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対日戦勝利75年:『日本の降伏は受け入れられない』一人と複数の日本人

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戦争継続を主張する陸軍将校たちは、米軍の空爆により膨大な数の民間人が犠牲になっていることなど気にもしていなかった
大日本帝国の戦争犯罪者の温存は『必要悪』- ダグラス・マッカーサー
どんな人物でも首相に据えられる - 日本の世襲政治はそれほど強大な力を持っている

                  

1974年、フィリピン国内のジャングルを歩く小野田寛郎元少尉(中央)

                  

ルパート・ウィングフィールド=ヘイズ / 英国BBC  2020年8月15日

                   

第二次世界大戦で日本の敗北が決定した後、最後に正式に降伏した日本軍兵士は小野田寛郎少尉でした。

                

小野田元少尉は1974年3月9日、ようやく自ら軍刀をさし出しました。
彼は29年間フィリピンのジャングルに隠れ住んでいました。
小野田元少尉は帰国後のインタビューや執筆の中で、日本が降伏したことを受け入れることはできなかったと語っていました。

                  

多くの部外者にとって、小野田元少尉は狂信的に見えたはずです。
しかし、大日本帝国に置いては彼の行動は完全に論理的なものでした。
小野田元少尉は決して降伏はせず、天皇のために命をささげることを誓いました。
彼は当然ながら、日本国内に残っていた日本人男性も女性も同じ行動をとると信じていました。

                 

そしてもちろん、『一億総玉砕』が現実になることはありませんでした。
1945年8月15日、日本において最高に神聖な存在とされた裕仁天皇は、それまで天皇としてやったことのないことをしました。
ラジオを通して国民に直接話掛けたのです。
このとき日本では原爆が広島と長崎を壊滅させました。
2発目の原爆が投下されたその日、ヨシフ・スターリンは日本に対し宣戦布告しました。
ソビエト軍は瞬く間に満州を席巻し。数週間以内には北海道に上陸する勢いでした。

                     

原爆を投下された後の広島市内

                   

裕仁天皇はアメリカ人に降伏することが国家元首として最良の選択であることを認めたのです。

                     

しかしそのような状況下において尚、天皇の降伏演説はかろうじて現実になったのです。
8月15日朝、陸軍の若い将校グループが部隊を皇居内に突入させました。
彼らは天皇の降伏演説が録音された原盤を奪い取ろうとしていたのです。
彼らは日本は降伏しなければならない状況にはほど遠いと信じていました。
日本の本土はまだ侵略されていませんでした。
さらに中国に派遣されていた膨大な兵力の軍隊の大部分がほとんど無傷のままでした。

                                       

彼ら陸軍将校たちは、米軍が日本国内の数多くの都市を空爆したことにより、民間人の犠牲者が膨大な数に上っていることなど気にもしていませんでした。
彼らの眼にはたった一つの目標しか見えていませんでした:大日本帝国の存続です。
天皇の地位が保証されない限り、日本は決して平和を求めるべきではない、そう信じていました。

                  

若い将校たちは放送を止めさせることには失敗しました。
しかし、結果的に彼らは日本の降伏後、自分たちが望んだ現実を手に入れたはずです。
すなわちアメリカは結局ヒロヒトが戦争犯罪者として裁判にかけられないことを決定しました。
事実上アメリカの傀儡として天皇の地位にとどまることになったのです。

                  

                           

それは1949年まで日本を実質的に統治した米国の将軍ダグラス・マッカーサーによる抜け目のないやり方であったと言えるでしょう。
マッカーサーは天皇という存在を利用し、自分の方針を具現化させて行ったのです。

                     

戦勝国である連合国は、日本の戦時指導者28人を軍事裁判にかけました。
その結果、東条英機元首相を含む7人が絞首刑に処されました。
しかし他の者には極刑が課されることはありませんでした。
その中には、天皇の叔父である朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)がいました。
彼は日中戦争当時の中国の首都南京で、悪名高い虐殺事件の渦中にいた日本軍の司令官を務めていた人物です。

                 

