳されましたが、すでに80代になっているオク-スン・リーさんの証言を記録する作業は時間との戦いになっています。

                  

                   

「母親の子宮から出てきた瞬間から幸せを知らなかった」と、しわが寄った「おばあちゃん」になったさんがこう語りました。
そしてこの物語が終わる瞬間までこうした言葉は決して誇張などではなく、むしろ控えめに過ぎるのではないかと言う感じを抱かせられます。

                   

1928年貧困の中に生まれたオク-スンは、何よりも学校に行くことを楽しみにしていた元気な女の子でした。
彼女の両親は自分たちより裕福な夫婦のもとに養子に行くことを提案し、彼女は同意します。
「一生懸命勉強して、お父さんが元気になれるように手助けするからね。」
彼女は病気の父親にこう語りかけます。

                   

                  

しかしオク-スンは二度と家族に会うことはできませんでした。
彼女が教育を受けさせるために引き取られたのではないという痛々しい事実が間もなく明らかになりました。
彼女は居酒屋で働くために再び売り飛ばされました。
そして1942年、15歳で彼女は拉致され、日本の占領下にあった中国に送られたのです。

                  

全員が騙されたり誘拐された他の女の子と一緒に、彼女は戦場で苦しい労働を課されていましたが、そこに大日本帝国陸軍の兵士たちが到着しました。
この500ページ近い哀切な物語のうち約200ページを占めるのが慰安婦の部分です。
オク-スンは数百人の日本兵の最初の1人にレイプされました。
ジェンドリー-キムの力強い描画は、その力強い線と濃い黒で悪夢の世界を完全に再現しました。

                  

                  

そこに見えるのは男のシルエットです。
顔の一つ一つが野卑な目と悪魔のような歯を持っています。
2ページに及ぶほとんど真っ黒なページの最初、少女たちは部屋の半分に身を寄せ合っています。
男たちは床をつき破ったように立つ戸口にいます。
それはまるで地獄の入り口のように大きくねじれそして歪んでいます。

                  

すでに厳しい現実に直面させられていた女の子たちにさらに過酷な運命が襲いかかります。
次の2ページは、私がこれまで見たどの漫画よりも心臓が止まるほど残酷なシーンに満ちています。
彼女たちの魂が殺されてしまう、その描写にほかならないのです。

                  

《完》
https://www.nytimes.com//they-called-us-enemy

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カリフォルニア州で従軍慰安婦像の設置をめぐる公聴会が開催された時、「従軍慰安婦の事実は存在しない。」と主張した日本側『証人』が、アメリカの議員に「恥を知れ!」と罵声を浴びせられたという記事を読んだことがあります。

『GRASS』に綴られている物語がアメリカ国内の共通認識として定着しつつあるのなら、日本人のメンツしか考えない日本側『証人』が罵声を浴びせられても仕方がありません。

                

この物語の一部を紹介されただけで、この問題が日本人がどうこう韓国人がどうこうという話ではないことを痛感させられます。

サイコパスという異常犯罪者から、行動分析や多様な精神分析が科学として発達したように、従軍慰安婦問題は人道に対する犯罪として『人類』が向き合わなければならないほどの問題だと思います。

アウシュヴィッツやダッハウのように。

                     

被害者は何十回、場合によっては何百回、人権を踏みにじられたかわからないからです。

その点についてまるで無感覚としか言いようのない日本人が多すぎることに暗然とさせられます。

日本人が関わった2つの世界 : 第二次世界大戦の英語コミック2作品《前編》

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戦争が日常化した世界 : たちまちのうちに奪い去られた人権『『敵呼ばわりされた私たち』
生まれ落ちた瞬間から幸せとは無縁だった少女の物語『 Grass 』

                   

                  

ジョージ・タケイ / ニューヨークタイムズ 2019年9月9日

                 

1941年のその日も、ロサンゼルスの一つの家庭のいつもの平和な1日のはずでした。
ラジオからクリスマス・キャロルソングが流れる中、4歳のジョージは父親が木の剪定をするのを手伝っていました。
母は赤ちゃんをあやし、もう一人の子供はおもちゃの汽車で遊んでいました。

                     

しかし「サイレントナイト」の曲の終了間際、日本軍が真珠湾を奇襲したという臨時ニュースが報じられ、番組が突如打ち切られあたりを不気味な緊張が支配しました。
翌12月8日、アメリカは第二次世界大戦に突入し、フランクリン・D・ルーズベルト大統領はすぐに米国内のすべての日本人が「敵性外国人」として管理登録されなければならないと宣言しました。

             

                   

大統領令第9066号の結果、翌年の秋までに私たち家族は実際に列車に乗られ、「家畜の牛と同じやり方で」標識をつけられ、ルーズベルト大統領の命令により設置された10か所の収容キャンプのうち、最も東側にあるフォート・ローワーに向かいました。
「各車両ごと前後に武装した兵士が配置された列車に乗って、みんなで休暇旅行に行くのだとばかり思っていました。」
ジョージは当時自分が置かれていた状況についてこう語りました。
「冒険の始まりのように思っていたのです。」

       

母親はアメリカ生まれでしたが、父親はすでにアメリカに住んで25年が経過していたにもかかわらず市民権を申請できずにいました。
そしてジョージはのちに他でもない「スター・トレック」の俳優ジョージ・タケイとして有名になった後、現在82歳になりました。
彼の新しい自伝、『敵と呼ばれて(THEY CALLED US ENEMY)』は真珠湾攻撃の後、アメリカにいた日系人がどのようなつらい目にあったのかを自らの体験を基に詳細に綴ったものです。

               

                 

そうした体験はこれまでジュリー・オオツカのもうひとつの非常に美しい作品『天皇が神であった時代』ジョン・オカダの「ノー・ノー・ボーイ」、そして1946年発表の現代のコミック本の先駆けともいうべき、イラストと文章によって見事な表現力を持った作品ミネ・オオクボの「シチズン13660」などを通し、力強く世の中に伝えられてきました。

                

この『敵と呼ばれて(THEY CALLED US ENEMY)』はジョージ・タケイの長いキャリアの中のハイライトともいうべき感動的な作品ですが、彼の芸術的感性と道徳的基準がアーカンソー州とカリフォルニアの2か所の収容所生活によって形成されたことを思うと、感慨深いものがあります。

                  

ジョージ・タケイは存命する人々の中で、最も有名なアジア系アメリカ人の一人であることに間違いありません。
オリジナルの「スタートレック」シリーズ(60年代後半に3年間放映された後、再放送が繰り返されています)でのヒカル・スールー役を演じました。
彼は準主役とまではいかなくとも、誰も行ったことがない場所へ向かう大胆な使命を持つエンタープライズ号の中で有能で勇敢で尊敬されるスターシップのメンバーとしてその場所にいました。

