
今日でもビートルズの解散を彼女のせいにしているファンと音楽評論家が少なくない
音楽史上最も嫌われている女性の史上最大規模の回顧展を開催
ドイチェ・ヴェレ 2019年4月3日
多少異論はあるかもしれませんが、彼女は音楽史上最も嫌われている女性です。
それでもオノ・ヨーコはジョン・レノンの未亡人といだけでなく、独り立ちしているアーティストであり、50年に及ぶ彼女の作品が現在ライプツィッヒで公開されています。
日本生まれアメリカ育ちのコンセプチュアル(概念)アーティストである彼女は、ビートルズの解散の原因を作りだしたと考えられていたために、ある時点では「アメリカで最も嫌われている女性」という評価を受けていました。
彼女の芸術が正当な評価を受けるまでにはずいぶんと遠回りしなければなりませんでした。
さらに未亡人としての彼女はジョン・レノンの遺産を守ってきただけでなく、何十年にも渡って彼女自身の革新的な芸術としてのキャリアを積み重ねてきました。

オノ・ヨーコの作品を展示するためにライプチヒ美術館は2,000平方メートル以上の展示スペースを確保し、これまで日米芸術家の作品展としては最大規模の回顧展を行っています。
小野の長年の友人であり良き相談相手でもあったジョン・ヘンドリクスが展示監督を務め、訪れる人々にこのちょっと風変わりな芸術家の思いが伝わるよう演出しました。
展示されているのは今年86歳になるオノ・ヨーコのあらゆる作品で、小ぶりなオブジェクトから展示スペースが埋め尽くされるほど大きな作品から彫刻まで、1960年代に始められた彼女の芸術活動のすべてを見ることができます。
展覧会ではさらにあらゆる種類のメディア - 映画作品、ビデオ、ソロアルバムに加え、滅多に公開されることがない絵画作品も展示されています。
▽ 平和を我等に(Give Peace a Chance)
小野洋子を一気に有名にしたのは1969年にビートルズのジョン・レノンとの世界をアッと言わせた結婚でした。
今日でも尚、一部のファンと音楽評論家は伝説的なバンドの解散を彼女のせいにしています。
しかし彼女はただ単に世にも幸運な女性というだけの人間ではありません。
有名なビートルに出会うずっと前から - 若年の頃かられっきとしたパフォーマンス・アーティストだったのです。
結婚式の後、1969年3月にアムステルダムでジョンとヨーコがベッドで一週間過ごした『ベッド・イン・フォー・ピース』は、そのフィルムの一部が長らく行方不明になっていますが、その後個人の遺産を整理していて発見されました。
この時、ジョンとヨーコは報道関係者を招待し、膨大な回数のインタビューをこなし、世界平和を訴えました。
この時代はベトナム戦争の真っ只中にあり、戦争の悲惨な状況を伝える映画や写真が世界中を駆け巡っていました。
こうした状況の中、ジョンとヨーコは5月にはモントリオールでも1週間のベッドインを繰り返しました。

▽ 出身は特権的階級
1933年2月18日オノ・ヨーコが生まれたのは東京の祖父母の家でした。
オノ・ヨーコの家族は日本の皇室のマネーと親密に交際していました。
ヨーコの家族にとって金銭上の問題などは存在しませんでした。
彼女の名は「海の子」を意味するものでしたが、30人も使用人がいる宮殿のような邸宅で成長しましたが、両親と接する機会は稀にしかありませんでした。
父親は銀行家としてカリフォルニアで働いていましたが、彼女は自分の父親とは2歳の時に母が子供達を連れてアメリカに移住するまであったことがありませんでした。
子供時代、後にヨーコが平和運動の活動家として活躍するきっかけとなる日本軍による真珠湾攻撃を目撃しました。
その後ヨーコの家族は第二次世界大戦が終了するまで日本には戻りませんでした。
日本の帰国した後彼女は貴族の子弟が通うエリート校に進学しましたが、同じクラスには昭和天皇の子息も通っていました。

