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星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

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【 あれから2年、そしてこれから40年…目には見えない、無味無臭の敵との戦い 】

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所要時間 約 10分

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ほんとうに『進展』は見えているのか?

デイヴィッド・マクニール / ザ・インデペンダント(英国) 3月6日

4号機付近
ここでの戦いはロボット、最高水準の技術、そしてこの地上で最も進んだフィルタリング装置を駆使して続けられています。
この戦いが終わるころ、世界は21世紀の半ばを折り返していることになります。
チェルノブイリ以降最悪の原子力災害となった福島第一原発の事故の後、この場所で原子炉の廃炉と汚染除去作業に従事する男たちは、全ての行程はほぼ計画通り、順調に進んでいると語りました。

福島第一原発の内部を視察する数少ない機会を与えられたジャーナリストたちは、きわめて高い放射線を放出する使用済み核燃料の取り出し作業がいよいよ開始され、現在『進行中』であるとの説明を受けました。
福島第一原発が巨大地震、そして津波と立て続けに発生した自然災害により大事故を引き起こして以来2年が経ちますが、発電所内できわめて速いペースで貯まり続ける放射能汚染水を保管する場所がどんどんなくなりつつあり、東京電力は頭を抱えています。

さらには発電所内には安全に作業を行うには、放射線量が高すぎる場所が何箇所もあります。
3号機周辺では1時間当たり1,710マイクロシーベルトの放射線が検出されており、これをまともに浴びれば急性放射線障害を引き起こしてしまいます。
さらには福島第一原発の現場で働く作業員の確保が、難しくなっているという指摘もされるようになりました。
さらにはメルトダウンを起こした3基の原子炉については、溶けた核燃料の位置や状況については、まだ推測の位置を出てはいないのです。

4号機付屋
「たとえ数々の難しい状況があるとしても、我々はそのひとつひとつを確実に処理し、事態を前進させていくつもりです。」
福島第一原発の新所長である高橋毅氏がこう語りました。
彼は同時に『福島第一原発の事故について懸念する、世界中の人々に対し』謝罪しました。
高橋所長は6基の原子炉を持つ福島第一原発の廃炉を安全に終わらせるには、これから約40年程かかるだろうと見ています。

「原子炉1、2、3号機周辺の放射線量は非常に高くなっています。これは原子炉内部で核燃料が溶けてしまっているからだと考えられます。」
「4号機の原子炉建屋を除き、1、2、3号機の原子炉建屋内の放射線量はきわめて高いものです。」
非常に毒性の高い燃料棒を1,530本抱え込んだままの、破壊された4号機の原子炉建屋については、一部から文字通り東日本全域を壊滅させるほどの事故の可能性が指摘されていますが、高橋所長は巨大地震が発生しても、建屋の安全は確保できる、と語りました。

この場所を昨年視察したアメリカのロン・ワイデン上院議員(民主党)は、再度巨大地震がこの場所を襲えば、4号機原子炉建屋は倒壊する恐れがあり、そうなれば、放出される放射線の量は2年前の比ではないと警告しました。

また村田光平前スイス大使の警告はもっと深刻なものでした。
4号機が地震で事故を起こせば、『地球規模で壊滅的被害を与える』可能性があると警告したのです。
「なぜこの問題が日本国内では取り上げられないのか、理解できません。」
村田氏はこう述べています。

4号機付屋完成予想
記者団が訪れたこの日、高橋所長は、4号機使用済み核燃料プールについては補強工事が完了し、万が一3.11と同程度の巨大地震が襲っても、倒壊の恐れは無くなったと主張しました。
記者団は4号機原子炉建屋に隣接して建設された、巨大な鉄骨を持った構造物を見せられました。
現場にいた技術者が、この構造物には最終的に巨大クレーンが設置され、4号機最上階にある使用済み核燃料プールから使用済み核燃料を取り出すことになると説明を行いました。
高橋所長が、今年11月にはその作業が開始されると語りました。

鉄骨が折れ曲がった姿をさらしていた3号機の原子炉建屋は現在、灰色のパネルによって部分的に覆われています。
それでもなお、水素爆発による破壊の痕跡は明らかです。
原子炉建屋に隣接して2本の無人クレーンが設置され、最上階にある破片などを取り除く作業を行っています。
3号機の使用済み核燃料プールにも約500本の核燃料が保管されています。
そして近くにある共用プールには、別に6,300本の核燃料が保管されています。

「3月16日、初めてこの場所にやって来た時、家族は私のことが心配だったようです。」
建設会社の部長である43歳の平山淳氏がこう語りました。
「私が現在の状況について家族に説明したところ、少し安心したようです。」
平山氏は福島第一原発で働くことは、自分自身の決断によるものだと語りました。
「私はこの環境で働くことについて、何の問題も感じていません。」
平山氏は来月、ここを去ることになっていますが、彼の累積被ばく線量は日本政府が定めた年間20ミリシーベルトを上回ってはいないと強調しました。

「放射線には色も臭いも無く、何も感じないため、しばらくこの環境で働いていると慣れてしまって、何も感じなくなるのは確かです。」
契約企業のひとつである鹿島建設(株)福島第一原発建設事務所長の小林宏茂氏(45歳)が、現場での慣れについてこう認めました。
「それはここで腹楽労働者に共通の心理です。だからこそ私たちは、彼らに対して健康上の脅威が常に存在することを繰り返し啓蒙し、注意を喚起するようにしています。」

汚染水タンク
原子炉1号機から3号機の溶けた核燃料に対しては毎日数百トンの水を絶え間なく送りこみ、再び熱を持たないようにしていますが、それを除去することについて技術者たちにはまだ具体的なプランはありません。
敷地内にはすでに1,000トン以上の汚染水を蓄えたタンクが930以上立ち並び、その数は現在も増え続けています。
現場の技術者によれば、ひとつのタンクは2日半でいっぱいになります。
現在東芝が建設した巨大なフィルタリング装置が、汚染水から62種類に及ぶ放射性物質を取り除くべく、稼働の準備が進められています。

敷地の外側では、2011年3月以降住民が居なくなってしまった町、そして村が時の中で凍りついたままになっています。
警察が検問所を設け、許可された人間以外が20キロ圏内の指定避難区域内に入り込まないよう警戒を続けています。
海も汚染されたまま、何百人というこの付近の漁業関係者は毎日時間だけを消費しています。
160,000人を超えるかつてのこの地の住民の補償問題は、未だに解決していません。

「私たちの務めは、この場所を少しでも元の姿に近いものに戻すことです。住民の方々が再び安心して暮らせるように。」
小林さんがこう語りました。

http://www.independent.co.uk/news/world/asia/two-years-on-the-deadly-battle-to-save-fukushima-from-an-invisible-odourless-enemy-goes-on-8523247.html?origin=internalSearch
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福島県浪江町、グーグル・ストリートビュー、かつての住民のため現地へ

アメリカNBCニュース 3月27日
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)

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つぶれてしまった家、捨てられた店、空っぽの道…
2年前、隣接する福島第一原発で事故が発生し、福島県浪江町の人々は全員この町から避難しなければならなくなりました。
以来、誰も訪れることもなかったこの町は、何もかもがそのままの姿を留めているようにも見受けられます。

3月27日水曜日、グーグルが撮影車をこの町に送り込み、かつての住民の人々は部分的ではあってもその目で町の様子を確かめられるようになりました。

かつての住民たちの多くから、町の様子を知りたいという要請を受けた馬場町長がグーグルに要請を行い、今回の撮影が実現しました。

町内に入ることについての規制は若干緩和されたとはいうものの、浪江町内の放射線量は未だに高いままで、21,000人の町民の帰還は実現してはいません。

グーグルに投稿されたビデオメッセージの中で、馬場町長は以下のように語りました。
「原子力発電所が事故を起こせばどのような惨状になるのか、世界中の方々にその目でご覧いただきたいと願っています。」

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【 グーグル・ストリートビュー・カメラ、福島県浪江町に入る 】

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所要時間 約 10分

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3.11震災後初めて、馬場町長の要請にグーグルが応える

デイヴィッド・マクニール / ザ・インデペンダント(英国) 3月27日

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グーグル・ストリートビューのカメラを搭載した車が、震災後初めて福島第一原発の周辺地区に入りました。
彼らが新たに制作した地図は、巨大地震がもたらした破壊の様子を明らかにし、併せてかつての21,000人の住民が何を残したまま逃げなければならなかったのか、それを確かめる機会を提供することになりました。

これはまさに核=原子力の時代のメアリー・セレステ号(1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船。発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは現在も尚分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もある。事件には様々な尾ひれが付けられ、実際以上に不可思議な事件として都市伝説化している)です。
2年前21,000人の住民が避難してから、まるで時間が止まったかのように何もかもそのままの姿をとどめています。

2011年3月11日の巨大地震が引き金となった三重災害が人々に襲いかかり、壁から崩れ落ちた破片や砕けた屋根瓦などが通りに散乱したままになっています。

大通りのわきには地震の後、1時間も経たないうちに繰り返し襲った津波により持ち上げられ、ここまで運ばれてきた漁船がうち捨てられたままになっています。

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近くにある福島第一原発の原子炉でメルトダウンが始まり、続く日々大量に放出された放射性物質により汚染されてしまった家々も、学校も、空っぽのまま捨てられています。
汚染されているとはいっても、放射性物質自体は目に見えるわけではありません。

福島県浪江町の名前はいつの日か、史上最悪の原子力発電所事故となったチェルノブイリの名と並べて語られるようになるでしょう。
チェルノブイリの事故によりゴーストタウンと化したウクライナの都市プリピャチ同様、この地に再び人が住めるようになるまでどれほどの時間がかかるのか、回復はゆっくりゆっくりとしか進みません。

津波が襲った後、この場所には約一カ月の間、犠牲者の遺体が放置されたままになっていました。
誰もこの場所に入ることが出来なかったためです。
日本政府の官僚も福島県当局も放射能汚染の広がりの実態を隠ぺいしたため、何も知らされなかった多くの住民がする必要のない被ばくをしてしまいました。
放射能汚染の拡大によりね日本各地に追いやられてしまった町民たちを支えるのは、浪江町町長の馬場有氏です。

