ホーム » エッセイ » 実録『トモダチ』作戦・第4部「放射能汚染」[第3回]全員のデジタルウォッチが、一斉に停止した!
閉じられてしまう記録、閉ざされる救済への道
ロジャー・ウィザースプーン / ハフィントン・ポスト 3月15日
「私は、腕にデジタル時計をしていました。」
と、操舵手のジェイミー・プリムが語りました。
「その時計が突然止まったのです。誰かが放射線のせいでそうなることがあると軽口をたたきました。その時甲板にはデジタル腕時計をしている兵士が5~6人いたのですが、それぞれ自分の時計を確かめてみました。
そしたら全員の時計が止まっていたのです。」
「始めはみんなゲラゲラ笑っていました。でもだんだん笑えなくなってきたのです。笑っている場合じゃない、だんだんそれが解ってきて、私たちは互いに顔を見合わせました。」
甲板の下で働いている兵士たちは、相変わらず情報がほとんど無い状態が続いていました。
ジェニファー・ミックによれば、ジェット戦闘機の整備士たちは帰還した機体からほとんどの部品を取り外し、放射線量の測定をしなければならなくなりました。
巨大な格納庫エレベーターの使用は、制限されていました。
「ハッチに見張りが置かれるようになりました。」
ジェニファーが当時をこう振り返りました。
「そこから飛行隊員たちが出ていくところだったのですが、折りたたみ椅子がその前に置かれ、誰かが不用意に甲板に出て行かないよう、見張りが強化されました。」
「甲板への出入りは正面の出入り口に限定されました。これ以上艦内が汚染されないようにするためでした。」
「彼らはほとんど1日中そこに居て、間違った方に行こうとする人間を怒鳴りつけていました。」
ジェニファーは、今や飛行甲板が汚染されてしまっているという事を、嫌でも思わざるを得ませんでした
私たちは飛行甲板から降りてくるたび、履いていたブーツをこすり洗いしなければなりませんでした。そして洗ったブーツは、1か所にまとめて積み上げられました。
次に飛行甲板に出るときは普通のブーツの上にそのブーツを着けて行き、戻ったらそのブーツを捨てるようにしていました。」
そして飛行甲板に出る際には、対生物兵器、対化学兵器用防護服、あるいは放射線防護服の着用が義務付けられました。
「私たちはガスマスクを着用し、酸素ボンベを背負って甲板で作業を行いました。それさえ身に着けていれば、とりあえずその場で死ぬようなことは無かったからです。」
これらの予防措置が本当に有効だったのかどうか、その効果については議論の余地があります。
空母は複雑な工業都市のようなものであり、動いている限り、大小・種類を問わず部品が壊れたり故障したりします。
通常の摩耗劣化による消耗もあり、事故による破損もあります。
『トモダチ』作戦を展開している間、ボロ布をドアの隙間に詰めて放射性物質が入り込むのを防ぐ試みも、壊れたドアの存在によりその効果が怪しいものになりました。
このため数か所のドアは溶接して開かなくしたり、シーリングを施して隙間をふさぎました。
破損している防水ドアは取り外して工房に持ち込み、修理した上で付け直しました。
設計上、空母ロナルド・レーガンはそれぞれ密閉可能な隔室を持っているはずでした。
しかし実際には気体であれば自由に循環することが出来る、地下墓地に毛の生えた程度のものに過ぎなかったのです。
▽ 何も心配するには及ばない
アメリカ海軍の公式的立場は、『トモダチ』作戦に参加した将兵の放射線への被ばく量は、無きに等しいというものです。
国防総省の『トモダチ』作戦医療記録簿は、約2年歳月をかけて作り上げられ、福島第一原発の事故以降日本国内に居た約70,000人の米政府関係者、軍関係者とその家族について、大小にかかわらず被ばくした恐れのある人々に関し、その状況をまとめたものです。
記録簿は2012年12月に完成しました。
そしてその一か月後、国防総省は外部被ばく、内部被ばくのそれぞれの最大量について検証した結果、これ以上の詳細な調査は必要ない程度のものだと結論したのです。
これから後ある程度の時間が経過してから仮に放射線被ばくに起因すると思われる一連の症状が現れたときに、その因果関係を疫学的に証明するために役立つはずの医療記録簿は、以後継続されることなく放置されることになりました。
しかしながら巨視的に見れば、記録簿は70,000人の被ばくしたアメリカ人にどのような疾病や症状が現れたかについて、時間の経過に沿った正確な医学的記録を作り上げたことは事実です。
