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70年前の恐怖と悪夢、その光景を甦らせる89歳の男性
被爆したのは19歳の時、以来苦悩することが日常的になってしまった人生
アルジャジーラ 8月6日
悪夢のような記憶を抱え込んだまま人生の大半を過ごしてしまった人間が、宮川圭吾さんが同じような経験を前に進むための力の源に変えている事実を見たら驚くに違いありません。
彼はそのエネルギーの源となった70年前の出来事について、事務的な口調で語りました。
19歳の時から苦悩することが日常的になってしまった人生についても…
彼の描く絵は今、一層力強さを増しています。
それは彼がキャンバスの上に表現することを決心するまで、50年もの間心の中に閉じ込められていました。
「誰もが、その事を自分の心の奥深く閉じ込めてきました。」
宮川さんが展示室の中で自分の作品に囲まれながら、こう語りました。
「こんなうわさがありました。もし結婚すれば、目も無く鼻も無い障害者の子供が生まれるだろうと…」
「当時あらゆる種類のうわさが飛び交っていました。父は居場所を転々とし、母は被ばくの事実について説明するとき毎回話が違っていました。私はどうしたらよいのか解らず、結局何もしゃべらないようにしていました。」
被爆体験という最もつらい経験を絵に描くよう宮川さんを説得したのは、いちばん古くからの友人でした。
「私には同級生の中に5、6人の非常に親しい友人がいました。彼らは私に『君は絵を描くことができる。君の体験を後世に残す必要がある。それができる人は広島にはもうほとんど残っていない』と。」
原爆が投下された時、宮川さんは広島市の郊外で自転車をこいでいました。
宮川さんはゆるんだ自転車のチェーンが彼の命を救ったエピソードについて語ってくれました。
宮川さんはチェーンのゆるみを直そうとして、桜の木の脇に自転車を止めました。
この桜の木が原爆がさく裂した最悪の瞬間、宮川さんを守ってくれたのです。
「私は雷が落ちたのだと思いました。最初に強烈な光線が見え、次に言いようのない音が聞こえ、そして体が宙に浮きました。そして気を失ったのです。」
「意識を取り戻したとき、最初に耳に入って来たのは人々のあわただしい足音、そして辺り一帯に溢れる騒音でした。何があったのか全く分かりませんでしたが、自分自身を見てみると怪我をして、出血していることに気がつきました。何が何だかわからぬまま、私は周囲にいた人々と一緒に走りだしました。」
やがて宮川さんは廃墟となった自宅に戻り、そこで家族と再会しました。
原爆が投下された後広島市内では火災が3日間続きましたが、その間宮川さんの一家は雨ざらしの生活を強いられました。
火事が収まると、宮川さんは行方不明の2人のおじを探すために、廃墟と化した広島市中心部に入りました。
「どこが道路なのかわからないありさまで、太田川の川辺に沿って歩いて行くのが唯一見当をつけるための方法でした。私たちのうちの3人はボートに乗って進みました。広島市内に入ると、驚くほど多くの数の死体が川に浮かんでいました。
私の頭の中はその光景を見て混乱しました、ここでいったい何が起きたのだろうと?
「浮いている死体の頭部が次々ボートにぶつかりました。そしてオールを水の中に入れて漕ごうとすると沈んでいた死体が引っかかって浮かび上がってきました。ボートを前進させることなどとてもできる状況ではありませんでした。」
宮川さんは道路わきに置かれた水槽に、いくつもの死体が折り重なっていることに気がつきました。
人びとは焼けただれた自分の体を水槽に入れて冷やそうと絶望的な試みを行い、そのまま息絶えてしまったのです。
〈 後篇に続く 〉
http://www.aljazeera.com/blogs/editors-blog/2015/08/hiroshima-japan-atomic-bomb-painter-keigo-miyagawa-150805155310433.html
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昨年2015年は第二次世界大戦終了70周年であると同時に、広島と長崎において歴史上初めて原爆という核兵器が使われて70年が過ぎた年でもあり、世界中のメディアに広島、長崎に関する記事が数多く掲載されました。
昨年8月にも一部ご紹介しましたが、掲載しきれなかった分を今ご紹介しています。
翻訳していて改めて思うのは、核兵器廃絶を訴えておられる広島、長崎の方々の主張が、人間として如何に真っ当なものであるかという事です。
日本軍が民間人に対しどういう仕打ちをするか知っていた中国人は、井戸に毒を流して皆逃げ去った
同じ日本兵が中国人に対して行なっていた残虐行為を、強く嫌悪していた日本人兵士
ガーディアン 1月14日
1938年1月14日、アグネス・スメドレーは中国大陸内部での抗日戦争において、兵士が直面する恐ろしい困難について証言しました。
1938年1月13日、アメリカの女流作家であるアグネス・スメドレーは漢口に到着するやいなや、中国の抗日ゲリラ戦の状況について、臨場感あふれる報告を開始しました。
彼女は山西省にあった中国共産党指揮下の八路軍の本部で3ヵ月を過ごしました。
彼女は日本軍の支配に対抗するため、克服不可能と思われる数々の困難があるにもかかわらず、山西省の中国人の団結は固いと報告しました。
何千人もの中国人兵士が雪道をはだしで行軍し、凍結しかかっている川を首までつかって渡河していると報告しました。
彼女は夜間作戦中に負った凍傷のため何人もの兵士が手足を失ったこと、そして現地では医薬品が決定的に不足していることに連合国側が関心を向けなければならないと伝えました。
「日本軍が民間人に対しどういう仕打ちを行うか、身に染みて知っていることから…」
スメドレーは次のように続けました。
「人々は日本兵の接近を知らされると、我先に暮らしていた村から避難しました。その際には貯えていた食料をすべて持ち去り、井戸には毒を流していきました。
日本軍が村を占領してしまうと、中国人たちはその襲撃に備え一晩中屋外に出て見張りを続けていました。
ほとんどすべての中国人青年は八路軍のゲリラ部隊に参加するか、あるいは八路軍正規軍の貨物輸送などの兵站業務に加わりました。」
▽ 女性に率いられた鉱山労働者達の戦い
スメドレーは、日本軍が接近してきた際、炭鉱の労働者たち200人が中国政府の武器庫を叩き壊し、中から武器を取り出して日本軍と戦いながら退路を確保し、女子供を含む家族全員を無事田園地帯に避難させる場面に遭遇しました。
その後彼らは忽然とある谷間に現れ、日本の第20師団と戦闘中の中国の正規軍に加わり、勝利しました。
この戦いで日本側は1000名の兵士が死亡、500人の中国人捕虜が解放されました。
「しかしあらゆる事実の中で最も意外だったのは…」
女性作家はこう続けました。