「たくさんの方が震災の被害を受けた地域が、今どうなっているのか確かめたいと考えておられます。」
馬場町長がこう語りました。
「かつて住んでいた場所が今どうなっているのか、自分自身の目で確かめたいという思いを感じていらっしゃいます。」
それが今、可能になりました。

浪江02
グーグル・ストリートビューを通し、かつての住民たちが、今や住むことも暮らすこともできなくなった浪江町の通りや家々の様子を、直接目で確認できるようになりました。

馬場町長の要請に応え、グーグルはカメラを搭載した撮影車両を浪江町に送りこみ、パノラマ画像を作り上げるための画像を撮影しました。
こうして福島第一原発の事故発生以来初めて、かつての住民たちは浪江町全体の今の様子を目で確かめることが出来るようになったのです。
これまでは住民たちは必要な身の回りの品々を都に戻るため、警官付添いの下で数分間だけ町に入ることを許されていただけでした。

「素晴らしいことだと思う半面、怖い感じもします。」
同じくゴーストタウンになった隣町の双葉町に住んでいた亀谷ゆき子さんがこう語りました。
「何人かはもうあの時のことは忘れてしまいたいと思っています。でもたくさんの人々が、故郷での日々をしっかりと心にとどめ置きたいと思っているのです。」

浪江06
Googleは、福島第一原発の周囲20キロメートル圏に設けられた立ち入り禁止区域に入るため、特別な許可を必要としました。
町の出入り口すべてに警察の検問所が設置されています。
立ち入り禁止区域内で暮らしていた120,000人ほどのかつての住民たちは、故郷に戻れるようになるまでは何年も、場合によったら何十年もかかるものと考えています。

馬場町長は映像がもう一つの目的も果たしてくれるよう願っています。
「世界中のたくさんの人々が、原子力発電所事故の後の悲惨な状況を自分の目で確かめたいと考えていると思います。」
Google がYouTubeで公開したビデオの中で、馬場町長はストリートビュー撮影についてこのように語りました。
「私はストリートビューを通し、浪江町の真の姿が世界中の方々に伝わるよう願っています。」

馬場町長はここで起きたことを、完全な形できちんと後世に伝えたいと考えています。
「私たちのような年を取った人間は、この町を先達から受け継いだという感覚を持っています。そして今私たちは、子供たちの世代にこの町を引き継げないことに大きな痛みを感じているのです。」


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3.11発生の1週間後、宮城県女川町の友人を見舞ったとき、そして2週間後、今いる場所からほんとに目と鼻の先、仙台市若林区の沿岸地区を訪れたときの様子は、ここに収録されている写真に写された景色より、はるかに凄惨な様相を呈していました。
いずれも本格的なカメラ一式を携行していったにもかかわらず、とてもレンズを向ける気にはなれませんでした。
それ程の景色でした。

それから2年、仙台市内は様々な場所で、様々な復興への取り組みが進み、少なくとも私が日常生活を送っている範囲で『大震災』の傷跡を感じることは無くなりました。
被害が大きかった場所で、道路が波打っているのが気になる程度です。

それが可能になったのは、仙台市が「人が入れない程放射能で汚染」されてなどいないからです。
福島第一原発が噴き上げた大量の放射性物質に無縁ではいられませんでしたが、今、仙台では毎日放射能の存在に怯える生活は考えられません。

しかし浪江町や大熊町、双葉や楢葉町などといった市町村はそうはいきません。
現場に行けば毎日どころか、毎分単位で放射能をチェックしなければならないのです。

その事を日本人全員が自分の事として考えられるようにならない限り、福島の記憶を風化させてはならない、そう思っています。

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【 春の訪れを告げる砂の彫刻 】

アメリカNBCニュース 3月27日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

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ハリウッド映画に題材とったウェストン砂の彫刻フェスティバルが今年もイギリスのウェストン・スーパーメアで3月26日から開催されます。
冒頭の写真は映画『ハリーポッター』のワンシーンを制作する参加者です。

世界中から集まった20名の様々なコンテストの入賞者が、腕を振るってハリーポッターやマリリン・モンロー、あるいはスターウォーズの登場人物など、その腕前を競いあいます。
この催しはウェストンで開催される映画祭の関連行事として開催されるものです。

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[動画(下) : 2010年の制作風景]

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【 春を遠のかせた大雪の被害 】

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北アイルランドのアントリム郡オーアファッテンの農民ドニルド・オライリーが、ヒツジや仔羊が雪だまりの中に閉じ込められていないかどうか探し回っています。
3月の第4週に大雪に見舞われた北アイルランドでは140,000世帯で停電が発生した他、最高で5メートルもの高さの雪だまりが出来ました。

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すっかり雪に覆われてしまった北アイルランドのドゥモアの丘と子羊たち。
散在する各農家の10,000頭に上る家畜が、場所によっては6メートルにもなる雪だまりに閉じ込められたとの情報に、英国空軍のヘリコプターが急きょ北アイルランドに派遣されました。

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本来なら羊たちの繁殖シーズンに入っているはずの時期にも関わらず、すでに数千頭の牛と羊が死亡が確認されてしまいました。
英国本土内では人間も2名が死亡しました。

【 福島第一原発緊急作業員たちのくらし -放射線、消耗、そして浴びせられる批判 】

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所要時間 約 9分

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世界で最も厳しい環境の中で働く人々

ジャスティン・マッカリー / ザ・ガーディアン(英国) 3月6日

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「まるで悪者扱い…」人々の視線に悩む福島第一原発の緊急作業員たち

見えない放射線の恐怖に直面させられている被災地の人々は、福島第一原発で働く緊急作業員たちに対し、ともすれば『目に見える敵』としての視線を送る傾向がある、作業員たちのカウンセリングにあたる精神科医がこのように指摘しました。

「緊急作業員たちは放射線の被ばくに関し最も危険な場所で働いていますが、彼らは数十年を要する廃炉・放射能除去作業そのものの一部と見られています。」
防衛医科大学校精神科学講座講師の重村淳氏が、ガーディアンの取材に対しこう答えました。
「彼らは東京電力の一員とみなされ、そのことが批判の矢面に立たされている最大の理由になっています。彼等は東京電力の役員などではありませんし、事故について直接責任もありませんが、罪の意識に苛まれ、責任を感じています。」

「彼らはもっと尊敬されていいはずです、世界で最も厳しい環境の下で働いているのですから。」

廃炉・放射能除去作業が何十年もの歳月を要することに対する批判に加え、作業そのものの精神的苦痛も加わり、途中でやめていく作業員が後を絶たないと言われています。

さらには重要な局面を迎えているにもかかわらず、福島第一原発の現場には技術者、そして各種の専門家の数が不足しているのではないかという、東京電力の取り組み姿勢に対する批判もあります。

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何重もの下請けを経て採用されている緊急作業員たちは、防護マスクを着用したまま何日も働く不快な労働条件、ストレスの多い作業、そして他と比較して低すぎる賃金に不平を抱いています。

東京電力が昨年何人かを選んで調査したところ、70%を超える作業員の時給は840円をわずかに超える金額でしかありませんでした。
日本の建設現場で働く作業員の自給がおよそ1,500円程度であることを考えると、その賃金の低さは憂うべきものです。

小規模の下請け会社に雇用されている40代の作業員は、ロイター通信の取材にこう答えました。
「慢性的に胃が痛むようになりました。常にストレスがかかっている状況で働いているからです。仕事を終えて宿舎に戻ってすることといえば、翌日のことを考えて憂鬱になる事だけです。もっとましな扱いをされたいものです。」

さらに年齢が高い労働者は、福島第一原発に長年勤めてきた関係により、危険なレベルに放射線量が近づいていることが解ってはいても、その恐怖を抑え込んで働かざるを得なかったと主張していました。

「放射線というものには色もにおいもありません。」
福島第一原発の敷地の中で最も放射線量の高い場所で、がれきなどの片づけを請け負っている会社の小林宏茂さんがこう語りました。
「普通の場所で働いていると、人間はいつの間にかその環境に慣れていきます。それと似たようなことが、この現場で働いている人々の心にも起きています。」

数千人の緊急作業員が取り組む汚染除去作業ですが、違法な雇用状態、そして健康基準、安全基準規則が日常的に守られていないことがこれまで度々報告されてきました。

今月には、厚生労働省が63人の福島第一原発の緊急作業員が、個人記録に記載されている以上の被ばくをしていたことを明らかにしました。

昨年夏には朝日新聞が、複数の下請け会社が、作業員が身に着けている線量計に鉛のカバーを取り付け、被ばく線量をごまかしていたと報道しました。

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そして昨年末、146人の東京電力職員と21人の派遣労働者の被ばく線量が、5年間の限度量である100ミリシーベルトを上回る被ばくをしたと報告しました、
事故直後にはいったん年間250ミリシーベルトまで引き上げられた作業員の被ばく限度量は、9カ月経って年間50ミリシーベルトまで引き下げられました。

毎日働いている労働者のうち、約3,000人程はもはや自分たちの健康について無感覚になっているという指摘について、福島第一原発の管理部門の職員がその見解を否定しました。

「安全基準や健康基準がなおざりにされているという問題については、労働者たちがこの問題に向き合おうとしなくなったのが原因ではないと思います。あまりに長い時間同じ作業を繰り返してきたため、そしてこの場所の労働環境を当たり前のように考えるようになった事が原因なのではないでしょうか。」
これ以上放射性物質が海に流れ込まないよう、防護壁を建設している会社の担当部長である内田晴文氏がこう語りました。

※氏名の表記は、原文が英文のため不正確な場合がありますが、ご容赦ください。

http://www.guardian.co.uk/environment/2013/mar/06/fukushima-clean-up-radiation-public-criticism?INTCMP=SRCH
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個人的には、福島第一原発で被ばくの危険にさらされながら働いていらっしゃる作業員の方々には、感謝の思いがあるだけです。
誰が好き好んでー放射能の中で、以下の言葉に象徴されるような精神状態に追い込まれながら働きたいと思うでしょうか?
「仕事を終えて宿舎に戻ってすることといえば、翌日のことを考えて憂鬱になる事だけです。」

その方々の時給が900円に満たないというのは、どういうことなのでしょう?
福島第一原発の作業現場の多重下請けについては、アメリカやヨーロッパのニュースメディアはたびたび取り上げていますが、日本の新聞・テレビはここでもまた、見て見ぬ振りです。
そして実際に働いていらっしゃる方には申し訳ないのですが、福島第一原発の現場では専門家、技術者の割合が少ないことが、数々のトラブルが発生する原因のひとつを作っているという指摘もあります。

東京電力が「第一次下請け」に支払う作業員の時給は2,000円前後だといわれていますが、命がけで働く作業員の方々には、そのわずか4割しか渡っていないことになります。
6割が多重下請けの中に消えていっていることになります。
その中には政治的利権、そして反原発の人々を脅して回るあの黒い街宣車の取り分が含まれているに違いない、個人的にはそう確信しています。

だからこそ日本のニュースメディアは、この問題を避けて通るのでしょう。
聞いてもいいでしょうか?
ジャーナリストとしての良心をお持ちですか?