海軍は結局70,000人ひとりひとりについて健康調査を行い、全員の健康状態の平均値=基準を設けることはしませんでした。
全員のその時の健康状態を表すだけのものとして、『トモダチ』作戦医療記録簿が存在することになったのです。
事実上、この対応によりそれぞれの健康状態について判断するための、基準が存在しないという事になりました。
アメリカ復員軍人援護局の医師たちは、この基準が無いために、腫瘍の進行やぜんそくの発作、あるいは体内の嚢胞や皮膚の剥離などの症状が出ても、その原因が放射線を被ばくして以降のものなのか、それとも『トモダチ』作戦に参加する以前からそうした症状があったのか、判断することが出来ません。
たくさんの作戦に参加した多数の男女の中に共通する症状に関し、継続して記録している医療記録や判断基準が無ければ、退役してしまった軍人の健康問題の根本原因には、『トモダチ』作戦に参加した際の放射線被ばくの問題があるなどと特定することはほとんど不可能です。
当時日本に居たアメリカ人に健康被害は無かった可能性が高いと結論を出したことについて、憂慮する科学者連盟の原子物理学者エド・ライマン博士は、合理的とは言えないと指摘しました。
彼は核安全技術の専門家デヴィッド・ロックバウム、ピューリツァー賞受賞ジャーナリストのスーザン・ストラネイハンとともに、メルトダウンに関する本を執筆しました。
彼は日米両政府、そして個人の研究者たちが福島第一原発が放出した放射性物質の総量について、計算によって割り出そうとしていると語りました。
「日米両政府によって合意された放出量は、実際の放出規模を下回るものでした。」
「短時間の間に大量被ばくしてしまった被害者を、多数の被災者の中から特定することは確かに困難です。しかし実際の被ばく線量は、一般に認識されているものよりもずっと高いものでした。
それは福島第一原発に近い場所では、未だに人間の健康に深刻な影響を及ぼす放射線量が測定されていることを見れば明らかです。」
「だからこそ私はいつも、丹念にデータを収集することに賛成なのです。放射線の本当の影響を明らかにするには、5年ではとても足りません。ほとんどの種類のガンについて、そのことが言えます。可能な限り、数多くのデータを集めるべきです。
〈 第4部・第4回へ続く 〉
A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 4 Living with the Aftermath
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日本ほどではないにしても、やはり放射能問題はアメリカ政府にとっても『タブー』扱いなのだという事を思い知らされます。
一市民の私としては、それ程のタブーならば一般国民を巻き込むな!と言いたくなります。
しかし福島第一原発の事故で私たち日本人が経験したこと。
それは原子力発電を導入した人間、原子力発電所の建設設置を決めた人間・許可した人間、おそらくはその中の誰も被ばくなどしなかったという事。
そして「原子力発電所は安全なのだから、何も心配し無くしていいのだよ。」と言い聞かされて暮らしていた人々が、突如『被ばく者』にされてしまったことではないでしょうか?
福島第一原発の事故については、解明されなければならないことがまだまだありますが、一方でこの『理不尽さ』についても、私たち日本人は心にきざみつける必要があると思います。
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写真集【 朝の彫刻 】
ニューヨーカー 4月1日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)
しばしばモデルとして彼女自身を使い、彼女は作品の中でその地に根差した存在、あるいは根無し草の状態について表現しようとしています。
「ホテル暮らしは本当に快適です。」
彼女がこう説明しました。
「しかし休む間もなく旅を続けているうちに、人間は名前も顔も無い、ホテルのルームナンバーで表現される存在になってしまいます。この作品は無個性なホテルの部屋を、もっと人間らしい空間に変える
ために始めたのがきっかけで始めたものなのです。」