              

タケイは新しい著作の中で、「スタートレック」シリーズにも通じる冒険の精神は、文字どおり見慣れない有色人種として20世紀初頭のアメリカで暮らしていたタケイの両親のような人々が、どのようにして生き延び、そして成功を掴んだのかを解き明かす際の鍵になりました。

                 

                

しかし彼らのアメリカにおける挑戦の日々は1945年12月7日突如暗転します。

                 

人権を踏みにじる追放生活を経験させられたことは、後に「スタートレック」シリーズの全ての物語を通じての題材として生かされた可能性があります。

                 

第二次世界大戦の後アメリカの子供たちが戦争ごっこをしていた時代、『卑怯な日本兵』役をしたがる子供はいませんでした。
誰もが『アメリカの』兵士として遊ぼうとしました。
しかしその『アメリカ』は、日系アメリカ人たちを快適に暮らしていた家から追い出し、周囲を有刺鉄線でぐるりと囲まれた窮屈な小屋がいくつも立ち並ぶ場所に追い込みました。

               

戦後、タケイと父親が1952年のアドレイ・スティーブンソンの大統領選挙戦での応援運動を行っていた際、人気が高かったエレノア・ルーズベルトがやってくる予定になっていました。
ジョージは興奮しましたが、その日父親は病気を理由に家に留まりました。
後にジョージは父が築き上げたものすべてを奪った人間の妻と会いたくなかったのだということをだんだん理解するようになりました。

                 

                  

ただし著作の中には不具合が何点かあります。
多分料理人が多すぎるためです(Justin EisingerとSteven Scottが共同執筆者として記載されています)。

                 

父親は1950年代のどこかの時点で、民主主義は『実存的に(existentially)……民主主義はその輝かしい最高の理想を大事にする人々が存在するか否かにかかっている」とタケイに語ったと記されていますが、出来すぎのように聞こえます。
私の記憶違いでなければ、今日まで実存的に(existentially)という単語はこのような使い方はしません。
「私たちの民主主義の輝かしい理想」という表現がすでに5ページ前で使われていることも、この章の主題をほやかしてしまう原因になっています。
著作全体の構成も、人生経験豊かな著名人であるジョージ・タケイが聴衆に語りかけるという手法は少々古臭く、主題も二転三転しています。2014年に無料のオンライン講演TED Talkで、あるいは2017年にフランクリン・ルーズベルト記念館で、あるいはコミック・マーケットで私たちはタケイの講演で「私たちの民主主義の輝かしい理想」という表現を耳にしてきました。

                

しかし表現上多少の問題があったとしても、タケイが綴ったストーリーは純粋な力を失わず、ハーモニー・ベッカーの明確で共感に満ちたさし絵(共感できるマンガ調の絵も添えられています)は人間扱いされない収容所での扱いを実感させるものてだあり、仕事で大きな歴史的な力をうまく伝えています。

                

                 

「彼らは私を敵呼ばわりした(They Called Us Enemy)」には、タケイの社会活動の様々な側面が含まれており、締めくくりは親孝行の物語です。
しかし物語が終わる直前、私たちは過去の教訓が生かされていないという恐ろしい事実を再認識することになります。
今この時代になっても、アメリカの最高権力者はアメリカ人以外の民族を攻撃の的にしています。

               

《後編》に続く

https://www.nytimes.com//they-called-us-enemy

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少々掲載された日は古いのですが、この年末にみなさんと一緒に『戦争』というものについて改めて考えたいと思い、訳しためていたうちの一編です。
もともとはニューヨークタイムズに掲載された『書評』なのですが、紹介されている著作を読まなくとも胸に迫る思いがあります。

                 

戦争は戦場に送られた人間にとっても地獄である一方、広島原爆や長崎原爆の例を引くまでもなく、あらゆる人間に地獄の思いをさせる、だから戦争は許さない、それが私の信念です。
今回前編はアメリカの日系移民強制収容所、そして後編は従軍慰安婦という存在を通し、戦争というものがいかに残酷なものであるか改めて考えさせられました。

突出する軍事費 : 安倍内閣、8年連続で記録的な金額に上る防衛予算案を承認

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第二次安倍政権誕生時と比較し、日本の防衛費は13パーセント上昇
兵器開発が本格的に始まる : 日本独自の次世代戦闘機の開発研究を開始

              

写真 : 2018年1月撮影青森県三沢基地にある航空自衛隊のF-35Aステルス戦闘機。
日本は、2019年12月20日金曜日、老朽化した戦闘機の後継機として自国で戦闘機を開発する経費に加え、コストを削減し専門知識を獲得するため、F-35ステルス戦闘機の一部を部品として輸入し日本国内で組み立てるための経費を含む防衛予算案を承認しました。

                 

山口真理 / AP通信 2019年12月20日

                      

安倍内閣は、米国のステルス戦闘機数機の購入と日本独自の戦闘機を開発するための研究予算を含む、記録的な金額の防衛予算案を承認しました。

                      

2020年度の5兆3,100億円の防衛予算は議会の承認の後成立する予定ですが、今年予算より1.1%の増額になります。

                   

日本の防衛費は安倍氏が首相に就任した翌年の2013年以降、中国と北朝鮮からの脅威に対し防衛体制を強化しなければならないと主張し、7年連続で累計で13%増加しました。

                  

予算案で最も高額な購入品目にロッキードマーティン社のF-35ステルス戦闘機があります。
2020年の予算計画の下で日本は793億円の費用をかけ短距離離陸および垂直着陸が可能な6機のF-35Bステルス戦闘機を購入する予定です。
この6機は日本が今後数年間で米国から購入する予定の42機のF-35Bのうちの第一回目として納入されます。

                   

高額な米国製兵器を購入することは、米国とランプ政権が争点にしている米国に対する日本の貿易黒字を減らすのには役立ちますが、一方で日本国内で成長の途に就いたばかりの防衛産業の逆風になるという懸念を提起こするものです。

                  

2020年の放映予算案には2030年代に引退予定の老朽化したF-2戦闘機に代わる次世代戦闘機の開発に関する研究を開始するための280億円が含まれています。
日本は独自のエンジンの開発を計画していますが、互換性を高めるために米国および英国と他の部品の共同開発も検討していると防衛省の当局者が語り、その詳細は来年決定される予定だとつけ加えました。

                    

日本はまた3機のF-35Aを部品として937億円で購入して日本国内で組み立てる予定ですが、完成品として購入するよりも多少は経費の節減になります。
それより大きいのは、日本が最新鋭戦闘機の専門知識を獲得できることにあります。