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戦場カメラマン、バート・ハーディ生誕100年写真展

ザ・ガーディアン(英国) 3月24日
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)

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カメラマンのバート・ハーディが生きていれば、今年ちょうど100歳を迎えたことになります。
才能に恵まれた戦場カメラマンであった彼が、日常生活の中の何気ないシーンを撮り続けた一連のシリーズは、彼の作品の中で異彩を放っています。
彼の作品展は4月8日から5月23日まで、ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーデ開催予定です。

1948年グラスゴー(写真上)。1951年バーギンガム(写真下・以下同じ。登場する地名はすべてイギリス国内。)
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1948年レスター。
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1942年5月23日、出生する兵士を見送る人々。ロンドン、パディントン駅。
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1954年、しゃれた身なりの闇屋たち。
BH05
1951年、ブラックプール。
BH06
1953年、ロンドン、ピカデリー地区のボタン店。
BH07
母親が疎開を認めなかったため、写真の少女ヘレン・ブッシュはドイツ軍の空襲が続くロンドン市内に留まっていました。フランス人牧師が、空襲で破壊された家屋から衣類を回収する作業を、彼女が手伝っているところです。1943年ロンドン、イーストエンド。
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実録『トモダチ』作戦・第2部「東京電力、日本政府の官僚は、汚染されてしまった人間の苦しみ、怒りを知れ!」[第3回]

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東日本大震災の被災地への出動命令、その先に現れたのは…
「事故は見たことも聞いたことも無い、そして考えたことも無い、最悪の状況に向けひた走っている…」

ハフィントン・ポスト 2月11日

USS RL
航海術 – 運行指示は特に航空母艦においては重要です。
他の艦種であれば、航海士たちは風や海流を確認しながら、最短最速の航路を取ることは難しいことではありません。
危険が迫っていれば、たとえば放射能雲がゆっくりと近づいてきている場合などは、その極めて重要になります。

航空母艦に乗った航海士たちには、それ程の余裕はありません。長さが400メートルもある飛行甲板を持った巨体は絶えず波にもまれ、その両端は上がったり下がったり傾いたりしています。
何がやって来ようとも、任務行動の間はできるだけ穏やかな海域を探し出し、艦を安定させなければなりません。
航空機が発進した後には、そこに留まり、帰還の際迷わないようにしなければなりません。

しかし風に乗って放射性物質が、そして放射能雲そのものが近づいて来るような場合、空母はこの点で頭を抱えることになります。

しかし訓練を終えたばかりで、南太平洋にある基地で空母USSロナルド・レーガンの操舵手、そして航海士として任務に就いた彼らは、自分たちの先にそんな問題が待ち構えていようとは、夢にも思ってはいませんでした。

「楽しいことがたくさんありました。私たちは始めは友人同士になり、やがてデートを重ねるようになりました。」
ジェイミーが当時を振り返ってこう語りました。

そして2011年3月11日、韓国の港に停泊中だったUSSロナルド・レーガンを旗艦とする第7艦隊空母機動部隊に対し、津波に襲われた日本の東北地方への出動命令が下ったのです。

Strike Group 7
「任務が変更され、日本へ救援活動に向かわなければならなくなったことは、すぐに全員に伝わりました。」
ジェイミーがこう語りました。
「翌朝午前5時には現場に到着していなければなりませんでした。」

「我々は、福島第一原発がどうなっているか知りませんでした。」
モーリスが当時をこう振り返りました。
「日本で今何が起きているか、インターネットや電話のような外部との接触手段は無かったのです。私たちに解っていたのは、何かとんでもない危機が発生したという事だけでした。本国から艦長に対し、現場には放射能汚染の危険性があると伝えてくるまで、原子力発電所の事は頭にありませんでした。本国から連絡が入って初めて、私たちはそこに放射能漏れが起きていることを知ったのです。」

▽ 未知なるもの : 放射線

『トモダチ』作戦は在日アメリカ大使館の救援要請を受け、東アジア・太平洋地区担当のカート・キャンベル米国務次官補により開始されました。
彼はすぐに当時の原子力規制委員会のグレゴリー・ヤッコ委員長、統合参謀本部議長の海軍提督マイク・マレンからなる緊急対策チームを編成し、状況が悪化する一方だった日本の状況について逐次オバマ大統領に報告を行うようにしました。

作戦は福島第一原発の6基ある原子炉のうちの1基、1号機が放射性物質を大気中に放出し続け、状況が一層困難さを増す中で開始されました。
1,535個の核燃料容器が使用済み核燃料プールに沈められたままになっている4号機を含め、残る5基のうち3基が引き続き事故を起こす可能性がある危険な状態が続いていました。

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3月12日、USSロナルド・レーガンを旗艦とする第7艦隊空母機動部隊が福島県の3キロ沖合に到着した時、福島第一原発の原子炉1号機が爆発を起こしました。
続いて3号機が爆発を起こし、排気装置を共有していた4号機の原子炉建屋を吹き飛ばし、使用済み核燃料プールが雨ざらしの状態になってしまいました。
この後3月15日に2号機が爆発を起こすまで、東京電力は1、2、3号機の核燃料は損傷を受けていないと言い張ることになります。

事実はそうではありませんでした。

高温によって溶けだした核燃料が圧力容器の底を溶かして穴を開け、そこからしみだしてさらに格納容器の底にも穴を開けていたのでした。
この時日本政府は、事態がすでに手が付けられない状態に陥ってしまっていることを、認めようとはしませんでした。
自衛隊に命じ、破壊された4号機原子炉建屋の上から継続的に使用済み核燃料プールの中に注水を行い、核燃料プールが火災を起こさないようにすべきでしたが、それもしませんでした。
日本の代表紙である朝日新聞は、この時の日本政府とワシントンに有る日本大使館との交信記録を手に入れました。
日本大使館の藤崎大使はこの時マレン国務次官補に対し、原子炉の冷却を行うため自衛隊が出動する予定であると伝えていました。

4号機
「アメリカ軍は4号機も危険な状態にあると判断しています。とにかく原子炉を冷却するため、自衛隊の出動を含め、とれる手段はすべてとる必要があります。」
交信記録にはこうあります。
「アメリカ側には、原子力発電所の事故に対し、対応策が数多くあります。大統領も現在の事態を深く憂慮しており、…」

原子力規制委員会で、ジャック・グローブは危機対応チームを率いて、24時間臨戦態勢のオペレーション・センターに詰め、ヤッコ委員長や日本に派遣されているチームともいつでも会議を開けるようにしていました。
彼らが用意していた想定、長年信じても来た1か所の原子力発電所で複数の原子炉がメルトダウンする事態は起きえないとする想定は、相次いだ爆発により文字通り吹き飛ばされてしまいました。
そして原子炉建屋の存在が、放射性物質の拡散を防ぎ、一般市民の被ばくを防ぐという想定も怪しいものになってきました。

原子力規制委員会の編集による会議の議事録を見ると、特に4号機の原子炉建屋が爆発によって破壊された後、グローブが苛立たし気にこう語ったことが記録されています。

「原子炉格納容器の損傷による放射性物質の漏出は、今やまぎれもない事実になってしまった。」

「つまり事態は、考えもしなかった最悪の状況に向けてひた走っているという事だ。しかもその最悪の状況とは、見たことも無ければ聞いたことも無い、考えたこともない程悪いものになる可能性がある。」

しかし、原子力規制委員会が毎日開いた記者会見で示した見解は異なっていました。
一般市民に対し、危険が及ぶことは無いとしていたのです。

米軍23
そして高波と戦いつつ作戦を続行している海軍の艦艇、そして地上の基地で働く要員たちは、自分の身は自分で守らなければならない状況に追い込まれていました。

〈 第2部完・第3部「まとわりついて離れない、放射能汚染の恐怖」へ続く 〉

A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 2: The Navy Life – Into the Abyss
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今日で3回に分けてお送りした第2部の掲載を終了し、次週4月1日月曜日から第3部「まとわりついて離れない、放射能汚染の恐怖」の掲載を開始します。

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【 彗星写真傑作選 】

アメリカNBCニュース 3月
(掲載されている写真は、クリックすれば大きな画像をご覧いただけます)

息子と一緒にパン・スターズ彗星を見る写真家のクリス・クック。この写真はリモート・シャッターを使ってかれ自身が撮影したもの。アメリカ、マサチューセッツ州。2013年3月13日。
(写真下・以下同じ)
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カリフォルニア上空、2013年3月12日。
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プエルトリコ上空、2013年3月5日。
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チリ上空(欧州南天文台パラナル観測所)、2013年3月7日。
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ティアラ・デル・フエゴ山地上空、アルゼンチン、2013年2月26日。
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国際宇宙ステーションの中からNASAの宇宙飛行士が2011年11月に撮影。
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彗星マクノートC/2006のP1は、ここ数年で最も写真うつりのいい彗星のひとつでした。2007年1月上旬に北半球でたっぷりと見せ場を作った後、彗星は今度は南半球の観測者たちを感嘆させた、長くて変わったダストの尾を披露しました。
2007年1月、チリのサンチァゴ上空。
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実録『トモダチ』作戦・第2部「東京電力、日本政府の官僚は、汚染されてしまった人間の苦しみ、怒りを知れ!」[第2回]