▽ 始まりはパフォーマンスアーティスト
大学への進学と共に彼女はアメリカに戻り、ニューヨーク市の北郊にサラ・ローレンス・カレッジで勉強を始めました。
彼女は哲学、芸術や作曲に興味がありましたが、彼女の大学生活は長くは続きませんでした。
1959年ヨーコは大学を退学し、ビッグアップル(ニューヨーク)の芸術の世界に身を投じました。
一人のアーティストとして彼女は、実験的な映画や音楽に挑戦すると共に、フルクサス運動(建築家 ジョージ・マチューナスが提唱した前衛芸術運動)に関わるようになりました。
その分野の垣根を超えたコミュニティには、世界中で即興的な『ハプニングス』を芸術として表現する画家や彫刻家、作曲家、詩人などが集まっていました。
この運動の代表的人物はアメリカの作曲家ジョン・ケージであり、ヨーコは1962年に彼の日本ツアーに同行しました。
当初からヨーコはその作品の中で、自分を男女の性別にとらわれない前衛芸術家と既定し、時には裸体や挑発的行為を作品に取り入れることもありました。
これは『いつまでも続く女性を過小評価する社会的格差』を克服するという彼女にとって不可欠な抗議活動の一部をなすものでした。
このことについてヨーコは女性運動のパンフレットに一文を寄せたこともあります。
1970年、ヨーコは『レイプ』という題名の23分間のビデオを発表しましたが、これは裸の女性の体の上をハエが這い回る様子を撮影したものでした。

写真 : 作品『ヘルメット / 空の断片』
▽ ザ・ビートルズ
1966年ヨーコはビートルズのジョン・レノンとイングランドに出会いました。
きっかけはジョンがロンドンで開催されたヨーコの展覧会を訪れたことで、ジョンはこの芸術家の作品にすっかり魅了されました。
3年後に結婚した2人は平和をテーマにしたアルバムを複数リリースしました。
1969年にジョンとヨーコが結成したバンドは 『平和を我等に(Give Peace a Chance)』で世界的ヒットを記録しました。
ジョン・レノンが公的生活からほとんど引退すると、妻のヨーコは事業経営を引き継ぎ、さらには資産運用者を行い、1980年のジョン・レノンの暗殺の後は、資産管理も行うようになりました。
ヨーコは今ではアメリカで最も裕福な女性の一人と見なされています。
その裕福さは『ドラゴンレディ』としての評判をますます高める一方、ドイツの日刊全国紙のディー・ターゲスツァイトゥングが1996年に彼女を称した言葉『ロック・ミュージック史上最も嫌われている女性』という言葉に代表される好ましくない名声も大きくなりました。
今日まで彼女は死んだ夫、ジョン・レノンの人気によって巨額の利益を得たと非難され続けています。

▽ 合同アート作品
ジョンの死後、ヨーコは1995年に日本で再びアーティストとして公の場に姿を現しました。
ドイツとイギリスの様々な美術館は2008年と2009年に彼女の作品の回顧展を開催しました。
ヴェネツィア・ビエンナーレは、イタリアのヴェネツィアで1895年から開催されている現代美術の国際美術展覧会ですが、彼女の生涯の仕事に対しゴールデン・ライオン賞を贈りました。
2012年にはウィーンでオスカー・ココシュカ賞を受賞しました。
ライプツィヒで開催されたオノ・ヨーコ『平和は力(Peace is Power')』展覧会のため、彼女は水でいっぱいにするオブジェクトを一緒に製作するようドイツの芸術家たちを招待しました。
これはヨーコがその展覧会を合同アート作品発表の場にしようという活動の一環として行われたものです。
彼女はすでに1971年にニューヨークのシラキュースでの展覧会で同様の『水のイベント』 を行っていました。

写真 : 2013年にシドニーで公開された作品「We're all water」
オノ・ヨーコ『平和は力(Peace is Power')』展覧会のオープニング・セレモニーに参加するためニューヨークからライプツィヒへやってくるかどうかは今の所わかりませんが、この展覧会は7月7日までライプツィヒのMuseumfürBildende Kunstで開催されます。
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本文中に「ロック・ミュージック史上最も嫌われている女性』という表現がありますが、現役のビートルズを見届けた最後の世代の私も、『レット・イット・ビー』の映画が公開され、そこにオノ・ヨーコが出てくるシーンに嫌悪を感じていた一人でした。
しかしこの記事を読んで、芸術家としてのオノヨーコ氏に初めて出会ったような気がしています。
ジョンと一緒に世界平和の実現に世界で最も活動的だった人物だということを考えれば、そしてビートルズの解散の真の理由はもっと別のところにあったということがわかった今、嫌悪する理由などなかったはずなのですが、自分のどこかにやはり『差別』の感情があったのではないかと反省しきりです。
日本のテレビ各局が競うようにして新元号に関わる『報道』を、見ていてうんざりするほど繰り返し取り上げていた理由
『新しい時代を切り拓く』、現在の日本においてその環境は整っているのか