こうした人間たちを温存することを、マッカーサーは『必要悪』として見ていました。
しかしこのマッカーサーの決定は、日本が自ら犯した過ちについてきちんと清算するという姿勢を失わせることになりました。

                  

極刑を逃れたもう一人の男は岸信介でした。
岸は中国東北部の満州占領において主導的な役割を果たし、首相の東條英樹の忠実な同志でした。
しかしアメリカの関係者は罰することはせず、1948年に釈放されました。
ただしアメリカの占領が続いている間は、岸には公職追放の処分が科されていました。

                   

岸信介とダグラス・マッカーサー

                  

しかし1955年、岸は新しい政治勢力 - 自由民主党の結党に尽力しました。
そしてまもなく岸はその自由民主党党首となり、日本国首相に就任したのです。
岸の政界復帰工作は完成し、その結党に深く関わった政党・自民党はその後65年間のほとんどの期間、政権与党として日本に君臨してきのです。

               

岸信介の娘は他のもう1つの強力な世襲政治一族の一人、安倍晋太郎という名の男性と結婚しました。
後に安倍晋太郎は日本の外相になり、そして晋三という名の息子を持つことになったのです。

                  

安倍晋三首相に一族の中で何か秀でたものがあったとはとても言えません。
そのことは日本の世襲政治一族の力がいかに強いものであるかを、改めて証明することになりました。

                  

安倍晋三は祖父岸信介に非常に近い存在だったと言われています。
『昭和の妖怪』と呼ばれた老人は、若い晋三の政治的見解に強い影響を与えました。
岸信介は同じ右翼の同志たち同様、自分がかろうじて極刑を免れた極東軍事裁判は勝利者が一方的に正義を押しつけたのだと考えていました。

                 

                 

岸信介の生涯の政治目標は、戦後制定された平和主義憲法の廃止であり続けました。

              

1965年に行った演説で、岸は日本の再軍備について「日本の敗北とアメリカの占領の影響を完全に払拭するための手段」だとして実現を要求しました。

                

日本国内の批評家が日本は第二次世界大戦中に行った戦争犯罪について、中国や韓国に対し、誠実な謝罪を行ったことがないと指摘することがありますが、それは誤りです。
国家としての日本は繰り返し謝罪を行いました。
問題は別にあります。
日本の主だった政治家たちの発言や行動に、日本の謝罪が上辺だけのものに過ぎないと思わせる原因が潜んでいたのです。

                    

1997年、日本の世襲政治家たちが集まって新しい団体を設立しました。
日本会議と呼ばれています。
別に秘密結社というわけではありませんが、多くの日本人はその存在や本当の目的を知らないままです。

                

                 

日本会議の目標は、「皇室を中心とした日本国の誇りとアイデンティティを復活させる」こと、平和主義に基づく日本国憲法を廃棄してしまうこと、国旗、国歌、国史を尊重すること、そして日本の軍事力を強大なものにすることです。

              

日本会議の38,000人のメンバーの中で著名な人物は、安倍晋三首相、麻生太郎副首相兼財務大臣、小池百合子東京知事などです。

                    

日本会議にはもう一人、亡くなるまで会員であった小野田寛郎元少尉がいました。

                

小野田元少尉が帰国した当時、1970年代半ばの日本は、まるで彼の好みではありませんでした。
彼は戦後世代は軟弱だと信じていました。
しばらくの間小野田元少尉はブラジルに移住し、牧場経営を行っていました。
その後再び日本に戻り、ジャングルでの30年間を生き残るために培ったスキルで若い日本人を訓練するため、サバイバル塾を主宰することになりました。

                  

小野田寛郎元少尉が2014年に91歳で亡くなったとき、安倍首相のスポークスマンは熱狂的とも云うべき追悼文を捧げました。
そこには小野田元少尉が20年近く続けた孤独な戦争の無益さ、日本の降伏後も長く小野田元少尉がフィリピンの村人の殺害を続けていた事実について言及されてはいませんでした。
その代わり、追悼文は小野田寛郎こそ日本の英雄だと表現していたのです。

