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【 土井たか子氏の死 : 平和憲法と市民の権利を守ることに命を懸けた、根っからの民主主義者 】GRD

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戦後の平和憲法に強い愛情を持ち、女性の権利のために戦い続けた政治家
カリスマ的な個性、歯に衣着せぬ物言い、揺るぐことのなかった平和への信念

アレキサンダー・ジャコビィ / ガーディアン 2014年10月5日

土井たか子
1989年の参議院議員選挙は、日本の国政に大地震が起きたかのような結果になりました。
与党だった自由党民主党は30年間政権の座にありましたが、この選挙で過半数を失ったのに対し、野党第一党であった日本社会党(後で社会民主党に党名を変更)は議席数を3倍以上に増やしたのです。
この圧倒的勝利の背景にあったのは日本社会党党首土井たか子に対する期待と人気でした。
彼女はこの勝利について忘れられない言葉を残しました。
『山が動いた。』

今年85歳で亡くなった土井たか子は、そのカリスマ的な個性と歯に衣着せぬ物言いで日本の有権者に慕われていました。
女性として初めて日本の主要政党の党首となった土井氏は、明らかに男性優位の日本の政界にあって希少な存在でした。

彼女は、日本の平和主義的な戦後の憲法の忠実な擁護者であり、彼女が「経済は巨人だが、人権はこびと」というその言葉に象徴される、市民の権利の擁護者でした。

土井氏は1986年、当時人気の高かった中曽根康弘首相率いる自民党に、社会党が総選挙で大敗を喫した後に党首に就任しました。
当時の日本はまさにバブル景気が始まろうとしていた時であり、社会党内の重鎮たちが金科玉条としていたマルクス主義はいかにも時代遅れに感じられました。
土井氏は同時期の英国労働党党首ニール・キノック同様、まずは党内の左派の強硬派との戦いに取り組まなければなりませんでした。
土井氏は組合の支持に依存してきた支持基盤を拡大すべく、一般国民の支持を広げる途を模索し、いわゆる『マドンナ戦略』を展開し、議員候補者に注目される女性を積極的に登用するなどしました。
3%の消費税導入に反対する運動も含め彼女の取り組みが実を結んだことが、1989年の世論調査で明らかになりました。

選挙後、参議院は土井氏を首相候補者に指名しました。
しかし政治的権限においては優位に立つ衆議院は自民党が過半数の議席を維持しており、結局自民党党首である海部俊樹氏が首相に就任しました。
政権獲得こそかないませんでしたが社会党は続く1990年2月の衆議院選挙に自信を持って臨み、党勢の一層の拡大に成功しました。
得票数においてトップにはなりませんでしたが、議席数のほぼ4分の1にあたる136議席を獲得し、それまでの20年間で最高の議席数を獲得しました。
しかし1991年湾岸戦争が勃発、土井氏は日本がこの戦争に一切関わらないようにするための明確なビジョンを描くことができず、党首を辞任することになりました。
しかしこの選挙では自民党もまた党内に離反者が出るなどして大敗し、衆議院の議席数の過半数を割り込むことになりました。

この時社会党はやっと連立与党のひとつとして政権に加わる事が出来ましたが、その政権は8党の連立という構造的にはきわめてもろいものでした。
細川護煕内閣の下で、土井氏は衆議院議長に就任しました。
日本の女性議員として、史上最も重要なポストにつくことになりました。
土井氏は細川首相の後任である村山富市首相の下でも議長を続けました。
村山政権は自民党との大連立によって政権を維持しましたが、このことは社会党の改革政党としての性格を徐々に失っていく結果へとつながってしまいました。

1996年に村山首相が辞任すると社会党では分裂と離反が目立ち始め、党勢はますます低下して行きました。
党の立て直しと近代化を期待され、土井氏が再び党首の座に就き、この時名称が社会民主党へと変わりました。
この年の後半、土井氏は選挙に向け精力的にキャンペーンを展開しましたが、実質的に自民党が支配する政権に連立与党として参加したことに対する国民の不信感は根強く、社民党は議席数を15にまで減らし、逆に自民党一党支配の体制は揺るぎの無いものになりました。

1998年までリベラル志向の有権者は、新たに結成された民主党に引きつけられていきました。
やがて民主党は社民党に代わり、主要な野党勢力としての役割を担うことになりました。

2003年には衆議院議員が関わる不正受給問題が発覚し、土井氏自身の議員秘書が逮捕されるにおよび、社民党は一層の退潮を余儀なくされることになりました。
これに加え、日本の市民が北朝鮮によって拉致・誘拐されていたという意外な事実が明らかになり、社会党時代から北朝鮮との友好関係の樹立を訴え、拉致の時事は無いと主張してきたことに関する謝罪をしなければならなくなったのです。

土井氏自身はイラク戦争に対する自衛隊の派遣に積極的な反対活動を展開するなど、政治家としての活動を衰えさせることはありませんでしたが、前述の事態が続いたことにより社民党の勢力は6議席にまで後退することを食い止めることはできませんでした。

ここに至って土井氏は責任を取って辞任を決意し、以後を同じ女性党首の福島瑞穂氏にゆだねることになりました。
2005年の選挙では、土井氏は自身の議席も失ってしまいました。
議員としての身分を失いましたが、それでも土井氏は憲法の改定に反対する運動を続け、平和主義者、女性の権利の擁護者として活動し続けたのです。

彼女は神戸で生まれました。
父親は医師、母親は元学校教師でした。
太平洋戦争の最中、彼女は子どもながら空襲で負傷した民間人の治療の手伝いをしなければなりませんでした。
あるとき彼女は一人の負傷者の腕を切断する手術の助手をせざるを得なくなりましたが、平和主義者としての信念はこの時に芽生えました。

彼女は同志社大学で憲法を専攻、1956年に卒業すると大学講師を兼ねる弁護士として活動しました。
そして1969年に衆議院議員となってからは環境問題に関する活動家として知られるようになり、さらには男女差別と闘う女性の権利を守るための政治家の第一人者として頭角を現しました。

土井氏は生涯独身でした。
戦後の平和憲法に強い愛情を持ち、そのために結婚することを忘れてしまったほどであったと語っていました。

土井たか子、政治家(1928年11月30日 - 2014年9月20日)

http://www.theguardian.com/world/2014/oct/05/takako-doi
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改めて土井たか子さんのご冥福を心より祈念いたします。
と同時に、『筋金入り』の兵世主義者、そしてリベラリストがまた一人減ってしまったことを心から残念に思います。

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