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「努力して積み上げてきた大切な人生」

ハフィントン・ポスト 2月11日

米軍16
▽ ジャンキー(麻薬中毒患者)の息子

マイケル・セバーンは誰からも望まれず、この世に生を受けました。

近所の人々も誰も彼には近寄りたがらず、このままでは将来刑務所に入るか、どこかでのたれ死ぬことになっても、誰も残念に思わないような人間でした。

そんな彼が出会ったのがアメリカ海軍でした。

「私の母親は麻薬中毒患者で、父親は私が1歳8ヵ月の時、売人から麻薬を盗み取ろうとして殺されてしまいました。」
セバーンがこう振り返りました。
それから私たちは、サウス・カロライナ州チャールストンの低所得者用の公営住宅で暮らしていました。

「継父は私を虐待し、母親が働いて得た金をすべて麻薬とアルコールにつぎ込みました。
私は栄養失調で、体重も不足していました。」

彼は5歳になると祖父母のもとに引き取られましたが、ふたりとも2年後に亡くなってしまいました。
今度はインディアナ州の寂れた街ゲリーの、中でも主に貧しい白人が暮らす地区にいた叔母の下に引き取られました。

「私は自分の人生において、成し遂げられることなど何も無いと思っていました。」
セバーンはこう語りました。
「貧しい暮らししかしたことが無く、大学進学などはもってのほかでした。」

「高校卒業後工場で働いたこともありますが、長くは勤めることができず、3ヵ月間ホームレスの暮らしをした事もあります。
一台のトラックの中で暮らし、夜はウォルマートの駐車場に車を停めて寝ていました。」

彼は再び叔母の下に戻りました。
しかしその素行は収まらず、常に最悪の選択を行い、「警察の厄介になったこと」も2度程ありました。

「新しい世界に踏み出したかった…」
「夢中になれることなど何も無く、とにかく人生の仕切り直しをしたいと思っていました。」

彼が軍に入隊するのはどうかと叔母に相談を持ちかけた所、彼女はキッチンに飛びこんで車のキーを取り出し、こう答えました。
「レッツ・ゴー!」

2日後、彼は入隊しました。

米軍13
グレートレイク海軍訓練基地での彼の成績は優秀でした。
そして希望の任務について尋ねられたとき、彼が選んだのは管理部門でした。

「歯車がうまく回り始めました。」
彼は1993年、正式に海軍で任官しました。
「ようやく、生きていくための誇りを手に入れたのです。」

彼は生きがいを見つけ、その後は何もかもうまく行くようになりました。海軍勤務こそは、自分が必要としていたものだった、彼は心からそれを思いました。

「自分にも居場所がある、そう感じたのは生まれて初めてでした。」

彼は得たものは居場所だけではありませんでした。

17年前、彼は日本の三沢にある海軍航空基地に着任しましたが、そこでの生活にも満足していました。
努力してヘリコプター部隊の整備主任にまで昇進し、彼は充実した日々を送っていました。

やがて彼は日本人女性と結婚、そして男の子が生まれたのです。
彼は地球を半周し、サウス・カロライナの麻薬の巣窟から完全に抜け出すことに成功しました。

今や彼は誰が見ても、誇り高き海軍軍人以外の何者でもありませんでした。

米軍14
▽ アスリートと音楽家

モーリス・エニスは、ミネソタ州のフロストベルトにあるロチェスター生まれの背の高い大柄な子供で、その生活はスポーツとフィジカル・トレーニングを中心に回っていました。
「200メートルと400メートル走の選手で、いつもロチェスターのセンチュリー・ハイスクールの陸上トラックを走っていました。できればずっと続けたいと思っていました。」

アメリカ海軍空母ロナルド・レーガンの航海士モーリス・エニスは、ハワイ基地に所属しています。
「高校時代の私のコーチは海軍出身で、従軍している間も協議を続け、世界中を回った経験がありました。」
エニスにとってそれは非常に魅力的な人生に思えました。彼もまた海軍に入ることを考え始めました。
「19歳になった時、私たちは採用事務所に行き、海軍に入ればどんな機会が与えられるか尋ねました。そして私は入隊を決意したのです。」

モーリス・エニスとジェイミー・プリム

モーリス・エニスとジェイミー・プリム


それは2007年の出来ごとで、彼は意気揚々と自宅に戻りました。
しかし彼が見たものは嘆き、涙を流す母の姿でした。
イラクやアフガニスタンでの戦争、そして9.11を見てきた彼女は、自分の大切な息子が負傷するようなことになったらどうしようか、そのことばかりを恐れていました。

「正しい決断だったと思います。ある意味では、救済ですらありました。目的が無いまま生きていた私に、海軍は時間の大切さ、そして物事を成し遂げることの充足感を教えてくれました。」
「いったん任務に就けば、もうよけいなことをしていられる時間などありません。しかし何を優先すべきか学んだおかげで、自由な時間が丸々24時間あっても、私はその時間を有効に使えるようになりました。」

「私は、海軍で本当の成長を成し遂げたのです。海軍には陸上競技場も運動場も無かったので、私は航海術と主計総監の任務を選びました。
航海術には天体を基準にして位置決定を行う伝統的な方法と、数学とコンピュータを使った新しいやり方の両方があります。
これらすべてをマスターしなければなりません。
海図を使い、そして衛星を使って初めて、今我々がいる正確な場所を特定できるのです。」

そして恋も始まりました。

ジェイミー・プリムが育ったのはおよそ雪とは縁の無い、することといえばまず泳ぐこと、カリブ海の沿岸であり、彼女はそこでの暮らしを満喫していました。
そこはフロリダ州セント・オーガスティン、アメリカでもっとも古い町のひとつであり、そこで生まれ育った彼女はジャクソンズビル大学に進学し、2年間音楽を専攻しました。
得意な楽器はバスーンでした。

「私は音楽を一生続けたいと思っていました。でも仕事にはしたくなかったので、大学を中退し、幼稚園の保母さんとしてゲインズヴィルにある幼稚園で働き始めました。でもすぐに大学を中退したことを後悔しました。でも、中退と同時に奨学金も打ち切られ、大学に戻っても専門の学科に進むためのお金がありませんでした。」

ジェイミー・プリム

ジェイミー・プリム


目的を失ったしまった彼女は、自宅に戻り、毎日海辺でぼんやりしていました。
こうして彼女の2007年は暮れて行きました。
彼女には海兵隊に入隊している兄がいました。
彼女は自分にもその道がある事に気がつきました。
「でも私は海の上に出て見たかった、大きな船に乗ってみたかったのです。」

ジェイミーとモーリスはグレートレイクス訓練センターで同じクラスになり、訓練が終わるころには恋人同士になっていました。
「私は自分が何をしたいのか一生懸命考えていました。その時主計総監の任務について知ったのです。主計総監は艦艇の指令室で働き、航海全体についても責任を持っています。私はそれに決め、署名しました。」

〈 第2部・第3回へ続く 〉

A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 2: The Navy Life – Into the Abyss
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生きるということは、とりもなおさず自分の人生を作っていく、という事です。
そこから考えると、人生で最悪の出来事、それは築いてきた人生を壊されることでは無いでしょうか?
それも理不尽に。

この記事を読むと、福島第一原発の事故のひとつの側面として、経産省などの官僚と東京電力の職員たちが「自分の身を守るため」、もっと言うなら我が身かわいさで大勢の住民やトモダチ作戦に参加した兵士たちを被ばくさせた、そのことが透けて見えます。

福島第一原発の事故、最もやりきれない部分のひとつです。

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【 春の兆し 】

アメリカNBCニュース
(掲載されている写真は、クリックすれば大きな画像をご覧いただけます)

雪の中から現れたクロッカスのつぼみ。ドイツ、ベルリン動物園、3月17日。(写真下・以下同じ)
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親鳥がエサを持って戻るのを待つね生後2〜3週間のヘビウのひな。フロリダ州パームハーバー、3月17日。
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タンパベイ・チャンビオンシップ3日目、10番ホールのフェアウェイでリスと会話(?)するジャスティン・レナード(米)。フロリダ州デルレイビーチ、3月16日。
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咲いたばかりのクロッカス。ドイツ、ハンブルグ市内のロキ・シュミット庭園、3月16日。
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公園のベンチでひなたぼっこをする女性、ドイツ、マインツ市内、3月5日。
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朝日を浴びながらエクササイズに励む女性。プリムローズヒル、ロンドン、3月4日。
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雨の後のクロッカス。英国ロンドン郊外のキュー庭園、3月1日。
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実録『トモダチ』作戦・第2部[第1回]「東京電力、日本政府の官僚は、汚染されてしまった人間の苦しみ、怒りを知れ!」

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南西300キロ地点の放射線量は、東京電力や日本政府が伝えてきた福島第一原発の放射性物質の量・タイミング、いずれとも矛盾する、説明がつかない

ハフィントン・ポスト 2月11日

米軍 2
アメリカ政府にとってトモダチ作戦は、当時最も近い場所にいた海軍艦隊、そして多くの地上要員が、困難に陥っている盟友を助けるために駆けつける、通常の軍事作戦とは異なる、大規模な人道援助・救出作戦でした。

この時、日本の東北地方沿岸は巨大地震と引き続き起きた津波により壊滅的被害を受け、社会基盤は崩壊し、20,000人近い死者・行方不明者を出していました。

日本語で友人を意味する言葉を冠したトモダチ作戦は、始めは大量の物資補給から始められました。
作戦に参加した水兵たちは、陸上基地と機動部隊の空母USSロナルド・レーガンを拠点にした物量作戦、それ以上のことは考えていませんでした。

一方、アメリカ政府の考えでは、トモダチ作戦は長年続く日米両国の同盟関係を一層緊密にするはずのものでした。

そして、両者の思惑はいずれも外れることになりました。

加熱し続ける福島第一原発の1号機、2号機、そして3号機の核燃料はメルトダウンを始め、その過程で噴出した水素ガスが爆発を起こし、日本全土で検出されるほど大量の放射性物質を大気中に放出しました。
3号機と排気システムを共有する4号機では爆発により、原子炉原子炉建屋の屋根が吹き飛ばされ、使用済み核燃料プールが雨ざらしになっていました。
このプールにはたった1本でも万が一人間が近づけば、4分ほどで放射性ヨウ素、放射性セシウム、プルトニウムなどが引き起こす放射線障害により死亡するとされる核燃料棒を、総計1万本以上詰め込んだ燃料容器が1,500個収納されていたのです。

