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敗戦から75年・太平洋戦争

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韓国の植民地化 - 二流市民として扱われた韓国人に課された過酷な運命 / 南京大虐殺 - 政治的思惑が錯綜・未だに犠牲者数の特定ができないまま /
真珠湾攻撃 - 核兵器攻撃の報いを受けて当然… / バターン死の行進 - 戦争捕虜に対する無用の軽蔑が生んだ残虐行為 / 東京大空襲 - 市民330,000人以上を殺害したアメリカ軍の無差別空爆 / 沖縄戦 - 日本の国土で唯一行われた3か月に及ぶ戦い / 原子爆弾 - 命が尽きるまで後遺症に苦しむ被爆者

                   

山口真里 / AP通信 2020年8月15日

                  

写真 : 1937年7月8日、日本軍の攻撃に対し、中国の北平(北京)の南西22.5キロにある盧溝橋に土嚢を積み上げて急造したバリケードの背後で街を守る中国の第29軍。
7月7日、中国軍が日本軍に盧溝橋で発砲し、この軍事衝突はたちまち第二次日中戦争へと拡大しました。

                 

写真 : 1942年5月、ミッドウェイ海戦で、アメリカ海軍の航空機の爆撃により傾く日本の最上(もがみ)級重巡洋艦。

                 

写真 : 1945年2月23日米国海兵隊提供。硫黄島擂鉢山山頂に立てられた星条旗の周囲に集まる第5師団第28連隊の海兵隊員。
硫黄島で海兵隊が立てた最初の旗でした。

                 

太平洋戦争は極めて大規模な戦争であり、悲惨きわまりなく、すべての事実をつまびらかにすることは困難です。
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件、戦局を転換したミッドウェイの戦い、硫黄島での劇的な星条旗の掲揚など、主だった出来事の中でも今日、アジアの地において、なお、影響が続く重要なイベントをいくつか紹介します。

                

◆ 韓国の植民地化 ◆

写真 : 2015年12月10日撮影。
韓国釜山市の国立日帝強制動員歴史館に展示されている、日本が朝鮮半島を植民地支配していた当時の強制労働の犠牲者の写真。
今日多くの韓国人が、日本は依然として太平洋戦争の戦前戦中の残虐行為に対する責任を完全に認めていないと考えており、強制労働と従軍慰安婦の生存者たちは今なお日本に対し謝罪と補償を求めています。

                    

1910年から1945年の朝鮮半島の植民地支配の間に、韓国人は日本人としての姓名を名乗り、日本神道をその宗教として奉じ、日本語を話さなければなりませんでした。

                  

しかし彼らは二流市民として扱われました。

                

数十万人が日本兵士として戦うために徴兵され、他の多くは過酷な条件の下で日本の鉱山や工場の労働者として徴用されました。
おびただしい数の韓国人の女性と少女が、日本兵に性的虐待を受けたアジアの「従軍慰安婦」の中に投じられました。

                    

今日、多くの韓国人はこ日本は依然としてれらの残虐行為に対する責任を完全に認めていないと考えており、強制労働と売春を強要された生存者たちは日本に対し謝罪と賠償を求めています。
これに対し日本政府は、1965年に日韓関係が正常化した際、すべての補償問題は解決したとする立場を取り続けています。

                  

◆ 南京大虐殺 ◆

                     

写真 : 1937年12月、南京を占領した後、中国国民党政府の建物の屋根から旗を掲げて歓声を上げる日本軍兵士。

                 

中国政府と国際軍事法廷は、1937年12月13日に中華民国の首都であった南京が日本軍の攻撃により陥落した後、殺害、レイプ、放火の狂乱で少なくとも20万人の民間人が日本軍によって殺害されたと述べました。

                 

この問題は今なお、日中両国間の外交紛争の最大の火種の一つになっています。
日本の右翼の政治家は犠牲者の数を過小に見積もる、残虐行為が起こったこと自体を否定するといった行為を繰り替えしています。

                  

昨年、安倍内閣は一部に殺害や略奪の事実があったことは否定できないと述べる一方、見解の違いを理由に犠牲者数を見積もることは拒否しました。

                    

◆ パールハーバー(真珠湾攻撃)◆

               

写真 : 1941年12月7日、ハワイのパールハーバーへの日本軍の奇襲攻撃中、崩れ落ちるアメリカ海軍戦艦アリゾナの艦橋。

                  

ハワイのパールハーバーにある米海軍艦隊に日本軍が突然襲いかかり、2,300人を超える米軍兵士が殺害され、米国は第二次世界大戦に参戦しました。
1941年12月7日のこの奇襲は、日本の降伏を早めるため広島と長崎への原爆投下を行ったことを正当化する際、多くのアメリカ人が長い間その根拠としてきました。

                   

安倍晋三首相は、2016年12月にハワイでUSSアリゾナ記念館を訪問した日本で最初の首相になりましたが、真珠湾攻撃についての謝罪は行いませんでした。

                  

◆ バターン死の行進 ◆

                 

写真 : 1942年、アメリカ海兵隊提供。フィリピン占領後、バターン死の行進が始まる直前、アメリカ軍捕虜を監視する日本軍兵士。

                    