「鉱山労働者の戦闘を指揮していたのは61歳の女性であったことでした。彼女はみんなから親愛の情をこめて『愛国者の母』と呼ばれていました。
彼女はそれぞれ違う立場で抗日戦争を戦っている2人の息子を誇りにしていました。
1人は中国の正規軍で、もう一人はゲリラとして戦っていました。
ほとんどの戦闘期間を通じてかれらの食事はきわめて貧しいものでした。
常食していたのはカブを煮たもので、時に日本軍の兵士から奪った食料が加わりました。
一日の割り当ては水浸しになったひと包みの食糧だけでした。
「女性作家のティン・リンを含む少人数の一団が八路軍と行動を共にしていて、コンサートを行いました。彼女たちは毎晩野営地でその日のニュースを歌詞にして、メロディーをつけて歌いました。
歌われたのはすべての前線における状況で、バラード調のメロディーが付けられていました。」
残忍な行為が常態化していた日本軍
日本の軍隊について議論した時、スメドレーは日本兵の中にも良い人間はいるのだと語りました。
これらの人々は同じ日本兵が行なっている残虐行為を強く嫌悪していました。
「私が話しをした多くの日本人捕虜は、心身ともに疲れ切ってしまったと語りました。彼らは徴兵されてこの地に連れてこられ、戦うことを強制されたのです。中国人に同情などすれば、直ちに自分自身の命も補償されなくなるような立場に置かれていました。」
日本軍の兵士の出身は3つの集団に分けることができるように見受けられました。
ひとつはきわめて若い人たちともうひとつは44歳までの比較的年齢の高い人々、そしてもうひとつが人生の盛りにあって日本で充実した生活を送っていたにもかかわらず、権力によってそこから引きはがされ、この地に送られてきた人々です。
一方の中国軍には韓国人や台湾人も加わっていましたが、ロシア人はいませんでした。
アグネス・スメドレーは、この報告に続き1941年までマンチェスター・ガーディアンの戦争記者として中国に留まり、本国に至急電を送り続けました。
[最後の写真、一番左がアグネス・スメドレー、隣はバーナード・ショー、右端は魯迅]
http://www.theguardian.com/media/2016/jan/14/china-japan-war-1938-agnes-smedley-archive
バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチのファンドマネージャー部門が緊急調査した結果、出した結論は?
中国の景気減速、米連邦準備制度理事会は引き締めのタイミングを過った?原油価格の問題は?
エコノミスト 1月22日
2016年に入った途端、ヨーロッパと日本では株価が下落を続け、最近記録した高値からそれぞれ20%以上値を下げています。
20%という数値は下落市場に転換したことを判断する指標の一つになっています。
S&P500種指数に含まれる少なくとも15の銘柄は1929年以来となる下げ幅を記録しました。
しかし現在のところはまだ、全体として恐慌の定義に当てはまるには至っていません。
株式市場落下の原因について決定的な原因が突き止められた例というのはありません。
投資家が株式を売却する際、所定の手続き書類に売却理由を記入する必要はありません。
今回の株式下落について最大の原因とされているのが、中国経済、世界経済に最も影響力をもつ経済圏のひとつが不安定な状況に陥っているのではないかという懸念です。
特に中国企業の収益力の低下しているのではないかとの懸念が強まっています。
そしてもうひとつがアメリカの連邦準備制度理事会が昨年12月に実施した金利引き上げについて、ことを急ぎ過ぎたのではないかという懸念です。
こうした指摘について、バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチのファンドマネージャー部門が調査を行って出した結論は、それがおおむね正しいというものでした。
世界経済の先行きが明るいという楽観的見通しは否定されました。
調査に回答したうち、半数を超える企業が今後12カ月間収益は低下すると予測しています。
そして中国の不況が直面しているのは、これまでで最大の危機であると見られています。
今回の株式価格の下落を解明するためのもうひとつの手立ては、株価というものが理論的にどのように成立しているのかを理解することです。
株式は投資家が将来受け取るキャッシュフローを保証するものです。
その株式の割引率が高くなればなる程、株式の評価額は低下することになります。
投資家・投資機関は当然ながら利益が減ることを恐れていますが、将来受け取るべきキャッシュフローについてより悲観的になったこと、あるいは彼らが用心深くなった挙句負担しなければならないリスクに見合う割引率を求めた結果、株価は下落せざるをえなかったという見方が可能です。
そして現在の世界経済の健全性については、原油価格を始めとする資源価格、先物取引価格がその一端を語っているかもしれません。
もう一つ注視する必要があるのが、危険性の高い会社の株式や債券であるジャンクボンドによる収益金の支払いレートが上昇していることです。
これは;投資家側が貸出の危険性に対して、より高い返報を要求しているためです。
さて最大の関心事、現在の弱気市場は必然的に不況を意味しているのでしょうか?
全体の23%が1987年10月にアメリカの普通株が突如下落を始めたブラック・マンデーに続く景気失速、すなわちリーマンショックと同じ状況に陥ることは無いだろうと回答しています。
ドットコム市場は相変わらず急成長しています。
そしてアメリカをはじめとする各国では不動産価格の上昇がみられ、基礎となる部分でリーマンショックの時とは様相が異なっています。
今年に入って続いている株価の下落は、これまで株式価格が過大評価されていたものが、単に順当な辺りに落ち着いたというだけの事であり、投資家の心理が悲観的になり過ぎている、それだけのことかもしれません。
今回灯った信号がこれから本格的不況に向かう事を示唆するものなのかどうか判断するためには、数多くの企業業績を確認し、様々な経済指標を確認することが必要です。
http://www.economist.com/blogs/economist-explains/2016/01/economist-explains-14?zid=306&ah=1b164dbd43b0cb27ba0d4c3b12a5e227
アフリカで横行する密猟により、野生のゾウの個体数が急激に減少する危機的状況の中で明らかに
日本国内の象牙取引の実態、国連の委員会でも問題に
デイジー・フレッチャー / ザ・インディペンダント 1月19日
世界で環境・野生動物の保護活動を行っている国際機関の環境調査エージェンシー(EIA ・https://eia-international.org/ )が日本政府の野生生物保護を担当する当局者が、象牙の違法取引を助長していると訴えています。
