ホーム » エッセイ » 進まない東日本大震災の被災地の『復興』
今日は少し前になりますが、英国BBC放送が伝えた東日本大震災の地震と津波に襲われた、三陸沿岸の各地の状況です。
3週間前の記事ですが、被災地の状況はほとんど変化はありません。
被災地で悩み、苦しんでいる人が多数いる事を、「心の痛み」として感じてはいない、としか見えない自民・民主の国会議員。
彼らが我々被災地の人間から見れば、「どうでもいい」駆け引きを繰り返す様子が毎日「報道」されますが、家族を失い、家を失い、仕事まで失ってしまった人々には、もはやどんな影響力も残っていません。
そして、新しい朝が来ても、福島第一原発の事故に改善の兆しは見えません。
どころか、朝、「また、汚染が広がっているのではないか?!」と怯えながら、新聞をめくり、テレビのニュースを眺める日々です。
【『ゴーストタウン』の再建 】
Rebuilding Japan's 'ghost towns'
2011年7月5日 英国BBC放送
- 東日本大震災の被災地から -
国際赤十字社アジア・太平洋地区 パトリック・フラー
日本の東北日本沿岸を600kmに渡り廃墟にした、大地震と巨大津波から100日以上が経過しました。
飛び去るヘリコプター、消防車、そして自衛隊を始めとする災害対策のため作業を続ける数千の人々。
2,500万トンにのぼる残骸を片付けるためには、最大で3年の月日が必要だと見積もられており、いくつかの小さな市町村では片付けが始まっていません。
これら廃墟となった場所に住む人々に対しては、水と電気を供給する事、そして道路を確保する事が優先されてきました。
政府はおよそ3万戸の仮設住宅(それぞれが日本の家庭では一般的なテレビ、冷蔵庫、および他の電化製品が予め備えられています)を建設しました。
「特に年配の方々にとっては、センターにいる人々との共同生活が、震災からの精神的な立ち直りを助けました。」
「彼らは独りにはなりたくないのです。」と、日本赤十字社の、社会心理的支援計画の実行責任者である槙島博士は語ります。
確かにセンター内の雰囲気は、津波襲来直後の数日間と比べると変化しています。
震災の直後、陸前高田第一中学の体育館の中には大勢が人々が詰め込まれました。人々は毛布をかぶったまま怯え続け、動く事すらままなりませんでした。
今ではこの場所には、自然なリズムと物事の流れができています。ボランティアが日に三度の食事を提供し、家族の回りにめぐらされた段ボールのパーテーションによって、家族のプライバシーにも多少の配慮がなされるようになりました。
子供たちのために、遊び場とインターネットができる設備も用意されています。
かつて掲示板に貼られていた行方不明の家族・親戚を探し求める貼り紙も今はありません。
代わりに世界中から被災地の人々に寄せられた、希望を持つこと、そして連帯を呼びかけるメッセージや絵がそこに貼ってあります。
「心を強く持って、私たちも日本と共にいます。」と読めるのはクロアチアの小学校の子供たちから。
「私たちはあなた方のために祈っています。」と書いてあるのはスペインの若者からです。
『やまない余震』
避難場所に派遣された井上看護士は、高齢者の世話を続けてきました。
「被災者は心の奥に癒されない悲しみを秘めています。でも今は泣き続ける代わりに、少しは笑う事もできるようになりました。」と彼女は話しています。
150人の生徒が通う南三陸町の伊里前小学校では、64人が家を失い、さらには数名が家族を失いました。
津波は海面から25メートルの高さにある、伊里前小学校の校庭まで駆け上がってきました。
ここにはほとんど仕事らしい仕事がないため、遠くまで仕事を探しに行った父親や母親を持つ子供たちが、親戚に預けられるなどして残されています。
小学校の菅野教頭はこう語ります。
「子供たちが学校の窓から、海を見ない日は一日もありません。」
「子供たちは止む事の無い余震に、慣れることができずにいます。そして、海の方の天候が荒れてくると、別の津波が来るのを心配するのです。」
先生たちは傷ついた子供たちの心を癒そうと、手品ショーやコンサートを開催するなど、たゆまぬ努力を続けてきました。
「しかし、行方不明の親を持つ数人の子供たちの心を癒す事は、容易な事ではありません。」
「遺体が見つからない以上、遺族はどこへも行く事ができません。数家族がやっと、行方不明の家族の葬儀を行う決意をしたところです。」
『長い長い取り組み』
岩手県大槌町に目を転じれば、もはやこの町が、地図から抹消された事を証明するかのような光景が広がります。
津波はこの町の人口の一割にあたる1,600人の住民の命を奪いました。津波が町の庁舎をのみ込んだとき、執務中の140人の職員のうち、およそ3分の1が命を奪われました。
がれきを積んだトラックが列を作って走り去って行きます。一面のがれきのまっただ中にプレハブの庁舎が建てられ、関谷さんが働いています。
人々が立ち直るのを助けるために、日本に赤十字によって集められた義援金が地方自治体(県)を通して配布されていますが、関谷さんの役割は配布がきちんと行われるよう管理することです。
「他の地区と比べると、私たちの地区は少し遅れているんです。」
関谷さんは語ります。
「私たちがまず最初にやらなければならなかったのは、かき集められるだけのものを集めて、避難所を用意する事でした。しかし、被災者の人々に交付金を配布するのは人手の問題では無く、どうやって仕組みを作り上げ、機能させるか、という事なのです。」
今までのところ、交付金は、大槌町の4,000人の申し込み者のうちの3,000人に給付されました。
関谷さんと彼のチームは、町により良い未来を築くため作業を続けています。
被害にあったほとんどの海沿いの地域と同じく、大槌町の地域経済は水産業によって築き上げられてきましたが、津波は町の漁船の大部分である700隻の船舶を破壊しました。
「船が無くなってしまった事は、年齢の高い世代にとって困難をより大きくしました。私の父は50歳を過ぎていますが、以前はよくウニ漁に出かけていました。」
「今は破壊された港を片付ける、臨時雇いの仕事しかありません。」と、彼は言います。
大槌のような町をどう再建するかということは、長い長い取り組みになるでしょう。
複数の特別委員会が、計画と再建の全体像を明確にするために設立されました。
住む家を失った人々の中で、地震と津波の被害について保険金が給付されない人々は、生活の再建すらできないかもしれません。
これまでの進捗状況を見る限り、大槌などの町が、本当によみがえるまでは何年もかかるでしょう。
- 以上、BBC -
【福島第一原発事故はチェルノブイリの3倍の脅威】
カク・ミチオ(米国・物理学者) - 米国CNNニュース -
本日の動画は
「三基の原子炉がメルトダウンしているという事に、日本人は鈍感に過ぎます。」
「3つのチェルノブイリ事故が同時発生しているのと、同じ状況なのです。」
「場合によっては、(福島の9市町村どころか)北日本全域が『喪われる』寸前まで行っていたのです。」
と指摘する、カク・ミチオ博士のインタヴューです。
私たち被災地の人間は水も電気もない状況の中、そんな事はなんにも知らされていませんでした。
「海水の注入が、事態がそれ以上悪化するのを防いだのです。」
カク・ミチオ博士は
「(福島の)子供たちは原子力施設従業員の、20倍の放射能をあびてしまったのです。」
とも指摘しています。
博士については、wikipedia で調べる事ができます。