日本軍の捕虜となった70,000人を超えるアメリカ人とフィリピン人兵士が、1942年3月、約112 kmの行進を強いられ、移動の間に約9,000人が死亡しました。
日本側が多数の捕虜を管理する準備ができていなかったことに加え、降伏した軍隊に対する無用の軽蔑は強制行軍中の捕虜に対する様々な残虐行為につながり、第二次世界大戦中の最悪の残虐行為の1つとして記録されることになりました。

                    

生存者はその後、日本軍の捕虜収容所、あるいは強制労働のために鉱山に送られ、さらなる残虐行為に直面しなければなりませんでした。
連合軍捕虜に対する日本軍の同様の虐待は戦後、日本に対する一連の訴訟につながりました。
2009年藤崎一郎駐米大使は元アメリカ兵捕虜に対する謝罪を行い、謝罪と補償のための『日米草の根平和交流招聘プログラム』への道を開きました。

                    

◆ 東京大空襲 ◆

写真 : 1945年9月7日撮影。繰り返されたアメリカ軍の空襲により、がれきだらけになった東京。
焼け落ちた建物のトタンなどを使って作られた小屋状の住居。

                    

1945年3月10日、米国のB-29爆撃機が投下したナパーム弾を装着したクラスター爆弾が東京の下町地区に降り注ぎ、1夜で推定105,400人が死亡しました。
1944年1月に始まり1945年8月まで続いた60以上の日本の都市への米国の空爆 - 空襲は、広島と長崎に投下された原子爆弾の犠牲者を含め推定で333,000人を殺しました。

              

この絨緞爆撃作戦は朝鮮戦争とベトナム戦争、そしてそれ以降も一般市民の生活エリアを攻撃目標とする先例を作りました。
東京の空襲被害者は日本政府による補償要求を裁判所によって否定されましたが、現在も尚救済を求めています。

                    

◆ 沖縄戦 ◆

写真 : 1945年4月、沖縄戦の戦場で日本兵の遺体のわきを通り過ぎるアメリカ軍兵士。

                 

太平洋戦争中、最も死傷者数が多かった沖縄戦では、20万人以上(そのうちの約半数が民間人、約12,500人の米兵)が死亡しました。
1945年6月23日、日本の国土で唯一行われた3か月に及ぶ戦いが終了しました。

             

戦争後、米国は沖縄と日本の他の国土を占領しましたが、日本列島の主要な部分の占領が終わった後も引き続き20年間、1972年まで沖縄は米国の支配下にあり続けました。
沖縄に駐留していた米軍の継続的な存在に対する怒りと苛立ちには根深いものがあります。

              

日本に駐留する約5万の米軍の半数以上が二国間協定の下で、沖縄県内各地に拠点を置いています。

                     

◆ 原子爆弾 ◆

                

写真 : 1945年8月6日、アメリカ空軍公開。
人類史上初めて使われた5トンの原子爆弾「リトルボーイ」が投下された直後、広島上空6,000メートルにまで上昇した煙の柱。

                    

1945年8月6日、アメリカは広島にウラン型原子爆弾を投下し、世界で初めて実行された核兵器攻撃により約14万人を殺害しました。
その3日後、今度は長崎にプルトニウム型原子爆弾を投下し、さらに74,000人を殺害しました。

                   

米国は原爆投下は日本の降伏を早め、実行した場合多数の犠牲者を作り出したであろう米軍による日本上陸作戦の必要性をなくす効果があったと述べています。
これに対し一部の歴史家は、日本は間もなく降伏する状況にあったと述べています。             

                   

直接の被害者である原爆被爆者はがんやその他の疾患を含め、放射線の影響を長期にわたり受け続けています。
原子爆弾の使用は戦後の軍拡競争の引き金となり、ソビエト連邦は1949年8月29日に最初の原子爆弾の実験に成功しました。

                   

◆ 降伏 ◆

                

写真 :
アメリカ時間1945年8月14日(日本時間15日)、ワシントンのホワイトハウスでの記者会見で、各新聞記者を前に日本の降伏・太平洋戦争が公式に集結したことを伝えるステーテメントを読み上げるハリーS.トルーマン大統領。
大統領の右は国務長官のジェームズF.バーンズ、海軍提督ウィリアムD.リーヒー、大統領首席補佐官

                  

現在の成仁天皇の祖父である裕仁天皇自身があらかじめ録音していたラジオメッセージが1945年8月15日に放送され、日本の降伏が公のものとなりました。
ほとんどの日本人がこの時、神として崇められていた天皇の肉声を初めて聞きました。
音質が悪かったためその内容はほとんど聞きとれませんでした。

                    

その前夜、裕仁天皇は皇居内に掘られた防空壕内で政府高官と面会し、降伏を承認しました。
戦争を終わらせることを拒否する陸軍当局者による暴力的な抵抗が予想されたため、録音は極秘に行われました。
午前零時の数分前、裕仁天皇は軍服で正装した姿で現れ、マイクに向け降伏の声明を2度読みあげました。

                    

写真 :
1945年8月15日皇居前広場、日本降伏のラジオメッセージを聞いて涙を流す3人の日本人女子学生。

                    

若い陸軍将校のグループが録音を奪おうとして皇居を襲撃しましたが、宮内省の担当者は玉音放送の原盤を死守することに成功、その翌日放送するため無事無線ラジオ局に持ち込まれたのです。

https://apnews.com/7ae23318d2e5c4c1cdef526f517a3ac5

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反戦

                 

反原発

                

可能な限り、原点に戻ります

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