EIAは2016年1月第3週、日本政府に関係する機関の当局者1名が、不正に密輸された象牙をどうすれば合法的に登録できるか、警察の捜査を未然に防ぐためにはどうすれば良いか、潜入捜査官に対しその方法を具体的に教えたとする告発を行いました。
日本に持ち込まれた象牙が国内市場に流通する前に、合法性を検証して正式登録する際の手続きの進め方に対する調査の結果、嫌疑をかけられているのは日本の非政府組織で日本の環境省と経済通商産業省の認定機関である日本野生生物リサーチセンター(JWRC)です。
日本野生生物リサーチセンターは今回の嫌疑に関するコメントを辞退しました。
この問題はアジア市場での消費需要の高まりもあって、アフリカで横行する密猟により野生のゾウの個体数が急激に減少している危機的状況の中で明らかになりました。
アメリカのワシントンD.C.に拠点を置く環境調査エージェンシーのアラン・ソーントン理事長は、この問題について次のように語りました。
「今回明らかにされた意外な事実は、本来象牙の密輸や違法取引を取り締まるべき日本の中央官庁が関わるシステムに、重大な欠陥があることを明らかにしました。」
「アフリカ大陸において進行中の野生のゾウの虐殺を止めさせることに貢献できるよう、日本は象牙取引の禁止を法律化する必要があります。」
EIAは先月にも日本国内の象牙の取引業者が違法な活動に恒常的に関わっているとの告発を行ったばかりです。
これらの業者は不正に日本に持ち込まれた象牙を合法的取引を装い、不正な手段を用いて正式登録を行っているとしています。
1989年の国際取引の禁止の前に日本に輸入されたか、あるいは『絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)』における例外規定により取引が許されているか、いずれかの場合に該当しなければ日本国内で象牙の取引を行う事は絶出来ません。
しかしEIAは、象牙のオーナーを装って日本に入国した潜入捜査官が、象牙の不正登録に日本野生生物リサーチセンター(JWRC)が関わっているとする複数の証拠を手に入れたと主張しています。
EIAによれば日本野生生物リサーチセンターのスタッフは数回に渡り、象牙のオーナーを装った潜入捜査官に対し、象牙が1989年以前の『昭和時代』に入手したものだと申請するように8回に渡り助言しました。
捜査官はこの象牙は2000年に入手したものだと明言したにもかかわらず、スタッフは「禁止以前」とする申請を行なえば例外規定により合法的に登録ができると指導したとEIAが伝えました。
1月第3週、スイスのジュネーブで開催された絶滅危惧種の国際取引に関する国連条約常任委員会では、日本の違法な象牙取引の問題が議題になりました。
日本は現在この問題について、限定的ではありますが国際社会による詳細な調査対象となる「関心対象国」に分類されています。
「日本は『絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)』による法的規制とアフリカ大陸の象の繁殖地における動物たちの保護義務の分野から身を引きました。その結果、再び象牙の需要が上向いてしまい、ゾウの密猟に拍車がかかってしまったのです。」
EIAの政策部門のシニア・アナリストであるダニエル・グラビエリ氏がこう語りました。
2015年12月にEIAが報告した日本の違法な象牙取引と詐欺的登録手続きの実態は、日本国内における象牙取引の登録制度に欺瞞がある可能性を示唆しています。
潜入調査官が実際に会って聴き取りをした37人の象牙取引業者の内30人は、未登録の象牙を買う、売る、あるいは加工する違法な活動に関わっていると語りました。
さらに彼らは日本野生生物リサーチセンター(JWRC)が扱っている象牙が合法的な品物であることを証明する登録において、詐欺的な手法を使っている事も明らかにしました。
2006年10月にワシントン条約事務局と国連常任委員会は、日本国内では入手経路証明書と取得証明書がなくとも正式登録を認めることに合意、これに基づいて日本では5,500以上の象牙の登録が行なわれました。
http://www.independent.co.uk/voices/campaigns/GiantsClub/environmental-investigation-agency-alleges-that-japanese-wildlife-officials-promote-illegal-ivory-a6820036.html
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【 1月19日までの報道写真から 】
アメリカNBCニュース 1月19日
18日、オーストリア、ザルツブルグのロファーを行くクロスカントリー・ハイカーたち。(写真上)
ドイツ、イェンシュヴァルデにあるファッテンフォール社の火力発電所が吹き上げる煙。(写真下・以下同じ)
1月19日夕方、スペイン、サンセバスチャン、のコンチャビーチを散策する人々。
http://www.nbcnews.com/slideshow/monday-pictures-january-18-n499171
http://www.nbcnews.com/slideshow/tuesday-pictures-january-19-n499921
あまりにむごたらしいヒロシマの惨状、戦争を始める前にこの可能性を日本人は考えるべきだった…
原爆が投下されて以降、吐き気を堪えかねる悲惨な光景に何度も遭遇した…
クレイル・マグガイヤ・ギリース / ガーディアン 2016年1月6日
この本を読んだところで第二次世界大戦(太平洋戦争)の全容がわかる訳ではありません。
あるいは教訓を伝える訳でもありません。
思い通りに物語を展開するために統計データを利用することもしません。
事実、ハーシーの文章は抑制された表現を用いて、ありのままを綴っているだけです。
その言葉遣いは極めて適切であり、単純でありながら洗練された表現を用い、しばしば読者の眼前に過酷過ぎる現実が臨場感を持って迫ってきます。
ある章では谷本牧師が重傷を負った人々を対岸の安全な場所に運ぶため、ボートを探すシーンが出てきます。
谷本牧師は岸辺で一艘の平底のボートを見つけました。
「そのあたりは地獄絵図そのものの様相を呈していました。ボートの周囲にはほとんど裸の、ひどく焼け焦げた5人の死体が転がっていました。
この5人はほとんど即死状態であったに違いありません。
死体の様子から見て、5人は力を合わせてボートを押し、川に漕ぎ出そうとしていたと思われました。」
谷本牧師は自分が何をしなければならないかすぐに理解し、それを実行に移しました。
彼は死体をそれ以上傷つけないように注意しながら、一体一体ボートからはぎ取るように移動させました。
しかし当然ながらそれは不気味な作業であり、思わず手を止めたくなる瞬間もありました。
彼は思わず大きな声で彼らに話しかけました。
「どうかこのボートを使わせてください。生き残った人を助けるためにどうしても必要なんです。」