                    

               

これらのF-35Bを収容するために、防衛省は31億円を費やして、来年から2隻のヘリコプター空母のうち出雲に耐熱フライトデッキと誘導灯を再艤装します。
もう1隻の飛行甲板を有する加賀も引き続き再艤装されることになっています。

                  

ストックホルム国際平和研究所によると、日本は平和憲法により『戦力を保持しない』と定めされているにもかかわらず、その防衛費は世界のトップ10にランクされています。

                    

安倍首相は自衛隊が同盟国アメリカ軍との協力関係を強化するとともに米国製兵器の互換性を高めることにより、国際的な役割と戦闘能力の拡充を求めています。
安倍首相は2015年に日本国憲法の解釈変更を行い、日本が同盟国を援護するために武力を行使することを容認しました。

              

写真 : 2019年5月28日、横須賀港に係留中の海上自衛隊のヘリコプター空母DDH-184加賀の館内で、ドナルド・トランプ大統領とともに自衛隊員と米軍兵士を前に演説を行う安倍首相。

                 

日本は現在、緊張が続く中東の海域に原油を運搬している日本の船舶を保護するため、中東に海上自衛隊の艦艇を派遣する予定であることを公表しました。

                

https://apnews.com/fbaf85872d142c8fee77d41ea91ebb26

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現代における巨大な軍備は本当に国民や国土を守るために必要か?

全てがコンピュータ化された現代、最強の兵器は敵のコンピュータやネットワークシステムを破壊できる装置だということは、今や常識です。

これを破壊されてしまえば、現代の軍組織は全く機能できません。

なのに、相変わらず殺人と破壊を目的とする兵器が生産され続けています。

特にアメリカで…

                     

アメリカでは軍産複合体という巨大な仕組みが出来上がり、その存在を正当化するために『定期的に戦争をする』ようになりました。   

ベトナム、カンボジア、イラク、アフガニスタン。

このうちベトナム戦争ではアメリカ軍が使用した枯葉剤により、ベトナムの人々が深刻な後遺症に苦しめられました。

イラク戦争では超小型核爆弾ともいうべき『劣化ウラン弾』が使われましたが、その爆弾が使われた一帯では『この地区の女性は子供を産むな』という活動が行われるほど、悲惨な後遺症が人々を苦しめています。

装備といえば1960年代に開発されたソ連製のT-55、戦闘機もせいぜいがソ連製ミグ19という国を相手に『劣化ウラン弾』などを使う必要はあったでしょうか?

アメリカの軍産複合体は実際の戦場でその威力を実験したかったのに違いない、私はそう思っています。

                   

巨大化した軍組織は自己保存のために動くようになります。

国民を守るなどということは、もはや看板だけの話になります。

必要なら大統領の暗殺だってやりかねない。

                 

安倍政権は国内の研究開発予算・文教予算などを削って、軍事費を増やし続けていますが、それが真の意味の国の発展に貢献するかといえば、答えは NO! です。

そんな国に未来はない、旧大日本帝国も旧ソビエト連邦もそれで崩壊しました。

                 

出会いがあり、望んだ時に結婚ができる。

子供を産みやすく育てやすい。

学校のいじめも家庭での虐待も引きこもりも、根絶は無理だとしても減少を続けている。

70歳まで働きづめに働かなくともちゃんと生きていける。

国のお金はそんな社会をつくるために使われるべきです。

伊藤詩織さんレイプ事件 : 330万円の損害賠償を命じる判決

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所要時間 約 8分

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性的暴行事件が表面化しない日本で、女性の人権を擁護する運動のシンボルとなった事件

被害者を辱めるような捜査手法、立件への不熱心さ、不可解な日本の警察の捜査姿勢

                                 

               

英国BBC 2019年12月18日

                 

日本の裁判所は著名なテレビ記者に、レイプされたとして告発したジャーナリストに330万円の損害賠償を支払うよう命じました。

               

伊藤詩織さんは2015年、酩酊状態の間に山口敬之氏が彼女を強姦したと訴えていました。
刑事訴訟では検察官が刑事事件としての証拠が十分ではないとの判断を示したため、伊藤さんは民事訴訟に踏み切りました。

                 

伊藤さんは、性的暴行事件がほとんど表面化しない日本で、女性の人権を擁護する運動のシンボルになっています。

               

                   

「良い結果が出て良かった。」
判決後30歳の伊藤さんはこう語りました。
彼女は、判決の後、「勝訴」と書かれたサインボードを掲げました。

                 

しかし数時間後に開かれた別の記者会見場では山口氏が控訴するつもりだと語り、レイプの申し立てを再び否定しました。

                    

伊藤さんによると、53歳の山口氏 - 彼は安倍首相と密接な個人的関係を持つと言われています - は2015年、仕事の機会を提供できるかもしれないので話し合いをしようと彼女を夕食に招待しました。
伊藤さんは意識を取り戻したとき、自分が「ホテルの部屋にいて、彼が私の上にのっていた」と証言し、薬を飲まされたのではないかと疑っています。

                  

伊藤さんはレイプ容疑が発生したとき、ロイター通信のインターンとして働いていました。
山口氏は当時、日本の大手メディア企業であるTBSのワシントン支局長でした。

                   

                 

一旦は捜査が始まりましたが、証拠が不十分であるとして警察によって取り下げられました。

                 

伊藤さんは男性の警察関係者が見ている前で等身大の人形を与えられ、強姦されたときの様子を再現するよう強制されたと語っています。
2017年に行われた日本政府の調査によれば、レイプ被害者のうち犯罪を警察に告発したのはわずか4%にすぎないことが明らかにされました。

                  

告発に対する調査の一環だとして、私はその夜連れて行かれたホテルに隣接する警察署に来るよう依頼されました。

               

私は精神的に支えてもらうため親友と一緒に警察署に出頭すると、警察署の上の階にある体育館に連れて行かれました。
私はそこでどんなことをされるか事前に聞いていたので、友人が同行できるよう頼みました。

                  

しかし警察は拒否しました。
私は体育館に連れて行かれ、マットレスの上に横たわるように言われ、そのために製作された等身大のマネキンを3人の男性警察官が運んできて、私の体の上で人形を動かし、何が起こったのか正確に再現するため何度も質問し、そして写真を撮っていました。

                  

                     

この一連の作業は調査に不可欠なのだと言われました。

                      

私は自分の頭の中で告発者からジャーナリストに切り替えなければならなくなったのは、この時でした。
言われるがままこうした作業を続けるために唯一必要なのは、自分の感情を完全に押し殺すことでした。
これは自分が追っている事件などだと自分に言い聞かせ、その通りに扱う必要がありました。