                  

https://www.bbc.com/news/world-asia-53763059?prompt

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まさに1970年代に青春を謳歌していた『軟弱な』日本人の一人ではありますが、戦争がその国の何かをよくするなどとは到底考えられません。

広島で200,000万2を超える人々が、長崎では90,000人を超える人々が、原爆によって直接あるいは後遺症によって死亡したという事実だけで、戦争などするべきではなかったと強く思います。

                  

国のプロパガンダに乗って勇躍満州『開拓』に渡海した民間人が、1945年8月にソ連が対日宣戦布告によって多数虐殺されたこと。

アメリカ軍の空襲、すなわち民間地区への猛爆によって驚くほど多くの日本人と歴史的遺産が失われてしまったこと。

戦争の愚劣さ・残酷さを象徴する出来事は、この日本国内には書ききれないほど残されているはずなのです。

敗戦から75年・太平洋戦争

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所要時間 約 14分

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韓国の植民地化 - 二流市民として扱われた韓国人に課された過酷な運命 / 南京大虐殺 - 政治的思惑が錯綜・未だに犠牲者数の特定ができないまま /
真珠湾攻撃 - 核兵器攻撃の報いを受けて当然… / バターン死の行進 - 戦争捕虜に対する無用の軽蔑が生んだ残虐行為 / 東京大空襲 - 市民330,000人以上を殺害したアメリカ軍の無差別空爆 / 沖縄戦 - 日本の国土で唯一行われた3か月に及ぶ戦い / 原子爆弾 - 命が尽きるまで後遺症に苦しむ被爆者

                   

山口真里 / AP通信 2020年8月15日

                  

写真 : 1937年7月8日、日本軍の攻撃に対し、中国の北平(北京)の南西22.5キロにある盧溝橋に土嚢を積み上げて急造したバリケードの背後で街を守る中国の第29軍。
7月7日、中国軍が日本軍に盧溝橋で発砲し、この軍事衝突はたちまち第二次日中戦争へと拡大しました。

                 

写真 : 1942年5月、ミッドウェイ海戦で、アメリカ海軍の航空機の爆撃により傾く日本の最上(もがみ)級重巡洋艦。

                 

写真 : 1945年2月23日米国海兵隊提供。硫黄島擂鉢山山頂に立てられた星条旗の周囲に集まる第5師団第28連隊の海兵隊員。
硫黄島で海兵隊が立てた最初の旗でした。

                 

太平洋戦争は極めて大規模な戦争であり、悲惨きわまりなく、すべての事実をつまびらかにすることは困難です。
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件、戦局を転換したミッドウェイの戦い、硫黄島での劇的な星条旗の掲揚など、主だった出来事の中でも今日、アジアの地において、なお、影響が続く重要なイベントをいくつか紹介します。

                

◆ 韓国の植民地化 ◆

写真 : 2015年12月10日撮影。
韓国釜山市の国立日帝強制動員歴史館に展示されている、日本が朝鮮半島を植民地支配していた当時の強制労働の犠牲者の写真。
今日多くの韓国人が、日本は依然として太平洋戦争の戦前戦中の残虐行為に対する責任を完全に認めていないと考えており、強制労働と従軍慰安婦の生存者たちは今なお日本に対し謝罪と補償を求めています。

                    

1910年から1945年の朝鮮半島の植民地支配の間に、韓国人は日本人としての姓名を名乗り、日本神道をその宗教として奉じ、日本語を話さなければなりませんでした。

                  

しかし彼らは二流市民として扱われました。

                

数十万人が日本兵士として戦うために徴兵され、他の多くは過酷な条件の下で日本の鉱山や工場の労働者として徴用されました。
おびただしい数の韓国人の女性と少女が、日本兵に性的虐待を受けたアジアの「従軍慰安婦」の中に投じられました。

                    

今日、多くの韓国人はこ日本は依然としてれらの残虐行為に対する責任を完全に認めていないと考えており、強制労働と売春を強要された生存者たちは日本に対し謝罪と賠償を求めています。
これに対し日本政府は、1965年に日韓関係が正常化した際、すべての補償問題は解決したとする立場を取り続けています。

                  