原爆が投下された直後の広島では、こうしたシーンが無数に繰り広げられていました。
読み始めるとすぐ、読者は正体不明の爆発直後の洋装店の1人の未亡人と出会うことになります。
「中村さんが立ったまま自宅近くの光景を見守り続ける間、これまで見たことが無い程真っ白でまばゆい光がすべてを覆い尽くしました。異常を感じた彼女は反射的に子供たちがいる場所に行こうとしましたが、一歩足を踏み出した瞬間、何かが彼女を持ち上げ、隣の部屋の寝床の上に押し込むようにしてその体を運び上げたのです。」
(家族は全員生き残りました。)
ハーシーのドキュメンタリーは現場の多種多様な感情を捉えています…パニック、悲嘆、絶望、復活、希望…それらが同じページの上で交錯します。
ドイツ・イエズス会のクラインゾルゲ神父はその時広島市郊外の浅野公園にいました。
彼はいくつもの死体をかき分け、まだ生きている負傷者のために飲み水を探していました。
神父が戻ってくると、そこには20人程の負傷した兵士が倒れていました。
「彼らの顔は無残に焼け爛れていました。その眼窩は空洞になっていました。彼らの眼球は溶け落ち、その頬の上にはドロドロになった物体があったのです。」
神父は傍らにあった草むらを見て、その茎を使ってストローを作ることを思いつきました。
それを使って口中が膿でいっぱいに膨らんだ男性が水を飲めるようにしたのです。
彼はどう見ても一晩はとてももたないだろうと思われました。
「その日以降、クラインゾルゲ神父は吐きそうになるほど悲惨な光景に何度も遭遇したことを覚えています。
尚公園内に留まりづけていた神父は次々に遭遇する無惨な光景に段々無感覚になっていきました。
神父は公園内の池の水面に60cmほどの大きな鯉の死体が浮かんでいるのを見つけ立ち止まりました。人々が飢餓にも苦しみ始めていた様子を見て、神父はそこにいた軽傷の男性とその鯉を食べても大丈夫かどうか話し合いました。しばらく考えた後で、2人は結局食べない方が賢明だという結論に落ち着きました。」
広島の物語には無数の最善と最悪の人間性の物語に満ちています。
そこには思いやりもある一方で、悲嘆と苦痛に満ちています。
私はいくつかの描写で気分が悪くなりましたが、一方ではクラインゾルゲ神父が畑にあったかぼちゃが原爆の熱線で食べるのにちょうどよい具合に焼き上がり、おかげでおいしい夕食にありついたなどという事実に驚くこともありました。
一方でこの本には結末らしい結末がほとんどなく、その点に少しばかり落胆している自分に気がつきました。
原爆投下の後、日本人はいったい何が起きたのか懸命に理解しようとしました。
ある人は怒り、そして別の多くの人々は突き放したようにこう語りました。
「これが戦争だ。こんなことが起きる可能性があることを、我々は予測すべきだったのだ。」
哲学的な意見もありました。
「この問題の肝心なところは、たとえ正当な目的を掲げてはいても太平洋戦争を推進した日本がそうであったように、総力戦という形が果たして妥当なのかどうかという点にある。
総力戦は物質的にも精神的にも国の中を最悪の形に変えていったのではないか?その結果は勝利によってもたらされるはずだった成果とは、およそかけ離れたものになった。この問いにはっきりと答えられる倫理学者は現れるだろうか?」
この著作の中でハーシー自身の考えが延べられることは無く、何を強調するわけでもありませんが、彼はこの物語の最後に、一人の幼い少年の被ばくした後の生活を詳述しています。
その少年はうまく立ち直ったように見えたようですが、それだけになおさら人間の一生というものがそこで止まることは無く人生は続くものだという事を、そして子供たちの成長とともに世界は平和になったのかという事を問いかけているように思います。
その事に思い当たるとき、そして原爆投下からすでに70年を経ているのに世界はほとんど変わっていないという事実は、今さらながら受け入れがたいものだと感じます。
この本に書かれている通り、原爆を投下された広島の話は歴史の授業で語られるべきものではありません。
そこにあるものはまさに人間の死、究極の破壊、それでも尚生き続けようとする人間についての記録です。
そしてそれはまたこの数十年間、私たちがずっと見続けてきたことでもあります。
1946年ハロルド・ロスはこう指摘しました。
「まさにこの世に地獄が現れたのだ…」
http://www.theguardian.com/books/2016/jan/05/hiroshima-by-john-hersey-survivors-stories-carry-weight-of-history
フランス、レバノン、アメリカ、トルコ…世界で卑劣なテロが繰り返されている今、日本の被爆者の史実が重要な意味を持ち始めている
21世紀のこの世界に今こそ必要とされている、時を超えて訴えかけてくる内容を持っている
クレイル・マグガイヤ・ギリース / ガーディアン 2016年1月6日
人類史上初めて原子爆弾が投下された結果、何が起きたのか…
1946年雑誌『ニューヨーカー』に掲載された特別報告はきわめて明晰であり、そして冷静そのものです。
それがために21世紀の現在も強い説得力を持ったままです。
1945年夏、広島では静かなヒステリーが蔓延していました。
アメリカ軍は数週間、日本各地で爆撃機と焼夷弾を使った大規模な攻撃を続けていました。
そして戦略的に重要な都市であるにもかかわらず、日本の2つの都市がまだ攻撃を受けていませんでした。
そのうちの1つが広島市でした。
数週間に渡りB-29『空飛ぶ要塞(スーパーフォートレス)』が広島の北東方向の日本国内の重要拠点に次々大挙して飛来し、その場所を廃墟に変えていました。
地方で暮らす日本人はこのアメリカ軍の戦略爆撃機を『Bさん』あるいは『ミスターB』と呼んでいました。
「頻繁に発せられる空襲警報にもかかわらず、広島がまだ『Bさん』の餌食になっていないことに、市民たちは神経質になっていました。」
ニューヨーカー誌上にジョン・ハーシーはこう記し、次のように続けました。
「広島には、アメリカ人は何か特別なものを用意しているに違いないという噂が広がっていました。」
そして、それは本当にやって来ました。
8月6日午前8時15分、リトルボーイが広島の上に落とされました。
即死、そしてその後の爆死者は100,000人以上に上りました。
「巨大な雲が湧き上がり、辺り一帯たそがれ時のような薄暗さに覆われました。そして尚一層辺りは暗くなっていきました。」
ハーシーはこう書きました。
そしてもうひとつの異なる闇が広島に残ることになりました。
西側の報道機関は原爆がもたらした恐ろしい結果について書きたてましたが、そこには生存者に関する情報が抜け落ちていました。
夏が終わり季節が秋に移ると、ニューヨーカーの編集者であるウィリアム・ショーンは、自分たちの雑誌がその後の広島について報道を行うべきだと決断しました。