Gregory Jaczko
危機の間、アメリカ原子力規制委員会(NRC)グレゴリー・ヤッコ委員長が招集した会議、そして電話会議の議事録( http://pbadupws.nrc.gov/docs/ML1205/ML12052A105.pdf )は、新たにもたらされた資料、そして測定値が前回のものを次々に書き換えていき、懸念がどんどん深まっていく緊迫した状況を彷彿とさせるものです。
アメリカ海軍が現場で測定した放射線の量は、日本政府と福島第一原発を運営する東京電力が伝えてくる放射線量と著しく異なっていました。

原子力規制委員会自体は全くの聾桟敷(つんぼさじき)に置かれていました。
同委員会は一カ所の原子力発電所で、複数の原子炉が同時にメルトダウンするなどということは、理論的にはあり得ないと考えていました。

もともとあった、原子力規制委員会が作成した危機対応の仕組みは、事故を起こした原子力発電所で問題が解決するまで、すべての重要なシステムが正常に機能し続けると言うものでした。

ヤッコ委員長は日本国内にいたアメリカ人に対しては、日本政府が示すガイドラインに従い、冷静に行動するよう、公式に要請しました。
そして原子力規制委員会はアメリカ国内の記者会見で、放射性物質が降り注いでも危険は無いと繰り返し明言していました。

しかし議事録のコピーはその裏側の事実を物語っていました。

3月14日、ヤッコ委員長が行っていた電話会議が、原子炉規制委員会の技術部次長、ジャック・グローブがもたらした悪い知らせによって中断させられました。

米軍12
ジャック・グローブ「邪魔をしてすみません。しかし事態が急展開しているのです。目下の事態を見て、思い浮かぶことがあるのですが[ ... ]」
「我々が一番心配していたことが、現実になりつつあります。風向きが変わり始めました。ヤッコ委員長も話を聞いてください。
すでに風向きが変わり、北東方向から南西方向に向いて吹いています。
その先にあるのは本州本土、そして東京です。
空母も東京の南方にある港に停泊中です。
東京は福島第一原発の南方約290キロ、港はその東京の16キロにあり、空母が計測した放射線量はこの12時間で10〜20ミリレム(1.2〜2.4mSv・ミリシーベルト・1年この状態が続けば自然放射能の世界平均の365倍~730倍、日本平均の876倍~1,750倍ほどです - 【ブラウザで動く放射線・放射能の単位換算ツール(簡易)】 http://hp.vector.co.jp/authors/VA047235/radiation.html )に達し、甲状腺で5倍から10倍の[ 記録削除... ]」

ジャック・グローブ「300キロも南西方向にある場所でこれほどの値が検出された、そのことが意味するのは、東京電力や日本政府が伝えてきた福島第一原発が放出した放射性物質の量、放出のタイミング、いずれとも矛盾する、説明がつかないということなのです。」

マイク・ウェーバー「そうです、私が話を伺って、合点が行かないのがまさにその点です。」

ジャック・グローブ「しかし空母に乗り組んでいる提督が我々に伝えてきた数値は、複数の計測装置を使用して検証済みのものなのです。[ 以下記録削除… ]」

マイク・ウェーバー「なんてことだ…」

ジャック・グローブ「彼らが運行しているもの、それは原子力空母です。であれば、放射線に関する知識と技術は相応に高いものであるはずです [ ... ]。

こうした状況は初めての経験でした、そして彼らは日本側が提供する情報は信じることはできない、そう判断するしかありませんでした。

米軍11
このことはトモダチ作戦に参加したアメリカ軍将兵にとって、作戦が実行される限り、これからはその場その場で判断し、対応していかなければならなくなったことを意味しました。

彼らは一面廃墟となり、社会基盤もほとんど無くなってしまった場所で、行方不明者の捜索と人命救助に取り組む一方、福島第一原発が放出する目には見えない汚染から、自分たちの身も守らなければならなくなったのです。

アメリカ本国の国防総省と原子力規制委員会の官僚たちにとって、トモダチ作戦は限られた期間実施された、「成功した」任務でした。
要請された支援を事務化し、経過を記録し、そして任務は成し遂げられました。

しかし地球を半周した場所で命令を受け取り、実際に作戦に従事した人々にとっては、作戦の成功がもたらしたものを受け止めることもまた現実だったのです。

作戦に従事した一部の人間にとって、トモダチ作戦は自分の経歴も、アメリカ海軍勤務の中で見いだした夢も、そこで断たれてしまったことを意味することになりました。

彼らは不安を抱えて別の場所で生きることを、強いられることになってしまったのです。
〈 第2部・第2回へ続く 〉

A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 2: The Navy Life – Into the Abyss
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今日から先週に引き続き、3回に分け実録『トモダチ』作戦の第2部を掲載致します。
第2部は急展開を見せる第3部以降の「伏線が張られてゆく」筋立てのため、すこし抑えた調子になっています。
しかし、福島第一原発の事故が破壊したものの中で、最も私たちが目を向けなければならないことは何なのか、できれば第2部も、しっかりとお読みいただければ、そう思っております。

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湾岸戦争から10年、イラクの『あの時』、そして現在

アメリカNBCニュース 3月21日
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)

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イラクのファードゥーズ広場で掲げられている一枚の写真に写っているのは、2003年4月9日米軍とイラク人によってサダム・フセインの像が引き倒されているシーンです。
アメリカ海兵隊が力いっぱいソビエト・スタイルの銅像を倒すシーンは、サダム・フセインの支配の終わりを象徴するものでした。
バグダッドの中心にあるこの場所には、現在何もありません。
まがった鉄骨がむき出しになった銅像の台に、戦闘服を着た反米の立場をとるシーア派の聖職者ムクタダ・サドルのポスターが貼られています。
2013年3月13日撮影。(写真上・以下同じ)

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少年が手に持つ写真に写っているのは、2003年7月20日、アメリカ兵が再開園したバグダッド動物園を訪れた際に撮影されたものです。
4月のアメリカ軍の侵攻によりスタッフは逃げ散り、その後動物園は略奪に遭い、ほとんどの動物が連れ去られるか殺されるかして壊滅状態になりました。
その後動物園はウィリアム・サムナー米陸軍大尉と南アフリカの環境保護活動家のローレンス・アンソニーの世話中で再建され、2003年7月に再開園にこぎつけました。
現在のバグダッド動物園は1,000以上の生き物を収容し、家族連れに人気の場所になっています。
2013年3月15日撮影。

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バグダッドの繁華街カーラダ地区です。
2008年9月29日に撮影した写真に写っているのは、爆弾により22人が死亡した直後の様子です。
一時に比べればその数は減りましたが、宗派間の対立、そして民族紛争が原因のテロは今も止むことは無く、犠牲者の数も増え続けています。
2013年3月16日撮影。

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写真に写っているのは、バグダッド市内のナワズ公園でアメリカ第3師団の歩兵と一緒にサッカーに興じるイラクの子供たちの姿です。
2013年3月12日撮影。

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2008年11月16日、剣のモニュメントの前で道路を横断するアメリカ兵の姿です。
このモニュメントは8年に及ぶイラン・イラク戦争の際、パレード用にサダム・フセインが建設させたものです。
2007年イラク当局がこのモニュメントの取り壊しを始めましたが、すぐに中止され、2年をかけて修復が行われ、現在に至っています。
2013年3月14日撮影。

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2008年3月7日、カーラダの商店街で爆発があり、53人が死亡、130人が負傷した時の写真です。
湾岸戦争後の混乱期、各地から各派のテロリストたちがこの国に入り込みました。
2013年3月16日撮影。

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2003年4月、アブナワズ公園近くの路上で目を覚ました孤児の少年。
現在のアブナワズ公園は手入れも行き届き、家族連れに人気の場所となっています。
2013年3月12日撮影。

【 フクシマの記憶、それだけは風化させてはならない 】

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記憶から消されていく原発難民、立ち上がった映画製作者たち
早々と『フクシマを捨ててしまった』日本の大手メディアに代わり、彼らは立ち上がった

ワシントンポスト 2月28日

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指定避難区域内のかつては自分の持ち物だった、何もかも朽ち果ててしまった農場、そして中が空っぽになってしまった店舗を、白い防護服を着て訪れた人々にとって、線量計が絶えず立てるカチカチいう音は、その不安な気分を煽ります。
そして体育館の床に毛布にくるまってうずくまる人々は、補償、そしてもっとましな場所への移動の声がかかることを、ひたすら待ちわびています。

2011年3月に発生した大災害を見て、勃然と映画製作に立ち上がった独立系の映画会社の作品には、犠牲者になった人々の行く末いつまでになるかわからない悲劇を語る、このような場面が次々と現れます。
しかし制作者たちが感じた思いは、日本の大手メディアには完全に無視され、行政当局はしばしば沈黙をもって応えます。

地震と津波が引き起こした大災害から2年、日本の映画界の創造的精神から生み出された数々の映画は、チェルノブイリ以来最悪の原子力発電所事故の恐ろしさを伝えるだけではなく、被災者となった人々の窮状を世界中の観衆に伝えることにより、被災者の思いを受け止め、そして勇気づけたいという動機にも満ちています。

映画の製作者たちは、これらの映画が世界中、そして日本の観衆に与える影響は、日本を変えていく力にもなり得る、そう語っています。

これらの作品を見てまず感じることは、人間ならそうあるべきだというメッセージを伝えているという事です。
政治家も、科学者も、そして原子力発電の規制当局も、福島第一原発の事故について真実を語りません。
そして日本の国民の多くが、福島についてはもはや終わった事として片づけ、その視界から追いやろうとしています。

だからこそ映画を作る必要があった、制作に関わった人々が口を揃えました。

イアン・トーマス・アッシュの『A2』

イアン・トーマス・アッシュの『A2』


今、政治や経済の分野で指導的立場に立つ人間たちは、福島第一原発で起きた複数のメルトダウンの本当の結果について何もかも曖昧にしたまま、葬り去ろうとしています。
人々の苦しみからはできるだけ目を逸らし、放射線による健康被害についてはそれを過少に見積もり、過去に日本政府が「行け行け」で推進した原子力政策については、まるでそんなものはあったのかとでも言いたげな態度です。

