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福島第一原発事故から8年後の原発難民の帰還、その真の理由《後編》

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所要時間 約 8分

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原発避難民として過ごし、もう二度と稲作はできないのではないかと悶々としていた日々

事業を再生させるにはもう歳をとり過ぎている…そう言って地元の農民たちの多くが去っていった

             

             

ジャスティン・マッカリー / オブザーバー(英国紙)特派員報告 / ガーディアン 2019年3月10日

         

チェルノブイリ以降最悪となった福島第一原発事故発生から8年が経ちましたが、英国オブザーバーはかつては原発事故による立ち入り禁止区域とされていた地域での生活、仕事、通学、そして現役引退後の生活を、かつては故郷と呼んでいた場所で過ごす決心をした人々を取材しました。

          

▽ 稲作農家

         

根本孝一さんが3年前福島県南相馬市桃内の集落に最初に戻ったとき、彼の夢は彼の家族を養うために必要なだけの米を育てることでした。
しかし当時はまだ稲作は禁止されており、根本さんは解除を待つしかありませんでした。
「私は少しだけ試験用に稲を育て、その放射線量を測定したのです。放射線量は政府が設定した限度をはるかに下回っていました。」
「でも私は全部廃棄しました。自分が栽培した米であっても、法律で食べることが禁止されていたのです。」

         

         

写真:根本孝一さんは、自分の稲作は雑草などには負けないと語っています。

          

現在てその制限は解除され、福島の自然農法業界のパイオニアである81歳の根本さんは再び販売用の米を栽培し、近くの日本酒醸造所やスーパーマーケット、レストランに納めています。
「私は自分の農場を放棄することは考えたことはありません。」
「最初は福島米についてひどい噂がありましたが、状況は変化しています。私の友人や親戚は、検査を受けていない他の都道府県産の米よりもむしろこの場所で栽培した米を食べる方が安心だといっています。」

           

原発避難民として過ごし、もう二度と稲作はできないのではないかと悶々としていた日々と比べれば、現在の状況は格段に異なっています。
しかし避難命令が解除された後桃内地区で営農を再開すると決断したのは8人に留まり、根本さんはそのうちの1人です。
最近では根本さんは残留放射性物質のことより、ともすればたちまちに水田のいたるところに繁茂する雑草の方が心配だと語ります。
「有機的に取り組むのであれば、必ずついて回る問題です。」
「でもこれまで、私が栽培する米が雑草に負けたことはありません。」

            

▽ 旅館経営者

           

原子炉建屋の一つが爆発した音が聞こえると、小林友子さんと夫の武則さんは、高価な貴重品を手荷物にまとめ、4代にわたって友子さんの家族が小高地区で経営してきた日本旅館の双葉屋を飛び出しました。
2人とも最初のうちは数日で戻れると思っていました。
「私たちは避難所にいましたが、その時初めて津波と原発事故の映像を見て、どれほど恐ろしい災害が起きたのか解ったのです。」
結局2人は小高地区の避難指定が解除される2016年まで戻ってきませんでした。

            

近隣の住民は立ち入ろうとしませんでしたが、友子さんは桃内駅近くの旅館の建物の手入れと旅館や駅周辺に花を植えるため、短時間の訪問を繰り返しました。
「私たちはこの場所にもどって自立する決心をしたのです。」
夫妻はたちまち放射線と食品の安全のエキスパートになりました。
「私たちは7年間この地区の食品の検査を続けてきました。そしてもう安全だということが分かったのです。その事実が私たちに帰還とこの場所での再出発を決心させたのです。」
域社会のために食べ物をテストしてきました、そして我々はそれが安全であることがわかっています。」
武則さんがこう語りました。

           

双葉屋の宿泊客には多数の来日外国人が含まれていますが、彼らは福島についてもっと知ろうという探究心を持っています。
「私たちはもっと多くの人々にここに宿泊してもらい、何が起きたのかその真実について一層理解が深まったと感じて故国に戻ってもらいたいと思っています。」
「しかし、事故発生からここまでなんということもなかったなどというふりはできません。ものすごく辛い時が何度かありましたから。」

            

▽ 酪農家

           

8年前、祖父が第二次世界大戦直後に創業した畜産農家の崩壊を防ぐのに、三代目の佐久間哲二さんは自分の無力を思い知らされました。
福島第一原発の原子炉がメルトダウンした年、佐久間さんが飼っていた130頭の牛は死んでしまうか、他の牧場に売られるか、屠殺されました。
同時に何千リットルもの牛乳を捨てなければなりませんでした。

           

しかし2017年に福島県産の生乳の出荷禁止の制限が解除された後、佐久間さんは畜産業を再開しました。
厳格な試験によって佐久間さんが飼っている牛のミルクが安全であることを証明しました。
しかし買う立場の人々の疑いを克服するために最初の壁に突き当たりました。

           

          

「私は放射線について勉強し、安全性に関する疑問を持たれた際にきちんと回答できるよう準備しました。」
20年以上前父から葛尾村にある農場を引き継いだ佐久間氏がこう語りました。

            

地元の農民たちの多くは、自分たちが事業を再生させるにはもう歳をとり過ぎている、そして彼らが生産する農産物が福島の環境中に放出された放射線によって永遠に汚染されることを恐れ、すべて売却することを決めました。

          

写真:佐久間哲二さんは、農場を成功させるために何年もの間働いてきました : Justin McCurry / The Observer

             

「他の場所で生計を立てる時間が長くなればなるほど、この場所に戻って生活を再建することは難しくなります。」
「しかし私たち家族はこの農場を成功させるために長い間一生懸命働いてきました。牛舎も自分たちの手で建て、今でも使っています。そんな農家の息子に生まれた私は農場を再開し、この場所で何でもできるのだということをみんなに証明してみせることにしたのです。」

           

※ 英文からの翻訳のため、個人のお名前の漢字が違っている可能性があります。ご容赦ください。           

https://www.theguardian.com/world/2019/mar/10/fukushima-eight-years-on-evacuees-come-home
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