ホーム » エッセイ » 日本を『原発ヅケ』にしたのは誰なのか?原子力ムラの司令塔、その意外な正体!〈第3回〉
【日本のメディア王にして、日本の病根を作った男】
[原子力発電という選択肢、それは権力の階段を昇るための『道具』]
エコノミスト 2012年12月22日
▽ 原子力発電という選択肢
はた目には唐突に、正力に対する告発はストライキを行っている従業員たちにより「イデオロギー的立場、そして政治的立場からなされたもの」であり、信用できる証拠はほとんど無い、という決定をアメリカ占領軍当局が下しました。
この頃になると占領軍当局は、深く考えずに日本に持ち込んだ左派系の組合運動の行く末に、懸念を深めるようになっていました。
1947年8月22日、正力に釈放が言い渡され、ここに21ヵ月間に渡る刑務所生活が終わることになりました。
まだ公職追放の身分でしたが、正力は後に『巣鴨総合大学』は、彼に理想的な人脈を提供することになったと語っています。
正力は後に彼の後押しによって第一線に復帰し、日本を支配することになる右翼の大物たちとの親交を取り結んでいたのです。
それは日本が平和条約に調印した1951年の4年後にやって来ることになります。
この段階で正力は62歳になっていましたが、いよいよ心の底から手に入れたいと願っていた最終目標に向け、険しい崖を昇り始めることになります。
目指すのは政治権力。
正力はそれを手に入れるために、ふたつのものを用意しました。
テレビ、そして原子力発電です。
この二つを軌道に乗せるために、正力の後半生において辣腕をふるった一人の男性が登場します。
彼の名は柴田秀利。
彼は正力のもう一冊の伝記、正力が部下のアイディアをすべて取り上げて自分の功績にしていくやり方を克明に記した、佐野真一氏の作品の主な情報源でした。
しかし柴田自身は正力とは、互いにうまく相手を利用する関係であったようです。
ニュース解説者だった柴田は、アメリカが反共プロパガンダを世界中に広めるためにテレビを活用する計画が実施に移されるという話を耳にしました。共産主義こそは、かつての大日本帝国、そしてドイツ第三帝国の共通の敵に他なりませんでした。
柴田はある考えを正力に伝えました。
柴田が持つアメリカに対する人脈を利用し、正力は政府に対し、国営放送NHKによるテレビの独占を終わらせるよう迫りました。
ほどなく正力の名は公職追放リストから削除され、彼は当時の金額で8億円以上を出資し、1952年に日本初の民放テレビ局、日本テレビを設立したのです。
日本テレビは今日、最も視聴率の高い民放テレビ局です。
しかしテレビ局もまた、正力にとっては政治権力をわが手に握るための道行きの、通過点のひとつでしかありませんでした。
1954年まで、日本では反米感情が沸騰していました。
広島、長崎への原爆投下による惨禍が一般の人々にも知られるようになった中、アメリカが太平洋のマーシャル群島のビキニ環礁で行った核実験により、当時近海に居た日本の漁船第五福竜丸の乗組員23名が、その放射線を浴びるという事件が起きました。その中の一人が死亡し、日本では一気に反核運動が盛り上がりました。
正力、そしてアメリカのCIAも、中国とソビエト連邦がこの機に乗じてアメリカに代わり、日本に対する影響力を一気に高めようとしているという情報に震え上がりました。
この時正力の頭に、ひらめいたものがありました。今度は原子力発電を使って、日本人の対米感情を好転させることを思いついたのです。
実はこのアイディアこそはCIAがおぜん立てし、正力同様アメリカ側もまた利益をむさぼるためのものであり、一部の有識者が酷評したものである。正力に関しさらに別の伝記を編んだ作者は、そう考えています。
その後まもなくドワイト・アイゼンハワーは『平和のための原子力利用』演説を行い、核兵器にまつわる悪い印象を払しょくすべく、原子力発電の利用促進に動きました。
そして1954年12月、アメリカの原子力発電複合企業であるゼネラル・ダイナミクスの社長、ジョン・ジェイ・ホプキンスが『原子力発電による復興プラン』を日本側に提案したのです。
その上で正力は原子力発電推進を図る仲間たちと、さらに同調者を増やすべく議会工作を続けました。
そして1956年、国会に議席を獲得するとともに自民党の結党にも奔走しました。
自民党はこの後55年もの間、与党として日本の政治の上に君臨し、今また政権に返り咲いています。
正力は政権閣僚の一人として、初代の原子力発電委員会の委員長に就任したのです。
そして委員会メンバーの科学者たちの驚きと大きな懸念を他所に、日本は5年以内に原子炉を建設すると宣言したのです。
それまでにも様々な検証事実がありましたが、正力はそれらが自らが示した方針の邪魔をすることを、一切許しませんでした。
話はそれだけでは終わりませんでした。
結局、正力の方針通り、日本最初の原子炉が建設されました。皮肉にもそれは米国製ではなく、英国製でしたが。
しかし正力は最終目標にまでたどり着くことはできませんでした。
日本国首相の地位です。
このため彼は、最晩年には挫折感に見舞われたものと考えられています。
この点についての話をしてくれたのは、正力のかつての右腕、柴田秀利の妻、やす子さんです。
現在82歳の彼女は、横浜の高級住宅街で余生を送っています。
正力・柴田のコンビは、日本の政界・経済界で縦横無尽に暗躍増したが、最後には柴田が飛び出す形で袂を分かちました。
その時、正力が柴田夫人のやす子さんに現金の入った分厚い封筒を渡した事を思い出し、夫人は忍び笑いを漏らしました。
少なくとも柴田夫人にとって正力は、化け物でも無ければ、もちろんお人好しでもありませんでした。
「人が正力を好きかどうか、それはもうどうでもいいことです。ただ正力はCIAに思い通りに操られるような、そんな小人物ではなかった事だけは確かです。」
柴田夫人はこう主張しました。
正力は最後、この愛人の腕の中で息を引き取りました。
彼が危篤状態に陥った時、外では酔っぱらいが興奮して騒いでいましたが、正力はそれを正当な配分を得られなければ柴田が、自分を殺すと脅しているのだという幻覚をみていたようです。
しかし正力が自らの遺産について思い悩む必要はありませんでした。
それは日本の各所に、しっかりと根を下ろしてしまっていたからです。
〈 完 〉
http://www.economist.com/news/christmas/21568589-media-mogul-whose-extraordinary-life-still-shapes-his-country-good-and-ill-japans
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皆さんはこの稿をお読みになった後、日本の原子力政策が、
将来のエネルギー政策について、日本にとって最良の選択肢について客観的な検討を行い、
安全性について、必要十分な検証を経た上で実施にうつされた。
そう考える事はできますか?
より大きな権力を手に入れるため、原発は一部の人間にとってきわめて都合の良い道具だった。
しかも日本の場合、その周囲に群がる政治家や科学者、自治体などにふんだんに資金を供給できるような仕組みまでが用意された。
3.11に突き動かされて始まった、この【星の金貨】。
今回の翻訳は、その節目のひとつになったような気がしています。
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【 過酷な挑戦 : ダカール・ラリー2013・第3ステージ 】
アメリカNBCニュース 2012年1月7日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)
2013年、ダカール・ラリーの第3ステージは1月5日から20日までの間、ペルー、アルゼンチン、チリの3か国にまたがり、ピスコ - ナスカ間で争われます。
南米第3ステージ(2013年1月7日)
昨年の南米第4ステージ(2012年1月4日)
一昨年の南米第7ステージ(2011年1月9日)