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【 オキナワ戦 : 沖縄の人々にとっての太平洋戦争 】《2》

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所要時間 約 10分

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戦争当時の日本軍将兵、そして沖縄の人々の心中を思いやれば、暗い気持ちにならざるを得ない

残酷きわまりない戦いを強いられた人々の史跡は、まさに『戦争の傷跡(きずあと)』

 

クリストファー・ドン / アメリカCNNニュース 2015年3月13日

 

沖縄の人々の多くが寛容であることの理由、その答えの重要な部分が極めて残酷な体験を沖縄の人々に強いた太平洋戦争の教訓に根ざしています。

島の全域、特に沖縄本島の那覇市にアクセスしやすい場所に、沖縄戦を記憶に留めるため、戦いの跡が保存され記念碑などが作られました。

これらの施設は悲惨な戦争の記憶を風化させないようにしていると同時に、平和の大切さを知り尽くしている沖縄の人々の心を象徴するものでもあります。

 

▽戦争の傷あと

 

つい最近、私は沖縄戦の史跡を自分自身の目で確かめるため、親友であるケイラに伴われジャングルの中で調査旅行を行いました。

ケイラは夫が沖縄の米軍基地に任官した際、一緒に沖縄に引っ越してきました。

大学でアメリカ史を学んだケイラは、これを機に個人の歴史研究家として沖縄戦について研究することにしたのです。

「私たちにとって非常に身近な出来事でありながら、多くの見落としがあることに気が付きました。」そして彼女自身の手による沖縄戦の研究が、アメリカ史についての彼女の研究にこれまでとは明らかに違う視点を与えることになったと語りました。

 

「やっと今、全貌が見えてきたように感じています。しかし沖縄戦を理解するためにはすべての建造物や施設を目の前から消さなければなりません。そうしなければ沖縄戦の本当の姿は明らかにはなりません。」

 

▽中城(なかぐすく)村の監視廠

 

ケイラは私を雑草が生い茂る急な坂道を登ったところにある、中城村の驚くほど保存状態の良い第二次世界大戦(太平洋戦争)当時の日本軍の監視廠に連れて行ってくれました。

 

高台にあるこの陣地は海抜のメートルそのままに『161.8高地陣地』

161.8人のコウウチ・ジンチまたは「高い地面位置」(海抜161.8メートルでそのピークに任命される)は、丘の頂上に高い所に置かれます。

この監視廠は鉄筋コンクリートと石を組み合わせて建造されており、沖縄本島の中央部にあって四方を見渡せるようになっており、はるか海上まで監視の目が届くように作られていました。

日本軍は塹壕と洞窟を利用した地下通路も整備し、広域をカバーする防御線を見張るためこの監視廠を建造したのです。

 

注意深くこの監視廠を観察すると、生々しい戦争の傷あとがいたるところに残っていることに気づかされます。

そして最も衝撃的な事実は戦争が起きる200年前、この場所が当時の琉球王朝の聖地、『きしまこのたき』という名の祈りを捧げる場であったという事です。

 

現在の那覇市にある首里城の北東方向の宜野湾市を通り、161.8高地陣地が作られた中城城址を通るルートは、かつての流経王国の史跡が数多く残る歴史的コースの一部でもあります。

この史跡が点在するルートは歩いて巡ることもできますが、現在その50%が改修中です。

 

161.8高地監視廠はこルートのちょうど中間地点にあり、一般公開されている中城城址からも行きやすい場所にあります。

沖縄自動車道を利用することも出来、目印になる建物として中城北中城消防本部があります。

 

▽ 日本海軍司令部濠

 

現在の沖縄県豊見城市にあるのが、沖縄戦当時、前進を続けるアメリカ軍に対し太田実少将が指揮する海軍部隊が最後の抵抗を行った地下司令部です。

半円形の洞窟を組み合わせて作られた全長450メートルのこの地下司令部は、4,000人の収容能力がありました。

この司令部は日本軍将兵と沖縄の住民が、つるはしとシャベルを使って文字通り食うや食わずで掘り上げたものでした。

 