                 

今でも私は心の中で事実を組み上げるためにそうしています。

                    

伊藤さんは山口氏に対して民事訴訟を起こし、1,100万円の賠償を求めました。

不正行為を否定し、性交渉は同意のもとに行われたと主張する山口氏は、1億3,000万円の賠償を求めて反訴しました。
しかし今回の判決でこの反訴は裁判所によって却下されました。

                   

山口氏は今や伊藤さんに330万円の賠償金を支払わなければならなくなりましたが、山口氏を容疑者とする刑事事件は存在しません。

                  

強姦に関する日本の法制度の下では、検察官は犯罪を成立させるためにき暴力または脅迫が介在したか、あるいは被害者が「抵抗できない」状態であったことを証明しなければなりません。

                   

https://www.bbc.com/news/world-asia-50832524

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この女性は文字どおり筆舌に尽くしがたい苦痛・苦悩・苦難を強いられたことでしょう。

しかもそれらの背後にあったものは不正義。

そのことも苦痛や苦悩を大きくしてしまったに違いありません。

                    

思えば安倍政権誕生以来、私たちは権力にモノを言わせて強引に不正義を押し通すというシーンを何度見せられたことでしょう。

福島第一原発事故の被災者への支援打ち切り、原子力発電所の再稼動、加計学園疑惑、森友学園疑惑、東京電力旧役員刑事裁判、まだまだあります。

                  

このまま日本を不正義の国にしてしまって、一番不幸な目にあわされるのは私たち一般市民です。

声を上げて現実をかえていきましょう!

                   

To everything, Turn! Turn! Turn!

There is a season, Turn! Turn! Turn!
And a time to every purpose under heaven.

……………………………………………

I swear It's not too late!

偽りの『復興オリンピック』: 復興から置き捨てられた町、そして人々《後編》

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福島第一原発の事故により、双葉町、大熊町は500万トンに上る放射性核廃棄物を背負わされることになった
500万トンもの放射性核廃棄物を背負わされることになった『復興』の現実を、世界中の人に直視してもらいたい

                  

                    

山口真理、スティーブン・ウェイド/ APニュース 2019年12月13日

                  

「気分が悪くなった方は早めにお知らせください。」
双葉町の元広報担当者の大隅宗重氏は訪問者に、カビの臭いとネズミの存在を詫びながらこう話しかけました。

                        

東北地方の太平洋岸で約20,000人がマグニチュード9.0の地震と津波で死亡しました。
高さ16メートルに達した波により、双葉町周辺でも21人が死亡し、ピクニックやブ海水浴の人出で賑わってい海辺の松林がズタズタにされました。

                   

倒壊を免れた白いビーチハウスに取りつけられた時計は、午後3時37分を指したまま止まったままになっています。

                    

福島第一原発が放出した放射線の影響でその場で亡くなった人はいませんでしたが、病院や施設に収容されていた40人以上の高齢患者が町の指定避難場所にバスで長時間移送されることを余儀なくされ、死亡しました。
死亡者の遺族らが刑事告発を行い、東京電力の元役員を法廷に送りました。
しかし元役員たちは全員無罪となりました。

                     

写真[13]2019年11月28日、福島県いわき市沿岸の小さな島と鳥居。この鳥居は、2011年3月の東日本大震災の津波により県内の沿岸地域の大部分が浸水した際にも崩壊を免れました。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                     

                  

写真[14]2019年11月27日、福島県相馬市の海産物加工センターで水揚げした魚をおろす漁業関係者。 (AP Photo / Jae C. Hong)

写真[15]2019年11月27日、福島県相馬市の海産物加工センターでのせりに備え魚を選別する漁業関係者。(AP Photo / Jae C. Hong)

                  

2013年に東京がオリンピック開催地に決定した際、安倍首相は国際オリンピック委員会のメンバーを前に、福島第一原子力発電所の事故は「管理下にある」と保証しました。
しかし安倍政権の復興へのアプローチは被災地において多くの人々を分裂させ、そしてその口を封じることになったという批判があります。

                      

再開発計画の下で、双葉町は最終的に550ヘクタールの敷地に、元住民と建設労働者や研究者などを含む新しい住民2,000人が住むことになるのを望んでいます。

                   

現在東京郊外で暮らす吉田さんは帰還するかどうか決めかねています。
しかし吉田さんは双葉町とのつながりを維持したいと考えています。
双葉町では、息子が東北と東京とを結ぶ主要高速道路にあるガソリンスタンドを引き継ぎました。

                     

町の元広報担当者の大隅氏は、元住民の多くがすでに新しい住宅を手に入れ仕事にも就いていると語り、大多数は戻ってこないだろうと見ています。
大隅氏自身も双葉町の山腹にある自宅に戻ることについて複雑な感情を持っています。
福島第一原発の事故後、住民登録者数は1,000人以上減少、これらの人々が帰還する可能性が低いことを示しています。

                    

写真[16]福島県双葉町の放棄された墓地の後ろに積み重ねられている放射性廃棄物を詰め込んだ大きな黒いビニール袋。2019年12月3日撮影。(AP Photo / Jae C. Hong)

               

写真[17]福島県双葉町にある建設会社の駐車場で放射能レベルをチェックする作業員。(2019年12月3日撮影) (AP Photo / Jae C. Hong)

                  

「自分たちの町が破壊され、故郷が失われてしまうのを見るのはとてもつらかった。」
涙をこらえながら大隅氏はこう語り、穏やかな家庭での生活、美しい紅葉、暖かな入浴でくつろいだことなどを思い出していました。

「この町を去らなければならなくなったとき、私の心は痛みました。」
と彼はそうつけ加えました。

                     

再建された双葉駅の外に立ち、伊澤四郎町長は新たな町の再建計画について説明しました。
双葉町は高齢者にやさしく、原子炉の廃炉や再生可能エネルギーの研究のための主要な複合施設になる可能性があります。
福島の復興を支援するためにやって来た人々がそのまま留まり、新しい双葉町の一員になることに望みをつないでいます。

                  

「福島という言葉は世界的に知られるようになりましたが、残念なことに双葉町や(隣の)大熊町の状況はほとんど知られていないのが実情です。」
双葉町の復興の実現は東京オリンピックには間に合わないことを説明しながら、伊澤町長がこう語りました。
「しかし、壊滅的な打撃を受けた町がやっとここまで復興できたことを見てもらうことはできます。」

                    

復興の実現を目立たせようと、政府当局者は聖火リレーの出発点となるJ-ヴィレッジとあずま球場の除染と清掃が完了したと語っています。
しかしJ-ヴィレッジには極端に放射線量の高い「ホットスポット」の存在が確認されたという報告がなされ、オリンピックに向け安全性に関する疑問が提起されています。

