ホーム » エッセイ » 【 原発難民の帰還 : 再び人が住める場所にするため苦闘が続く福島 】
福島第一原発の事故から6年、避難した先から押し戻される人々
生活の困窮に怯える原発難民の人々に『経済的恫喝』を行った安倍政権の復興担当大臣
風の強い日には山林の樹木に溜まった放射性セシウムが、田畑や家屋に向け吹きつけられてくる
エコノミスト 2017年5月26日
菅野典雄氏が座る机からは、彼が20年以上村長を務めた飯舘村の愛すべき風景を眺めることができます。
森、丘陵地帯、水田などパッチワークのように美しく重なり合っています。
彼のオフィスがある村役場のロビーに置かれた本には、飯舘村が日本で最も美しい場所のひとつであり、有機農法の分野においても中心的役割を果たしていると書かれています。
しかし窓の外にある現実は、そうした説明を裏切るものでしかありません。
耕作地のほとんどは、一帯にばらまかれた放射性物質を取り除くというそれが果たして本当に実現できるのかという除染作業によって、植物をはぎ取られ、不毛の地と化してしまいました。
見渡す限り、草を食む牛の姿も地を耕す農民の姿も見かけることはありません。
トラクターは畑の中に打ち捨てられたままになっています。
そして地元の学校には子供たちの姿はありません。
面積が230平方キロメートルほどの飯舘村はその日、天候の変化によって致命的な打撃を受けてしまいました。
2011年に、津波によって制御機能を失ってしまった南東方向に45km離れた場所にある福島第一原子力発電所で発生した事故の後、吹いていた風は一夜のうちに雨と雪と、そして噴き上げられた放射性物質を飯舘村に運んできました。
予想外の展開に日本政府は慌てて6,000人住民たちに避難を命令しました。
そして現在、日本政府は飯舘村の住民にもはや帰村しても安全であると伝えています。
いまだに汚染がひどい南部の長泥地区を除き、2017年3月31日、飯舘村は華々しくファンファーレが吹き鳴らされる中、自治体としての『復活』を果たしました。
村内で唯一人が集まっているように見えるのは、高齢者のための施設です。
自治体当局は最高で数百人の住民が戻ったと語っていますが、そのほとんどは現役を引退した高齢の人びとです。
菅野村長はその数について明らかにしませんが、その理由は
「私たちが住民に対し、帰還してこの場所で暮らすよう強制しているという印象を与えかねない。私たちは帰還を強いるつもりはない」
からです。
しかし現実には、多くの避難民が厳しい選択を迫られています。
飯舘村に帰還するか、さもなければこれまで避難先での生活を支えてきた補助金の一部について支給を停止する…
今年四月、避難民のこうしたジレンマに対し、本来人々を支える立場の今村雅弘復興大臣が切って捨てるような発言を行いました。
被災地に帰るかどうかは避難民の
「自己責任、避難民自身の選択」
だと語ったのです。
この発言は避難を強いられた人々の心の傷口に手を突っ込んだも同然でした。
「あの発言は経済的恫喝というべきものでした。」
飯舘村で農業を営んでいた伊東信義さんはこう語りました。
今村雅弘復興大臣はその後辞任しました。
福島第一原発の事故をチェルノブイリと同じまな板の上で語られることは誰もが望んでいません。
世界の最悪の原子力発電所事故が発生してほぼ30年後の現在も、チェルノブイリの周辺は時の中で凍りついたままになっています。
そこにあるのは1980年代半ばのソビエト連邦そのままの風景であり、学校の壁には色あせたレーニンのポスターが貼られています。
これとは対照的に飯舘村では、単純計算すれば1世帯当たり2億円の費用が投じられ、村全体の除染作業が行なわれました。
この作業は環境中の放射線量を、原子力発電所で働く労働者が1年間に被爆する限度とされている20ミリシーベルト以下にまで下げることが目的でした。
しかし除染作業の範囲はそれぞれの家を中心とした半径20メートル以内に限られました。
飯舘村の大部分は、樹木でおおわれた山です
風の強い日にはこうした樹木に溜まった放射性セシウムが、田畑や家屋に向け吹きつけられ、下手をすれば除染も元の木阿弥と化してしまうのです。
それでも菅野村長は自身の見解として、補助金に依存した生活から脱却するためにも、毎月の補償支払いを減らすべき時期だと語りました。
2012年、飯舘村は指定避難解除の日付を設定した、最初の被災市町村になりました。
菅野村長はこの年、5年以内に村を復活させると誓い、今その公約を実現させようとしています。
村では新しい運動場が整備され、コンビニエンスストアと麺類を扱うレストランもオープンしました。
診療所は、週に2回開院することになっています
失われてしまった最大のものは人間です。
飯舘村の元住民の30%は帰村することを希望しています。
ただし長泥地区の住民のうち半分以上は、もう二度と村に戻るつもりはないと回答しました。
多くの村民が別の場所で生活を始めるため、避難生活の初期に一括で支払われた補償金を充てました。
福島第一原発の事故に遭う以前から、飯舘村では1970年代以降若年層の都市部への流出が続き、すでに人口の3分の1を失っており、故郷の空洞化が進んでいました。
村の住民のひとりである鴫原良知さんは、多くの家庭で村を去るべきであるかとどまるべきかについて、繰り返し口論になったと語りました。
「たとえ補助金を受け取れなくなったとしても、他の人が補助金を受け取る、あるいは他人がいくら補助金を受け取っていようが、この村を出ていくべきだと主張する者もいました。飯舘村で補助金について話をすることは、たとえ相手がだれであっても、強いストレスを感じます。」
この際思い切って村ごと日本国内の別の過疎地に移してしまうべきだという構想を主張した人々がいましたが、菅野村長はこうした考えには耳を課そうとしませんでした。
菅野村長は村を救うためには不退転の決意でいます。
しかし伊藤さんはこう語ります。
その決意は飯舘村を永久に葬り去る結果につながりかねないと。