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津波によって平らにされてしまった町、大胆な都市計画と新ビジョンで活気を取り戻せ!

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所要時間 約 13分

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ただでさえ人口減少にあえいでいた町に、津波は尚一層の困難をもたらした

広島・長崎への原爆投下以降、日本史上最悪の被害をもたらした東日本大震災・福島第一原発事故

親しい人間との死別、財産の喪失、避難生活に打ちのめされてしまっていた町民、それでも彼らは立ち上がった

             

2011年3月に東北地方太平洋沿岸を襲った津波により壊滅的被害を受けた際、女川町の衰退はすでに始まっていました。
女川町は町の再建、そして活性化という2つの課題をクリアすることは可能でしょうか。

             

リチャード・バイズ / ガーディアン 2019年4月17日

             

2011年に東日本の太平洋岸を壊滅させた津波が襲った際、女川町には地面から引き剥がされた交番が横倒しになっていました。
女川町の復興推進部門副部長の田浦義則氏は、次のように語りました。
「私たちは次の世代に教訓を確実に引き継ぐために、この建物を震災遺構として永久保存するつもりです。

                

それは感傷だけに基づくものではありません。
女川の街並みは津波によってほとんど平らにされてしまいました。
未来に向け再建が進められる中、破壊された交番の無残な姿は、津波警報のサイレンが鳴ったら何をおいてもは高台に向かって走らなければならないということを毎日思い出させることになるでしょう。

                 

             

しかし女川の再建は自然災害から町を守るだけでは達成できません。
この町は域内の人口が急激に減り続ける中で、活気あふれる繁栄をどうやって作り上げていけば良いのか、その方法を探さなければなりません。
津波は全国の自治体の中で最も深刻なペースで進む女川の人口減少に拍車をかけてしまいました。
1965年から2011年の間に人口は1万人に半減し、現在ではさらに約6,500人にまで減少しています。

                 

               

原爆投下以降最悪の災害の後、いったいどうすればただ単に物理的に再建されるだけでなく、女川は活気あふれる賑やかな町のままでいられるのでしょうか。

                

問題解決のため女川が打ち出した解決策は大胆なものでした。
すべての住宅地で非居住施設をほぼ全面禁止しました。
これにより女川町の住民は何をするにも - 働くのも、買い物をするのも、学校に行くのも、公共サービスを利用するのも、すべて町の中心部に出てこなければならなくなりました。
女川はスプロール現象(町の中心から郊外へ無秩序、無計画に開発が拡散していく現象)を違法としたのです。

                    

                   

その目的は、新しい駅前の商業地区に自治体が「賑やかな中心街」と名付けた場所を造り上げることです。
このアイディアの基本にあるのは、多頭人口減少が進んでも町の中心部が活気を失うことはない、というものです。
「女川の町の計画には、人口減少を前提条件として取り入れる必要があります。」
田浦氏がこう語りました。
「町の中心部に施設を集中させることによって私たちは女川に新しいエネルギーと新しい雰囲気を生み出したいと考えています。」

             

史上最大規模の津波と地震をもたらしたのは2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。
津波の被害を受けた面積は560平方キロメートルを超え、22,000人が死亡、数十万人が避難を余儀なくされました。

                 

宮城県の女川町は自治体としてどこよりもひどい被害を被りました。
周囲の湾に沿う形で陸に向かって押し寄せた津波の高さは14メートルに達し、市街地を包囲するようにして水没させ、827人の命を奪い、全建造物の3分の2が破壊されました。

                     

             

日本は増税によって資金を確保し、地震と津波に加え、福島第一原発の事故を加えた三重災害・東日本大震災の被災地に巨額の復興援助を行いました。
女川は10年間で243億円の国家支援を受けることになっています。

             

             

津波の被害により、人々は親しい人間との死別、財産の喪失、避難生活に打ちのめされてしまっていた町民は、どうやって再建を実現させるかという決定を役人任せにすることを許されてもよかったのかもしれません。
しかし彼らはまるで逆でした。
数百人の市民たちが公開の会議に出席し、激論を戦わせることもしばしばありました。

                   

町長の須田善明氏は、次のように述べています。
「地域社会を丸ごと、あるいは家族を失ってしまったにもかかわらず、一人一人は自分たちの現実に向き合わなければなりません。町の再建方法に多くの町民があれほど大きな関心を寄せた理由はその辺にあるかもしれません。 」

             

最も議論が紛糾したのは町を取り囲むように存在していた14の集落を再建するか、あるいは町の中心部に集団移転させるどうかという問題でした。
当時の安住宣孝町長は集団移転を支持していましたが、年配の住民に反対され、まもなく須田氏と交代することになりました。
各集落は再建されることになる一方、公共サービスは一箇所に集中され、利用するためには誰であってもそこまで来なければなりません。

                