                       

あずま球場は双葉町の西約70キロメートルの場所にあり、J-ヴィレッジは海岸沿いに約20キロメートル離れた場所にあります。

               

写真[18]2019年12月4日、福島第一原発事故の最もひどい被災地となった双葉町から避難してきた71歳の避難者である吉田俊英さんが、埼玉県加須市の自宅で先祖の遺影の埃を払うため庭にでようとしていました。(AP Photo / Jae C. Hong)

                     

福島第一原発周辺、そして福島県全域の除染によって集められた放射性廃棄物は何万という保管袋に入れられ、双葉町と大熊町の一時保管場所に積み上げられたままになっています。

                  

                     

廃棄物は選別され、一部は燃やされて圧縮されてこれから30年間、中期貯蔵施設に埋設されることになっています。
しかし現在は水田や野菜畑だった広大な敷地を埋め尽くすように置き並べられています。
そのうちの一つは、磨き上げられた墓石が立ち並ぶ墓地と隣合っています。

                  

今年、この工業用コンテナバッグに詰め込まれた400万トンに上る放射性核廃棄物が双葉町に、さらに100万トンが福島第一原発の敷地の一部がかかっている大熊町に持ち込まれることになっています。

                  

                    

吉田さんは、放射性核廃棄物の中間貯蔵施設が30年が過ぎた後もそのまま双葉町に残るのか、それとも移転することになるのか明らかにされていない現状について、元々の住民と新たに住居を構えようとする人々の両方を落胆させていると語りました。

                    

「(町内に400万トンもの放射性核廃棄物がある)そんな場所に住みたいと思う人がいますか? 霞ヶ関界隈の日本政府の高官がそんな場所で暮らそうとするでしょうか?」
吉田さんは、多くの日本政府の省庁が集中している東京都内で最も地価の高い地区を引き合いに出し、こう語りました。
「彼らは決してそんなことはしないでしょう。」
吉田さんがこう語り、次のように続けました。
「しかし、双葉町には先祖代々の墓があり、私はこの町が大好きです。双葉を失いたくありません。私たちの記憶にある古き良き双葉町は永遠に失われますが、なんとか現実と向き合っていこうと思っています。」

                   

写真[19]2019年11月27日、福島県広野町にある屋台で働く熊谷明美さん。(AP Photo / Jae C. Hong)

《完》
https://apnews.com/2a0ef15f82ed9a5c1d4fe78f48504e81
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500万トンの放射性核廃棄物というのは、やはり衝撃です。

まず500万トンという質量が想像できません。

小学校何年生だったかの時、社会見学で1万トンタンカーに乗船し、その巨大さに驚いたことがありました。

500万トンならあのタンカー500隻分ということでしょうか?

人類史上、そんな莫大な量の放射性核廃棄物を抱え込んだ市町村などというのはあるのでしょうか?

ないとすれば、それはこれから一体何が起きるかわからない、という現実があるということです。

                      

そして最終処分の見通しが全く立たないという状況の下での『中間貯蔵』とは、一体どんなものなのでしょうか?

                 

そして、コンテナバッグに入った放射性核廃棄物などホコリかチリのように感じてしまうほど毒性の高い、メルトダウンした核燃料が福島第一原発の中に800トンも残されています。(【 メルトダウンした核燃料、取り出し開始は2021年?最終プランも立てられず : 福島第一原発 】AP通信 - https://kobajun.biz/?p=37407)

取り出しする技術が具体化されてもいないのに2021年から取り出しを開始するとしていますが、仮に取り出しが可能になったとして、地上で最も危険な物質と言われるこの溶融した核燃料を一体どこに保管するつもりなのでしょう?

                    

私は東京オリンピックを子供の時に体験しましたが、あの時代は日本が高度成長期に入ったおかげで、みんなの生活が年を追うごとに良くなっていった時代でした。

                     

復興というものがみんなが安心して暮らすことができ、将来の生活にも希望が持てる状況をいうのだとしたら、持って行き場のない放射性核廃棄物が500万トン、溶融した核燃料が800トンもあり、最終処分の見通しも立たない - 特に溶融核燃利用の方は1トンはおろか1キロの取り出しもできない - という現状はまるで異なるもののはずです。

偽りの『復興オリンピック』: 復興から置き捨てられた町、そして人々《前編》

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所要時間 約 11分

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1964年東京オリンピックが、敗戦からの『復興』の象徴とされたのと同じ手法

東京オリンピックに注ぎ込まれる多額の国の予算、本当の意味での復興に使うべき

                

                     

山口真理、スティーブン・ウェイド/ APニュース 2019年12月13日

                 

2020年東京オリンピックの聖火リレーは福島から始まります。
約9年前、福島は巨大地震、巨大津波、そして3基の原子炉のメルトダウンという三重災害により最もひどい被害を被りました。

                     

福島では来年、県内の一部でオリンピック競技の野球とソフトボールの試合が開催され、東京にあるオリンピック組織委員会と日本政府は『復興オリンピック』というラベルを貼ることにより、ある種の印象操作を行おうとしています。
それは1964年に開催された東京オリンピックが、第二次世界大戦の敗戦からの『復興』の象徴とされたのと同じやり方です。

                    

しかし現実はそのようなプロパガンダとは無縁のままです。
福島では放射線の被害をまぬがれるために避難を強いられた何万人もの、あるいはそれ以上の人々の生活は未だに回復せず、双葉町のような人里離れた場所に戻ることができません。

                     

2011年3月11日、東日本大震災が発生したとき、人口7,100人のこの町の時間は止まりました。

                  

写真[1]放棄された福島県双葉町役場の日付の表示は、3月11日金曜日になっています。すぐ近くにある福島第一原子力発電所を破壊した2011年の地震と津波が発生した日付を表しています。2019年12月3日撮影。(AP Photo / Jae C. Hong)

                

写真[2] 2019年12月3日火曜日、ハンガーにジャケットが掛かったままの福島県双葉町の廃屋の中。 (AP Photo / Jae C. Hong)

             

写真[3]廃校となった小学校の教室は、福島原子力発電所を破壊することになった2011年3月11日の地震の後、急いで逃げ出した子供達が残したランドセルやその他の持ち物が散乱したままになっています。2019年12月3日撮影。(AP Photo / Jae C. Hong)

                    

一軒の家の中にはクリーニング店から受け出した衣服がそのまま吊り下げられていました。
粉々になった窓と壊れたドアからは害獣や害虫が自由に出入りし、家族が親密な時間を過ごしていた場所を喰い荒らしました。
日本人は玄関で靴を脱ぐというきれい好きな習慣を持っており、それだけに誰もいない家屋の荒廃はより一層凄みを帯びて見えます。

