ホーム » エッセイ » 1945年5月 – 本当に戦争が終わるまで、それから40年以上を要した
ヨーロッパでは第二次世界大戦の終了以降引きずってきたすべての戦争を、戦後世代の人々が終わらせた
戦後世代のすべての人々が「冷たい平和」- 恐怖と核兵器の均衡が支配する世界で育った
ドイチェ・ヴェレ 2020年5月6日
ドイツ国防軍の無条件降伏は西ヨーロッパ時間の1945年5月8日午後11時に発効しました。
75年後、ヨーロッパは再び試練にさらされています。
ヨーロッパ大陸の場合、第二次世界大戦が終わったのは1945年5月9日でした。
少なくともドイツ連邦国防軍の一部の部隊がランスでの降伏を無視した軍事活動を続けていた5月8日ではなく、反ヒトラーの連合軍が合意文書に署名した日を勝利の日として認識する必要があります。
同じ時、極東ではまだ日本軍と米軍が熾烈な戦争を続けていました。
アメリカ人が広島と長崎に投下した2発の原子爆弾と現在の中国北東部にあった満州帝国におけるソ連の極東での参戦が、1945年9月2日の日本帝国の無条件降伏につながりました。
6年前に爆発した地球規模の人為的大災害はこうして終わりました。
『共産主義の脅威』
しかし平和の喜びが高揚する中、連合国の連帯意識に最初の亀裂が入りつつありました。
1946年3月5日ミズーリ州フルトンで行われたウィンストン・チャーチルの「鉄のカーテン(アイアンカーテン)」の演説を、多くの現代の目撃者や歴史家が新たな対立の始まりと考えています。
アメリカへの旅行中、ハリー・トルーマン米国大統領の面前で、すでに英国首相ではなくなっていたこの著名な英国の政治家は、『共産主義の脅威』について、次のように西側社会に対する警告を行いました。
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされました。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにあるのです。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらすべての有名な都市そして、そしてその周辺で暮らす人々は私たちがソビエト圏と呼ばなければならない地域にあり、いちいちのすべてが何らかの形でソビエトの影響を受け、非常に強いモスクワの支配の下に置かれているのです。」
チャーチルはスピーチの中で「勇敢なロシアの人々に対する強い賞賛と敬意」を表明し「戦時中の同志、スターリン元帥」という表現を使う一方で、第二次世界大戦の終了とともに、ソビエト連邦との戦争準備を怠ってはならないと西側諸国に呼びかけるなど、その敵対意識はあからさまなものでした。
チャーチルはこう語っています。
「ソビエト連邦が最大限賞賛するものは強さだけであり、それ以上価値があるものは存在しません。一方で彼らが最も蔑むものが軍事的に弱いということであり、それより下のものは存在しません。」
イギリス作家ジョージオーウェルは、エッセイ『あなたと原子爆弾』の中で『冷戦』という言葉を造語、国境線によってはっきりと分断された世界の状態を定義しました。
『冷たい平和の贈り物』
『鉄のカーテン』という比喩は、西側社会から東側諸国を閉め出す、いわゆる「技術的障壁および要塞化システム」によって現実になりました。
ハンガリーとオーストリアの間だけで243 kmに及ぶ二重に絡み合わせた有刺鉄線が張り巡らされ、そこに沿って300万人を殺傷できる対人地雷が埋められました。
一部の「真の社会主義」国家はベルリンの壁やアルバニアの『緊急事態』に備えるための170,000か所の塹壕など、自国の空間内に宣伝目的を兼ねた化け物じみた施設を建造しました。
鉄のカーテンの演説そのものは、以前の同盟国でありともに勝利者となった国家間の長期にわたる紛争の引き金ではありませんでした。
むしろそれはチャーチルも個人的に関与していた戦後の体制構築に向けた彼らの共通の計画を強化することが目的だったのです。
第二次世界対戦がまだ終わっていない段階で、西側同盟国にはソビエト連邦にとって本来不要なはずの対日参戦や戦争によるおびただしい犠牲を根拠に、いずれソ連がそれに見合う補償と領土獲得を主張するだろうことは目に見えていました。