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2019年4月3日
日本の新しい元号の『令和』は漢字2文字で形成され、読み書きが容易であるという点ですでに確立されている元号命名規則に準拠しています。
しかし今回の命名は数世紀に及ぶ伝統手法を採らずに、中国の古典的文学ではなく日本の古典作品に出典を求めた初めての例になりました。
この文字は8世紀以降に編集された、現存する日本最古の文学作品である万葉集に登場する梅の花をうたった詩の一節から採られたものです。
文脈の中でこの二つの漢字には「幸運」または「縁起の良い」、そして「平和」あるいは「調和」の解釈が充てられます。
しかしソーシャルメディアには、『令』の文字が「命令」や「指令」などの熟語の中で使われる場合が多く、政令や法令などにも使用され権威主義的な意味合いがあることに特徴があると指摘する投稿が相次ぎました。
さらに『和』は「大和」に使われ、過去軍国主義に支配されていた時代の日本で多用されていました。
日本は世界で唯一元号を使う国ですが、グレゴリオ暦(西暦)も一般的に使用されています。
元号はもともと中国に起源があります。
元号制は7世紀に始まって以来、すでに約250の元号が制定された歴史を持っていますが、近代以前は大きな自然災害が発生したり国家的危難に見舞われたりすると時代の気分を変えるために改元されることもありました。
しかし近代になると『一世一元』制が採られ、一代の天皇の間使われる元号は統一されるようになりました。
例えば第二次世界大戦中の日本の天皇には、現在日本国内で裕仁天皇ではなく、昭和天皇という表現が用いられています。

この1世紀の間で3度目となる今回の改元で採用された新元号は重要な意味を担わされます。
天皇の生前の譲位は5月1日に行われる予定ですが、日本の近代史の前例同様、改元は新しい時代の気分をもたらすことになるでしょう。
安倍首相は新しい元号は未来への希望とともに、日本の歴史と伝統への誇りをしっかり抱くべきだと語りました。
今回の命名では予想外の恩恵を被った例もありました。
西オーストラリア不動産協会(REIWA)は、そのウェブサイトへのアクセスが急増していますが、そのほとんどが日本からです。
つい最近日本のメディアの取材を受けた協会の理事長は、ツイッターに同じ名前の新時代が始まることを歓迎するというコメントを投稿し、フォロワーに対しこれはエイプリル・フールの冗談ではないと念を押しました。
これまでの元号と同様、『令和』も時間の経過とともに重要な国内および国内の重要な出来事と密接に関連するようになります。
1868年から1912年までの明治は西洋風の近代化の時代として記憶されています。
1926年に始まった昭和は日本の急速な経済成長を象徴する時代ですが、同時に軍国主義の台頭と第二次世界大戦の記憶と切り離して考えることはできません。