◆ 南京大虐殺 ◆

                     

写真 : 1937年12月、南京を占領した後、中国国民党政府の建物の屋根から旗を掲げて歓声を上げる日本軍兵士。

                 

中国政府と国際軍事法廷は、1937年12月13日に中華民国の首都であった南京が日本軍の攻撃により陥落した後、殺害、レイプ、放火の狂乱で少なくとも20万人の民間人が日本軍によって殺害されたと述べました。

                 

この問題は今なお、日中両国間の外交紛争の最大の火種の一つになっています。
日本の右翼の政治家は犠牲者の数を過小に見積もる、残虐行為が起こったこと自体を否定するといった行為を繰り替えしています。

                  

昨年、安倍内閣は一部に殺害や略奪の事実があったことは否定できないと述べる一方、見解の違いを理由に犠牲者数を見積もることは拒否しました。

                    

◆ パールハーバー(真珠湾攻撃)◆

               

写真 : 1941年12月7日、ハワイのパールハーバーへの日本軍の奇襲攻撃中、崩れ落ちるアメリカ海軍戦艦アリゾナの艦橋。

                  

ハワイのパールハーバーにある米海軍艦隊に日本軍が突然襲いかかり、2,300人を超える米軍兵士が殺害され、米国は第二次世界大戦に参戦しました。
1941年12月7日のこの奇襲は、日本の降伏を早めるため広島と長崎への原爆投下を行ったことを正当化する際、多くのアメリカ人が長い間その根拠としてきました。

                   

安倍晋三首相は、2016年12月にハワイでUSSアリゾナ記念館を訪問した日本で最初の首相になりましたが、真珠湾攻撃についての謝罪は行いませんでした。

                  

◆ バターン死の行進 ◆

                 

写真 : 1942年、アメリカ海兵隊提供。フィリピン占領後、バターン死の行進が始まる直前、アメリカ軍捕虜を監視する日本軍兵士。

                    

日本軍の捕虜となった70,000人を超えるアメリカ人とフィリピン人兵士が、1942年3月、約112 kmの行進を強いられ、移動の間に約9,000人が死亡しました。
日本側が多数の捕虜を管理する準備ができていなかったことに加え、降伏した軍隊に対する無用の軽蔑は強制行軍中の捕虜に対する様々な残虐行為につながり、第二次世界大戦中の最悪の残虐行為の1つとして記録されることになりました。

                    

生存者はその後、日本軍の捕虜収容所、あるいは強制労働のために鉱山に送られ、さらなる残虐行為に直面しなければなりませんでした。
連合軍捕虜に対する日本軍の同様の虐待は戦後、日本に対する一連の訴訟につながりました。
2009年藤崎一郎駐米大使は元アメリカ兵捕虜に対する謝罪を行い、謝罪と補償のための『日米草の根平和交流招聘プログラム』への道を開きました。

                    

◆ 東京大空襲 ◆

写真 : 1945年9月7日撮影。繰り返されたアメリカ軍の空襲により、がれきだらけになった東京。
焼け落ちた建物のトタンなどを使って作られた小屋状の住居。

                    

1945年3月10日、米国のB-29爆撃機が投下したナパーム弾を装着したクラスター爆弾が東京の下町地区に降り注ぎ、1夜で推定105,400人が死亡しました。
1944年1月に始まり1945年8月まで続いた60以上の日本の都市への米国の空爆 - 空襲は、広島と長崎に投下された原子爆弾の犠牲者を含め推定で333,000人を殺しました。

              

この絨緞爆撃作戦は朝鮮戦争とベトナム戦争、そしてそれ以降も一般市民の生活エリアを攻撃目標とする先例を作りました。
東京の空襲被害者は日本政府による補償要求を裁判所によって否定されましたが、現在も尚救済を求めています。

                    

◆ 沖縄戦 ◆

写真 : 1945年4月、沖縄戦の戦場で日本兵の遺体のわきを通り過ぎるアメリカ軍兵士。

                 