                  

「復興オリンピックなどというのは名前だけです。」
吉田俊英さんがAP通信の取材にこう語りました。
彼は双葉町を捨てざるを得ず、結局現在は東京近郊で暮らしています。
「オリンピックのために費やされた金額は、本当の意味での復興に使うべきでした。」

                    

東京オリンピックの主催者は開催費用として1兆3,800億円を見込んでいますが、その60パーセントは公的資金です。
しかし会計監査院による監査報告書によれば、開催費用の総額はゆうにその2倍を超えるとしています。

               

日本政府は東日本大震災・福島第一原発事故で被災した東北地方の復興事業に34.6兆円を費やしきました。
福島第一原発の事故収束・廃炉作業は8兆円の費用を見込んでいます。

                  

写真[4]2019年11月27日、2020東京オリンピックで野球、ソフトボールの試合会場になる予定の福島県福島市にあるあずま球場で、朝礼をする労働者。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                  

写真[5]2019年11月30日、あずま球場で2020東京オリンピックの野球、ソフトボールの試合が開催されることを祝うフェスティバルでストレッチに励む若い野球選手たち。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                 

オリンピックの聖火リレーは、福島第一原発の事故収束・廃炉作業に従事する作業員の緊急対応詰所として利用されていた、元々はサッカースタジアムだったJ-ヴィレッジをスタートします。
リレーは11の被災市町村を巡る予定ですが、双葉町だけは外されました。
東京オリンピック観戦のため世界中から訪れる人々は、双葉町の本当の姿を目にする機会は全くありません。

                      

「オリンピックの聖火リレーが双葉町を通過することで、世界中の人々に私の故郷の現実を見てほしいと思います。」
吉田さんがこう語りました。
「双葉町は復興にはほど遠い状況です。」 

                    

福島第一原発から放出された放射性物質のせいで、一時は16万人以上に上る人々が故郷を捨てて避難することを余儀なくされました。
福島第一原発事故の被災地になった12市町村の中で、双葉町は唯一現在も居住制限区域のままです。
除染作業と再建事業のため、元の住民はかつての自宅の点検などの目的のための昼間の訪問のみが許可されています。

                      

双葉町の大部分は除染が行われ、訪問者は防護服を着ずにほとんどの場所に行くことができますが、身体に吸収される放射線を測定する個人線量計を携行し、手術用マスクを着けることが推奨されています。
主要鉄道駅は3月に再開される予定ですが、住民は2022年まで自宅に戻ることはできません。

                 

写真[6] 2019年12月3日、廃墟が連なる福島県双葉町を訪れた、元町役場の職員で現在も避難することを余儀なくされている大隅宗重さんと板倉雪美さん。

                  

写真[7] 2019年11月27日、雑草が生い茂る福島県双葉市の放棄されたコンビニエンスストア。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                   

写真[8] 2019年12月3日、雑草に覆われる福島県双葉町の集合住宅。(AP Photo / Jae C. Hong)

                 

原子力発電所から約4キロメートル、東京の北250キロメートルに位置する双葉町のメインストリートであるショッピング・アーケードは、崩壊した店舗の前に並んでいます。
正面のドアがなくなってしまった化粧品店の店先には、資生堂化粧品を宣伝するポスターが貼られ、商品には値札がついたままになっています。
そしてギフト用のパッケージが床に散乱していました。

                      

双葉南小学校は、ほぼ9年間にわたり全く手付かずの状態で、そこはまるで霊廟です。
幸いにも避難中に死亡した人はいませんでした。
しかし200人近くの子供たちが脱出するため急いで外に出たため、ランドセルも教科書もノートも何もかもが散乱したままになっています。

                   

子供たちは町への立ち入りが許されておらず、黒板には「3月11日金曜日」の日付と次の宿題の提出日が書かれたままになっています。

                        

無人の町役場の1階のレセプションホールには等身大の『だるま』が薄暗い夜の光の中に浮かび上がっています。
床に落ちた紙片には、放射線から身を守るために家のドアは閉じていなければならないと書かれています。
その紙はこう警告していました。:「外に出ないでください。」
警告の下には赤でアンダーラインが引かれてありました。

                

写真[9] 2019年11月29日、福島県いわき市の校庭に集まる小学生。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                 

写真[10]2019年11月27日、福島県伊達市の校庭でゲートボールをする年配者のグループ。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                   

写真[11]2019年11月26日福島県いわき市、防波堤の階段を上る男性。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                    

写真[12]2019年11月27日水曜日、福島県浪江市に新しくオープンしたイオン・スーパーマーケットで在庫の補充をする従業員。 (AP Photo / Jae C. Hong)

                      

《後編》に続く
https://apnews.com/2a0ef15f82ed9a5c1d4fe78f48504e81
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「アフガニスタンの大切な家族」殺害された日本人医師を称える壁画を制作

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30年以上に及ぶ中村博士の人道的活動は多くの人々に愛され、そして尊敬されてきた

16,000ヘクタールの農地を蘇らせた『アフガニスタンの大切な家族』

                

                      

シェリーナ・カジ、モーシン・カーン・モマンド / アルジャジーラ 2019年12月12日

               

アフガニスタン人の芸術家たちが12月11日火曜日、ジャララバード市と首都カブールに集まり、中村博士の壁画を製作しました。

               

アフガニスタンの活動家と芸術家は、先週アフガニスタン東部で武装集団に殺された日本人医師の人道的活動に敬意を表して壁画を制作しました。

           

73歳の中村哲博士は、12月4日にジャララバードで5人のアフガニスタン人とともに正体不明の銃撃犯に射殺され、南西アジアにあるこの国全体から嘆きと悲しみに満ちた思いが溢れ出しました。

                

アシュラフ・ガーニ大統領が「アフガニスタンの最も親しい友人の一人」と呼んだ日本人医師の壁画を描くため、それぞれ数十人のアフガニスタン人がナンガルハール州のジャララバード市と首都カブールに集まりました。

                 

                    

「この場所の土地には、愛の種だけを植えることになるでしょう。愛を超えるものは何もありません。」
壁画の脇にはパシュトゥ語でこう書かれていました。
中央官庁や海外の出先機関が集まるビルディングなどをぐるりと取り囲む壁は『アートロード(ArtLords)』という名の芸術家集団によってたくさんの壁画が描かれています。

                  

