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【 刻一刻、地獄と化すフクシマ第一…そう、そこに、私もいました… 】《前編》

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所要時間 約 12分

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東日本全域を地獄と化させないため、踏みとどまった男たち
住民の側には自殺する人も現れ、強度のストレス、離婚、そして不自由な生活が原因の各種障害も増加

デイヴィッド・マクニール / ザ・インデペンダント(英国) 3月2日

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彼らは類いまれな勇敢さを示したというべきですが、そのことを理解している人はきわめて少なく、そしてどれほどの危機の中に踏みとどまっていたのかを知る人もまた、ほとんどいません。
デイヴィッド・マクニールは、3月11日のその瞬間に福島第一原発に居た、吉澤厚文(よしざわあつふみ)氏に直接話を聴くことができました。

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どのような制御も効かなくなる状況の中で、危険な放射能にまみれた原子力発電所内に、志願して戻っていくことについて、それはまさにそれは命がけの戦いだった…吉澤氏は今さらのように思い出しました。
彼が現場を去るために同僚たちに挨拶をした時、彼らは軍隊式の敬礼をもって応えました。
まさに戦争の中の状況に例えられることを避けることはできませんでした – 世界中のメディアが彼らの事をカミカゼ、サムライあるいはそのまま福島の50人の英雄と呼びました。

しかしこうした表現は、未だに吉澤氏をとまどわせています。
「私は、英雄などではありません。」
「自分の仕事をしようとしていたにすぎません。」

青い東京電力の作業服に身を包み、抑えた調子で、穏やかに話しをする吉澤氏ですが、福島第一原発で、事故が大災害に発展するのを食い止めるために戦った当時の事を、整理して話すのはまだ難しい様子でした。
チェルノブイリ以来、この地球上で最悪の原子力発電所事故が発生してからもう2年が経ちますが、その責任の所在についての議論は収まりそうにありません。
日本の国営放送のNHKによれば、今月、福島第一原発付近の海で獲れた魚からは、安全基準の5,000倍を超える放射性物質が検出されました。

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2月末に世界保健機関(WHO)が行った報告では、最悪の放射線被ばくをしてしまった女子乳幼児の場合、生涯の内に甲状腺がんを発症する危険性が70%上昇するとの警告が行われましたが、ほとんどの一般住民については、ガン発症の危険性は『低い』と結論しました。
福島第一原発の周辺で暮らしていた160,000人を超える住民が避難を余儀なくされ、その中には一生帰れない人も出てくるものと考えられていますが、現在充分な補償を求めて戦っています。
避難民の中には自殺する人も現れ、強度のストレス、離婚、そして不自由な生活が原因となっての各種の障害も増えています。

吉澤氏は自らが勤める会社が、今回のような危機を引き起こした事に「大きな責任」を感じていると語りました。

2011年3月11日、福島第一原発から160キロ離れた海底で発生したマグニチュード9.0の巨大地震によって引き起こされた一連の出来事について話していた時、吉澤さんの目が涙でいっぱいになるときがありました。

「思わず両手で膝を抱え込んだほど、その衝撃は大きなものでした。」
54歳になる技術者がこう語りました。
「隠れる場所もありませんでした。」

激しい揺れは壁から配管類をもぎ取り、駐車中の車を跳ね上げ、350ヘクタールある発電所の敷地内のいたるところで道路が崩れてしまいました。」
最初のうち、吉澤氏は発電所の緊急装置が稼働しているものと信じていました。
地震が発生した瞬間に、自動的に制御棒が稼働中の原子炉の炉心に挿入され、そこで起きている核分裂を抑え、『スクラム』と呼ばれる緊急停止状態が実現するはずだったのです。

しかし強烈な揺れは発電所内の主電源系統を壊滅させてしまい、そしておそらくはこの時点で1号機の冷却装置も機能しなくなり、そして49分後には想定していた高さの2倍の津波がこの発電所を襲うことになったのです。

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吉澤氏の担当は原子炉5号機と6号機で、地震が発生した瞬間には定期点検のため稼働を停止していました。
吉澤氏は発電所内の免震司令棟内に駆け込み、そこにいた吉田所長の傍らに待機しました。
その時吉田所長は、発電所が受けた損害の確認に忙殺されていました。
窓のまったくない隔離された部屋からは、津波が到達したときの様子を確認することはできませんでした。
13メートルから15メートルの高さにまでなった津波が、5.7メートルの防潮堤を乗り越えて福島第一原発施設内に殺到し、タービン建屋の基礎部分が水没しました。
原子炉建屋の海側には電気系統のスイッチ類があり、この水没により12ないし13基の緊急発電用装置と非常用バッテリーが使用できなくなってしまいました。
この装置こそが最後の砦だったのです。
原子炉の炉心に冷却水を送り込むことができなくなり、放射線量の測定も出来なくなりました。