「日本の反応はあいまいな態度に終始し、そして無責任です。時間ばかりが無駄に過ぎていくのです。」
『Nuclear Nation(邦題 : フタバから遠く離れて)』を制作した舩橋淳(あつし)監督が語りました。
故郷から遠く離れた場所で、現在も避難生活を送っている福島第一原発が立地する福島県双葉町民の日常を描いています。

双葉町は全町が立入禁止になりました。
津波が福島第一原発の冷却システムを稼働不能に陥らせ、3基の原子炉がメルトダウンした結果、双葉町は大気も、水も、そして土地も大量の放射性物質で汚染されてしまったのです。
福島第一原発の原子炉の廃炉、汚染除去作業の完了までは、何十年もの月日がかかります。

避難を余儀なくされた福島県の全市町村の中で、双葉町が選んだ避難場所は福島第一原発から最も遠い地点になりました。
東京近郊、埼玉県内の廃校になった高校の校舎です。
その選択は放射性物質の危険性に対する鋭敏な感覚と、双葉町の人々に原子力発電所は安全である、事故など起こさないと繰り返し言ってきた、東京電力や政府機関に対する根深い不信の念を際立たせることになりました。

イアン・トーマス・アッシュ『In the Grey Zone(避難準備区域の中で)』

イアン・トーマス・アッシュ『In the Grey Zone(避難準備区域の中で)』


災害の後の様子を描く映画は、この地で暮らす、あるいは訪れていたアメリカ人によっても多数制作されました。
クリストファー・ノーランドの『Surviving Japan(生き抜くための日本の戦い)』”スチュアート・レヴィの『Pray for Japan(日本への祈り)』、イアン・トーマス・アッシュの『In the Grey Zone(避難準備区域の中で)』と『A2』 などです。
イギリス人のルーシー・ウォーカーが制作した『津波と桜』は、2012年のアカデミー賞・短編ドキュメンタリー部門の受賞候補作品に選ばれました。

レヴィもノーランドも、被災地でボランティア活動を行いました。
アッシュが制作したドキュメンタリーは、福島第一原発近くで暮らさざるを得ない子供たちの窮状と、国や県の医療関係機関が放射線の危険性についてウソを言っているのではないかという疑いを持つ、母親たちの怯えに焦点を当てた作品になっています。
「私は日本は今、新しい政権の下で単なる復興だけではなく、国そのものを改革すべき時に来ていると考えています。」
ノーランドがこう語りました。
彼もまた、他の人々と同じように、福島の子供たちについて大きな懸念を抱いています。
「日本の人々とともにそれを成し遂げたい、その思いで映画を製作した事を日本の人々に理解して欲しいと考えています。」

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舩橋監督の『Nuclear Nation(邦題 : フタバから遠く離れて)』は、ベルリン、ソウル、スコットランドのエディンバラを含む国際映画祭で上映され、原発難民として故郷を去らなければならなくなった人々の絶望の思いを、リアルタイムに徹底的に描き切っています。
カメラは毎日配られる、箱に入った冷え切った食事をクローズアップします。

舩橋監督は福島第一原発の周辺で暮らしていた160,000を超える人々が住みなれた家を捨てなければならなくなったのに、事故後何か月たっても日本政府が補償を行おうとしていないことに憤慨しています。
政府がやったことは、狭苦しい仮設住宅の中に人々を押し込め、最低賃金を基礎に積算した補償金の支給だけでした。

『Nuclear Nation(邦題 : フタバから遠く離れて)』の感動的なシーンでは、原発難民となった渡辺正芳さんが車の座席に座り、タバコに火をつけカメラに向かって直接語りかけます。
不思議なことに、どんなハリウッド・スターにも負けない程の『名演技』を見ているような錯覚に襲われます。
「私たちの町は消えてしまいました。単なる場所になってしまったのです。」
彼は考え込むようにしてこう語りました。

この映画は埼玉県内の校舎に、1,400人が収容されたシーンから始まります。
やがて少しずつ人々が去っていき、現在は100名程に減りました。
から始めました、しかし、それはおよそ100まで最近減少しました。
舩橋監督は最後の1人が去っていくまで、カメラを回し続ける覚悟です。

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「避難民の人々のことは、日々忘れられて行っています。」
舩橋監督がこう語りました。
「そして刑事責任についても、忘れられたままになっています。」

人気監督の園子温(そのしおん)氏の『希望の国』は監督自身が脚本も手がけました。
普段の冷酷な暴力をアバンギャルドに描く手法から離れ、未来に起きる架空の原子力災害がきっかけで自殺する高齢の夫婦の姿を、連続ドラマ風に描いています。

同じく園監督の『Himizu(ヒミズ)』は成人指定の映画で、架空の世界、津波によるがれきに覆われた希望を失った日本を舞台にしており、より園監督らしい暗い作品となっています。
この作品は、将来この国の放射能汚染と向かい合いながら暮らさなければならなくなる若い世代に対し、今の大人たちが無責任、残酷、そして虐待も同様の行為を行っていると批判しています。

松林陽樹監督はその作品『相馬看花 奪われた土地の記憶』で故郷を追われた南相馬の住民にインタビューを繰り返す、よりドキュメンタリーらしいオーソドックスな手法を用いています。

松林監督は、体育館を間仕切りして作られた一時避難所の中に入っていく避難民の姿、あるいは捨ててきた自宅に一時帰宅する姿を、ビデオ・ジャーナリストとして忍耐強く追い続けます。
日本の大手メディアは避難区域の中のことなど、とっくの昔に捨ててしまいました。
それを目の当たりにした松林監督は、フリーランス特派員同様、世の中に真実を、特にすべての望みを絶たれてしまった高齢の避難民のために、立ち上がりました。

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「これまでも私は何度かドキュメンタリーを手掛けた経験があります。しかし福島第一原発の事故が発生した時、これだけは別だ、何としても現場に行かなければならないと思ったのです。」
松林監督がこう語りました。
「いったん現場に行ってしまえば、長い間そこに留まることになることは始めからわかっていました。その場所にじっとして、発信を続けなければならなくなると。」

▽ 大切なメッセージ

「この大災害、未曽有の危機を生んだものは人間の傲慢さにほかなりません。」
松林監督の言葉です。
「私たちは自然ですらコントロールできると考えていました。その考えがこの事態を生みました。私たちの生活は福島県で作られる電気に頼っていました。知らなかった、気にしていなかった、などという言い訳は通りません。それが私がこの映画を製作した動機だと思っています。」

そこで起きていることがもっと単純だったら、おそらく映画を製作することは無かっただろうと、松林監督が静かに語りました。

他の人々は、福島にもっと目を向けてもらうために映画を製作したと語っています。

ドキュメンタリー映画監督の鎌仲ひとみさんは、核=原子力の問題にずっと取り組んできました。
これまで誰も光を当ててこなかった日本の核再処理施設、そして米軍が使用した劣化ウラン弾が原因と思われる問題に取り組んできました。

WP10
彼女の映画、『内部被ばくを生き抜く』は、チェルノブイリ、広島、イラク、そして福島について研究し、放射線が引き起こす健康障害について警告を行う4人の医療専門家の見解をまとめたものです。

今関あきよし監督が2003年に制作した『カリーナの林檎 チェルノブイリの森』は、一人の少女が祖母の林檎園で栽培された放射能に汚染された林檎を食べ、放射線障害を発症してしまう姿を追ったものです。
この映画は監督が信じる所のものを形にしたものでしたが、監督が逮捕・収監される事件が発生し、自身の判断により一般公開はされませんでした。

しかし2010年、今関監督は翌2011年がチェルノブイリの事故発生から25年目にあたることから、再編集の上、公開の準備を始めました。
その時、3.11が発生したのです。
再編集された作品では、福島の自然風景によく似た湖と森に彩られたウクライナの景色が、そしてガンに冒されてしまった子供たちのやつれ果てた表情が、多くの日本人の心を打ちました。

映画は日本の古典作品のように静かに展開して行きますが、出演者は全員ベラルーシ、そしてロシアの人々です。
しかし福島では繰り返し上映され、たくさんの高い評価を得ました。

「観ていた人たちは、みんな泣いていました。」
今関監督がこう語りました。

福島とチェルノブイリの良く似た状況が人々の心を打ったのだ、今関監督はそう確信しています。
そして彼の作品『カリーナの林檎 チェルノブイリの森』は、放射線がもたらす悲劇をドラマ化したものなのだという事を強調しました。

「将来を見通せないという事は、混乱に拍車をかけます。たくさんの家族が、かつての幸せな暮らしに戻れなくなってしまうのです。」

WP11
[付]

『Nuclear Nation(邦題 : フタバから遠く離れて)』
英語版公式サイト : http://nuclearnation.jp/en/
日本語版公式サイト : http://nuclearnation.jp/jp/

『Surviving Japan(生き抜くための日本の戦い)』
公式サイト : http://survivingjapanmovie.com/

『Pray for Japan(日本への祈り)』
公式サイト : http://prayforjapan-film.org/

『In the Grey Zone(避難準備区域の中で)』
『A2』
イアン・トーマス・アッシュ公式サイト : http://www.documentingian.com/

『津波と桜』
公式サイト : http://thetsunamiandthecherryblossom.com/

『希望の国』
予告編 : http://www.youtube.com/watch?v=XPv3BX39dPk

『Himizu(ヒミズ)』
公式サイト : http://thirdwindowfilms.com/films/himizu

『相馬看花 奪われた土地の記憶』

公式サイト : http://www.somakanka.com/eng.html
予告編 : http://www.youtube.com/watch?v=EMeMk38tyrs

『カリーナの林檎 チェルノブイリの森』
公式サイト : http://kalina-movie.com/

記事の掲載元は下記URLでしたが、現在は記事そのものが削除されています
http://www.washingtonpost.com/entertainment/movies-made-after-japans-tsunami-and-nuclear-disaster-tell-stories-of-its-forgotten-victims/2013/02/27/0556f6a6-8147-11e2-a671-0307392de8de_story.html
  + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

「3.11を題材にこれだけ素晴らしい作品が次々編まれているにも関わらず、日本の大手マスコミは例によってまた無視を決め込んでいる。
何なんだろう、この連中は…。このままでは心ある映画制作者たちが報われない。」
この記事を書いたワシントンポストの記者は、そう思ったかどうか。
残念ながらワシントンポストは掲載記事の削除が早いので、元の記事はもう掲載されていません。