「中村博士はアフガニスタンを変えようとし、アフガニスタンの社会で最も弱い立場の人々を支えようとし、そして殺されたのです。」
地元の「活動家」でありアートロード・イニシアチブの共同創設者でもあるオメイド・シャリフィ氏はアルジャジーラの取材にこう答えました。
「私たちアフガニスタンの人々に対する中村博士の素晴らしい仕事を忘れないようにするため、『アートロード』のチームが中村博士を題材にした2点の壁画を制作しました。1つはジャララバード市内に、もう1つはカブール市内です。」

                  

▽『アンクル・ムラド』

                 

中村博士はアフガニスタンでは『アンクル・ムラド』のニックネームで広く知られていました。
30年以上に及ぶ彼の人道的活動は、多くの人々に愛され、そして尊敬されていました。

               

「中村博士の死は私たちにとって大きな損失です。私たちは彼のことをアフガニスタンの誠実で特別な家族としていつまでも忘れません。」
とナンガハールのカマ地区の住民で教師のアジュマル氏がアルジャジーラの取材にこう答えました。

                  

アートロードは芸術活動を通じ、南アジア諸国における女性の権利擁護、腐敗の撲滅、公衆衛生の充実、紛争解決を訴えています。

               

アフガニスタンの首都カブールで壁画を製作する アートロードのメンバー

                

昨年7月ISIL(ISIS)グループは、アートロードの活動家ラワイル・シン氏を含むアフガニスタンの少数民族シーク教徒を、少なくとも13人殺害しました。
今回アートロードはシン氏の娘と一緒に、シンを追憶するための壁画も描きました。
「あなたたちは決して天国には行けない、あなたたちは私の父を殺したのだから。」
壁画にはこう書かれていました。
「彼がいなくて寂しい…」

                

アートロード・イニシアチブの共同創設者であるシャリフィ氏は、一般市民から政府関係者まで、中村博士の志を受け継いでいくことを誓ったと述べました。
「私たちは積極的にボランティア活動を行い、アフガニスタンにより良い変化をもたらすため懸命に働くことを誓います。」

                  

日本で生まれ、医師としての経験を積んだ後、中村博士は1984年にペシャワール市が医師を募集していたのに応じてパキスタンに渡りました。
そしてその場所で1979年のソビエト連邦のアフガニスタン侵攻を逃れたアフガニスタン難民の治療を行うようになりました。

                      

1990年代初頭、日本人医師である中村博士はペシャワールとアフガニスタンのナンガルハール州で診療所を運営し、医療サービスが存在しない村で診療を行いました。

                    

中村博士の棺を運ぶアフガニスタンの人々

                   

2000年にアフガニスタン全土が壊滅的な干ばつに襲われた後、彼は井戸の掘削を開始しました。
そして灌漑用水路の張り巡らせ、6年間でナンガハール州のクズクナール、カマ、ケワの各地区で約16,000ヘクタール(40,000エーカー)の農地を蘇らせたのです。

                   

中村博士は2003年、その人道的活動に対してアジア諸国でノーベル賞に相当する名誉あるラモン・マグサイサイ賞を受賞しました。
さらに今年10月にはアフガニスタンの名誉市民権を授与されました。

                   

「平和とアフガニスタンの共通の敵が彼を殺害しました。私たちは中村さんを失ってしまった喪失感に苦しんでいます。」
カマ地区で教師をしているアジュマル氏がこう嘆きを口にしました。

                 

https://www.aljazeera.com/news/2019/12/afghanistan-murals-honour-slain-japanese-doctor-191211054020940.html

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壁画の中の中村博士が日の丸を背景にしているのを見て、改めて日本の国旗について考えることになり、中村博士のような方が世界で日本の国際的信用を築いてきたのだな、と痛感させられました。

                   

しかし日本の現実において、私たちはその正反対の存在と戦わなければなりません。

                 

本当は自分とその取り巻きの利害しか眼中にないくせに、国民が望んでもいない憲法の改定を「俺が実現してみせる」とうそぶく人物を、1日も早く日の丸の前から除かなければならない、改めてそう思いました。

アフガニスタン : 人々の生活を改善するために人生を捧げた日本の医師、銃撃され死亡

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毎日74人の男性、女性、子供が殺されているアフガニスタンで献身的人道援助を続けた中村博士
アフガニスタンの生活改善、水利事業発展、ダム建設、伝統的な農業の改良に全生涯を捧げてきた中村博士

             

                

英国BBC 2019年12月4日

            

銃撃した犯人たちは、プロジェクトの進行状況を確認するために車で移動中の中村哲さん(73)を待ち伏せして攻撃したものと当局は見ています。
ジャララバード市内で発生したこの襲撃により、55人のアフガニスタン人も殺害されました。
中村博士はアフガニスタン国内で水利の改善を目的とした灌漑事業を進める日本の慈善団体のリーダーを務めていました。
今年10月、中村博士は人道的活動に対してアフガニスタン政府から名誉市民権を授与されたばかりでした。

                  

現時点ではいかなる組織からも犯行声明等の公表はなく、また動機も不明のままです。
カブールにある米国大使館は「援助活動に従事する人材を標的にしてはならない」と非難、日本の安倍首相も中村博士の死に「ショックを受けた」と述べました。

                 

                 

国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)は、殺害に対する「言いようのない憤り」を表明しました。

            

中村博士が乗車し襲撃されたSUV車両

                  

しかしこうした類の襲撃はアフガニスタンでは日常的です。
アフガニスタンでは先週、国連のために働いていたアメリカ国民が国連の車両ごと爆殺されました。
BBCの調査によると、アフガニスタンでは8月だけで平均74人の男性、女性、子供が毎日殺されています。

                

▽ 襲撃はどのように実行されたのか?

                 

中村博士は、12月4日水曜日の朝、襲撃された東部のナンガハール州のジャララバード市にある車両で移動していました。

             

中村博士は右胸を撃たれ首都カブールの近くの病院に移送途中、ジャララバード空港で死亡が確認されとアフガニスタン当局がAFP通信に伝えました。
3人の警備員、運転手、および同僚1人も殺害された、とナンガハール州知事の広報担当者が明らかにしました。

               

襲撃現場の写真には、フロントガラスに少なくとも3発の銃弾の穴がある白いピックアップトラックが写っていました。

               

▽ 中村哲博士の人物像

               

中村博士は1946年に福岡県福岡市で生まれました。
日本国内の国家試験で医師としての資格を得た後、彼はハンセン病患者の治療のため1984年にパキスタンに移りました。

           

2年後中村博士はアフガニスタンに赴き、ナンガハールの人里離れた村に最初の診療所を開設し、非政府組織であるピースジャパンメディカルサービス(PMS)を設立しました。
ピーク時にはPMSは10か所で診療所を運営し、ハンセン病患者と難民の支援を行いました。

                  