30年間の平成も昭和同様、相反する二つの感情が付きまといます。平成という時代はバブル経済の崩壊と中国との関係悪化に象徴されるでしょう。
そして東京の地下鉄への1995年のテロ攻撃、阪神淡路大震災、巨大地震、巨大津波が引き金となり福島第一原発の3基の原子炉がメルトダウンした2011年3月の東日本大震災は平成の名とともに永遠に記憶されることになるでしょう。
共同通信の調査によると、回答者の39.8%が元号と西暦年カレンダーの両方を日常生活で使い、24.3%が新元号を、34.6%が西暦を好むと答えています。
しかしすべての人が月曜日に発表された新しい時代の名前を諸手を挙げて歓迎したわけではありませんでした。
『令和』という文字が第二次世界大戦以前の天皇の存在を絶対とする大日本帝国への回帰を連想させるというのがその理由です。
「日本の社会システムはもはや天皇制によって統制されてはいません。」
中国文学専攻の京都大学の興膳宏名誉教授が共同通信にこう語りました。
「年号制はその時代その時代の人々の欲求を反映するべきものであり、なぜその年号が必要なのかということについての議論から始めるべきなのです。」
https://www.theguardian.com/world/2019/apr/01/reiwa-how-japans-new-era-name-is-breaking-tradition
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新元号が発表され安倍内閣の支持率が10パーセント近く上がった旨、3日付の新聞が伝えていました。
これほど日本人の政治センスを象徴する出来事はないでしょう。
テレビ局各局が競うようにして新元号に関わる『報道』をこれでもかこれでもかと、見ていてうんざりするほど繰り返し取り上げていた理由がわかったような気がします。
政治とは本来、力のあるものはその実力をより公正に発揮できるよう、弱者が様々な狭間に落ち込んで苦しんだり犯罪に走ったりしないよう、地味で誠実な取り組みを続けるべきものだというのが私の考えです。
この地味で苦労ばかりが多い仕事を支えるべきものは自分たちの社会をより良いものにしていきたいという真っ直ぐな情熱のはずですが、現在の日本の政治に見て取れるのは利益誘導、利害優先の在り方です。
それが人間の本然だといえばそれまでですが、歴史上こうした政治を続けた国家が衰退に向かった例が数限りなくあることもまた事実です。
しかし多くの日本人は、政治は派手で盛り上がりがあればそれで良いと考えているのかもしれません。
その考えにおいては経済は景気であり、構造的要因を解析して必要などはなく、誰かが派手に金をばら撒いて『景気が良く』なってくれればそれで良い。
福島第一原発事故の被災者の窮状を精査し救済方法を考えるという面倒で気分が暗くなるようなことをするより、オリンピックや万博の類をパアーッと派手にやってみんなで盛り上がった方が気分が良い。
神輿を派手に元気にかついで回ればそれが善政だと、考えてはいなくとも感覚的にはそう捉えている人々が多数いるのが日本人のような気もします。
そこにある日本人の『政治センス』は、祭り囃子に置いてけぼりにされることを何より恐れ、肝心の足元で何が起き何が進行しているのかを見ようとしない態度に表れています。
70年以上前、日本はこれ以上愚劣な体制はないと表現して良い程の軍国主義国家を作り上げ、近隣諸国の人々に加え自分たちの足元を見ようとしなかった当の日本人自身も塗炭の苦しみを味わいました。
日本人はその歴史をつぶさに検証して今日の教訓とすべきでしたが、今やその検証作業すら妨害しようという勢力が政治の中枢に居座っています。
私たちの周囲に新しい時代を切り拓く環境はあるのでしょうか?
福島第一の事故原因の究明もできていないのに、原子力発電所の再稼働を東京電力に委ねるべきではない
東京電力の柏崎刈羽原発における事故防止策は単なる対症療法
日本の原子力発電への復帰は安倍政権にとって最優先事項のひとつ

ドイチェ・ヴェレ 2019年3月11日
福島第一原発事故の8年後、東京電力が運営する柏崎刈羽原子力発電所では現在、再稼働の準備が進められていますが、住民は福島の事故が繰り返されることを何より恐れています。キヨ・デルラーの報告です。
数十年前、原子力発電は日本のエネルギー問題と農村部の経済救済のための完璧な解決策であると考えられていました。
福島の隣県である新潟県でも活気を失った柏崎市にとって、柏崎刈羽原子力発電所はまさにその『解決策』に他なりませんでした。
ただし、この原子力発電所を運営しているのは2011年の福島事故を引き起こした電力会社、東京電力です。
フル稼働時には柏崎刈羽は世界最大の原子力発電所であり、1,600万世帯に電力を供給することができますが、福島第一原発事故以来、7基の原子炉はすべて止まったままです。
柏崎刈羽は津波による被害を受けた福島第一原発・第二原発を別にすれば、東京電力にとって唯一の原子力発電所です。
東京電力はこれまで繰り返し安全手続きの手ぬきを批判され、裁判では被災者住民への賠償を命じられました。
さらに福島第一原発の事故処理作業が大きな頭痛の原因となっている一方、この事故の原因と経過は8年が経った今でも明らかにされていません。

▽ 福島第一原発の事故の真相はまだ解明されていない
しかし論争が続いているにもかかわらず、2017年日本の原子力規制委員会は、福島第一原発の西方約250 km、日本海に面した場所にある東京電力の2基の原子炉について、再稼働に向けた長いプロセスを開始することを承認しました。
再稼動に向け準備を進めている柏崎刈羽発電所の原子炉6号機と7号機は、福島でメルトダウン事故を起こした原子炉と同型です。
今回はすべてが違うものになるだろう、柏崎刈羽工場の玉井俊光副所長は施設の見学に訪れた人々にこう語り、安全を強調しています。
2度目の事故を起こすのではないかという懸念を払拭するため、東京電力は想定される最も高い津波に耐えることができるとする高さ15メートルの防潮堤を建設しました。
原子炉建屋は補強され、フィルターが設置されました。東電によればこのフィルターはメルトダウンが発生した場合でも、放射性物質の0.01パーセントだけが大気中に放出されることになっています。
想定される災害に備え、原子炉冷却水を貯蔵する貯水池が2か所設置されました。
福島では電源喪失が致命的自体を引き起こしましたが、ここではディーゼル発電機を搭載したトラックの一団が電源喪失時にいつでも緊急の電力を供給できるよう4.2平方キロメートルの敷地を見下ろしながら待機しています。