ワシントンポストがここまでまとめて紹介してくれたことに、まずは感謝です。

3月から日曜日を休刊日にさせていただいておりますので、今週最後の記事になります。
次週は月曜日から【実録トモダチ作戦・第2部を3回に分け掲載致します。】

【 心をこわされてしまった人々 : 福島の放射線 】〈後編〉

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容易ならざる兆候、そして数々の疑問

ベン・ブラムフィールド / アメリカCNNニュース 2月28日

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▽放射線を浴びせられた

WHOは福島県内で最も災害の被害がひどかった場所では、災害が発生した年、住民は12~25ミリシーベルト(mSv)の被ばくをしたと報告しました。
その量はアメリカ放射線医学大学によれば、全身のCTスキャンを1~2度受診するほどの放射線量であり、仮に上限の25ミリシーベルト被ばくしたとしても、それが原因でガンを発症し、死亡する確率は低いものです。

国連の原子力発電の専門家によると、年間の被ばく総量が1,000mSv未満であれば、ガン発症の危険性が目立って増加することはありません。
健康にとっては喫煙の方が、はるかに有害である可能性があります。
議会の大気浄化特別委員会によれば、同規模であれば石炭火力発電所の方が原子力発電所よりも、環境に対する負荷は大きくなります。
2010年には石炭火力発電による大気汚染が、20,000人の心臓発作の原因、そして13,200人の死亡原因になった可能性が指摘されています。

放射線は自然界にも存在します。
数種類の鉱物、そして太陽がその主な原因ですが、アメリカ放射線医学大学の話では
「平均的なアメリカ人で年間3ミリシーベルト(mSv)の被ばくをしています。」

福島県内の福島第一原発から離れた場所では、最初の年の年間被ばく線量は3~5mSvであり、これは胸部レントゲン検査を受けたときとほぼ同じ被ばく線量です。

▽容易ならざる兆候

それ程動揺すべきことでは無いかもしれませんが、福島第一原発の事故以降、容易ならざる兆候、そして数々の疑問が持ち上がってきました。

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現地調査を行った科学者が福島県とその周辺で、さまざまに突然変異を起こした蝶を採取しました。
放射性ヨウ素が福島第一原発周辺の海に流れ込み、通常の1,250倍の放射線量が付近の海で確認されました。
そして沖合に設置した監視装置も、高線量の放射性セシウムを検出しました。
事故から一年後、福島県の沖合で獲れた魚からは、政府が定めた制限値の250倍の放射線量が検出されました。

被災地周辺で収穫した農産物からは、それぞれ独自に行った検査により、通常よりも高い放射性物質が検出されています。

WHOは食物連鎖の中にガン発症の危険性が著しく高くなる兆候を認めてはいませんが、ひどい汚染の可能性のある魚をわざわざ口にしようとする人はいるでしょうか?

そして、ごく限られた地域でのみガン発症の危険性がわずかに高まったとされましたが、福島第一原発周辺で少女期、少年期に被ばくをしていまい、実際にガンを発症してしまった人にとっては、WHOの報告など何の慰めにもなるはずがありません。

WHOの報告書はするべき調査は一通りすべて行ったとしながらも、放射線被ばくによる影響は、将来のどの時点か、科学者たちが『結果を見て』判断できるようにならなければ、はっきりしたことは解らないとしています。

今のところはっきりしているのは、まさにそれだけなのです。

※(訳者注)記事中の被災者の方の氏名については、原文が英語のため正確ではありません。ご了承ください。

http://edition.cnn.com/2013/02/28/world/asia/japan-who-radiation/index.html?iref=allsearch
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【 写真で見る福島第一原発、この2年 】

アメリカCNNニュース 2月28日

[1]2012年11月12日土曜日、事故後初めて報道陣に事故を起こした福島第一原発の内部が公開され、初めて地上からその様子を確認することができました。
防護服とマスクを身に着け、大熊町でバスに乗り込み、発電所内へと入っていきました。
そこで実際に目にしたものは、その荒れ果てた姿、骨組みだけになった原子炉建屋、何万トンあるか解らないほど大量の汚染水を蓄えた立ち並ぶタンクの群れ、そして8か月前に発生した事故の後片づけを、未だに続けている緊急作業員の姿でした。
CNN01
[2]2012年11月12日土曜日、大熊町を走るバスの窓から見えた福島第一原発
マグニチュード9.0の巨大な地震と、引き続き襲った巨大津波は、東北太平洋岸の広大な地域をすっかり荒廃させ、15,000を超える人命を奪ってしまいました。
犠牲者の大半は即死したものと見られていますが、日本そのものはその後数週間、破滅の瀬戸際にまで追いつめられました。
東京から240km離れた福島第一原子力発電所では、東京電力と政府機関による、事故をそれ以上悪化させないための最大限の取り組みが続けられました。
CNN02
[3]バスの車窓から見た避難区域の大熊町。ゴーストタウンの様相を呈しています。
CNN03
[4]2011年の夏から秋にかけては、新たな爆発の報道も、大規模な放射能漏れの報道もありませんでした。しかし福島第一原発の内部から報道関係者はシャットアウトされ、半径20キロ圏内は汚染がひどく、新たな爆発や放射能漏れへの懸念から、一般人の立ち入りは厳しく制限されました。
CNN04
[5]報道関係者が福島第一原発に近づくにつれ、線量計の値は上がり続けました。
大熊町では6.7マイクロシーベルトに達しました。
ジャーナリストは防護マスク、つなぎの防護服、2組の手袋、そして靴の上からビニール製のカバーを2重に装着しなければなりませんでした。
CNN05
[6]バスの中から見た福島第一原発、その破壊の跡。
CNN06
[7]福島第一原発に隣接して建設されている防波堤の脇を通りすぎるバス。
CNN07
[8]J-ビレッジの建物の外で、防護服、マスクをつけた緊急作業員たちが、放射線量の測定を受けている。
サッカーのための総合施設であったJ-ビレッジは現在、福島第一原発の事故収束に取り組む作業員たちの宿舎となっている。
CNN08
[9]J-ビレッジに隣接して建設中の、緊急作業員のための仮設住宅と東京電力の職員。
CNN09
[10]J-ビレッジに隣接する仮設住宅に、身の回りのものを運び込む緊急作業員。
CNN10
[11]バスの車窓から見える、荒廃した避難区域の景色。
CNN11
[12]同じくバスの車窓から見える、荒廃した避難区域。
CNN12

【 心をこわされてしまった人々 : 福島の放射線 】〈前篇〉

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心因症疾病、あるいは心理的障害者とも言うべき深刻な状況

ベン・ブラムフィールド / アメリカCNNニュース 2月28日

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マグニチュード9.0の地震が発生し、東北地方の太平洋岸の景色を一変させてしまってから2年という月日が流れました。
そしてこの場所にあった福島第一原発もまた、その様相は全く別のものになりました

福島第一原発は世界がかたずをのんで見守る中、火災、そして爆発を繰り返し、数週間にわたって大量の放射性物質を巻き上げました。
付近で暮らしていた人々は放射線被曝をされられただけでなく、心にも深い傷を負わされることになったのです。

2月28日、世界保健機構は『東日本大震災と津波』という報告書の中で、任的被害の中で最もひどいものは精神的外傷である、と伝えています。
福島第一原発が放出した放射線により、一生の間に特定の種類のガンを発症する確率については、一部の人々についてのみ、わずかな上昇が見られるにとどまるだろうと、WHOは報告しています。
ただ福島第一原発内部で働いた若年層の緊急作業員については、著しい例外として扱っています。高線量の放射性ヨウ素を被ばくした場合には、甲状腺がんを発症する確率がたくなるだろうとしています。
しかし甲状腺は本来は比較的ガンを発症しにくい場所であり、このために全体としてのガンの発症確率は低いものにとどまるだろうという結論を出しました。

また、3.11の津波が原因となって発生した福島第一原発の原子炉3基がメルトダウンして以降の、ガン以外の各種の疾病については、WHOは「その発症原因の特定が難しい程低い」ものに留まるだろうとしています。

福島第一原発付近で暮らし、今回被ばくしてしまった子供たちについては、白血病、甲状腺がん、乳がんの発症確率が一般の人と比べ、若干発症確率が高くなると、WHOの報告書には書かれています。

福島第一原発の事故は国際原子力機関(IAEA)が定めた原子力事故の分類において、福島第一原発の事故は最悪のレベル『7』に分類されました。
これは1986年にウクライナで発生したチェルノブイリの事故以来、最悪となるレベルです。

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しかし福島第一原発の場合、事態は段階的に悪化していったという特徴があり、このため日本の当局は周辺住民を避難させるため、チェルノブイリと比べ時間的余裕を与えられました。
結果から見れば津波が一帯を破壊してしまったことも、事態が最悪になる以前に福島第一原発周辺から人々を避難させるのに役立ったという側面があります。

▽心に受けた深い傷

WHO報告は、大災害が与えた心理的影響の部分にハイライトを当てたものになりました。
恐怖、不安、そして絶望です。
その程度は深刻であり、心因症疾病、あるいは心理的障害者とも言うべき状況を呈しています。

WHOによれば原子力事故による非常事態が、一層その症状を深刻なものにしている可能性があります。

なぜなら放射線は目に見えず、その特徴を理解し、線量の大きさによる影響の程度を理解するまでには非常な困難が伴うからです。
そしてさらにこう述べています。

全国の人々から、被災地の人々が差別を受けたり中傷されたりする事態が発生する可能性がある。
被災者が他の場所で生きようとするとき、そのことが大きな障害になる可能性がある。

▽立ちはだかる障害

この地方で暮らす80代後半の女性は、調査機関による聞き取りを受けましたが、心配なことは放射線被ばくではありませんでした。
「何世代にも渡って、私たちはこの場所で暮らしてきました。先祖代々のこの土地を失ってしまったら、ご先祖様に顔向けができなくなってしまいます。」

福島県飯舘村には、かつて6,000の人々が住み暮らしていました。
福島第一原発から約40kmの場所にあるこの村は、事故の後ほとんど無住の、ゴーストタウンと化してしまいました。