中村博士は、きれいな水が手に入りにくい状況により多くの人がコレラやその他の病気に苦しんでいる事実を目の当たりにし、農村部で井戸の建設を進めるとともに、灌漑事業にも深く関わっていました。

                

                  

2003年、彼はアジア地区で人道活動に従事する人々に授与されることで広く知られノーベル賞にも相当するとされるラモン・マグサイサイ賞を受賞しました。

                 

2014年にインタビューを受けた中村博士は、日本の英字紙ジャパンタイムズの取材に対し、安全を確保するため毎日異なるルートで仕事を続けていると語っていました。
一方で中村博士は、取り得る最良の予防策は「誰とでも友人になる」ことだと語ってもいました。

               

「私は極力敵を作らないようにしてきました。たとえ私が原理原則に外れると言われたとしても、まずは誰とでも友人関係を築くことが大切なのです。それがアフガン国内の異なる場所にいる人々と信頼関係を築くための唯一の方法なのです。」
「そしてその方が銃を携行して歩くよりも驚くほど効果的です。」

                 

▽ 世界各国各分野の反応

              

アフガニスタン大統領アシュラフ・ガーニのスポークスマンは、政府はアフガニスタンの「最大の友」に対する「凶悪で卑劣な攻撃」を強く非難するとの声明を発表しました。
「中村博士はアフガニスタンの生活を改善し、水利事業の発展とダム建設に取り組み、伝統的な農業の改良に全生涯を捧げてきた人でした。」
セディク・セディックはこうツイートしました。

                 

カブール在住のオランダのエルンスト・ノルマン大使は、自分の人生を「アフガニスタンの平和と発展」に捧げてきた中村博士のような人物を殺害することは全く「無意味」であると語りました。

                    

                  

ナンガハール州のシャー・マフムード・メヤハイル知事は、「ナンガハールのすべての人々」は、中村博士の死を深く悲しみ、長年にわたり彼が人々を助けてきたことを心から感謝していると語ったと、アフガニスタンのカブールに拠点を置くメディアのトロニュースが伝えました。

               

https://www.bbc.com/news/world-asia-50654985

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中村哲博士については心から哀悼させていただきます。

『その後』の記事を待つうちに少々時期を逸した感がありますが、今日アルジャジーラにアフガニスタンの画家たちが中村博士の壁画を製作したという記事が掲載されましたので、まず事件のニュースの翻訳を掲載いたします。

引き続きアルジャジーラの『'Son of Afghanistan': Murals honour slain Japanese doctor』

Afghan artists' group paints murals in Kabul and Jalalabad of Dr Tetsu Nakamura, who was shot dead last week.

記事を次回ご紹介いたします。

消費税の増税、台風被害の拡大 : 財布のヒモをしめざるをえなくなった日本の消費者

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世界経済の動向の中で危機的状況が見え始めていた日本経済に、決定的な打撃
景気減速が予想を上回るペースで進行

                 

写真:2019年9月24日、岩手県の大船渡魚市場で商品の品定めをする仲卸業者

金子かおり/ ロイター 2019年12月6日

                  

消費税の引き上げにより消費者が家計支出を抑えこんだこと、そして自然災害の拡大により日本経済が混乱を被ったため、日本の一般世帯は今年10月、ほぼ1年ぶりに支出を削減しました。

                 

一般世帯の消費支出は、10月に前年同月比で5.1%減少、日本政府のデータは6日金曜日に11か月ぶりに減少に転じました。
消費支出が5.3%減少した2016年3月以来の最大の減少幅であり、各経済学者の予測値の平均である減少率3.0%という数値を下回りました。
これは9月の9.5%という消費の急増から一転して転落したことを示すものです。

                 

9月は10月1日に消費税率が8%から10%に引き上げられる前の駆け込み需要が発生し、記録上最も急激な成長を記録しました。

              

「消費支出の急激な鈍化は消費税の引き上げだけではなく、台風による被害も支出の減少を加速させることになりました。」
NLI研究所のエグゼクティヴ・リサーチフェローである斎藤太郎氏がこう語りました。
「経済全体と個人消費は10-12月期四半期に縮小し、1月から3月に緩やかに回復すると予想していますが、回復は力強うものにはならないはずです。」

                 

日本が前回消費税を5%から8%に引き上げた2014年4月、家計支出は4.6%減少しました。
この時は一般世帯の消費支出が成長軌道に戻るまでに1年以上かかりました。

               

台風19号の被害

               

前月と比較すると今年10月の家計支出は11.5%減少し、2014年4月以来の最大の下げ幅を記録、予測値の平均9.8%よりも一層大きく落ち込みました。
アナリストは10月に発生した強力な台風がもたらした豪雨は日本国内の広範囲を襲い、各経済指標を下落させる要因にもなりました。
台風の間臨時休業した店舗やレストランもあり、消費者は自宅に閉じこもっていました。

                     

一方、インフレ調整後の実質賃金は10月に2ヶ月連続で上昇しましたが、一方的に増え続け高額になっている公的負担と世界経済の低迷により、個人消費の見通しと日本経済全体の先行きに対する懸念が高まっています。

               

日本政府は低所得層向けの商品券や各種の税制優遇策を通じて消費者への打撃を和らげようとしましたが、今回の消費増税はすでに世界経済の動向の中で危機的状況が見え始めていた日本経済に、決定的な打撃を与える可能性があります。

              

日本政府は伸び悩む日本の経済成長をテコ入れするため、さらには政府の経済担当部門が2020年の東京オリンピック以降の日本経済を活性化させようと、13兆2.000億円にのぼる経済対策を公表しました。

                  

                 

しかし輸出額の減少、工業生産量の低下など経済が下振れしていることを示す各経済指標により、景気減速が予想を上回るペースで進行している可能性があり、懸念が高まっています。
第3四半期の経済成長率は年率換算で0.2%と、この1年で最も弱いものになりました。

                                   

各アナリストは消費税の引き上げにより、第四四半期には日本経済は縮小すると予想しています。

            

https://uk.reuters.com/article/us-japan-economy-spending/japans-households-tighten-purse-strings-as-sales-tax-typhoon-hit-idUKKBN1YA06Z

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もうここに至れば、安倍政権の『経済のテコ入れ策』なるものが、国民全体に貧富に関係なく公的負担を求めながら、集めた金を『補助金名目』で自分たちの支持層にばら撒くものであることは見え見えになってきました。

                    

安倍政権の『経済のテコ入れ策』『大型経済政策』なるものが公表されると、現象としてまず何が起きるかといえば、自民党の『組織票』を支える日本国中の業界団体等の担当者が自民党本部めがけて大挙上京することです。

              

このサイトについて
ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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