ホーム » エッセイ » 【 オキナワ戦 : 沖縄の人々にとっての太平洋戦争 】《1》
沖縄を『たたきつぶす』ために、戦史上最大規模の火力と物量を集中させたアメリカ
世界の軍事史上、これ程の距離をこれ程の物量を移動させて陸海空合同の作戦が行なわれた例は他にない
前途に希望の無い戦いで、日本軍将兵10万と沖縄県民10万が無残に殺されることになった
クリストファー・ドン / アメリカCNNニュース 2015年3月13日
1945年3月に行われたフィリピンのルソン島全域に対して行われた攻撃を例外にすれば、沖縄戦はアメリカにとって第二次世界大戦を通して最大規模の上陸作戦になりました。
1945年4月1日日曜日復活祭に開始された作戦は、町でも、村でも、凄惨な戦いが展開されました。
この当時の沖縄の人口は500,000ほどでしたが、中には人を寄せ付けないような山岳地帯や深く切れ込んだ谷あいに暮らす人々もいました。
攻撃するアメリカ側にとって、この戦いは物資補給と戦略立案の戦でもありました。
「かつて見たことも無い規模の攻撃は、総勢545,000人のアメリカ陸軍兵と海兵隊員を乗せた遠洋航海に耐えうる1,600隻の艦船がオキナワに押し寄せました。」
歴史家ロバート・レッキーはその著作『悪魔からの贈り物 : 第二次世界大戦物語』の中にこう記しました。
「あらゆる武器を合わせた火力、兵員数、そして動員された艦船の総トン数は、いずれも史上有名なノルマンディー上陸作戦のそれを上回るものでした。」
ロバート・レッキーが『物量の化け物』と表現したアメリカ軍の装備は、7,500マイル離れたアメリカ西海岸からわざわざ運ばれてきました。
世界の軍事史上、これ程の距離をこれ程の物量を移動させて陸海空合同の作戦が行なわれた例は他にありません。
そして沖縄の地上は、はたちまち残虐な大量殺戮の場と化しました。
一度の戦いで過去例のない犠牲者を出しながら、アメリカ軍は人間としての常識を超えた執拗さと勇敢さを示す日本人がこもる拠点をひとつひとつつぶしていく作業に没頭せざるを得ませんでした。
それらの拠点には軍人だけでなく、民間人もいました。
長年続いた戦争と物資や食料の窮乏に疲れきった日本人は、南部の海岸線に沿った最終的な防衛線に向けじりじりと後退して行きました。
最早アメリカ軍が300メートルの至近距離にまで迫って来た時、牛島満中将と参謀長の長勇中将は礼装に着替え、海を見渡せる場所にある司令部壕に敷かれた白い布の上に正座し、武士の作法に則り割腹自殺しました。
6月22日、公式に沖縄戦の終了が宣言されました。
約100,000人の日本兵が、80,000人とも100,000人とも言われる民間人とともに死亡しました。
一方、アメリカ軍側の犠牲者も死亡12,520名に達しました。
このうち5,000名の将兵が海上で命を落とし、アメリカ海軍史上最悪の犠牲者数を記録することになりました。
負傷者の数も37,000人に上りました。
どれをとっても、沖縄は太平洋戦争で最も多くの血が流された場所になったのです。
沖縄本島は、日本の本土から600キロメートル離れた場所にあり、この後予定されていた日本本土上陸作戦の、たちまちに巨大な物資兵員が集積するアメリカ軍の基地と化したのです。
しかし沖縄戦が終了した6週間後、広島と長崎に原子爆弾が投下され、日本本土への上陸作戦は必要が無くなりました。
そしてアメリカ軍は、沖縄を出発する機会を永久に失ったのです。
そして今日、国際報道で取り上げられる沖縄とアメリカ軍の関係は、周辺海域での外交的緊張、活発な軍用機の活動、そして無法な振る舞いに及ぶアメリカ軍兵士とその関係者に象徴されることになったのです。
このような沖縄の歴史を理解すれば、外の世界の人々はそこに怒りに満ちた人々が多数暮す単純な世界をそうぞうするかもしれません。
海外のものに対しては何にでも、特にアメリカ人に対して強烈な拒否感情を持っている人々を。
