ホーム » エッセイ » 実録『トモダチ』作戦・第4部「放射能汚染」[第4回]「前頭葉にできた、難治性の脳腫瘍。変わってしまった人生」
なぜ米国国防総省は、放射線被ばくの記録を闇に葬ろうとしているのか?
ロジャー・ウィザースプーン / ハフィントン・ポスト 3月15日
原子力発電技術のエキスパートであり、放射性物質の拡散に関する専門家であるアーニー・ガンダーセン氏がこう語りました。
「私は始めから『トモダチ』作戦医療記録簿については、信頼はしていませんでした。」
「第二次世界大戦終了間際、ユタ砂漠で行われた兵士を使った核実験の報告においても、国防総省が制作した生存者に関する(実験後、爆心地近くの塹壕に待機させられていた兵士のうち、多数が放射線障害や癌により死亡した)医療記録簿はでたらめでした。
兵士たちの実際の被ばく線量は、国防総省が発表した数値を大きく上回っていました。」
「あの実験で国防総省が兵士たちをどんな目に遭わせたか、そして放射線の影響についてはその影響を限りなく小さく見せようとした、そのことを知っている私としては、最新の発表に対しても信頼など持ちようがありませんでした。
アーニー・ガンダーセン氏は『トモダチ』作戦医療記録簿の継続が棚上げされてしまったことについて、「失望しましたが、驚く程の事ではありません。」と語りました。
空母ロナルド・レーガンの乗員たちは、作戦の実行を命じた国防総省の高官が主張するよりはるかに多量の被ばくをしてしまった、ガンダーセン氏はこう指摘しました。
さらに、多くの乗組員たちに放射線被ばく特有の症状が現れており、それを集団ヒステリーの名の下に片づけるわけにはいかないと、が語りました。
「最も大きな予想もしていなかった問題は、不活性ガスです。これは空母ロナルド・レーガンの上を吹き過ぎていき、船内に滞留することはありませんでした。しかし、この時甲板に出ていた人々がこのガスを吸い込んでしまったのです。
甲板上の放射性物質を洗い流そうとして、モップなどをかけていた兵員たちです。こんなことをさせるべきではありませんでした。
しかし100マイル(約160キロ)も離れた海上で、沿岸から飛来して来ることなど想像もできないかもしれませんが、きわめて残念なことに、彼等はそれを吸い込んでしまったのです。
彼らの肺の中は空母の甲板や海洋中と同じように、汚染されないわけにはいかなくなってしまいました。
そして国防総省の高官達は誰一人、兵士たちの肺の中にある放射性物質の事を計算に入れようとはしなかったのです。」
深刻な問題が発生してしまったことに最初に気がついたのは、『トモダチ』作戦に参加した兵士、当の本人達だったのです。
▽並行して発生した問題
「私の場合、昨年初めにアメリカ南部の母港に帰還していた時に、健康問題が明らかになりました。」
F18戦闘機の整備士で、USSロナルド・レーガンの危険物取扱責任者のジェニフアー・ミックがこう語りました。
2012年3月30日、私はカリフォルニアの基地で命令変更を受けるため、起立整列していました。その時初めて意識を失い、倒れたのです。」
「医務室に運ばれましたが、その時は単なる脱水症状だろうと言われ、水を一杯飲まされました。しかし4月29日、再び倒れ、今度は緊急措置室に運ばれました。その時私は、頭痛がすると言ったのです。」
彼らは
「多分、倒れたときに頭を打ったのだろう。」
とかたり、私の脳のCTスキャンを行いました。そして、腫瘍が見つかったと話し、それから2度の手術を受けました。
そして私は海軍を辞めざるを得なくなったのです。
正確に言えば、医師がジェニファーの前頭葉に発見したものは、悪性度2の乏突起星細胞腫(ぼうとっきせいさいぼうしゅ・脳腫瘍の一種)です。この癌は脳の中で言語中枢を司る左の前頭葉にできやすい、悪性の治療が難しいガンです。
手術によってガンを取り除いた部分には空洞ができる場合があり、脳全体の構造がゆがんで、二次的症状を引き起こす場合があります。
2012年秋に行われた2度目の手術の後、ジェニファーは『今のところ、癌細胞の増殖は認められない。ガンを取り除いた後の脳内の部分にも異常は見られず、落ち着いています。』と告げられました。
「私は自分の脳の組織がきちんと活動していると思っています。もっと悪い結果になる可能性もありましたが、幸いそうはなりませんでした。今はどういうトラブルもありませんし、痛むわけでもありません。」
「私は2か月おきに通院し、検査を受ける必要があります。たくさんのストレスがかかりますが、それ以外の問題は感じていません。」
