ホーム » エッセイ » 【 刻一刻、地獄と化すフクシマ第一…そう、そこに、私もいました… 】《後篇》
東日本全域を地獄と化させないため、踏みとどまった男たち
デイヴィッド・マクニール / インデペンダント(英国) 3月2日
約250km南の東京では、日本政府が悪夢のシナリオの展開を恐れていました。
世界で最も人口密度の高い巨大都市に、放射能の死の灰が降り注ぐ事態です。
不穏なうわさが広がっていました。
東京電力が福島第一原発の職員全員を撤退させる準備をしており、そうなれば福島第一原発の事故は破滅に向けひた走ることになる、と。
吉澤氏は言下にこれを否定しました。
「私たちは現場の放棄など、考えていませんでした。」
「その時点で撤退の噂は広がるばかりだったので、私は現場に戻ることを志願しました。」
こう語った時、吉澤氏の目は涙をいっぱい湛えていました。
この時、海外のメディアの間に『フクシマ・フィフティ – 福島の50人』の呼び名が生まれました。
吉澤氏によればこの時の実際の人数は70名ほどで、ほとんどが中年以降の社員たちでした。
「全員が最後まで残って闘いつづけることを決心していました。」
続く数週間、嬉々の前線に立つ彼らは、言葉では表現できないような過酷な環境を耐えなければなりませんでした。
配達・配給は常に遅れ、食べ物は常に底を突き、口にできる水は2日間で500mlのペットボトル1本だけでした。
24時間交代制で働き、ビスケットで命をつなぎ、夜は放射線防護施設の中で睡眠をとる生活、吉澤さんの体重は急激に減少し、ひげは伸び放題でした。
選ばれた消防隊員たちが、過熱している原子炉内の注水に成功しました。
その瞬間、真っ暗な放射線防護室の中の空気が明るいものに一変しました。
「もう、おしまいだ…」
そして絶望の思いとともに作業員たちが口にしていたこの言葉が、いつしか聞かれなくなっていました。
消耗しきって、そしてくたくたの状態で、事故発生から一か月後、吉澤氏はいったん帰宅するため、東京駅に降り立ちました。
その日は晴れていましたが、東京は何事も無かったかのように機能していることに、吉澤氏は驚くとともに衝撃を受けました。
福島第一原発の過酷な現場で苦しい戦いを続けている吉澤氏とその同僚に対する認識は無く、ましてや感謝などはほとんど見出すことはできませんでした。
3月11日以前、数々の警告があったにもかかわらず、それを繰り返し無視し、今回の大事故を招いたとして批判を浴びた東京電力の職員達も、職場に留まったままでした。
昨年東京電力が国有化されたことにより、今後は一般国民が事故収束のための費用を負担しなければなりません。
たった一人の管理職社員も、福島で起きた事故の責任を取らされることはありませんでした。
国会事故調査委員会が現地調査を行なおうとした際、東京電力が『現場は暗すぎて、現地調査は不可能である』とうそを言っていたことが新たに明るみに出たことにより、会社の再建は中断されたままになっています。
この問題については、津波が到達する以前、原子炉が地震によって既に大きな損傷を受けていたことを隠ぺいするため、東京電力が証拠をつかまれないよう工作したのだという批判が巻き起こりました。
もしそのことが証明されれば、現在そのほとんどが停止している日本国内の50基の商業用原子炉の再稼働が、一層難しいものになってしまうのです。
昨年10月、当時の野田首相が福島第一原発を訪問して公式にねぎらいの言葉をかけることにより、吉澤氏たちの存在が一般に知られるまで18ヶ月という時間がかかりました。
しかしほとんどの作業員は名乗ることもせず、名を知られることも避けようとしました。
ひとつは福島の事故が日本全体に与えた影響の大きさから、もう一つは事故による影響に苦しむ人々が多数いる中、自分たちばかりが陽の当たる場所に出ることをためらう日本の伝統的な感覚がそれをさせませんでした。
中には事故への報復の意味で、自分の子供がいじめに遭う事を恐れている職員もいました。
東京にある東京電力の本社前には、常に警察車両が居て警戒を続けています。
現場にいた職員の口から予期しないことが公になることを恐れ、東京電力は『フクシマ・フィフティ – 福島の50人』をメディアの前に出すことを嫌っています。
吉澤氏へのインタビューの実現は、きわめて稀なことだと言わなければなりません。
しかし批判が東京電力に向かうような事実は、吉澤氏は決して明らかにしようとはしませんでした。
彼は、現場で働いた作業員たちが、カウンセリングと定期健康診断を受けられるように配慮した東京電力の対応を評価しました。
一定量以上の放射線被ばくをした作業員についてはリストが作成され、彼らは無期限でアフターケアを受ける権利を与えられました。
