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日本人はなぜ人類史上初の核兵器攻撃の標的にされたのか《後編》

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所要時間 約 9分

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日本軍の残虐行為に対するアメリカ軍の報復、その矢面に立たされたのは日本の民間人
女性と子供たちを標的にした大規模な空襲によって大量の市民が虐殺されても、大日本帝国とナチスドイツの戦争マシーンは関係なく動き続けた

日本国内では戦争を批判しただけで、血も涙もない憲兵隊によって即座に処断された

            

                 

シェイン・クイン / グローバル・リサーチ 2019年6月18日

                 

日米開戦のちょうど1年前の1940年12月19日、ルーズベルトは、長年日本と戦い続けてきた中国に対し、航空機の無償提供を含むの2,500万ドルの軍事援助を承認しました。
1940年当時の2,500万ドルは、今日の5億ドルに相当します。
1941年3月11日、ルーズベルトは中国を筆頭に、英国、ソビエト連邦、フランスなど、大日本帝国に対し一片の同情も持っていない国々により多くの資材を提供するプログラム、レンド・リース法に署名しました。

               

ルーズベルトは1940年9月の日本軍によるフランス領北インドシナ占領が周辺地域のアメリカの権益を脅かす結果となったことなどを受け、日本に対し数ヶ月に及ぶ経済制裁と禁輸措置をとっていました。

             

1941年7月26日、ルーズベルトはアメリカ国内のすべての日本の資産を凍結しました。
真珠湾攻撃のに先立つこと4か月のこの思い切った政策の実施は、日本に対する経済戦争の宣戦布告となりました。
ルーズベルトの決断により日本は石油輸入量の実に90%を失い、海外貿易の75%の途を絶たれてしまいました。

               

日本国内の石油備蓄量はそのままでは1943年1月までには使い果たされる見込みであり、日本軍がさらなる軍事侵略を行って石油資源を確保しない限り、現有していた供給源だけではどうにもならないところまで追い詰められました。

                    

                   

敵同士となった日米両軍の兵員数はほぼ拮抗していましたが、のちに戦争史上悪名高い存在となる日本兵の残虐な行為を免れるのは容易なことではありませんでした。
東京の戦争計画者は飢餓状態から解放されるためさらなる征服に食指を動かし、資源が豊富なビルマ、フィリピン、マラヤ、シンガポール、オランダ領東インド諸島(インドネシア)へと軍隊を進行させ、1942年前半までに征服事業を完了させました。

                   

しかし戦争の進行とともに形勢はゆっくりと変化していきました。
連合国側による一般市民の生活圏に対する容赦ない爆撃は、その目的が戦争を迅速に収束させるというものでしたが、結局は効果がないまま悲惨な失策に陥っていました。
そして未だに戦争犯罪として位置付けられることもありません。

             

こうした倫理観がまるでない戦略には結局は第二次世界大戦を長引かせただけでしたが、未だに誰も説明責任を負おうとはしません。一般市民を血まみれにした空襲はその士気を打ち砕き、敵の戦争指導部に対する市民の反感を助長し反乱を誘発すると長い間信じられてきましたが、それは全くの幻想に終わりました。

               

1945年の夏になるとアメリカの海上封鎖により日本国内には徐々に飢えが広がり、日本の民間人にとっては食料を手に入れることが最大の関心事になり、それ以上のことは考えられなくなりました。
日本国内では戦争を批判しただけで、日本の軍警察、血も涙もない憲兵隊によって即座に処刑されました。

                       

                 

欧米の指導者たちは、1940年代初頭にナチスドイツが行った英国本土大空襲からどのような教訓を得るべきか学び損ねていました。
仮借ない空襲が英国市民の戦意をくじくどころか、逆に強くしたことを。
この現実から教訓を得たのはドイツ国防軍の上層部の方でした。
結局ウィンストン・チャーチルのような連合軍の指導者は、1945年2月ドイツの中世の遺跡が大量に残るドレスデンを無意味に破壊することを提案し、実行してしまいました。

                   

女性と子供たちを標的にした大規模な空襲によって大量の市民が虐殺されても、ドイツと日本の戦争マシーンは関係なく動き続けました。
ナチスの軍需大臣であるアルベルト・シュピアは、ドイツ全土に対する連合国の空襲が度々工業地帯に向かわずに市民を標的としていることに唖然としていました。
おかげでシュピアは1944年段階においてもなお航空機と戦車の生産を続けることができ、ヒトラーの歓心と称賛を買うとともに、1944年12月のアルデンヌ攻勢のような『反攻』を可能にしました。

                

空爆(空襲)の背後にある現実は、カーティス・ルメイ将軍や彼の英国の同僚だったアーサー「ボマー」ハリス将軍やその他の人々の意図に反するものだったのです。
すべてが終わった後、ハリスは回顧録の中で次のように認めました。
「軍事施設ではなく市街地を徹底的に破壊するという攻撃の根底にある戦略は、完全に不健全な考え方であったことが証明されただけだった。」
そして次のように記しています。
「連合軍の指導者は、そのパイロット達をナチスドイツと大日本帝国の工場、通信施設、補給基地への攻撃に向かわせるべきだった。そうしていれば戦争は1945年よりもっと前に終わっていたであろう…。」

               

                

ルメイ将軍は350万世帯以上の家屋を破壊し日本人を大量に殺したことに関しては話をしていましたが、1945年半ばに日本のインフラの多くが未だに手つかずのまま残されていることには言及しませんでした。
北海道と本州を結ぶ石炭運搬船や国内の鉄道網など、大日本帝国の極めて重要なライフラインは1945年8月まで健在でした。
ルメイ将軍の指揮下にあったB-29の大群が気づかないまま通過していったいくつかの工業地帯も同様だったのです。

                  

(完)
https://www.globalresearch.ca/us-military-destroyed-66-japanese-cities-before-planning-wipe-out-same-number-soviet-cities/5680934

  + - + - + - + - + - + - + - +

                    

この稿を翻訳してわかったことは、日本が2度にわたり核兵器攻撃を受けた理由ははっきりしているという考え方があることです。

これまではドイツが核兵器攻撃を免れ、日本だけがその惨禍を被ったことについて、「ドイツ人は白人であり、日本人は黄色人種だったから」という人種差別に基づくまことしやかな言説もありました。

しかしこの稿を読むとドイツが降伏した1945年5月初頭の時点ではまだ『実用可能な』原子爆弾が用意できなかった形跡があり、人種論に基づきアメリカがドイツに対する原爆投下をためらったというような話は出てきません。

逆に私たち日本人にとって衝撃的なのは、戦地における日本軍の残虐な行為に対する『報復』としてアメリカ軍が日本の市街地に原爆を投下した、とする見方があるということです。

日本の一般市民はその報復対象になり、都市部への空襲と合わせ100万人を超える無抵抗の人々がただただ殺されたことになります。

戦地で直接残虐な行為に及んだ日本兵も、その事実を知らずに自国の兵士の支援を続けた女性や子供たちも同罪だということでしょうか?

戦争というものの愚劣さをこれほど象徴的に物語る事実はない、そう思います。

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