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日本人はなぜ人類史上初の核兵器攻撃の標的にされたのか《前編》

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所要時間 約 8分

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広島、長崎ともに核兵器攻撃によって殺戮されたのはほとんどが民間人、軍関連施設は無傷のまま残った

「当初の日本侵攻計画では、3次にわたる攻撃によって9発の原子爆弾を投下する予定だった…」
広島と長崎の両方で多くの医療施設が破壊された結果、死亡者数が大幅に増加することになった

                  

               

シェイン・クイン / グローバル・リサーチ 2019年6月18日

                    

第二次世界大戦中に米軍が日本に与えた被害の程度は、今日でも尚広く知られてはいません。
2,500人近くのアメリカ人が殺された日本軍による真珠湾攻撃に対する報復として、アメリカ軍は1942年4月18日午後から首都東京をはじめ、横浜、大阪、名古屋、神戸、横須賀の日本の5大都市に対し攻撃を行いました。

            

「ドリトル奇襲作戦(Doolittle Raid)」と名付けられた日本の領土へのこの初めての侵入作戦に参加したのは、アメリカ軍の16機の B-25中型爆撃機でした。
与えた損害は日本人の死者が約50人、受けた損害は全体的なものでしたが軽微なものでした。

                

この爆撃により東京の大日本帝国の首脳部は面目をつぶしましたが、もっと深刻だったのは日本国民に与えた心理的恐怖感でした。
さらに日本側に衝撃を与えたのは、B-25爆撃機がただの1機も撃墜されなかったことでした。
それは次に来る事態を暗示するものになりました。

                

                             

月日が過ぎるごとに年を追うごとにアメリカ軍の爆撃による被害は拡大していきました。
1945年6月15日までに、主に新しいB-29 4エンジン重爆撃機によって放たれた爆撃によって、66の日本の都市が米陸軍空軍によって全滅しました。

               

こうしてアメリカ軍に破壊された日本の都市の数、66という数字は1945年9月中旬に米国国防総省が計画をまとめ上げたソビエト連邦の国家機能を完全に奪うために破壊しなければならない都市の数とぴったり一致するものでした。
1945年9月2日に日本の代表が降伏文書に署名して第二次世界大戦が終結したわずか2週間後、アメリカはソビエト連邦領内に204発の原子爆弾を投下して66都市を消滅させる計画をまとめ上げていたのです。

                 

大日本帝国に対する核兵器攻撃の提案に関し、米陸軍参謀長のジ ョージ・マーシャル将軍は1954年に次のような事実を明らかにしました。
「当初の日本侵攻計画では、3次にわたる攻撃によって9発の原子爆弾を投下するつもりでした。」

                  

しかし広島への原爆投下直前、ペンタゴンが所有する原子爆弾の数は6個に満たない数だったのです。

                 

                 

世界で初めての核兵器による攻撃は1945年8月6日現地時間の午後8時15分、広島上空でB-29重爆撃機から15キロトンの原子爆弾が空中に放出された瞬間に始まりました。
44秒間落下を続けた後、リトルボーイは広島市中心部にあった志摩病院の真上で爆発しました。
瞬く間に医師、看護師、患者全員が灰になりました。
周囲ではさらに数十の病院、学校、歴史的建造物が吹き飛ばされ、あるいは倒壊しました。

              

地上の温度は瞬間的に摂氏3,000℃~4,000℃に達し、数万人が焼き殺されました。
爆心地から2キロメートル圏内にいた人々のうち、112,000人が1年以内に死亡しました(1946年8月10日)。

それに加えて何万人もの人々が放射線障害と重度の火傷によって死亡しました。その中には爆心地から2km圏の外側、数百メートル〜数キロの場所にいた人々も含まれます。

                   

直接の死者も後から死んだ人々もそのほとんどが民間人でした。
多数の女性と子供たちに加え、軍隊の任務をこなすには年齢が高すぎるか徴兵検査を通らなかった男性たちです。

                          

              

広島市の周辺に点在する軍の施設や重要な武器製造施設は完全に無傷のまま残りました。
これらの工場は、総産業生産高の74%を占めていました。
太田川デルタ地帯に存在していた広島の重要な港湾施設や軍港も無傷でした。
さらに広島の工場労働者のほぼ95%も原爆投下後も無傷のままだったのです。

              

投下から数時間後、第一報を耳にした米国のハリー・トルーマン大統領は、原子爆弾の爆発を「歴史上最大の出来事」であり、「圧倒的な成功」だと誇らしげに宣伝しました。

                  

3日後の8月9日、長崎は現地時間の午前11時02分に広島型原爆より高度な技術を用いた21キロトンの原子爆弾『ファットマン』で攻撃されました。
これは教育、文化、宗教施設が集中する長崎市の中心地で炸裂しました。
広島と同様、長崎に投下された原爆も市内にある軍関係の施設をほとんど無傷のまま残しました。

                     

この『ファットマン』も数万人を殺戮しました。
市内の主要な病院、教会や寺院、学校を破壊するとともに、数百数千という単位で子供達が犠牲になりました。
広島と長崎の両方で多くの医療施設が破壊された結果、死亡者数が大幅に増加することになったのです。

                

                      

                

《中編に続く》

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今日から3回に分けて

戦争がいかに無益であり

一旦戦争が始まってしまえば国民の生活がどれほど悲惨になり

どれほど多くの人命が無益に奪われるかを

そして

なぜ日本が

2度も核兵器攻撃を受けることになったのか

その見解の一つをご紹介します。

この問題について専門的に研究したことなどはありませんが、根拠とされているのが当事者自身の発言である点も考慮し、これまで読んだ中で最も真実に近いのではないかと考えています。

ともあれ私たち日本人にとって極めて興味深い事実と考察が明らかにされます。

ぜひ3回すべてお読みいただければ幸いです。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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