▽ Win - Winの状況?
東京電力の視点では、再稼働は双方にとって好都合な状況を作り出すために必要不可欠です。
「私たちは福島に関する責任を担うという使命を果たさなければなりません。その中には福島第一原発の事故収束・廃炉に要する費用を捻出するということが含まれます。」
玉井副所長がこう語りました。
日本政府は福島での事故収束・廃炉と補償に必要な費用を22兆円(1,980億ドル)と見積もったが、シンクタンクの日本経済研究センターは合計で最高70兆円と見積もっています。
東京電力はさらに再稼動は日本にとって自立的なエネルギー政策への回帰を意味するものであり、それによって国家の安全保障も貢献し得ると考えています。
東京電力は2つの原子炉を新たに稼働させることで雇用が創出され、地域経済が切実に必要としている経済効果がもたらされると主張しています。

▽ 住民の大多数は原子力発電所の存続に反対
しかし地元の住民は東京電力のこうした主張をすべて受け入れているわけではありません。
買い物客の姿がほとんど見当たらない地元商店街には経済的効果への期待という言葉は空々しく聞こえます。
かつて賑わっていた町の中心部はシャッターを下ろしたままの商店街と化しています。
柏崎市は他の多くの地方都市と同様、人口の高齢化と地方からの人口流出の拡大によって引き起こされた問題に悩んでいます。
この問題の解決策が原子力発電であるはずがありません。
2018年の知事選挙で行われた出口調査によると、柏崎市がある新潟県の住民の60%以上が原子力発電所の再稼働に反対しています。
地元住民は再稼働の準備段階においてすでに度重なる東京電力の不手際を体験させられてきました。
2018年12月には原子炉7号機と緊急用電源をつなぐケーブルが原因不明の火災を引き起こしました。
直近の2月28日には停止している原子炉のうちの1基の炉心から放射性物質を含む冷却水の漏洩事故がありました。
「正直に言うと今まさに悩み続けているのです。二度と繰り返すな!東京電力は1歩前進するごとに3歩後退しています。」
柏崎市の中心部で寿司店を経営している織部勉氏がこう語りました。
「私たちは何が起こりうるかいやというほど思い知らされたのですから。」
「福島で起きたことの原因の究明もできていないのに、だれも原子力発電所の再稼働を東京電力に委ねるべきではないと思います。」
地元の市議会議員でベテランの原子力発電に反対する活動家である竹本和之氏はこう語ります。

▽ 東京電力の事故防止策は単なる対症療法
元東京電力の技術者で柏崎市出身の蓮池徹氏も、柏崎刈羽原子力発電所の安全対策に懐疑的な立場です。
「福島で発生した津波と全く同じものが発生するのであれば、柏崎刈羽原子力発電所はメルトダウンを防止することが可能だと私は思います。でも自然界ではそんなことは起き得ません。東京電力が行っているのは単なる対症療法です。」
柏崎刈羽原子力発電所の安全対策には構造レベルの問題すら含まれています。
日本の原子力規制委員会は防波堤が立っている地盤は地震の際に地下の地盤が液状化しやすのに、現状では基礎が浅すぎるため、巨大地震が発生すれば倒壊の危険性があることを指摘しました。
「液状化は柏崎特有の非常に厄介な問題です。始めからこのような場所に原子力発電所を設置することは間違いだったのです。」
竹本氏がこう主張しました。
そして柏崎刈羽原子力発電所が予想外の巨大地震に見舞われるのは初めてのことではありません。
2007年にマグニチュード6.8の地震がこの地域を襲い、1基の原子炉内で火災が発生しました。
そして3基の原子炉は永久に停止せざるを得なくなったのです。

▽ 安倍政権は飽くまで原子力発電を推進する構え
しかしながらドイツを含む他の多くの先進国が原子力発電の段階的廃止に向かう一方で、日本の原子力発電への復帰は安倍政権にとって最優先事項のひとつです。
安倍首相が2018年に策定した計画では、原子力発電の割合を現在の2パーセントから2030年までに20〜22パーセントにまで増加させるとしています。
一方、再生可能エネルギーの割合は15パーセントから22〜24パーセントに上昇するとみられています。
数十基ある日本の原子炉は福島第一原発の事故の後全てが停止していましたが、現在は9基が稼働しています。
柏崎刈羽原子力発電所の場合、発電所を再稼動するかどうかの最終決定は4月に行われる県議会選挙によって選ばれる地元の政治家たちの手に委ねられることになります。
原発避難民として過ごし、もう二度と稲作はできないのではないかと悶々としていた日々
事業を再生させるにはもう歳をとり過ぎている…そう言って地元の農民たちの多くが去っていった