太平洋戦争中、最も死傷者数が多かった沖縄戦では、20万人以上(そのうちの約半数が民間人、約12,500人の米兵)が死亡しました。
1945年6月23日、日本の国土で唯一行われた3か月に及ぶ戦いが終了しました。

             

戦争後、米国は沖縄と日本の他の国土を占領しましたが、日本列島の主要な部分の占領が終わった後も引き続き20年間、1972年まで沖縄は米国の支配下にあり続けました。
沖縄に駐留していた米軍の継続的な存在に対する怒りと苛立ちには根深いものがあります。

              

日本に駐留する約5万の米軍の半数以上が二国間協定の下で、沖縄県内各地に拠点を置いています。

                     

◆ 原子爆弾 ◆

                

写真 : 1945年8月6日、アメリカ空軍公開。
人類史上初めて使われた5トンの原子爆弾「リトルボーイ」が投下された直後、広島上空6,000メートルにまで上昇した煙の柱。

                    

1945年8月6日、アメリカは広島にウラン型原子爆弾を投下し、世界で初めて実行された核兵器攻撃により約14万人を殺害しました。
その3日後、今度は長崎にプルトニウム型原子爆弾を投下し、さらに74,000人を殺害しました。

                   

米国は原爆投下は日本の降伏を早め、実行した場合多数の犠牲者を作り出したであろう米軍による日本上陸作戦の必要性をなくす効果があったと述べています。
これに対し一部の歴史家は、日本は間もなく降伏する状況にあったと述べています。             

                   

直接の被害者である原爆被爆者はがんやその他の疾患を含め、放射線の影響を長期にわたり受け続けています。
原子爆弾の使用は戦後の軍拡競争の引き金となり、ソビエト連邦は1949年8月29日に最初の原子爆弾の実験に成功しました。

                   

◆ 降伏 ◆

                

写真 :
アメリカ時間1945年8月14日(日本時間15日)、ワシントンのホワイトハウスでの記者会見で、各新聞記者を前に日本の降伏・太平洋戦争が公式に集結したことを伝えるステーテメントを読み上げるハリーS.トルーマン大統領。
大統領の右は国務長官のジェームズF.バーンズ、海軍提督ウィリアムD.リーヒー、大統領首席補佐官

                  

現在の成仁天皇の祖父である裕仁天皇自身があらかじめ録音していたラジオメッセージが1945年8月15日に放送され、日本の降伏が公のものとなりました。
ほとんどの日本人がこの時、神として崇められていた天皇の肉声を初めて聞きました。
音質が悪かったためその内容はほとんど聞きとれませんでした。

                    

その前夜、裕仁天皇は皇居内に掘られた防空壕内で政府高官と面会し、降伏を承認しました。
戦争を終わらせることを拒否する陸軍当局者による暴力的な抵抗が予想されたため、録音は極秘に行われました。
午前零時の数分前、裕仁天皇は軍服で正装した姿で現れ、マイクに向け降伏の声明を2度読みあげました。

                    

写真 :
1945年8月15日皇居前広場、日本降伏のラジオメッセージを聞いて涙を流す3人の日本人女子学生。

                    

若い陸軍将校のグループが録音を奪おうとして皇居を襲撃しましたが、宮内省の担当者は玉音放送の原盤を死守することに成功、その翌日放送するため無事無線ラジオ局に持ち込まれたのです。

https://apnews.com/7ae23318d2e5c4c1cdef526f517a3ac5

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反戦

                 

反原発

                

可能な限り、原点に戻ります

もうそんな場合じゃないでしょ?!「キャンセル希望!」が急増 / 東京2021

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所要時間 約 7分

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2021年・日本でオリンピックが開催できると考える人はもはやほとんどいなくなった
毎日のように首都東京と日本の国の両方が新型コロナウイルスへの感染者数の新記録を樹立

                 

左のグラフ : 国民100万人当たりの感染者数の推移 - 日本・韓国・中国・台湾
右上のグラフ : 東京オリンピックは2021年7月に開催可能か?
右下のグラフ : 東京オリンピックを2021年7月に開催するべきか?