そして要求に重みをつけるために強大な軍事力を整備するであろうこともまた明らかだと考えていたに違いありません。
チャーチルはソビエト連邦が領土的野心を隠しながら、その影響力の範囲をどうやって拡大していくつもりなのかという点を懸念していました。
こうした考えをもとに、チャーチルの演説は冷戦の時代を宣言すると同時に、目立たない表現ですが冷たい平和という考え方についても言及しています。
戦後世代全体がこの「冷たい平和」、すなわち恐怖と核兵器の均衡が支配する世界で育ちました。
そして第二次世界大戦の終了から40年以上が経ってから、ヨーロッパの人々は国境にそびえていた壁の解体と国境の開放への熱い思いを現実のものにしました。
そして戦後世代の人々が第二次世界大戦の終了以降引きずってきたすべての戦争を終わらせることに熱意を見せ、最終的に勝者も敗者もいない、そしてあるべきものがあるべき場所に収まる平和を達成した(89年の東欧革命から91年のソ連邦解体に至る一連の出来事を指す)のも不思議ではありません。
1987年,ソ連書記長ゴルバチョフがヨーロッパの新政治秩序,平和安全システムとして打出した西欧向け外交スローガン「欧州共通の家」構想のアイデアこそは、冷戦を終わらせた魔法の公式だったのです。
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写真集 : ドイツ国内に残る解放の記憶
ドイチェ・ヴェレ 2020年5月6日
ダッハウ強制収容所メモリアル
1945年4月29日、米国の兵士たちはミュンヘン近郊の強制収容所を解放しました。
この場所に記念碑が建てられたのは1965年のことです。
ナチスの残虐行為の犠牲者を追悼して、ユダヤ人アーティストのナンドール・グリッドによるこの彫刻は、1968年にかつて収容所があった場所の真ん中に設置されました。
ホロコーストの生存者はまた、多くの家族を強制収容所で失いました。
ヒュルトゲンの森の戦い
米軍は、アーヘン近くのフヒュルトゲンの森でドイツ国防軍に対し激しい戦闘を繰り広げました。
1944年の秋から1945年の初めまで数か月間続いたこの戦いは、ドイツ本土で最長かつ最も重要な戦いの一部としても記憶されます。
ヒュルティゲンの森は現在、西部連合軍の前進に沿った記念の道「ヨーロッパ解放ルート」の一部になっています。
レマーゲンの戦い
1945年3月7日、米軍がケルン南部のレマーゲンで鉄道橋がまだ破壊されず残っていたことに驚いた。
「レマーゲンの奇跡」として知られるようになったこの状況により、何千人もの米兵が初めてライン川を渡ることができた。
ドイツ軍が行っていた橋の爆破は、最終的に米軍に占領されてから10日後の橋の崩壊につながりました。
今日、橋の塔の遺跡に平和博物館があります。
ライヒスヴァルト森林戦争墓地
米軍は基本的に戦死した兵士の遺体をアメリカに戻しましたが、死亡したイギリス軍兵士はドイツ国内の15か所の墓地に彼らの最終的な安息の地を見つけました。
そのうち最大のものは、オランダとの国境に近いライヒスヴァルトの連邦戦争墓地です。
7,654人の死者の中には、4,000人のパイロットと戦闘機の乗組員がおり、その多くはカナダ人でした。
トルガウのエルベの日
1945年4月25日、エルベ川のトルガウにあるドイツ国内でソ連と米軍が初めて出会いました。
この連携により東部と西部の前線の間のギャップが効果的に解消されました。
終戦が近づくと、トルガウでの米ソ両軍兵士の握手が象徴的なイメージとなりました。
この連合軍の会合記念儀式は毎年エルベの日に開催されていましたが、2020年はコロナウイルスの危機により中止されました。
ベルリンのシェーンハウゼン宮殿
プロイセンにあるこのバロック様式の宮殿は第二次世界大戦終結時にドイツを占領していたた4か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦)の間で行われた「2プラス4協定」交渉の開催地でした。
4者はドイツ国内で保有していたすべての権利を放棄し、ドイツ統一への道を開きました。
ここが最終的に第二次世界大戦が終わった場所であることを記念するいくつもの額が飾られています。