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ベートーヴェン、7つの知られざるストーリー

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所要時間 約 13分

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毎年日本でベトーヴェン交響曲第9番『合唱つき』が大ヒットする理由は?

ベートーヴェンが亡くなる間際に語った言葉、その本当の意味は?『楽聖は希代の大酒家!』

                

ドイチェ・ヴェレ 2019年12月19日

                   

日本の何千人もの人々が毎年「歓喜の歌」を歌うのはなぜですか?
ベートーヴェンは死の床でどんな別れを告げましたか?
ベートーヴェンのスペシャリストでさえ、今回ご紹介する面白いエピソードにおっと!思うかもかもしれません。

                 

1. 日本での大ヒット曲

1983年、日本中から集まった10,000人の人々がコーラスに加わり、ベートーベンの交響曲第9番の第4楽章『コラール』を演奏しました。
アマチュア合唱団は幾つものグループに分かれて日本の各地で何ヶ月もかけてドイツ語の歌詞を繰り返し練習し、リハーサルを重ね、スキルに磨きをかけました。

こうした演奏会は今では年末の恒例行事となり、クリスマスから大晦日まで歓喜の歌を聴くことができます。

                  

交響曲第9番への日本の熱意は、第一次世界大戦中のドイツ兵捕虜による演奏会にまで遡ります。
1918年、彼らは日本の捕虜収容所で『歓喜の歌』を合唱しました。
多くの日本人が大傑作という思いを込め、単に『第九(だいく)』と呼んでいます。

                 

  1. 自然が大好き

               

ベートーヴェンが生きたのは産業革命時代初期であり、ヨーロッパの大都市はすでにカオスの様相を呈していました。
蒸気エンジンから排出される排気ガスが空気を汚染し、馬車の車輪がやかましい音を立てながら玉石の舗装路の上を行き交っていました。
こうした都市での生活から逃れるために、ベートーヴェンはしばしばウィーンの郊外に脱出しました。
「ここにいれば苦痛でしかない騒音に悩まされることはありません。森の静けさは例えようもなく甘美です!」
ベートーヴェンは静かな自然についてこう書き記しました。

              

ベートーヴェンは彼の9つの交響曲作品のうちの6番目を自然に捧げました。
『牧歌的な交響曲または田舎の生活の思い出 / パターン化された音楽技法より豊かな感情表現』というのがこの作品の完全なタイトルです。

                     

自然愛好家であるベートーヴェンは、作曲中に慣れ親しんだ風景や自分の経験を思い起こしていました。
彼は、個々の楽章に名前を付けました。例えば、「小川が流れる風景」「田舎の人々の陽気な集まり」 「雷鳴、そして嵐」または「羊飼いの歌」。
こうした光景をベートーヴェンは音楽で再現しました。
オーケストラの各パートが鳥の鳴き声を真似、小川のせせらぎを奏でます。

                   

                   

2. 盛大な葬儀

                   

多くの芸術家は生きているうちに、望んでいたほどの名声を手に入れることはできませんでした。
しかしこうした原則はベートーヴェンには当てはまりませんでした。
作曲家ベートーヴェンは当時の真のスーパースターだったのです。

                   

彼の葬儀には2万人が参加しました。
これはウィーンの中心市街地の人口の約半分です。
学校は休みになり、葬列に随行させるために軍隊が派遣されました。
彼の棺には、フランツ・シューベルトや詩人フランツ・グリルパーツァーなど、ウィーンの最も重要な音楽家と芸術家が同行しました。
グリルパーツァーが書いた追悼の辞には大勢の人々が感動しました。

                   

ベートーヴェンの葬列と見送るウィーン市民

                

3. 未知なる存在への音楽のメッセージ

                

大切なのは第一印象だとよく言われますが、エイリアンが初めて人類が作り出した文化に触れる時に何を聞くことになるかご存知ですか?
それはベートーヴェンの音楽です。

              

1977年に発射されて以来、宇宙探査機ボイジャー1号とボイジャー2号は、太陽系を越えて旅を続けています。
船内にはグラフィック、サウンド、音楽が記録された金でメッキされた銅板、ゴールデンレコードが搭載されています。
音楽の大使はベートーヴェンだけではありません。
バッハ、モーツァルト、ストラヴィンスキーの作品、そして多くの民族の歌や聖歌も記録されています。
27のタイトルのうち、2つがベートーヴェンの作品です。
記録されているのは交響曲第5番(運命)の第1楽章と、弦楽四重奏曲第13番Bフラットメジャー作品番号130の第5楽章です。
ベートーヴェンの作品は現在も銀河系を周回しています。

                   

写真:ベートーヴェンの2つの作品が、宇宙探査機ボイジャー1号とボイジャー2号に搭載されたゴールデンレコードに記録され、宇宙を飛び回っています。

                   

5. ヨーロッパの国歌

                 

