ホーム » エッセイ » 実録『トモダチ』作戦・第2部[第1回]「東京電力、日本政府の官僚は、汚染されてしまった人間の苦しみ、怒りを知れ!」
南西300キロ地点の放射線量は、東京電力や日本政府が伝えてきた福島第一原発の放射性物質の量・タイミング、いずれとも矛盾する、説明がつかない
ハフィントン・ポスト 2月11日
アメリカ政府にとってトモダチ作戦は、当時最も近い場所にいた海軍艦隊、そして多くの地上要員が、困難に陥っている盟友を助けるために駆けつける、通常の軍事作戦とは異なる、大規模な人道援助・救出作戦でした。
この時、日本の東北地方沿岸は巨大地震と引き続き起きた津波により壊滅的被害を受け、社会基盤は崩壊し、20,000人近い死者・行方不明者を出していました。
日本語で友人を意味する言葉を冠したトモダチ作戦は、始めは大量の物資補給から始められました。
作戦に参加した水兵たちは、陸上基地と機動部隊の空母USSロナルド・レーガンを拠点にした物量作戦、それ以上のことは考えていませんでした。
一方、アメリカ政府の考えでは、トモダチ作戦は長年続く日米両国の同盟関係を一層緊密にするはずのものでした。
そして、両者の思惑はいずれも外れることになりました。
加熱し続ける福島第一原発の1号機、2号機、そして3号機の核燃料はメルトダウンを始め、その過程で噴出した水素ガスが爆発を起こし、日本全土で検出されるほど大量の放射性物質を大気中に放出しました。
3号機と排気システムを共有する4号機では爆発により、原子炉原子炉建屋の屋根が吹き飛ばされ、使用済み核燃料プールが雨ざらしになっていました。
このプールにはたった1本でも万が一人間が近づけば、4分ほどで放射性ヨウ素、放射性セシウム、プルトニウムなどが引き起こす放射線障害により死亡するとされる核燃料棒を、総計1万本以上詰め込んだ燃料容器が1,500個収納されていたのです。
危機の間、アメリカ原子力規制委員会(NRC)グレゴリー・ヤッコ委員長が招集した会議、そして電話会議の議事録( http://pbadupws.nrc.gov/docs/ML1205/ML12052A105.pdf )は、新たにもたらされた資料、そして測定値が前回のものを次々に書き換えていき、懸念がどんどん深まっていく緊迫した状況を彷彿とさせるものです。
アメリカ海軍が現場で測定した放射線の量は、日本政府と福島第一原発を運営する東京電力が伝えてくる放射線量と著しく異なっていました。
原子力規制委員会自体は全くの聾桟敷(つんぼさじき)に置かれていました。
同委員会は一カ所の原子力発電所で、複数の原子炉が同時にメルトダウンするなどということは、理論的にはあり得ないと考えていました。
もともとあった、原子力規制委員会が作成した危機対応の仕組みは、事故を起こした原子力発電所で問題が解決するまで、すべての重要なシステムが正常に機能し続けると言うものでした。
ヤッコ委員長は日本国内にいたアメリカ人に対しては、日本政府が示すガイドラインに従い、冷静に行動するよう、公式に要請しました。
そして原子力規制委員会はアメリカ国内の記者会見で、放射性物質が降り注いでも危険は無いと繰り返し明言していました。
しかし議事録のコピーはその裏側の事実を物語っていました。
3月14日、ヤッコ委員長が行っていた電話会議が、原子炉規制委員会の技術部次長、ジャック・グローブがもたらした悪い知らせによって中断させられました。
ジャック・グローブ「邪魔をしてすみません。しかし事態が急展開しているのです。目下の事態を見て、思い浮かぶことがあるのですが[ ... ]」
「我々が一番心配していたことが、現実になりつつあります。風向きが変わり始めました。ヤッコ委員長も話を聞いてください。
すでに風向きが変わり、北東方向から南西方向に向いて吹いています。
その先にあるのは本州本土、そして東京です。
空母も東京の南方にある港に停泊中です。
東京は福島第一原発の南方約290キロ、港はその東京の16キロにあり、空母が計測した放射線量はこの12時間で10〜20ミリレム(1.2〜2.4mSv・ミリシーベルト・1年この状態が続けば自然放射能の世界平均の365倍~730倍、日本平均の876倍~1,750倍ほどです - 【ブラウザで動く放射線・放射能の単位換算ツール(簡易)】 http://hp.vector.co.jp/authors/VA047235/radiation.html )に達し、甲状腺で5倍から10倍の[ 記録削除... ]」
ジャック・グローブ「300キロも南西方向にある場所でこれほどの値が検出された、そのことが意味するのは、東京電力や日本政府が伝えてきた福島第一原発が放出した放射性物質の量、放出のタイミング、いずれとも矛盾する、説明がつかないということなのです。」
マイク・ウェーバー「そうです、私が話を伺って、合点が行かないのがまさにその点です。」
ジャック・グローブ「しかし空母に乗り組んでいる提督が我々に伝えてきた数値は、複数の計測装置を使用して検証済みのものなのです。[ 以下記録削除… ]」
マイク・ウェーバー「なんてことだ…」