ニューヨーカーを創刊したハロルド・ロスは作家でニューヨーカーの執筆者でもあるE・B・ホワイトに次のように書き送りました。
「彼は人々に真実を伝えたいと考えており、私たちこそそれができる人間だと考えているようです。そして多分、私たちでなければ出来ない、そう言っています。」
1946年5月、ニーヨーカーの編集部門は、当時上海にいた従軍記者のジョン・ハーシーを現地に派遣し、見たままを報告するよう求めました。
その結果出来上がったのが有名な『Hiroshima』 でした。
1946年8月、ニューヨーカーは一冊丸ごとこの30,000語からなる報告書を掲載しました。
後に単行本として改めて出版されました。
長年に渡り私はこの本に目を通すよう、他の作家たちから度々薦められました。
あるいはニュージャーナリズムの規範的成功例として紹介されました。
私は本当に読むつもりで、私のリストの優先順位の上位にこの本を加えました。しかし私の枕元に積み重ねられた本の山の一番上には、常に別の本が置かれていく状態が続きました。
いつの間にか長い年月が経ち、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了して70周年の2015年、私は小振りになった『Hiroshima』を受け取りました。
ペンギンブックスから再度発行されたものです。
そして今、この一年間を通して読んだ本の中から、パリ、ベイルート、サンバーナーディーノ、シリアなどの場所で起きた事件に心を傷め、将来に対する不安を大きくしている世界の人々に、私が躊躇なく推薦したい1冊が、『Hiroshima』です。
この本の主題は心を浮き立たせはしません。
しかしその主題はまさに21世紀のこの世界に今こそ必要とされている、時を超えて訴えかけてくる内容を持っているのです。
ジョン・ハーシーは原爆が投下された数時間後から数週間に渡り、それぞれがどこかでつながりを持った広島の6人の市民の物語を綴っていきます。
1人は若い外科医、
1人は牧師、
1人は3人の子供を抱えた洋装店の未亡人、
1人は忙しい開業医、
1人は錫工場の女性従業員、
そしてもう1人はドイツ人の聖職者です。
6人の主人公たちひとりひとりに焦点を当てて切り替えていく話法には、きちんと整理された統一感があります。
しかしこの本の中にはそれ以上のものがあります。
ここに記されているがれきの中から始まるそれぞれの人生の年代記には、一切誇張はありません。
そしてこの稿を書いている2015年が終わろうとしている今、『Hiroshima』に書かれた史実がこれほどに必要とされている時代は無かったのではないか、そう感じるのです。
〈 後篇に続く 〉
http://www.theguardian.com/books/2016/jan/05/hiroshima-by-john-hersey-survivors-stories-carry-weight-of-history
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何度か書いたことがありますが、自分が高校時代に受けた歴史教育において、広島や長崎に対する原爆投下の史実が、まず触れられることすら少なく、そして詳細に扱われていないことに大きな問題を感じます。
白鳳文化や天平文化の仏像の様式の違いは丹念に教え込まれましたが、広島や長崎の『日本人』の1945年の無惨酷烈な体験について教えられたという記憶はまるでありません。
戦争を続けた先に、どれ程大きく深刻な悲劇が待っているか、なぜ日本の歴史教育は教えようとしないのか?
ゲーム世代の若者の中には、戦争とは『フルオプション』のジェット戦闘機や戦車に乗って、敵を『シューティング』するものだと考えている人もいるのかもしれません。
広島、長崎の体験を伝えることが、21世紀のこの世界に今こそ必要とされている。
その言葉が重く響きます。
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【 元イーグルスのグレン・フライ、67歳で死亡 】
アメリカNBCニュース 1月19日
デトロイト出身のフライはフレイは若い野心的なロック・ミュージシャンとしてカリフォルニアへ移住、その地で一団のソングライターと親しくなりました。その中にはジャクソン・ブラウン、そして後にイーグルスを共に立ち上げることになるドン・ヘンリーがいました。
そして1970年代から1980年代初頭にかけてのイーグルスの長い成功の道のりを歩いた彼は最大のヒット作となった「テイク・イット・イージー」、「我が愛の至上」、「デスペラード」そして「ホテル・カリフォルニア」などの曲を世に送り出しました。
1982年にイーグルスが解散しソロ活動に移ると、フライは1980年代に人気を博した警察を舞台にしたシリーズ「マイアミ・ヴァイス」の初期作品にも出演、「スマグラーズ(密輸業者)のブルース」をヒットさせました。
1984年のコメディ映画「ビバリーヒルズ・コップ」では劇中で使われたフライの作品「ヒート・イズ・オン」がヒットしました。
イーグルスのフェイスブックはフライの死因は、慢性関節リウマチ、急性潰瘍性大腸炎、肺炎の合併症だと発表しました。
「言葉で私たちの悲しみ、どれ程彼を愛し尊敬していたかを表現することは不可能です。彼は私たちに、家族に、そして世界中の数百万人の音楽愛好者に、非常に多くのものを与えてくれました。」
別の声明においてドン・ヘンリー(イーグルスのドラマー、ホテル・カリフォルニアなどの作品を共作)は次のように述べています。
「彼は私の兄弟であり、そして家族でした。そして多くの家族がそうであるように、私たちの間にも相剋があったこともあります。しかし私たちが45年前につないだ絆は、イーグルスとして活動した14年間の記憶は、決して消えることはありません。」
「私たちは音楽業界に自分たちの居場所を作るという同じ夢を抱いて、ロサンゼルスへやって来た2人の若い巡礼でした。私たちは忍耐、音楽に対する限りない愛情を共有し、他の偉大なミュージシャンやマネージャーのアーヴィング・アゾッフとともに、夢見た以上に長い間大きなものを築き上げることができました。」
「そのすべてを始めたのがフライでした。言ってみれば彼は明確なビジョンを持った、点火プラグのような人間でした。」
「彼はちょっと変わっていて、頑固で、移り気で、気前がよくて、そしてとびきり優秀であり、しかも行動力もありました。彼は、何よりも妻と子供を愛していました。我々全員はショック、落胆と深い悲しみの中にいます。」
http://www.nbcnews.com/news/us-news/glenn-frey-eagles-has-died-band-says-n49918
原発事故の本当の状況は、すべての設備を解体整理した廃炉作業完了後でなければ判明しない
建造後数十年を経た原子炉は、福島第一原発と同じカタストロフィを生き残ることは出来ない
フェアウィンズ 2015年12月18日
