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【 日本は第二次世界大戦の結果をありのままに受け止めるべきである 】

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所要時間 約 9分

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なぜ日本だけが世界で唯一、第二次世界大戦の結果をありのままに受け入れることができないのか?

北方領土交渉、日本、ロシアともに国内からの反発に遭遇

写真:千島列島の一つ、千鶴島に遺棄されたソ連軍戦車

ドイチェ・ヴェレ 2019年1月16日

       

ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は1月16日、日露間の平和条約の話し合いを前進させるため、日本が第二次世界大戦の結果を受け入れるよう要求しました。
日本とロシアは第二次世界大戦の終結以降、未だに平和条約を締結していません。

        

ラブロフ外相は日本が第二次世界大戦の結果を完全に受け入れるつもりがあるのかどうか、疑問を呈しました。
同外相は領土問題を解決し、平和条約を締結できるかどうかは、この日本の対応如何にかかっていると語りました。
年頭の定例記者会見でラブロフ外相は、日本が第二次世界大戦の結果を認識することは「最後通牒でもなければ前提条件でもない」と語りました。

       

「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れることは、今日の国際システムにおいて不可避かつ不可欠な要素です。」
ラブロフ外相はこう語り、次のように付け加えました。
「なぜ日本だけが世界で唯一、第二次世界大戦の結果をありのままに受け入れることができないのか?」

        

日本政府は「平和」を望んでいる

        

第二次世界大戦が終結した後も、日本とソビエト連邦(現ロシア共和国)は平和条約に署名しませんでした。
1956年、日本とソビエト連邦はソ連軍が第二次世界大戦の最末期に奪取した千島列島の一部を形成する2つの島、色丹と歯舞の2島を日本に返還する用意があるという共同宣言を発表しました。

         

ロシア政府は、日本が領土交渉の基礎としてこの文書を受け入れるように促しました。
しかし日本側はロシア政府が協議において既成事実を濫用していることを自覚しているはすだと繰り返し述べてきた。

写真:信州島に遺棄された日本軍戦車

「私たちは北方領土問題を解決し、平和を実現するという日本の基本的な方針に基づいて継続的に働きかけを続けています。」
1月始め須賀官房長官はこう述べました。

色丹と歯舞の2島を含む千島列島(ロシア名クリル列島)は第二次世界大戦の最末期ソビエト連邦に占領されました

         

紛争が続く海域

         

ロシアのプーチン大統領と日本の安倍首相は1月22日、モスクワで平和条約について協議を行う予定になっています。
平和条約は第二次世界大戦の日本・ロシアの敵対行為を正式に終結させる道を開くものになります。

         

2018年末、プーチン大統領と安倍首相は和平交渉を加速させることで合意しました。
しかしその後、日露両国ともに国内の反対運動に直面することになりました。
デモ隊はロシアでは島々の支配権を譲渡することに反対し、日本では北方領土全島の返還を実現させるよう政府に要求しました。

         

https://www.dw.com/en/russia-urges-japan-to-accept-the-result-of-world-war-ii/a-47102603

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【 写真集:大日本帝国に君臨した戦争犯罪者 】

           

東條英機(写真上・以下同じ)

東條英機は、1941年から1944年までの日本の首相であり、大日本帝国軍の参謀総長でした。
彼は400万人の中国人の殺害に責任があると同時に、捕虜に対する生物学的実験を指揮命令したとして起訴されました。
1945年に日本が降伏した後、彼は拳銃自殺をはかりましたが、失敗しました。
その後罪状を認め、1948年に絞首刑に処されました。

         

土肥原賢二

この「中国の専門家」は1912年、北京で秘密工作員を皮切りにその経歴を作っていきました。
中国語の標準語である北京語といくつかの中国語の方言を流暢に話した土肥原は、中国の最後の皇帝、溥儀(宣統帝)と共に「満州帝国」を設立しました。
満州国は日本の支配下にある傀儡政権でした。
1940年、土原は日本の真珠湾攻撃の実現にも尽力しました。
そしてその8年後に絞首刑にされたのです。

        

松井岩根

松井は1937年に一週間のうちに約30万人の中国人が殺された南京大虐殺に関わったとして起訴されました。
今日の歴史研究者は大虐殺の決定は大日本帝国の皇室関係者によってなされたと考えていますが、当時、皇族関係者が起訴されることはありませんでした。
結局戦時法廷は松井に「クラスB」の戦争犯罪者として有罪判決を下しました。
彼は1948年に処刑された。

         

木村兵太郎
1939年に日本が中国東北部で始めた中国共産党の軍隊に対する戦争は残忍なものでした。
その遂行者が木村兵太郎です。
木村兵太郎は数千人が命を奪われた強制収容所を設立しました。
1944年に木村は軍司令官としてビルマに派遣されました。
彼は捕虜を使ってタイとビルマを結ぶ全長415キロの泰面鉄道を建設しました。
この工事期間中に約13,000人の捕虜となっていた連合軍兵士が死亡しました。
彼は1948年に絞首刑に処されました。

        

広田弘毅

広田は1937年2月まで日本の首相を務め、その後外相に就任しました。
彼は南京大虐殺に関わったとして起訴されました。
非軍人で1948年に絞首刑にされたのは広田ただ一人でした。

       

板垣征四郎
1931年9月18日、板垣は満州北東部の鉄道を爆破し(柳条湖事件)、日本はこれを中国に対する宣戦布告を行うための口実として用いました。
板垣はこの後1945年に大日本帝国が降伏するまで北朝鮮、インドネシア、マレーシアで戦った。
彼は戦争を拡大した罪で1948年に絞首刑に処されました。

       

武藤章
日中戦争勃発以来武藤は継続して中国で戦っていましたが、後になって南京大虐殺を含む残虐行為に関わっていたことが明らかにされました。
極東軍事裁判では、武藤は捕虜を飢えさせただけでなく、彼らを「拷問し殺害」したとされ、1948年に絞首刑に処されました。

         

松岡洋右
複数の国際連盟加盟国によって日本が中国との戦争を一方的に開始したとして非難されると、日本は松岡洋右のリーダーシップの下で国際連盟を脱退しました。
松岡は1940年から1941年の間に外務大臣を務め、日本、ナチス、ファシスト党が支配するイタリアとの三国同盟の共同調印者の一人でした。
1946年に彼は極東軍事裁判において刑を宣告される前に、結核で死亡しました。

          

長野修身
1941年12月7日、パールハーバーの米海軍基地への日本の奇襲攻撃の支持者である長野大将は、実際に攻撃を命じた人間です。
12人の米軍艦は沈没または大破し、2,400人以上のアメリカ人兵士が殺害されました。
1946年に彼は極東軍事裁判において刑を宣告される前に、肺炎で死亡しました。

         

白鳥敏夫
彼は日本の戦争プロパガンダを率いていた人物です。
白鳥は日本のイタリア大使であり、大日本帝国、ナチスドイツ、ファシストイタリアの三国同盟の成立に奔走しました。
白鳥は外務省顧問として、「表舞台と舞台裏」の両方で持ち前の全体主義思想の拡大普及に尽力しました。
白鳥は極東軍事裁判で終身刑を宣告されましたが、1949年にがんのため死亡しました。

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