高齢の中野幸雄さんと昌代さん夫妻にとって、人生はこれまで楽なものではありませんでした。幸男さんは第二次世界大戦(太平洋戦争)の終了とともにこの村に移り住んでから、かれこれ60年以上暮らしています。

仮設住宅01
「口ではとても説明できません。仮設住宅での暮らしは本当にひどいものです。精神的にもストレスだらけです。」
幸男さんがこう語りました。
仮設の暮らしの被害者である点、妻の昌代さんもまったく同じです。
「私は孤独なのです。それに年を取っています。こんな暮らしをしていたら、いったいいつまで生きていられるだろうか、毎日そんなことばかり考えています。」
この地が日本の中でも経済的には恵まれない地方だなどという事はてんでお構いなく、巨大地震、巨大津波、そして原子力発電所の大事故、この3つが一緒になって人々に襲いかかりました。
WHOはこの重なり合った悪条件により、発生が予想される健康問題は深刻化する可能性があると警告しています。
〈後編に続く〉

http://edition.cnn.com/2013/02/28/world/asia/japan-who-radiation/index.html?iref=allsearch
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【 JAPAN、2年が過ぎても… 】

ザ・ニューヨーカー 3月11日
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)

岩手県大槌町

岩手県大槌町


2年前の今日、1万5000以上の人命を奪い、何十万もの人々を被災者にした巨大地震と津波が発生、東日本を荒廃に追い込みました。

地震の規模はマグニチュード9.03、史上最も強力な地震のひとつと考えられます。
災害は別の巨大災害を引き起こしました。
福島第一原発事故です。
こちらは世界史上最悪の事故のひとつとなりました

福島第一原発から放出された大量の放射物質は人が暮らす街々を汚染し、その影響は何年続くか解りません。

日本のカメラマンQ. サカマキは、2011年以降、この災害の写真を撮り続けています。
「放射能漏れは未だに続いています。避難している人々は、もう一生故郷には戻れないのではないかと、心配しています。」
「苦しい生活、将来への不安、こうしたことから避難して人々の60%以上がP.T.S.D.(心的外傷後ストレス障害)を発症してしまいました。中には自殺してしまう人もいるのです。」

福島県南相馬市小高地区

福島県南相馬市小高地区


福島県楢葉町

福島県楢葉町


宮城県気仙沼市

宮城県気仙沼市

家族の遺影の前で

家族の遺影の前で


宮城県女川町

宮城県女川町


http://www.newyorker.com/online/blogs/photobooth/2013/03/japan-two-years-after.html#ixzz2NwSqTECy

実録『トモダチ』作戦・第1部[第3回]米国防総省が明らかにする日本の汚染

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所要時間 約 10分

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『トモダチ』作戦医学記録簿により公開された、東日本各地在住者の実際の被ばく線量
アメリカ国防総省の綿密な調査結果、『トモダチ』作戦医学記録簿

ロジャー・ウィザースプーン / ハフィントン・ポスト 2013年1月31日

米軍 4
ヴァーモント州選出の上院議員であり、上院退役軍人問題委員会の委員長を務めるバーニー・サンダースの発案より作成が決まった『トモダチ』作戦医学記録簿は、約2年をかけて編纂され、2012年末に完成しました。
編纂に関わったのは国防総省、エネルギー省、退役軍人援護局です( http://bit.ly/14ABPuj )。

 ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿
 
※各地の累計被ばく線量の計算方法(訳者)
上記URLをクリックすると、下記の画面が表示されますので、右側中ほどにある[View Dose Estimates(被ばく線量の積算値を見る)]青いボタンをクリックしてください。
アメリカ国防総省が作成したインタラクティブ地図が表示されます。
その中で自分が住んでいる場所近くにプロットされた書類マークをクリックし、現れた吹き出しの一番下、『Dose Information : Adult』の『Adult』の文字をクリックします。
するとその地区の『トモダチ』作戦医学記録簿が表示され、1ページ目の中ほどに「Whole Body Radiation Dose・外部被ばく線量」と「Thyroid Radiation Dose・甲状腺被ばく線量」(2011年3月12日~5月11日までの60日間の累計被ばく線量)が表示されます。

米軍 registry
次に別サイト、【ブラウザで動く放射線・放射能の単位換算ツール(簡易)】( http://hp.vector.co.jp/authors/VA047235/radiation.html )のページを開きます。
『トモダチ』作戦医学記録簿に掲載されているのは60日間の累計被ばく線量なので、表示されている数値を1440(24×60)で割り、その値を[数値]の欄に入力し、[単位]のプルダウンメニューから[○ Rem/h(レム/時)米国など]を選び、その下にある[換算]のボタンを押します。
すると、ページ左下半分に、各単位の被ばく線量が表示されます。

ただしの『トモダチ』作戦医学記録簿には、「この線量は24時間戸外に居て、積極的に体を動かし続けていた場合」という注釈があり、実際の被ばく線量はこれより低くなると考えられる、と記されています。

また、17歳以下の被ばく線量については、静岡県など閲覧できる場所、仙台市などのように閲覧できない地区があります。

 ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿  ▿ 

この記録簿は、放射線被ばくを受けてしまった人々について、その後の長期間、どのような影響が現れるかを検証する医学上の基礎資料とするため、徹底的な調査を行い作成されました。
福島第一原発の1号機から4号機が数カ月間、大気中、そして海洋中に放出した放射性物質、特に放射性ヨウ素とセシウムの影響について明らかにする目的がありました。

『トモダチ』作戦医学記録簿は調査の綿密さにおいて、他に例を見ない資料になりました。
国防総省が担当した放射線被ばくについて検証した252ページの部分を見てみましよう。ここでは福島に近接する地区はもちろん、被ばくした可能性がある日本の米軍基地関係者70,000人について、担当する仕事、当時の風向きによる被ばくの程度、気象条件、性別、身長、体重、そして年齢ごとに、どのような症状を発症したか記録されています。
そして子供たちに関する項目では、被ばくに対する影響の度合いが年齢によって異なることを考慮し、6つのグループに分類されることになりました。

米軍 3
さらに『トモダチ』作戦医学記録簿は「8,000人について、内部被ばく放射性物質量の調査を行い、その結果と被ばく線量の因果関係についての検証も行われました。

しかし、最終的に国防総省は、この外部被ばく線量と甲状腺被ばく線量の積算上限値は、より一層厳しい検証に耐えられるだけの厳密さには欠けていると結論しました。

海軍の広報を担当するマシュー・アレン大尉は、書面による声明の中で、以下のように述べています。
「国防総省は被ばく累計線量の正確さに高い信頼を置いています。今回の結果を得るについては、環境・条件について、詳細な定義づけを行っています。すなわち60日の間、放射線量が上昇する環境下で一日24時間戸外で生活し、常に運動し続けることにより普段より呼吸回数が多くなっている、と定義づけているのです。」

「『トモダチ』作戦医学記録簿が公表した累計放射線量については、退役軍人問題委員会の放射線被ばくの専門委員、そして全国放射能防護測定委員会による綿密な検証が行なわれました。
両者とも計算方法の妥当性と、得られた結果の正確性について合格点を与えています。加えて日本政府、世界保健機構(WHO)による計算結果とも整合性があります。」

国防総省の広報担当のシンシア・スミスは、国防総省が下した結論について、日本国内に展開していたアメリカ将兵は深刻な汚染は受けていない、と語りました。
「2011年3月11日以降、あるいは福島第一原発で事故が発生し放射性物質の放出がはじまってから、日本の本州、あるいは近隣にいたアメリカ軍関係者で、精密な健康調査を必要とする人間はいませんでした。」

米軍 8
しかし当時日本に居た男性、女性、そして子供たちについて、今後継続的な調査を必要とする程大量の放射線は放出されていないとする国防総省の最終的な判断に対し、疑義を唱える人々もいます。

「放射性ヨウ素や放射性セシウムなどの放射性物質は、均一均等に拡散するわけではありません。」
「ホットスポットと線量の低い場所があります、自分が線量が高い場所にいるか、低い場所にいるか、把握している人は誰もいません。そして個人ごとに異なる被ばく線量を、正確に把握できている人もいません。そしてこれまで口にした飲料水や食料品の、放射線量の累計データを持っている人などもいるはずがありません。」

すべてのグループに対し、2、3のデータポイントを設定して調査を続ける海軍のこの調査方法は、現在とり得る最良の方法だと思います。
彼らは様々な方法を取る事ができますが、目下時宜を得た最良の方法だと言えるでしょう。
夜間の撮影を可能にする、ストロボを使った撮影方法に似ています。
ストロボが光るたびに、あなたは夜間でもポイントポイントで撮影を続けることが可能です。」

「しかしその方法であなたは、闇に覆われている全貌を明らかにすることが出来るでしょうか?」
〈第1部完・第2部に続く〉

A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 1 Radioactive Contamination of American Sailors
  + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

米国防総省の地図には、私がずっと暮らしている仙台のデータも記載されています。
私はその値、事故発生以降2カ月間の外部被ばく線量が7ミリシーベルト、甲状腺の被ばく線量が70ミリシーベルトという数値を見て、ショックを受けました。
甲状腺の被ばく線量が結果的に外部被ばく線量の10倍になるなどという事は、この資料を見るまで知らなかったからです。

これでは子供たちが危ない!

心の底から恐怖を感じました。
と同時に日本の原子力行政に対し、言いようのない怒りを感じました。

【 実録『トモダチ』作戦 】第1部の掲載は今日で終了し、次週25日月曜日から【 実録『トモダチ』作戦 】第2部「東京電力、日本政府の官僚は、汚染されてしまった人間の苦しみ、怒りを知れ!」の掲載を開始予定です。

  + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

【 人々を驚かせた、新法王のぶっつけ本番 】

アメリカNBCニュース 3月17日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

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新法王に就任したフランチェスコ一世は、17日日曜日聖ピエトロ広場に集まった150,000人を前に、慣例を破って草稿無しの即興の講話を行いました。

この日の朝早く、彼はバチカン宮殿側面入口から突然姿を現し、居合わせた市民たちと交流しました。
予定されていなかった新法王の出現に、広場に居た市民たちは文字通り飛び上がって喜び、たちまちのうちにその周囲に何重もの人垣ができました。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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