原子炉を安全に稼働させるために不可欠な安全装置システムが、塩水を注入したところわずか15秒で動作不能に陥ってしまったトラブルのおかげで、私は原子力産業界が何に対して一番神経を使っているか、そして事実に対してどのような表現を用いるかということに関する教訓を得ることができました。
私は事故報告書を作成する際、この重大なミスの原因について『深刻な塩水漏れ』という表現を使いました。
しかし報告書を見た私の上司は、コンデンサーの設計不良について『塩水進入』と書き換えてしまったのです。
2011年、福島第一原発と同じ沸騰水型原子炉を持つ浜岡原子力発電所でも原子炉で塩水が漏れる事故が発生し、修復不能の損傷を受けました。
浜岡原子力発電所でもマイルストーン原子力発電所でも、稼働中の原子炉炉心あるいは原子炉内にわずかな量の塩化物イオンが入り込んだだけで、非常に大きな損傷が発生しました。
東京電力の技術者も塩化物イオン、すなわち塩がステンレス鋼と基本的に相容れないものであり、原子炉にひびが入るおそれがあるということを知っていました。
しかし文字通り計り知れない人為的危機が発生し、引き続きメルトダウンが発生するというプロセスにおいて、しかも通常とれるはずの安全確保のための手段がまるでないという状況にあって、福島第一の東京電力の社員たちには原子炉内部に向け海水を注入する以外の手段は無かったのです。
そして海水の注入は、事故現場において4つの結果を引き出しました。
1番目はメルトダウンしていた原子炉の冷却に成功したことです。
しかし残る3つの結果はひどいものでした。
原子炉内部に入った塩水により、原子炉内の隔壁、内部構造、そして核燃料が深刻な損傷を被ったのです。
核燃料と一緒に溶け落ちてしまうメルトダウンによる破壊を免れた原子炉も、絶え間なく入り込む塩水が亀裂を発生させ、いずれにせよ損傷を被り事態は悪化することになりました。
さらに高熱の場所に塩水が送り込まれた結果、水分が蒸発した後に大量の塩分があらゆる場所にこびりつくことにもなりました。
そして最終的に格納容器と原子炉の底を突き破って流れ出した溶けた核燃料と熱湯状態の大量の塩分が、原子炉の基礎のコンクリートを徹底的に痛めつけることになったのです。
核燃料を原子炉内、あるいは原子炉格納容器の中に閉じ込めておくことは完全に失敗しました。
溶岩のようになった核燃料が炉心(時に『真皮』と呼ばれることもあります)を突き破り、外に流れ出してしまったのです。
この稿の目的は、まさに悲劇的状況の中で、東京電力の職員たちが考え得る最悪の事態を回避するために、その時たった一つだけ採れる方法によって緊急事態に立ち向かった結果、起きてしまったことをすべて明らかにすることです。
1つのどうしても解決しなければならない問題を解決するために、他の3つの問題が生じました。
原子炉を冷却するために純水の代わりに塩水を使った結果、
原子炉内部の破壊の程度は大きなものになり、
原子炉のメルトダウンの進行を早める結果になり、
核燃料を閉じ込めておかなければならない原子炉格納容器の外側で、化学的・物理的な破壊が起きてしまったのです。
福島第一原発の廃炉が完了するのは今からだいたい100年が過ぎたころになると考えています。
その時になってすべての設備が解体・分解されて初めて、放射能が大気中や地下水脈に漏れ出さないよう設計されたステンレス・スティール製の原子炉とコンクリートで作られた防護壁に対し、塩水による損傷が実際にどのようなものであったのか正確に把握できることになります。
福島第一原発のメルトダウンが明らかにしたものは、原子力産業界が『最大想定事故』と呼んでいる想定される中で最大規模の事故が発生した場合、福島第一原子力発電所にあったのと同じ、作られてから何十年も経った原子炉は持ち堪えられないという事実なのです。
福島第一原発の事故で原子炉の最悪の暴走を防いだ大量の海水注入、一方で予期せざる事態も…
福島第一原発、その廃炉の完了は100年後…
フェアウィンズ 2015年12月18日
福島第一原発で3基の原子炉がメルトダウンを起こした際、現場にいた東京電力の担当職員は原子炉の温度がそれ以上上昇しないように大量の海水(塩水)を注入しました。
この処置は原子炉の最悪の暴走を防ぎましたが、予期せざることも発生しました。
フェアウィンズでは原子炉を冷却する際、東京電力が塩水を用いたことについてこれまで複数の視聴者から質問をいただき、さらにエンジニアなどの人々から重要なコメントを受け取りました。
世界中で古くなった原子炉が稼働を続けている現状を考えるとき、この点に関する疑問を解き明かすことは非常に大切です。
今回はフェアウィンズのチーフ・エンジニアであるアーニー・ガンダーセンが、なぜ東京電力福島第一原発の現場の担当者たちがメルトダウンしつつあった原子炉に海水を注入したのか、そして海水を注入した結果原子炉の鋼材に何が起きたか、そしてどのような力が働いたのかを解説します。
マギー・ガンダーセン:アーニー・ガンダーセンとフェアウィンズ・エネルギー・エデュケイションのサイトにアクセスしていただき、ありがとうございます。
私はマギー・ガンダーセン、フェアウィンズの創設メンバーで、責任者を務めています。まず私たちの活動を継続的にご支持いただき、サイトをご覧いただいていることに感謝します。
私たちが真実を探求し、隠されている原子力産業の危険を明らかにしていくためには皆さんのご寄付が不可欠なのです。
改めてお礼申し上げるとともに、今回の報告がお役に立つことを願っています。
私はフェアウィンズ・エネルギー・エデュケイションのチーフ・エンジニア、アーニー・ガンダーセンです。
フェアウィンズでは原子炉を冷却する際、東京電力が塩水を用いたことについてこれまで複数の視聴者から質問をいただき、さらにエンジニアなどの人々から重要なコメントを受け取りました。
世界中で古くなった原子炉が稼働を続けており、それぞれの原子力発電所で今どのような問題が起きているかを理解するために、この点に関する疑問を解き明かすことは重要なことなのです。
それではまず、福島第一原発の事故について最初からおさらいしてみましょう。
福島第一原発の原子炉がメルトダウンを始めたとき、すでに巨大津波によって冷却水用のポンプがすべて破壊されてしまっていたため、近くには利用できる真水がありませんでした。
東京電力福島第一原発の職員たちは、最高度の緊急事態に陥ってしまっていることをすぐに理解しました。
そして原子炉を冷却するための残された方法は、すぐ脇にある海から海水を汲み上げるしかないことに気がついたのです。
東京にある東京電力本社の技術者たちは塩水を使うことに反対しましたが、冷却水のポンプがすべて破壊されてしまった以上、メルトダウンの侵攻を遅らせるために現場の技術者たちが土壇場で唯一できることは、原子炉の炉心に海水を注入することだけでした。
なぜ東京電力本社のエンジニアは、原子炉を冷却するために塩水を使う事に、それほど反対したのでしょうか?