ここにおいて、福島第一原発の技術者たちは、施設内の制御がまったく出来なくなりました。
そしてメルトダウンが始まったのです。

吉澤氏は、貯蔵庫の中の燃料タンクと車両が水の上を漂っているという報告を、初めて聞いた瞬間のことを思い出しました。
「そんな大きな津波が来るなどという事は、考えてもみませんでした。」
吉澤氏が語りました。
危機は急速に拡大しました。
全電源喪失からちょうど15時間後、原子炉1号機で溶けだしたウラン燃料が圧力容器の底を突き破りました。
2号機も3号機もいずれそうなるのは、時間の問題でした。

ここにおいて、付近の市町村から何万という人々の避難が始まりました。

しかし東京電力は全電源喪失などという事態の発生は予測しておらず、打つ手が全くなくなってしまったのです。

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発電所の従業員のほとんどが、家族の安否を確認するために帰宅しました。
吉澤氏の中で二つの選択肢が揺れ動きました。
「従業員たちの安全を優先すべきか、原子炉の完全な停止に取り組むべきか…」

吉澤氏自身の妻と2人の娘は、数百キロ南の横浜市に居ました。
彼は迷いませんでした、そして家族のもとに帰ろうとは考えもしなかったのです。
「他の人々にとっては違和感があるかもしれませんが、私たちは仕事を続けることを選んだのです。東京電力の職員たちは、あたりまえのことのように危機に対処することを選択しました。」

吉澤さんは事故直後、2、3日の間発電所を出て、5キロ離れた大熊町の対外対策ビルディングに拠点を置いていました。
しかし3月15日から16日にかけ、福島第一原発の事態は最も重大な危機を迎えることになりました。

続けざまに発生した水素爆発により、ほとんどの場所に鋼鉄の部品とコンクリートの残骸が飛び散り、発電所内はどうしようもない混乱に陥りました。
3基の原子炉がメルトダウンを起こし、4棟の原子炉建屋では本当なら5メートルのプール深く沈んでいなければならない1,000本を超える核燃料棒が、プールの水が沸騰して蒸発してしまったため直接空気に触れてしまい、むき出しの状態で核分裂反応が発生する恐れが出てきたのです。
最悪の瞬間が続く中、吉澤氏は他の技術者とともに、破滅の到来の予感に身を震わせました。
この状況により、今度は福島第二原発10㎞圏内の人々の避難が開始されたのです。
〈つづく〉

http://www.independent.co.uk/news/world/asia/i-am-one-of-the-fukushima-fifty-one-of-the-men-who-risked-their-lives-to-prevent-a-catastrophe-shares-his-story-8517394.html?origin=internalSearch

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「この記事、どこかで読んだような…?」
そうお感じになった方もいらっしゃると思います。
実は同じ題材を扱った記事、しかもインデペンダントと同じ英国メディアの記事を、【星の金貨】ではすでに2回掲載しています。

エコノミスト 2012年10月27日付( http://kobajun.biz/?p=6298 )
ガーディアン 2013年1月11日付( http://kobajun.biz/?p=8583 )

それでも掲載したのは、これまでも福島第一原発の問題について、私たち日本人が知らない情報を数多く提供してくれたデイヴィッド・マクニール氏の手による記事であるからです。
読んでみると、やはり充実した内容になっています。
長いため、2回に分けてご紹介することにしました。

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[お詫びとお願い]
3月11日月曜日より【世界の原発世論2012・第2巻】の販売を行う予定でしたが、決済用の口座の確認作業の遅れにより、現在決済ができなくなっており、販売を延期せざるを得なくなりました。
ご購入をご検討いただいていた皆様には大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
講座更新手続きの完了まで、今しばらくお待ちくださいますよう、お願い申し上げます。

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【 津波襲来から2年、今なお続く遺体の捜索 】

アメリカNBCニュース 3月11日
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)

宮城県石巻市、大勢の子供たちが犠牲になった大川小学校付近、2013年3月11日。

宮城県石巻市、大勢の子供たちが犠牲になった大川小学校付近、2013年3月11日。


福島県浪江町、2013年3月11日。

福島県浪江町、2013年3月11日。


宮城県気仙沼市、2013年3月11日。

宮城県気仙沼市、2013年3月11日。


宮城県南三陸町、、2013年3月11日。

宮城県南三陸町、、2013年3月11日。


宮城県南三陸町、2013年3月11日。

宮城県南三陸町、2013年3月11日。


岩手県陸前高田市、左が、2011年3月17日、右が2013年3月11日。

岩手県陸前高田市、左が、2011年3月17日、右が2013年3月11日。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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