ジャック・グローブ「彼らが運行しているもの、それは原子力空母です。であれば、放射線に関する知識と技術は相応に高いものであるはずです [ ... ]。
こうした状況は初めての経験でした、そして彼らは日本側が提供する情報は信じることはできない、そう判断するしかありませんでした。
このことはトモダチ作戦に参加したアメリカ軍将兵にとって、作戦が実行される限り、これからはその場その場で判断し、対応していかなければならなくなったことを意味しました。
彼らは一面廃墟となり、社会基盤もほとんど無くなってしまった場所で、行方不明者の捜索と人命救助に取り組む一方、福島第一原発が放出する目には見えない汚染から、自分たちの身も守らなければならなくなったのです。
アメリカ本国の国防総省と原子力規制委員会の官僚たちにとって、トモダチ作戦は限られた期間実施された、「成功した」任務でした。
要請された支援を事務化し、経過を記録し、そして任務は成し遂げられました。
しかし地球を半周した場所で命令を受け取り、実際に作戦に従事した人々にとっては、作戦の成功がもたらしたものを受け止めることもまた現実だったのです。
作戦に従事した一部の人間にとって、トモダチ作戦は自分の経歴も、アメリカ海軍勤務の中で見いだした夢も、そこで断たれてしまったことを意味することになりました。
彼らは不安を抱えて別の場所で生きることを、強いられることになってしまったのです。
〈 第2部・第2回へ続く 〉
A Lasting Legacy of the Fukushima Rescue Mission: Part 2: The Navy Life – Into the Abyss
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今日から先週に引き続き、3回に分け実録『トモダチ』作戦の第2部を掲載致します。
第2部は急展開を見せる第3部以降の「伏線が張られてゆく」筋立てのため、すこし抑えた調子になっています。
しかし、福島第一原発の事故が破壊したものの中で、最も私たちが目を向けなければならないことは何なのか、できれば第2部も、しっかりとお読みいただければ、そう思っております。
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湾岸戦争から10年、イラクの『あの時』、そして現在
アメリカNBCニュース 3月21日
(写真をクリックすれば、大きな画像をご覧いただけます)
イラクのファードゥーズ広場で掲げられている一枚の写真に写っているのは、2003年4月9日米軍とイラク人によってサダム・フセインの像が引き倒されているシーンです。
アメリカ海兵隊が力いっぱいソビエト・スタイルの銅像を倒すシーンは、サダム・フセインの支配の終わりを象徴するものでした。
バグダッドの中心にあるこの場所には、現在何もありません。
まがった鉄骨がむき出しになった銅像の台に、戦闘服を着た反米の立場をとるシーア派の聖職者ムクタダ・サドルのポスターが貼られています。
2013年3月13日撮影。(写真上・以下同じ)
少年が手に持つ写真に写っているのは、2003年7月20日、アメリカ兵が再開園したバグダッド動物園を訪れた際に撮影されたものです。
4月のアメリカ軍の侵攻によりスタッフは逃げ散り、その後動物園は略奪に遭い、ほとんどの動物が連れ去られるか殺されるかして壊滅状態になりました。
その後動物園はウィリアム・サムナー米陸軍大尉と南アフリカの環境保護活動家のローレンス・アンソニーの世話中で再建され、2003年7月に再開園にこぎつけました。
現在のバグダッド動物園は1,000以上の生き物を収容し、家族連れに人気の場所になっています。
2013年3月15日撮影。
バグダッドの繁華街カーラダ地区です。
2008年9月29日に撮影した写真に写っているのは、爆弾により22人が死亡した直後の様子です。
一時に比べればその数は減りましたが、宗派間の対立、そして民族紛争が原因のテロは今も止むことは無く、犠牲者の数も増え続けています。
2013年3月16日撮影。
写真に写っているのは、バグダッド市内のナワズ公園でアメリカ第3師団の歩兵と一緒にサッカーに興じるイラクの子供たちの姿です。
2013年3月12日撮影。
2008年11月16日、剣のモニュメントの前で道路を横断するアメリカ兵の姿です。
このモニュメントは8年に及ぶイラン・イラク戦争の際、パレード用にサダム・フセインが建設させたものです。
2007年イラク当局がこのモニュメントの取り壊しを始めましたが、すぐに中止され、2年をかけて修復が行われ、現在に至っています。
2013年3月14日撮影。
2008年3月7日、カーラダの商店街で爆発があり、53人が死亡、130人が負傷した時の写真です。
湾岸戦争後の混乱期、各地から各派のテロリストたちがこの国に入り込みました。
2013年3月16日撮影。
2003年4月、アブナワズ公園近くの路上で目を覚ました孤児の少年。
現在のアブナワズ公園は手入れも行き届き、家族連れに人気の場所となっています。
2013年3月12日撮影。