海辺で暮らしたり、外洋を航行する船に乗った経験をお持ちの方なら誰でも知っているように、塩水は鋼材を腐食させます。すなわちサビを作ります。
原子炉容器は鋼材でできています、そして高温状態の原子炉用核燃料や原子炉を塩水につければ、別の巨大災害へとつながる可能性があります。
これは『粒界応力腐食割れ(IGSCC)』と呼ばれる現象が発生するためです。
化学的組成について、塩がナトリウムと塩化物の化合物であることはご存じだと思います。
このうち、粒子活動がきわめて活発で著しく鋼を腐食させるのは塩化物イオンです。
1972年当時、私は新米の原子力エンジニアでしたが、コネチカット州のマイルストーン原子力発電所の原子炉1号機を担当させられました。
この原子炉は福島第一原発と同じ沸騰水型原子炉です。
マイルストーン原子炉1号機は凝縮装置を通した配管が原子炉内部に通されていましたが、塩水を原子炉内に送り込んだことがありました。
すると15秒も経たないうちに炉心の塩化物濃度が15ppm(ppm)に達し、中性子モニター装置にひびが入って動作不能に陥りました。
その結果その場所にいた技術者たちは原子炉が現在どのような状態にあるのか、まったく把握することができなくなってしまったのです。
〈 後篇に続く 〉
http://www.fairewinds.org/nuclear-energy-education//salt-in-the-wound
各国の報道が見落としている、北朝鮮『お家の事情』
キム・ジョンウン本人は未熟でも、その体制は明確な戦略を持っている
ロバート・ウィンスタンリー-チェスター / ザ・カンバセーション / ガーディアン 1月7日
北朝鮮が主張した『水爆実験の成功』は世界中から無責任、そして不合理であるとの非難を集めました。33回目の自分の誕生日を祝いたがっていた未熟でいながら、権力欲だけは人一倍強いリーダーの愚かさを証明するものだとの評価も行なわれました。
しかしこの実験は、キム・ジョンウン体制が極めて明確な戦略を持っていることの証明でもあったのです。
原子爆弾であろうが水素爆弾であろうが、北朝鮮政府にとって核兵器開発計画は自分たちの安全を守るための最後の切り札です。
北朝鮮政府の公式発表に世界はおどろき、ショックを受けましたが、実は数か月前からこうした事態が現実になりつつあるという兆候がありました。
2015年12月の首都平壌近くの平三革命記念施設への訪問は、キム・ジョンウン自身が北朝鮮はいつでも水爆を爆発させる態勢にあると一言洩らさなければ、特に注目されるべきものではありませんでした。
北朝鮮政府は自国の核開発について『伝家の宝刀』と呼んでいますが、これまでその威力についてはきわめて短期間に、わずかな部分しか確認されておらず、この国が本当に核兵器開発能力を有しているのかどうか懐疑的な見方もありました。
現在国際社会は、北朝鮮がその北東部の豊渓里(プンゲリ)の実験施設で水爆を爆発させる事に成功したとする主張について、真偽を確認することに躍起になっていますが、水爆であるかどうかについてはあらためて疑問視する見方が有力です。
しかし発表された内容の真実がどうであれ、北朝鮮が水爆の技術を早晩確立させることは明らかであり、その事が政治的課題の解決に貢献すると彼らは考えているのです。
キム・ジョンウンが行なった2016年の新年の演説では水爆実験に関する具体的言及はありませんでしたが、いつも通りの出来事が起こるべくして起きました。
国民に対する金属産業を発展させ、多くの電力を確保し、『最高度の文明を享受できる』社会の建設に邁進するよう呼びかけは、要は軍事能力の拡大に必要な要点を述べたものでした。
改めて振り返ってみれば、年頭の演説は水爆実験成功発表の序文ともいうべきものでした。
北朝鮮が「科学的基盤に立ち」あるいは「我が国独自のスタイルで、極めて多くの種類の軍事的攻撃手段を開発・生産する」ということを金総書記が述べた部分で、水爆の開発に成功したと言いたかったのだと思われます。
演説の中で2016年北朝鮮労働党の設立70周年に当る「特筆すべき年」ことを繰り返し述べており、5月に開催される党大会で今回の水爆実験に関する詳細が語られることになると思われます。
▽ 第7回朝鮮労働党大会
北朝鮮労働党の党大会は1980年10月の第6回を最後に以後開催されていません。
なぜ党大会が開催されなかったのか、その理由は数十年に及ぶ経済計画の失敗、そして中央集権制の下で達成されるはずだった数々のめざましい計画を、次々と放棄せざるを得なかったことが原因だと考えられます。
今北朝鮮の労働者党と体制側にいる人間たち、そしてもちろん本人も、キム・ジョンウン体制の始まりを幸先良いものにしたいと考えていると思われます。
そのためにうまくいかなかった過去に触れることや経済や社会が混乱していることに触れることなく、力の誇示に焦点を合わせたかったのだと考えられます。
他の社会主義国家の年次党大会などとは異なり、北朝鮮のそれは丸1年の間続けられる極めて大規模なものです。
5月に向け北朝鮮の政府は劇的な成功を演出するため、様々な委員会とそこに所属する小委員会が入念に準備を進め、大会の決議に全国民が歓呼をもって応えるよう、国内の隅々にまでプロパガンダを浸透させようとしています。
そして朝鮮半島における日本の支配が終了して70周年を迎えた2015年には特別に大きな行事が開催されたなかったのも、第7回朝鮮労働党大会を年間を通して大々的に盛り上げることが優先されているためであり、2016年という年は党大会一色に塗りつぶされることになるでしょう。
そして『水爆実験』はその真偽は別として、その華々しい宣伝広報の第一弾として完全な成功を収めたのです。
▽「隙間なく武器を並べろ!」
北朝鮮が送った深刻な衝撃波は各国で検知されました。
中国の敵対的反応は、最近和解が成立したばかりの日本、韓国を上回るものでした。
これまで3回実施した核実験で北朝鮮は極東地域で孤立を深めてきましたが、今回の実験により極東におけるその外交的孤立はかつてない深刻なものになりそうです。
北朝鮮政府は、アメリカのオバマ政権がキューバやイランで何とか実現させたの同じ、和平協定成立に向けた交渉の前進を望んでいるものと思われます。
しかし北朝鮮政府は国際社会の意向、そして中東における難民問題とイスラム国(ISIS)の現状分析において判断を誤っています。
これらの現実は『伝家の宝刀』を振り回してみせても隙間なく武器を並べてみせても、国家の衰勢を立て直すことも体制を本当の意味で守ることもできないことを教えています。
しかし間近に迫った党大会を、北朝鮮政府は期待される国家的勝利、そして国家的優位性を主張する場として最大限利用しなければなりません。
北朝鮮政府がかつての同盟国からすら抑制を求められ様々な規制を課されていることを感じ取り、今まで以上に孤立を深めていることを認識すれば、党大会の場で公然と中国を非難し、感情的な攻撃が行われる可能性があります。
つまるところ北朝鮮の発表を、未熟な指導者による愚行のひとつに過ぎないと切り捨てることはできないのです。
北朝鮮政府は他の辺境にある独裁国家、たとえばトルクメニスタンやスーダンのような国家が夢に見てはいても手に入れることができない『伝家の宝刀』を、極東という場所でいざとなれば抜き放つことができるのだということを見せつけたかったのです。
http://www.theguardian.com/world/2016/jan/07/north-koreas-nuclear-test-kim-jong-un-folly
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とどのつまり、36年ぶりに開催する北朝鮮労働党大会において、北朝鮮はジョンウン体制の誕生により『水素爆弾による攻撃』すら可能な強力な国家になったのだという事を、特に国内において宣伝したかったのだというのが、この稿の結論のようです。