彼女は今、生まれ育った場所、ウィスコンシン州にある両親の農場に戻り、ガンの再発に備える生活を送っています。
「現時点では私は数多くの医師による診断を受けなければならず、週5日フルタイムで働くことは困難な状況です。私は車を持っていないため、どこに行くにも両親に乗せて行ってもらわなければなりません。」
ジェニファーは先を見通せない生活に耐えることに、何とか自分を慣れさせることが出来ました。
「私の未来は、取り返しがつかない程捻じ曲げられてしまったわけではありません。」
彼女がこう語りました。
「私は少しでも良い仕事に就くため、大学に通おうと思っています。そしてもちろん、これからも生きていきます。癌については、これからうまく付き合っていくつもりです。体には手足がついているのと同じです。
「今日を精一杯生きれば良いのです、そして自分を見失わないように。楽しめるだけ、これからの人生を楽しむつもりです。」
「私がこの訴訟の原告になったのは、私を見舞ったのと同じ悲劇が繰り返されないようにするためです。誰かが責任を取らなければなりません。」
「長期的視野に立った場合、真実を隠すことが人々の生命にかかわる事であることが解ります。私は真実が隠されることで、人々の命が危険にさらされるのを、これ以上見たくないのです。」
「海軍に関しては、あの状況の中で果たしてどれだけのことが出来たか、未だに判断できません。放射性に対応するための訓練もありませんでした。海軍は限られた情報しかない中で、最善の努力をしたと思っています。そして一緒に働いた仲間たち、そして任務のため私が居たすべての場所に対し、私は限りない愛情を持っています。」
多少とも恵まれていたのは、最初の発作を起こしたとき、そして正式な病名が判明した時、彼女はまだ海軍に在籍していたという事でした。
海軍に在籍している限り、彼女の病状の推移は正確に記録され続けました。
しかし、そうでなくなる可能性が出てきたのです。
「医師たちは私の病気が『トモダチ』作戦に参加したものによるものかどうか、まだ結論を出していません。」
ジェニファーがこう語りました。
ジェニファーは在任中に完治の難しいガンを発症したにもかかわらず、退役してしまった今、何の補償も受けられない可能性が出て来たのです。
〈 第4部・第5回へ続く 〉
A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 4 Living with the Aftermath
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【 魔女が死んだ 】
全ての人がその死を悼んでいる訳では無い、という現実
アメリカNBCニュース 4月9日
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生前からその評価は分かれていましたが、マーガレット・サッチャー元英国首相はその死によっても英国を二分することになりました。
厳粛な葬儀に参列し生前の業績に賛辞を捧げる人々、そして一方ではパーティを開催し、その死を祝う人々もいます。
彼女の急進的な、右翼的政策は英国の近代化においてその業績を評価される一方、多くの雇用機会と伝統産業を破壊し、批判的立場の人々を多数作り出すことになりました。
首都ロンドンの南部、ブリクストンでは、急きょパーティの開催が決定し、会場となるパブの上に『魔女は死んだ』と書かれた横断幕が掲げられました。
「この20~30年の間に英国で起きた様々な忌むべき事を象徴する人物、それこそがサッチャー元首相なのです。」
40歳になったグラフィック・デザイナーのベン・ウィンザーがこう語りました。
警察当局は路上での祝賀パーティが開催されたブリストル地区で軽度の騒乱が発生し、6人の警察官が軽傷を負ったと発表しました。
スコットランドのグラスゴーでは、200人以上の人々が市役所前の広場に集まり、シャンペンをかけ合い、ダンスをし、バグパイプを演奏するなどして前首相の死を祝いました。
「サッチャーの遺産、それは貧困と格差、そして人権の抑圧です。だからこそ私たちはここに集まり、そのことを忘れないようにしているのです。」
ジョナサン・シャフィが地元のヘラルド紙の取材にこう答えました。
ロンドンでは、故サッチャー元首相の自宅玄関前には、1リットルの牛乳瓶が置かれていました。故元首相は1970年代に導入された小学校の子供たちに無償で牛乳を配る制度を廃止しました。
この措置に対し、当時「サッチャーはミルク・スナッチャー(どろぼう、かっぱらい)」という批判が浴びせられました。