これらの洞窟内を一巡すると、自分が心に重くのしかかる経験をしたことに気づかされます

一般見学者に公開されているのは300メートルの回廊ですが、そこには司令部員の宿舎、各兵員の戦闘配置位置、そしてアメリカ軍が突入して来る前に太田少将とそのスタッフが自決した際、手りゅう弾の破片によって傷つけられた壁面の残る施設があります。

 

▽ひめゆり平和祈念資料館

 

ひめゆり平和祈念資料館にはひめゆり学徒のメンバーの肖像写真が展示されています。

ひめゆり平和祈念資料館は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された240人のひめゆり部隊の記憶を風化させないことを目的に建造されました。

米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、女子生徒222人と引率教師18名が沖縄陸軍病院に看護要員として動員されました。

彼女たちは洞窟内に設けられた野戦病院で過酷な状況の中で働き、不潔で劣悪な環境で生活していました。

そして正視に堪えないような重傷を負った兵士の看護、そして兵士たちが次々と命を落としていく過酷な現実に直面することになったのです。

 

看護師のアシスタントとして働く任務を与えられ、彼女たちは文字通り寝る暇もなく負傷兵の看護と介護に明け暮れる日々を過ごしました。

そして止むことなく爆撃や砲撃の中をかいくぐり、負傷兵や病院スタッフのために水や食料を調達し、そして命を落とした人々を葬る役割も担ったのです。

 

彼女たちに捧げられた1989の献辞の中で、沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団は日本軍の沖縄防衛線が崩壊した後、彼女たちの運命がどのような経路をたどったかを解説しています。

生命の損失は圧倒的なものでした。

240人のうち、227人が死亡したのです。

 

ひめゆり平和祈念資料館は野戦病院があった洞窟の入り口の前にあります。

ここを訪れる人の多くが命を落とした人々のために祈りや黙とうを捧げています。

そして献花の絶えることがありません。

 

《3》に続く

http://edition.cnn.com/2015/03/12/travel/okinawa-world-war-ii-travel/index.html

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【 2016年報道写真50選 】《5》

 

アメリカNBCニュース 2016年12月21日

 

10月26日フランス、ノルマンディー地方のカレーにある『ザ・ジャングル』と呼ばれる難民キャンプから上がる煙を丘の上から眺める難民たち。(写真上)

難民は貧困や戦争から逃れてヨーロッパに流れ込んでそのまま英国に渡ろうとしたものの、海峡を越えることが出来ずにこの地に臨時のキャンプ村に滞在を続けています。

しかしあまりに不潔な環境が人道問題化するのを見かねたフランス政府が大規模な撤去作業に乗り出しました。

 

12月19日にトルコ、アンカラの写真ギャラリーでアンドレイ・カルロフ・ロシア大使を射殺した後に叫ぶ銃撃犯の男性。(写真下・以下同じ)

襲撃したのはアンカラの22歳の機動隊員で、射殺死体の脇でシリア内戦におけるロシアの干渉を厳しく糾弾しました。

彼はこう叫んでいました。

「アレッポを忘れないでくれ! シリアを忘れないでくれ!」

この後駆けつけた警察と銃撃戦になり、その場で射殺されました。

7月9日のイラクのカラダで起きたトラックを使った自爆テロの後、治療を受けた後父親に抱かれた4歳の女の子。

イスラム教の休日に母親と一緒に買い物に出た後、二人はテロに巻き込まれ大やけどを負いました。

7月6日、ナイジェリア北部、イスラム教の断食月、ラマダン終了を祝い衛兵と楽隊を引き連れてパレードする現地の土侯。

10月24日、イスラム国(ISIS)からイラク第2の都市モスルを奪還する政府軍の軍事作戦が開始され、近くのカイヤラー郊外に集団で避難した住民たち。

イラクで2番目に大きな都市モスルはかつて、多数派のスンニ派イスラム教徒のアラブ系住民に加え、クルド人、シーア派イスラム教徒、キリスト教徒とヤジズ教徒などが共存する最も多文化的な場所でした。

彼らは渾然一体となって独自の料理や文化を持つ経済圏として繁栄していました。

しかしISISの支配により、モスルは飢えと恐怖の代名詞と化してしまったのです。

http://www.nbcnews.com/slideshow/year-pictures-2016-n697021

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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