前回までご紹介してきたエコノミスト誌の【 核兵器開発疑惑の真相に迫る 】《1》( http://kobajun.biz/?p=26018 )の冒頭、『実際に行なわれた核爆発の中で、2006年の北朝鮮による地下核実験のそれは小規模なものでした。この時の爆発規模は1945年に広島に投下された原爆の10分の1以下で、間違いなく1キロトン以下と見られています。』と書かれていたことを考え合わせると、その信憑性はより高いものになります。
『水爆については爆発規模が小さすぎる』のは、ジョンウン体制が実より『水爆』という名が欲しかったからだという事情が見えてきます。
いずれにせよ、10日のTBSのサンデーモーニングの中でも語られていたように、いたずらに振り回されることは日本として決して得策ではないという事を、冷静に考える必要があると思います。
そしてよこしまな意図を持った人間たちに政治利用させない事もまた、必要な事ではないでしょうか。
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【 ガーディアン[目撃]2015傑作選 】
ガーディアン EYEWITNESS 2015
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)
12月29日、風に煽られ山林火災が拡大し、南カリフォルニアのベンチュラ・ハイウェイが閉鎖され、数十軒の家庭に避難命令が発せられました。(写真上)
12月31日、マイケル・アウが2015年野生生物水中部門の最優秀カメラマンに選ばれました。撮影されたのはニタリクジラです。(写真下・以下同じ)
9月18日、ラック・ジャメットの皆既日食の写真はノルウェー、スヴァーヴァル諸島のサッセン・ビュースノーランドで撮影したものです。画面の左上に金星が見えます。
広西チワン族自治区桂林陽朔県興坪の漓江で鵜飼いの技術を教える黄氏。黄氏の一族は16世紀、この場所で鵜飼いを始めたと言われています。
http://www.theguardian.com/world/series/eyewitness
レーザー技術やデジタルカメラの技術の進歩により、秘密の核関連施設を発見できる可能が高まっている
レーザー技術の進歩は、遠心分離装置を使わずにウラン濃縮を可能にした
核兵開発の意図を隠し持つ国の数が、過去最大に昇っていることが明らかにされた
エコノミスト 9月5日
レーザーによる解析はウラン濃縮作業に関するその他の事実も探査できるようにします。
10年前、検査担当官たちは複雑な遠心分離装置の配管設計を調べるためにレーザーによる調査を開始しました。
このことにより、核爆弾を製造するために必要な高度なウラン濃縮作業を行うためのあらゆる種類の再処理作業の中身を突き止めることができるようになりました。
地下に建造された秘密の核関連施設は、高性能の新型地中レーダーの走査によって発見できる可能性があります。
現場の調査官が利用できる遠隔施設によるモニタリングも性能が向上しています。
かつてIAEAの調査部門の責任者を務めたジュリアン・ウィッチェロ氏は、磁気テープを使う記録用のビデオカメラが時には3ヶ月も経たないうちに故障してしまうことが多々あったと語りました。
しかし今日ではデジタルカメラが長時間の記録はもちん、特定の機器の稼動や何か特殊な動きをつかんだ時にそれを確実に撮影記録できるよう、プログラミングすることも可能になったと語りました。
こうして撮影された映像は暗号化された後、順次整理記録されていきます。
もし調査を受けている側の技術者が都合の悪い画像を何らかの方法を使って削除しようとすれば、こうした操作が行われている瞬間にソフトウェアがそのことを突き止め、調査官に警報を送ることも可能になっています。
しかしこうした技術も実用化されたばかりです。
IAEAは調査対象の施設のコンピュータの中身まで調べる権限は持っていません。
そして調査される側はいくつかの機器については、その使用を拒否することができます。
イランに派遣された調査官たちは、西側の諜報機関が核兵器製造に関連する実験が実際に行われたと特定している『パーチン』と呼ばれる施設への立ち入りを行うことは確実です。
イラン側は一連の実験は兵器開発が目的ではないと主張していますが、建造物が破壊されたり爆発による振動が起きていれば、これまで取り上げてきた数々の新技術がパーチンの中で実際にあった多くの事実を明らかにすることでしょう。
今日、秘密裏に核兵器を開発することは可能なのでしょうか?
それは不可能だと語るのは、パキスタンの前外務大臣のリヤーズ・モハンマド・カーン氏です。
しかしアメリカ国務省で各国のウラン濃縮・プルトニウム処理の状況を監視する任務についている上級職員は、匿名を条件に取材に応じ、秘密裏に核兵器を製造することは決して不可能ではないと語りました。
他に同意する意見もあります。
オーストラリアのカールソン氏は、諜報機関が調査対象を間違ってしまう危険性があることを指摘しました。
イラクは1991年の湾岸戦争以前、核爆弾用のウランを濃縮するため電磁式同位体分離装置を使用していましたが、長い間このことを秘匿することに成功してきました。
これについてカールソンさんは、1940年代の核開発は現在と比べれば原始的な技術が使われていたため、隠さなければならないほど重要な物質や部品を輸入する必要もなかったと語ります。
現在の調査機関が対象としているのはそういうものではないのです。
実際、ウラン濃縮技術も変化を続けています。
ジェネラル・エレクトリックを核とする合同企業体は、レーザーを使ってウラン濃縮を可能にする技術を開発しています。
もしこの技術が実用化されてしまえば、大掛かりな遠心分離装置は設備しなくとも、もっと小型の施設で核爆弾が製造可能になることが懸念されています。
国防科学委員会の報告書は次のように指摘しています。
すなわち東西冷戦が終了した後の2010年から始まった調査によれば、核兵開発の意図を隠し持つ国の数は過去最大に昇っているのです。
この事実を見る限り楽観的になどなれないと共同議長を務めたジョン博士が語りました。
そして2010年という年は、イランがレーザー技術を使ってウラン濃縮を行う技術を手にしたことを誇らかに宣言した年でもありました。
イランとの新しい協定が実現した後も、世界中に核開発の意図を秘匿している国々が散らばっている以上、核兵器開発を摘発していく技術も進化を続ける必要があるのです。
-《完》 –
http://www.economist.com/news/technology-quarterly/21662652-clandestine-weapons-new-ways-detect-covert-nuclear-weapons-are-being-developed?zid=306&ah=1b164dbd43b0cb27ba0d4c3b12a5e227
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【 追悼 : デヴィッド・ボウィ 】
アメリカNBCニュース 1月10日
(掲載されている写真は、クリックすれば大きな画像をご覧いただけます)
2016年1月10日、1年半の癌との闘病生活の後、デヴィッド・ボウィが69歳で死去しました。
2003年11月(写真上)
1972年(写真下・以下同じ)
1996年
1999年
2013年
http://www.nbcnews.com/slideshow/life-times-rock-legend-david-bowie-n493836