ジャスティン・マッカリー / オブザーバー(英国紙)特派員報告 / ガーディアン 2019年3月10日
チェルノブイリ以降最悪となった福島第一原発事故発生から8年が経ちましたが、英国オブザーバーはかつては原発事故による立ち入り禁止区域とされていた地域での生活、仕事、通学、そして現役引退後の生活を、かつては故郷と呼んでいた場所で過ごす決心をした人々を取材しました。
▽ 稲作農家
根本孝一さんが3年前福島県南相馬市桃内の集落に最初に戻ったとき、彼の夢は彼の家族を養うために必要なだけの米を育てることでした。
しかし当時はまだ稲作は禁止されており、根本さんは解除を待つしかありませんでした。
「私は少しだけ試験用に稲を育て、その放射線量を測定したのです。放射線量は政府が設定した限度をはるかに下回っていました。」
「でも私は全部廃棄しました。自分が栽培した米であっても、法律で食べることが禁止されていたのです。」

写真:根本孝一さんは、自分の稲作は雑草などには負けないと語っています。
現在てその制限は解除され、福島の自然農法業界のパイオニアである81歳の根本さんは再び販売用の米を栽培し、近くの日本酒醸造所やスーパーマーケット、レストランに納めています。
「私は自分の農場を放棄することは考えたことはありません。」
「最初は福島米についてひどい噂がありましたが、状況は変化しています。私の友人や親戚は、検査を受けていない他の都道府県産の米よりもむしろこの場所で栽培した米を食べる方が安心だといっています。」
原発避難民として過ごし、もう二度と稲作はできないのではないかと悶々としていた日々と比べれば、現在の状況は格段に異なっています。
しかし避難命令が解除された後桃内地区で営農を再開すると決断したのは8人に留まり、根本さんはそのうちの1人です。
最近では根本さんは残留放射性物質のことより、ともすればたちまちに水田のいたるところに繁茂する雑草の方が心配だと語ります。
「有機的に取り組むのであれば、必ずついて回る問題です。」
「でもこれまで、私が栽培する米が雑草に負けたことはありません。」

▽ 旅館経営者
原子炉建屋の一つが爆発した音が聞こえると、小林友子さんと夫の武則さんは、高価な貴重品を手荷物にまとめ、4代にわたって友子さんの家族が小高地区で経営してきた日本旅館の双葉屋を飛び出しました。
2人とも最初のうちは数日で戻れると思っていました。
「私たちは避難所にいましたが、その時初めて津波と原発事故の映像を見て、どれほど恐ろしい災害が起きたのか解ったのです。」
結局2人は小高地区の避難指定が解除される2016年まで戻ってきませんでした。
近隣の住民は立ち入ろうとしませんでしたが、友子さんは桃内駅近くの旅館の建物の手入れと旅館や駅周辺に花を植えるため、短時間の訪問を繰り返しました。
「私たちはこの場所にもどって自立する決心をしたのです。」
夫妻はたちまち放射線と食品の安全のエキスパートになりました。
「私たちは7年間この地区の食品の検査を続けてきました。そしてもう安全だということが分かったのです。その事実が私たちに帰還とこの場所での再出発を決心させたのです。」
域社会のために食べ物をテストしてきました、そして我々はそれが安全であることがわかっています。」
武則さんがこう語りました。

双葉屋の宿泊客には多数の来日外国人が含まれていますが、彼らは福島についてもっと知ろうという探究心を持っています。
「私たちはもっと多くの人々にここに宿泊してもらい、何が起きたのかその真実について一層理解が深まったと感じて故国に戻ってもらいたいと思っています。」
「しかし、事故発生からここまでなんということもなかったなどというふりはできません。ものすごく辛い時が何度かありましたから。」
▽ 酪農家
8年前、祖父が第二次世界大戦直後に創業した畜産農家の崩壊を防ぐのに、三代目の佐久間哲二さんは自分の無力を思い知らされました。
福島第一原発の原子炉がメルトダウンした年、佐久間さんが飼っていた130頭の牛は死んでしまうか、他の牧場に売られるか、屠殺されました。
同時に何千リットルもの牛乳を捨てなければなりませんでした。
しかし2017年に福島県産の生乳の出荷禁止の制限が解除された後、佐久間さんは畜産業を再開しました。
厳格な試験によって佐久間さんが飼っている牛のミルクが安全であることを証明しました。
しかし買う立場の人々の疑いを克服するために最初の壁に突き当たりました。
「私は放射線について勉強し、安全性に関する疑問を持たれた際にきちんと回答できるよう準備しました。」
20年以上前父から葛尾村にある農場を引き継いだ佐久間氏がこう語りました。
地元の農民たちの多くは、自分たちが事業を再生させるにはもう歳をとり過ぎている、そして彼らが生産する農産物が福島の環境中に放出された放射線によって永遠に汚染されることを恐れ、すべて売却することを決めました。