しかし現実はそうではありません。
沖縄にいるのはとても人間的で、そしてきわめて寛容な人々です。
沖縄の那覇空港に到着し、最初に目に入るのは 「めんそーれ」という言葉です。
それは沖縄へようこそと言うほどの意味です。
この言葉は商店の壁に貼られたバナーにも書かれ、ときには暖かく微笑みながら沖縄の人々からあなたに向けられます。
あなたはこう考えるかもしれません。
「長い年月、大編成の外国の軍隊が駐留を続ける環境に置かれていても尚、沖縄の人々は幸せでいられるのだろうか?」
《2》に続く
http://edition.cnn.com/2015/03/12/travel/okinawa-world-war-ii-travel/index.html
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
原題はWorld War 2 なので、第二次世界大戦と訳すか太平洋戦争とするか迷いました。
全島を地獄にしてしまった戦争を沖縄の人々が普段どう呼んでられるのか、その知識がないためです。
米軍基地がらみの事件や今の基地移転問題に動きがあると、沖縄の問題がクローズアップされますが、しかし沖縄の人々の心までを思い測った報道がきわめて少ないということに改めて気がつきました。
そして私たち「本土」で暮らす人間に最も欠けているものは、沖縄の人々の心を理解しようという姿勢だと感じました。
全3回のこの稿では、最後に「沖縄の心」について語られる部分があります。
私自身はその締めくくりに最も強く感動しました。
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
【 2016年報道写真50選 】《4》
アメリカNBCニュース 2016年12月21日
8月17日山林火災の後、カリフォルニア州キーンブルック近郊のライトル・クリーク通り脇の丘、で、尚も燃え続ける付近の山。
不規則で移動速度が極めて早い延焼により、南カリフォルニアでは90平方キロ以上の山林が焼失、数千人が避難する騒ぎとなりました。(写真上)
1月19日イラク国境に近いトルコ南西部のクルド人が暮らす町シロピで、破壊された家屋の中に立つ子どもと母親。(写真下・以下同じ)
トルコ政府は国内南西部の市街地から、民族の分離独立を目指すクルディスタン労働者党の勢力を一掃するため、夜間外出禁止令を出した後一斉攻撃を行いました。
8月17日シリア北西部のアレッポに対するアサド政権側の空爆の後、倒壊した建物の中から救出され、救急車の中で搬送を待つ5歳の男の子オムラン・ダクニーシュ。
倒壊現場からオムランと家族を最初に救出したのはボランティアの救助隊ホワイト・ヘルメットでした。
血だらけのまま呆然とする男の子の姿は、戦争で荒廃したアレッポで暮らす恐怖を象徴する写真として、ソーシャルメディアを通し世界中に波紋を広げました。
11月20日にアメリカ、ノースダコタ州のキャノン・ボール郊外のロック・インディアン居留地のそばで、ダコタ・アクセス・パイプラインの建設計画への抗議デモを行う人々に放水する警察。
8月以降イリノイ州にある製油所まで石油を送る総工費4,460億円のこのプロジェクトは4州の数千人の住民が影響を受けることになります。
ノースダコタとサウスダコタの州境にまたがるインディアン居留地の人々は、飲料水と彼らの聖地が汚染されるとして激しく反対しています。
この争いは現在法廷に持ち込まれていますが、裁定は2017年の1、2月前後になる予定です。
4月28日シリア、アレッポで24時間近く続いた包囲攻撃と空爆により、負傷し、ほこりまみれになった女性。この攻撃では市民60名以上が死亡しました。
http://www.nbcnews.com/slideshow/year-pictures-2016-n697021