吉澤氏自身の内部被ばく線量は50ミリシーベルトで、アメリカの原子力発電所の労働者の一年間の限度量でした。
現在東京の本社で、廃棄物、核燃料、そして後方支援を担当している吉澤氏は、福島第一原発で行われている作業はまだまだ先が見えない状態だと語りました。
「あれ程の事故があった後で、核燃料を安全に取り出す作業に取り組んだ経験をした人など存在しません。」
何年かかるかわからない収束作業に、英国と米国の技術者が協力しています。
彼は福島に戻り、危機当時のことを思い出すと、居ても立っても居られない様な気持ちになります。
彼の家族は事故当時のことについて、決して触れようとはしません。
「妻も娘たちも府に関する報道は、テレビその他でいやというほど見せられました。もう見たくも聞きたくもないというのが本音かもしれません。
時々家族が私に『大丈夫?』と聞きたそうにすることがあります。私は本当のことを言うだけです、もう大丈夫、問題は無いよ、とね。」
▽ 先の見えない生活: 不当な境遇への怒り
福島第一原発の事故は発生から2年が過ぎた今なお、10万を超える人々を先の見えない、不安定な生活に追いやったままにしています。
補償金を受け取ったところで、放射能に汚染されてしまった故郷に戻れない苦しみが軽減されるわけではありません。
2011年3月11日、巨大地震と津波が福島第一原子力発電所の機能を奪ったため、16万を超える人々が住んでいた場所から強制的に避難をさせられました。
そして、数万の人々が自発的に去っていきました。
東京電力はこれら『原発避難民』の人々の生活費については補償を行っていますが、実質的に無価値になってしまった資産についての補償は行っていません。
グリーンピースによって最近まとめられた報告書は、補償を求めるため東京電力に提出しなければならない書類の書式が未だに複雑で分かりにくいこと、そして生活費の補償も不十分であり、資産の査定額も低すぎることを指摘しています。
昨年7月、東京電力が実施に移したこの補償のための仕組みは、日本政府が策定した『複雑で批判の多い』システムに準拠したものだと、その報告書には書かれています。
〈 完 〉
http://www.independent.co.uk/news/world/asia/i-am-one-of-the-fukushima-fifty-one-of-the-men-who-risked-their-lives-to-prevent-a-catastrophe-shares-his-story-8517394.html?origin=internalSearch
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下の写真集は東日本大震災発生2周年に合わせ、アメリカNBCニュースが2013年3月11日に再編集の上アップしたものです。
冒頭の写真、このような悲しい写真があるなどということは、今の今まで知りませんでした。
言葉もありません…
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[お詫びとお願い]
3月11日月曜日より【世界の原発世論2012・第2巻】の販売を行う予定でしたが、決済用の口座の確認作業の遅れにより、現在決済ができなくなっており、販売を延期せざるを得なくなりました。
ご購入をご検討いただいていた皆様には大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
講座更新手続きの完了まで、今しばらくお待ちくださいますよう、お願い申し上げます。
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【 悲しみと絶望の日々 】
アメリカNBCニュース 2011年3月
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)
4歳になった紺まなみさんが、習い覚えたばかりのひらがなで綴った手紙には、こう書かれています。
『ままへ。
いきてるといいね。
だいじょうぶですか。』
行方不明の母親あてにこの手紙を書くのに、まなみさんは一時間ほどかかりました。
まなみさんの父親も、妹も、行方不明のままです。
2011年3月22日、岩手県宮古市。
2011年3月29日、宮城県気仙沼市(写真下・以下同)。
2011年3月22日、岩手県釜石市。
2011年3月16日、宮城県南三陸町。
2011年3月11日、東京都新宿区新宿中央公園。
2011年3月11日、東京都内のホテル。