写真:佐久間哲二さんは、農場を成功させるために何年もの間働いてきました : Justin McCurry / The Observer
「他の場所で生計を立てる時間が長くなればなるほど、この場所に戻って生活を再建することは難しくなります。」
「しかし私たち家族はこの農場を成功させるために長い間一生懸命働いてきました。牛舎も自分たちの手で建て、今でも使っています。そんな農家の息子に生まれた私は農場を再開し、この場所で何でもできるのだということをみんなに証明してみせることにしたのです。」
※ 英文からの翻訳のため、個人のお名前の漢字が違っている可能性があります。ご容赦ください。
3.11…福島では津波の破壊的な力がさらに深刻な危機を引き起こした
時の中で凍りついたまま、荒廃だけが進んだ福島第一原発に最も近い地域

写真:2019年2月福島県大熊町、雑草で覆われ廃墟と化した自動車販売店
ジャスティン・マッカリー / オブザーバー(英国紙)特派員報告 / ガーディアン 2019年3月10日
2011年3月11日の襲来と福島第一原発の3基の原子炉のメルトダウンにより、数十万人の住民が緊急避難を強いられました。
この中で帰還したのは4分の1に満たない人々でした。
なぜそう決断したのか、その胸の内を明かした人々がいます。
2011年3月11日に、これまでに記録された最大の地震の1つが日本の東北地方太平洋沿岸を襲い、19,000人近くの人が命を奪う津波を引き起こしました。
そして福島では津波の破壊的な力がさらに深刻な脅威を引き起こすことになりました。
放射線の脅威は数十万に上る人々が避難を余儀なくされ、それまで暮らしていた町や村が瞬時に立ち入り禁止区域に変わってしまいました。
今日、福島第一原発に最も近い地域は時の中で凍りついたまま、荒廃だけが進みました。
家々は朽ち果て、生い茂る雑草歩道も車道もかつては手入れの行き届いた庭園であった場所も関係なく呑み込み、イノシシや他の野生動物が通りを我が物顔に歩き回っています。
しかし少し先に行くと、そこにはこの場所に戻ってやり直すことをことを決めたそう多くはない人々を対象とした新しい店舗、レストラン、公共施設があります。
鉄道線路が復旧し再び列車が走るようになり、道路も再開通されています。
東京2020オリンピックの聖火リレーはJビレッジから始まることになっています。
Jビレッジは福島第一原発事故の対応拠点として使用されていましたが、現在では本来の役割であるサッカー・トレーニング施設に戻りました。

しかしそれらはわずかな前進でしかありません。
これまで幾つかのエリアで人間が居住しても問題ないとされる安全宣言がなされましたが、元住民の多くは立ち去る方を選択しました。
理由の主なものは放射線に対する懸念、特に子供達への健康被害です。
また医療機関をはじめとする社会的インフラの欠如もそうした決断を後押ししました。
福島第一原子力発電所の労働者は莫大な量の放射能汚染水と戦っていますが、福島第一原発の廃炉の完了までは少なく見積もっても40年以上かかると見られています。
チェルノブイリ以降最悪となった福島第一原発事故発生から8年が経ちましたが、英国オブザーバーはかつては原発事故による立ち入り禁止区域とされていた地域での生活、仕事、通学、そして現役引退後の生活を、かつては故郷と呼んでいた場所で過ごす決心をした人々を取材しました。
▽ 土地所有者
佐々木清明氏は原発事故の避難民として仮設住宅で8年間暮らす内に地元の著名人となりました。
佐々木さんは毎日の早朝のラジオ体操を通じてコミュニティ意識を築いた住民の一人です。
約500年前に先祖が根を下ろした小高地区の路上で困っている人がいれば、93歳になった佐々木さんは献身的ドライバーとして手助けします。
山林地主である佐々木さんはつい先ごろ古い大きな木造家屋に戻ってきました。
3人の息子とその家族は近くに住んでいますが、佐々木さんは自立して一人でやって行く決断をしました。
それがこれからの日々、たった一人で生きていくということを意味するとしても…
その理由について佐々木さんは武士の血筋がそうさせたのだと語っています。
佐々木さんが暮らす地区はかつて230人の住民がいましたが、帰還したのは23人だけであり、その平均年齢は70歳を超えています。
佐々木さんは帰ってきた人々の名字をスラスラと並べて見せました。
「この村の将来がどうなるのか私には想像もつきません。ゆっくりと死に絶えていくのではないかと心配しています。」

