ホーム » エッセイ » [写真集]津波の後で:巨大防潮堤と人間の暮らし
視界を遮る程高い防潮堤「何も悪いことをしていないのに、まるで牢獄に閉じ込められたように感じます。」
防潮堤を超える高い津波が来ても、津波による浸水を遅らせ人々が避難するための時間を稼いでくれるはず…
キム・キョン・フーン / ロイター / ガーディアン 2018年3月9日
巨大地震と津波が襲ってから7年の歳月が過ぎ、いま東北地方沿岸の被災地の人々は、新たな津波の被害から人々を護るとされる巨大な防潮堤で生活の再建を続けています。
①2011年3月11日、巨大地震が襲った時牡蠣養殖業者の藤田敦さんはいつも通り海辺での仕事をしていました。そして間もなく、真っ黒な津波が自宅のある陸前高田市に押し寄せ、2,000人の市民が命を奪われたのです。(写真上:以下同)
②それから7年、その間巨大な防潮堤の建設が進みました。
「何も悪いことをしていないのに、まるで牢獄に閉じ込められたように感じます。」
藤田さんがこう語りました。
③岩手県宮古市宮古港に建設された防潮堤近くの住宅や工場
④2011年3月11日、宮古市内になだれ込む真っ黒な津波。
⑤陸前高田市の広田湾の防潮堤の前に並ぶ自動販売機。高さ12.5メートルのこの防潮堤は3.11に役に立たなかった高さ4メートルの防波堤に代わり建設されたものです。
⑦3.11直後の陸前高田市内。
⑧巨大地震の発生によって生み出された津波は場所によっては30メートルという高さに達し、東日本太平洋側で18,000人以上が犠牲になり、福島第一原子力発電所では3基の原子炉がメルトダウンする事故を引き起こしました。
⑨防潮堤に開けられた窓を覗き込む男性。
当初被災地の住民たちは以前よりはるかに大きな防潮堤を築くというアイディアを歓迎しましたが、時間の経過とともに批判が増すことになりました。
工事の進め方について事前に充分な打ち合わせも無く、防潮堤建設が優先された結果被災者の住居建設などが遅れる結果となったためです。
⑩2011年3月、気仙沼の市街地に打ちあげられた船。
⑪2011年3月の津波によって破壊された建物の脇に立つ『奇跡の一本松』。背景にあるのは新たに建設された防潮堤。
この松は人々の希望と復興のシンボルとされてきました。
⑫東日本大震災の発生以降、海岸近くの平地での新たな住宅建設は禁止され、住民は高地へ移住させられることになりました。
⑬田野畑村明戸海岸に新たに建設された防潮堤から眺める2011年3月11日に破壊されたかつての防潮堤。
⑭田野畑村に建設中の新しい防潮堤の前に立てられた津波襲来の際の避難場所を指し示す看板。
⑮住民の中には巨大な防潮堤を建設することによる観光資源の喪失を心配する声があります。
「50年ほど前子どもたちを連れてここに来たことがあります。美しい海を眺めながら海岸沿いをドライヴした楽しい思い出がありますが、今はもうその面影はまったくなくなりました。」
防潮堤を越したところにある牡蠣料理店で、関東地方からやってきた旅行者の飯島理恵子さんがこう述懐しました。
⑯津波にのみこまれた防波堤に代わり建設された防潮堤は、これまで総延長が395km、 投じられた費用は1兆3,500億円に上りました。
⑰防潮堤が築かれた宮城県気仙沼湾の夜明け。
⑱「防潮堤は津波を食い止め、土地が浸水するのを防ぐでしょう。
首都圏にある横須賀港湾空港研究所の研究員である河合博康氏がこう語りました。
「仮に防潮堤を超える程高い津波が押し寄せても、防潮堤は津波による浸水を遅らせ、人々が避難するための時間を稼いでくれるはずです。」
⑲藤田氏によると、津波は結果的に海底をかきまわし蓄積した汚泥を取り除いたため、この地域の養殖漁業の環境を改善することになりました。しかし防潮堤は海の自然の水の流れをブロックし、将来の生産に影響を及ぼす可能性があります。
⑳岩手県普代村の普代浜の上空を飛ぶカモメ。
多くの人が巨大な防潮堤のある暮らしを受け入れることは難しいと感じています。
「この地では誰もが何世代にもわたって海とともに暮らしてきました。」
とマグロ漁業会社を経営する臼田宗太郎氏がこう語りました。
「巨大防潮堤はその私たちと海とを隔てています。それは耐え難いことです。」
21.大船渡市の沿岸部に作られた防潮堤のそばを歩く女性。
https://www.theguardian.com/world/gallery/2018/mar/09/after-the-tsunami-japan-sea-walls-in-pictures
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3.11発生当時、何百何千という人が亡くなられた宮城県沿岸から10キロと離れていない場所にいて、私たち家族はそんな悲劇が現実に起きているとは夢にも思っていませんでした。
丘陵地帯にある自宅のバルコニーからは晴れた日は仙台港を出入りするフェリーやタンカーを遠望することができますが、東日本大震災当日にそこで起きた無数の悲劇を目の当たりにすることはありませんでした。
そうした現実を実見したのはちょうど1週間後に宮城県牡鹿半島の町に住む知人宅を見舞った時でした。
その知人も自宅を津波で全部無くし、庭先1メートルのところまで津波が押し寄せたもののかろうじて被害を免れたご両親の家に避難していました。
町全体が破壊されるという光景を初めてこの目で見ました。
あの日起きたいちいちの悲劇については7年以上が過ぎた今も言うべき言葉が見あたりません。
同行した妻はあの日以来、宮城県内の海を見ようとはしなくなりました。
この記事は1ヶ月前に掲載準備をしたのですが、森友スキャンダルの記事が世界の各紙に相次いで掲載され、それを紹介していたために掲載するのが遅れました。