                  

エコノミスト 2020年7月24日

                 

今年3月、国際オリンピック委員会(IOC)は7月24日開催予定の東京2020オリンピックにたどり着くための進路上に、新型コロナウイルスcovid-19が立ちふさがっていることに気がつきました。

                

日本のほとんどの人々もオリンピックを1年延期する決定を支持していました。
開催都市である首都東京は、イベント開催に必要な推定27億7,000万円(250億ドル)の予算の大半をすでに使ってしまっていましたが、共同通信による世論調査は、回答者の79%が2021年7月まで延期することが正しい判断だと考えていることを明らかにしました。
回答者の11%がさらに1年遅らせ、2022年開催を支持しました。
東京2020の開催そのものを取りやめるべきだと考えていたのは6%にとどまっていました。

                  

ほんの数ヶ月で、その楽観論は崩壊しました。
共同通信が7月19日に実施した最新の世論調査では、来年の試合の開催を望んでいる国民は24%しかいないことがわかりました。
2022年まで2年の延期すべきだとする人の割合は36%に増えました。
そしてオリンピックについては、もうすべての電源プラグを抜いてしまいたいという人の割合は5倍に増え、全体の34%になりました。

                

                   

7月初めに行われたJNNによる別の調査では、望む望まないではなく、現実問題として大会の開催そのものが可能かどうかについて質問されました。

                 

結果は?

                 

2021年に東京大会を開催可能だと考えているのはわずか17%に過ぎなかったのです。

                

このような悲観的な先行きへの懸念は、日本国内での新型コロナウイルスcovid-19の第2波が猛威をふるい始める前にすでに広がっていました。
6月下旬まで、日本は韓国よりも100万人あたりの感染者数が少ない国でしたが、2021年に東京オリンピックの開催を希望する東京都民の割合はすでに半分手下にまで下がっていました。

                 

感染が急増を続ける現在、毎日のように首都東京と日本の国の両方が新型コロナウイルスへの感染者数の新記録を樹立しており、オリンピック開催をやめるべきだという考えが今以上に広まる可能性があります。

                 

                 

莫大な額がすでにあちこちに投資されていることを考えると、中止という結果はIOCと開催都市にとって財政的に悲惨なものになるでしょう。
最初の延期を決めたIOCと日本政府・東京都のアプローチが何らかの指針だと考えれば、国民の大半がオンピックの開催はもう不能だと結論づけたとしても、IOC、日本政府、東京都は可能だと主張し続けるでしょう。

                   

3月17日、英国の賭博市場では2020年に東京オリンピックが開催できる可能性は15%しかないとの見方が公開されましたが、IOCはスケジュール通り開催するために『全力を尽くす』との声明を発表していました。
しかしその1週間後、東京大会の1年間の延期が決定しました。

                  

上記の英国の賭博業者はまだ、2021年の大会開催が可能か不可能かの賭けの比率を決めていません。
しかし日本が開催を期待していることは明らかなのです。

                

https://www.economist.com/graphic-detail/2020/07/24/a-year-out-few-in-japan-think-the-olympics-can-be-held-next-year

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一人でも多くのアスリートの夢をかなえるべきか?

一人でも多くの国民の命を救うことができる体制構築に国の力を集中すべきか?

一世帯でも多く生活苦に苦しむ家庭の救済に全力を注ぐべきか?

                    

緊急事態に即応するために憲法改定が必要だと主張し続ける安倍政権ですが、国民の命が刻一刻と脅かされている現在の緊急事態にはなすすべがありません。

どころか国会も開かず、国が積極的に状況説明をすることもなく、医療現場を全力でサポートすることもなく、安倍政権の姿勢には『無能』『傍観』という印象しかありません。

                   

緊急事態とは国民の命が危険にさらされる事態を指す言葉なのではないのですか?

仮に尖閣諸島が無くなっても明日の暮らしに困る人はまずいないと思いますが、新型コロナウイルスの感染拡大によって今日の暮らしに追い詰められている日本国民は増え続けています。

                  

これではっきりしたような気がします。

安倍政権の言う緊急事態とは国民の命が脅かされることではなく、自分たちの利権構造が破壊される危険が生じることなのだと。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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