写真:自宅の前に立つ佐々木清明さん。村がゆっくりと死に絶えていくのではないかと心配しています。
Justin McCurry / The Observer
「私の健康状態は完璧ですし、私は被災者のためデイケア施設を無料で利用できます。仮設住宅に暮らしていた時からの友人とも行き来があります。」
佐々木さんは自分の将来について楽観的に考えています。
少し気がかりなのはお気に入りの自分の車のことです。
「12月に運転免許が期限切れになりますが、その後どうすべきなのかわからないのです。」
彼の年齢では、それを返納すべき時だと考えるべきなのかもしれないのです。
家の外に1台のスクーターが置いてありました。
友人がプレゼントしてくれた中古のバイクですが、佐々木さんは気に入らないようです。
「遅いし、カッコも良くないしね。」
▽ 姉妹
今野るみ子さんとえり子さんの姉妹が通学する学校では、教師に注意を向けられることはまず問題にはなりません。
姉妹は福島第一原子力発電所から約6キロの場所にある浪江創生小中学校に通っている7人の生徒のうちの2人です。
全天候型サッカー場は、2017年に避難命令が部分的に解除されて以来、災害前21,000人いた人口のうち900人だけが戻ってきた浪江町に若い家族を連れ戻すため日本政府の資金で建設されました。
「娘たちをこの場所につれて帰ることについては、私の中で葛藤がありました。
姉妹の母親である真由美さんがこう語りました。
私はそれらを取り戻すことについて矛盾していました。」
「でも1年が過ぎた今、何とか落ち着きました。私自身も仕事を見つけ、自分は正しいことをしたと確信しています。」
新しい年度が始まる4月には、学校はさらに6人の生徒の転入を歓迎することになっています。

写真:るみ子さんとえり子さんはチームスポーツができるようになることを願っています。
「この1年間で子供たちは大きな進歩を遂げました」
こう語るのは校長の馬場龍一氏です。
「子供たちにとって一番の不満はチームスポーツができないことです。」
るみ子さんは11歳、えり子さんは8歳、ともにドッジボールやかくれんぼができなくて寂しいと語ります。
「クラスメートがもっと欲しいのですが、それはそれでまた違う種類のプレッシャーがかかるかもしれません。」
るみ子さんがこう語りました。
姉妹は学校で津波と福島第一原発事故について学びましたが、当時は幼すぎて自分たちの記憶と直接結びつくものはありませんでした。
「8年前の出来事だったので、本当に何も思いつくことはありません。」
るみ子さんがこう語りました。
「最近起きた自然災害に対処しなければならない人々のことの方がもっと心配です。」
《後編》に続く
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ジャスティン・マッカリー氏の3.11に関するルポルタージュは、3年前にガーディアンに掲載された今回よりさらに長文の【 アフター・フクシマ : 悲劇から5年が過ぎて – 人びとの素顔 】を4回に分けてご紹介したことがあります( http://kobajun.chips.jp/?p=27237、http://kobajun.chips.jp/?p=27246、http://kobajun.chips.jp/?p=27267、http://kobajun.chips.jp/?p=27278 )。
この時の記事は岩手県の被災地の取材でしたが、あらためて読み返して今回の記事と比較すると、『放射線の脅威』が存在するかしないか、ということがいかに大きな問題であるかということを痛感させられます。
3.11東日本大震災で私が暮らす宮城県では最大数の犠牲者が出ました。
その後まもなく米国CBSが伝えた
「地震より津波、津波より福島第一原発、それが住民の人生を最もひどく破壊した」
【 時の中で凍りついたまま、核廃棄物だらけにされた町 】( http://kobajun.chips.jp/?p=18234 )
という表現はまさにその通りです。
しかし福島第一原発事故はすでに現実のものになりました。
私たち日本人がすべきことは2度とこのような事故を繰り返さないこと。
そして犠牲を強いられた人々に、最もふさわしい救済を提供することです。