目指すべきゴールは他にもあります。
町の存続は若い世代を引きつけ、そして定住させられるかどうかにかかっています。
地元企業の間では旧世代のビジネスリーダーが復興を指揮していることが問題視されていました。
「実業界の指導者はすべからく60代以上だと言われています。だからあまり口をださないようにして欲しいのです。」
女川町の官民パートナーシップを率いる土井秀樹氏がこう語りました。

             

女川の津波後の掃除トップ:2011年3月16日、中:2011年6月3日(中)、2011年9月1日写真:共同通信/ロイター通信

                    

女川が要塞のようにはならないように、将来再び襲うかもしれない津波の危険に対応するため復興計画には都市計画が含まれています。
海岸線に近い一帯は公園に限定され - 倒壊した交番は震災碑の中心となる予定です。水産業に欠かせない建築物に隣接する事になります。
そしてその背後には、比較的低い「レベル1」の津波(女川の場合は高さ約4メートル)に対し障壁として機能するのに十分な高さを持つ新たに建設された道路で保護された商業地区中心の街並みが広がります。

            

女川町の新しい住宅地は高さ約17メートル・レベル2の津波が襲来しても安全な十分な高さがある山腹を削り取って建設が進んでいます。

           

「私たちの町は海、山、そして森に囲まれており、平坦な土地がほとんどありません。だから山を切り開いて宅地を造成しているのです。」
と田浦氏がこう語りました。。
「住宅地は大きな津波が襲ってきても安全を確保するのに十分な高さになるでしょう。低い地域は商業用地と駅だけになります。私たちは一般住宅をこの地域に建てられないようにしました。」

             

湾内ではあちこちで大規模な建設作業が進んでいます。コンクリートの補強材で丘ののり面を補強し、土地を削って平らにして造られた新しいコミュニティと町の中心部を繋ぐ道路をの建設が進んでいます。
ほとんどの被災者は新たな住宅に入居しましたが、約40世帯がまだ借り上げを含む仮設住宅で暮らしています。

新しい女川港と高台に建設された住宅

            

町が無秩序に広がらないようにする取り組みが成功するか否かは、人口が縮小しつつある中、どうやって活力を生み出せるかという点にかかっています。
英国同様、日本も商店や会社の廃業により目ぬき通りがシャッター街と化す現象に苦しんでいます。
東日本大震災以前、女川町の中心部のほとんどは個人所有であり、自治体がこの問題に対処する能力には限界がありました。

                 

しかし現在、自治体が土地の所有権を取得し、コミュニティ開発会社が店舗を所有しテナントの管理を任されています。
助成金によるサポートもあり、テナントはすでに約40店が入居しました。
これらのテナントは女川の町にボヘミアン調の空気を送り込んでいます:ギターメーカー、石鹸会社、タイル工場、コーヒーショップ、職人が作るテイクアウトのファストフード店、さらにはさまざまな催し物が開催されます。

                

しかしながら目指すべき目標は明快さとは程遠いものです。
東日本大震災以前女川に存在していた企業の3分の1は生き残ることができませんでした。
投資、決意、楽観主義、創造力をかき集めても尚、それでも人口減少が創造を超える強力な障害であることが証明されてしまう結果に終わるのではないかという恐れが依然として残っています。

                  

「どうすれば将来に向けこの町を成功に導くことができるかというのは、私たちが未だに絶えず答えを出せずにいる問題なのです。」
「私たちはこれからの町の再建手法が、コミュニティに人々を呼び込み、定住させるためのモデルとして役に立つことを願っています。
もちろんインフラストラクチャを整備することも重要ですが、最も重要なのは町の人々が再建のために力を合わせ、活力と熱意を持って取り組むことなのです。」

https://www.theguardian.com/cities/2019/apr/17/the-town-that-outlawed-sprawl-onagawa-tsunami-rebuild

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3.11からちょうど1週間後、私たち夫婦は女川にいる友人宅に見舞いに行きましたが、仙台、石巻、女川と車を運転していった途中に見た光景は、忘れようと思っても忘れられるものではありません。

石巻市内の学校の校庭はあらゆる種類の緊急車両で埋め尽くされ、幹線道路の両脇には津波で流されたがれきがあたかも堤防のようにうず高く積まれていました。

さらに進むと、住宅の外壁を突き破って乗用車が突き刺さり、天地が逆になった小さな建造物が目に入り、当時はまだ生活道路の確保のための懸命の作業が続けられていました。

仙台市内の丘の上の岩盤に建つ我が家は当時築5年ということもあり、多数の物が倒れた以外は、よく見ると壁の隅の壁紙に亀裂が入っている程度の被害で済みました。

                

しかしそれも今考えれば、東北電力女川原発が東京電力福島第一原発と同じ事故を起こさなかったからだと思い当たりました。

もし福島第一原発と女川原発が2つとも事故を起こしていたら、原発難民は数十万人ではなく数百万人の規模に膨れ上がっていたはずです。

そして私の人生も、家族も含め今周囲にいる人々の人生も、容赦なくその時点で断ち切られていたに違いありません。

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