1972年、欧州評議会は「歓喜の歌」交響曲第9番の第4楽章をEU - ヨーロッパ連合の国歌であると正式に宣言しました。
ただしオリジナルの第4楽章の演奏時間25分は長すぎるため、ずいぶんと短くする必要がありました。
当時のスター指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが第140〜187小節を管楽器用にアレンジする役に選ばれました。

                

                

オリジナルとは異なり、アレンジ・バージョンには歌詞がありません。
アレンジ版は初演でセンセーションを巻き起こしました。
アレンジ版は、欧州連合の多言語主義と、一つの言語を別の言語よりも優先することはしないという外交的な配慮によるものと思われます。
しかしフリードリッヒ・シラーによって書かれたオリジナルの歌詞に込められた精神は、そのままヨーロッパ連合の国歌に生かされています。 「『歓喜に寄す』の詩の中で、シラーはすべての人類が兄弟になるという理想主義的なビジョンを表現しました。これはベートーヴェンも共有したビジョンなのです。」
欧州連合のウェブサイトはこう述べています。
「言語には関係なく、音楽という普遍的な言語によって自由、平和、連帯という欧州連合の真価を表現しているのです。」

               

6. タイムトラベル

                   

残された譜面と楽譜のおかげで、ベートーヴェンの全作品が過去200年間生き延びてきました。
しかしベートーヴェンの作品のオリジナル演奏はどんなものだったのでしょうか?
当時の楽器の性能は現代のものとは異なり、演奏会場も現在のベルリンのフィルハーモニーホールなど近代的コンサートホールとは異なる響きを持っていました。

                  

              

2014年以来、ウィーンのオーケストラ・ヴィエンナ・アカデミーは、ベートーヴェンの時代から残る演奏会場で当時の楽器を演奏することによりオリジナルの響きを再現しようと試みてきました。
「RESOUND Beethoven(リサウンド・ベートーヴェン)」と呼ばれるプロジェクトは、作曲家が作品を初演したウィーンの歴史的なホールにオーケストラ、合唱団、観客を配置して当時の様子を再現しようとしています。

                

7. 有名な最後の言葉

「残念だ、残念だ、がもう遅すぎる!」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1827年に死の床でこう別れを告げたと言われています。
(ドイツ語で「Schade、schade、zuspät!」)
しかし、作曲家は彼の最後の作品を完成させられなかったことに言及しているのではなく、まだ手元に配達されていなかったワインについて言及していたという説があります。
実は。 ベートーヴェンは大酒飲みだったと言われています。
音楽の天才は毎日ワイン3本飲んでいたと言う研究者もいます。

                    

https://www.dw.com/en/7-surprising-things-about-beethoven/a-51612123

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私が知っているベートーヴェンに関連するエピソードで、一番好きなのが次の話です。

                 

西暦1820年台後半、創作活動に行き詰まっていたシューベルトはベートーヴェンの死の床に呼ばれ、君こそ自分の次にヨーロッパの音楽界を背負って立てる人材だと告げられます。

ベートーヴェンが交響曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、すべての分野で革新的な傑作を次々と発表して行ったために、自分が活躍すべき場を奪われてしまっているという不遇感を囲っていたシューベルトは、ベートーヴェンがほとんど作品を発表しなかった歌曲の分野に自分の活路を見出そうとしていたと言われています。

                 

しかしベートーヴェンが次代を担う者として最も期待しているのが自分であることを知ったシューベルトは自宅に戻ると、驚くべきスピードで勇躍、クラシック音楽作品の最大傑作のひとつ交響曲第9番『ザ・グレート』を完成させました。

しかし売春宿に通いつめるなど荒んだ生活を続けていたシューベルトの健康はすでに蝕まれていました。

結局シューベルトは交響曲第9番『ザ・グレート』の初演すらできないまま、わずか31歳で、ベートーヴェンの死の翌年に亡くなってしまったのです。

                   

極貧のまま荒んだ生活をしていたシューベルトの音楽作品の遺品の整理をしたのが、その才能を惜しんだロベルト・シューマンでした。

彼はボランティアでシューベルトの遺品の整理をしていた時に、『ザ・グレート』の遺稿を発見するのです。

彼はその遺稿を整理・交響曲作品の形に整え、今日残されている形に『ザ・グレート』を蘇らせたのです。

シューマンは『ザ・グレート』を世に出すべく、親友のフェリックス・メンデルスゾーンに初演を依頼しました。

                 

こうしてベートーヴェンの言葉に触発されて作曲されたシューベルト生涯の大傑作・交響曲第9番『ザ・グレート』は、シューマンの手によって蘇り、メンデルスゾーンの演奏によってその素晴らしさが世界に発信されることになったのです。

               

ベートーヴェンはシューベルトに古典派の時代に幕を下ろし、ロマン派の時代の幕を上げるよう促そうとしたのかもしれません。

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