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世界で孤立する日本人の『改ざん史観』/ 南京大虐殺:中国の民間人を救ったデンマークのシンドラー

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所要時間 約 12分

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ぎりぎりの状況に追いつめられてなお、人間性を失わないということの価値について
「あたり一面が血だらけ、どこもかしこも血だらけ、あらゆる場所が血の海になっていた。 」

               

写真 : 南京在住当時のシントベルク:彼は日本軍への反抗が極めて危険なことを承知していました

                   

ローレンス・ピーター / BBC 2019年8月30日

                 

写真 : デンマーク国旗を掲げ、中国人をかくまった避難場所に日本軍を近づけなかったシントベルク(デンマーク、オーフス市公文書館)

                   

彼はセメント工場の警備員というだけの人でしたが、中国では「輝ける仏」あるいは「最高のデンマーク人」として尊敬されています。
ベルンハルト・アルプ・シントベルクは、1937年に南京で行われた大日本帝国軍の暴力や強姦から数万人の中国人を救い出しました。
彼は今やデンマークで『国民的英雄』の評価を得ることになりました。

                   

デンマーク国王マルグレーテ2世は2019年8月30日、シントベルクの故郷のオーフスにある公園で高さ3メートルのシントベルクの銅像を披露しました。
この式典は、米国でのシントベルクの死後36年近く経ってから実現しました。
この像は、南京市からオーフス市への贈り物です。
受賞歴のある3人のアーティスト、中国のシャン・ロン、フー・リチェン、ソシテデンマークのレネ・デスメンティックの共同制作作品です。

                    

                  

シントベルクの勇気はよく、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーの勇気と比較されます。
シンドラーは1,200人のユダヤ人を自分の工場で雇用することによってナチのホロコーストから救い、映画『シンドラーのリスト』によって不滅の存在になりました。

                 

▽ シントベルクの業績

              

シントベルクが南京で日本軍の残虐行為を目撃したとき、彼はまだ26歳でした。
のちにこの事件は「南京大虐殺」または「南京の大量強姦」として知られるようになりました。

                  

オーフス市公文書館長のソレン・クリステンセンによれば、シントベルクは一緒に警備員として働いていたドイツ人の同僚と共に、南京郊外のセメント工場で6,000人から10,000人の中国の民間人に避難場所と医薬品を提供しました。
中国政府の推定では、救出された中国人の数はさらに多く、約20,000人とされています。

                

クリステンセン氏は、シントベルクが「人々から忘れ去られたまま貧困の中で死んでしまいましたが、デンマークが生んだ最も偉大なヒーローの一人であることは間違いありません。」と説明しています。

              

シントベルクが中国人のための安全な避難場所、急場をしのぐためのキャンプと病院設備を作るのを手伝ったのはドイツ人のカール・ギュンターです。

                  

シントベルクは1937年12月にデンマークの会社F. L.スミッドによって建設された工場に勤め始めましたが、その後すぐに日本軍が南京に侵攻してきました。
日本人はその後6週間に渡り南京市内で荒れ狂い、民間人を拷問し強姦し、捕虜にした中国人兵士と共に殺害、推定30万人の命を奪う大虐殺を行いました。
犠牲者の多くは女性と子供たちであり、強姦された女性の数は推定20,000人に上りました。

                

写真 : 処刑を待つ中国人兵士、日本軍はこのような形で中国人捕虜を虐殺したのです。

                  

多くの中国の目撃者に加えて、シントベルクのような欧米人も残虐行為を記録しました。
しかしさまざまな立場にいる日本の政治家や官僚、歴史家と称する人間たちが第二次大戦以降、虐殺事件の死者数に異議を唱え、中国側の怒りを買っています。

                   

シントベルクはセメント工場の屋根に巨大なデンマーク国旗を描くことにより日本軍の空爆を免れました。
彼とギュンターはデンマーク国旗とナチスドイツの鉤十字の旗を工場の周囲に掲げて、日本軍の侵入を防ごうとしました。

                    

当時、大日本帝国はデンマーク、ナチスドイツのいずれとも敵対関係にはなく、それぞれの国旗を尊重していました。
シントベルクに関する本の著者であるペーター・ハルムセン氏は次のように語っています。
「戦争以前、シントベルクは何も特別なことはしていませんでした。」

                  

「彼は身長172.5cmで、1930年代後半のデンマーク人男性としてまさに平均そのものでした。学校での成績も全く平凡なものでした。」

                   

「しかし南京在住当時の1937年から1938年にかけての陰鬱な冬の間、彼は異常な事態に遭遇しました。日本軍のあまりにも残虐な行為を目の当たりにして、彼は行動する決心を固めたのです。」

                    

写真 : 南京虐殺記念館:展示施設内で数千人の遺骸と対面する訪問者

                     

▽ 南京大虐殺を実際に体験した人々の証言

                  

当時15歳の少年だった張正平氏は次のように述べています。
「デンマーク人によって難民の避難所が運営されていました。避難所には警備員と周辺をパトロールしている人がいました。日本軍兵士がやってきてトラブルになりそうになる度、デンマーク人が出て行って彼らを制止していました。」

                

ハルムセン氏が直接取材した別の中国人の証人は、1937年当時25歳だった農婦の郭久寧さんでした。
「日本兵が難民の避難所にやってくると、白人男性( シントベルク)は彼らと話をするために外に出て行きました。しばらくすると日本兵たちの姿は見えなくなりました。」

                

「日本兵が女性を探しに来ると、白人男性( シントベルク)はデンマーク国旗を手に持ったまま日本兵たちと話し合いました。そうすると日本兵は向きを変えて帰って行きました。」

               

友人への手紙の中で、シントベルクは南京大虐殺を目撃した際のショックについて次のように伝えています。
「一体どれだけ大量の血の海が広がっていたか、君には想像もつかないだろう。8月以降、戦争がどれほど悲惨なものなのか嫌という程思い知らされました。あたり一面が血だらけ、どこもかしこも血だらけ、あらゆる場所が血の海になっていた。 」

                 

写真 : 2011年に南京記念館を訪問したデンマーク国王のマルグレーテ女王。黄色いバラはシントベルクにちなんだものです。

             

南京大虐殺について調査している中国人ジャーナリスト、戴元之氏は避難所になったセメント工場の状況は悲惨だったと伝えています。
深圳日報に戴氏は次のように書いています。
「大勢の人が互いにくっつくようにして立ったり座ったりしていました。屋内はものすごく混雑した状態で、大小便の用をたす場所すらありませんでした。」

             

▽ シントベルクの人ととなり

               

シントベルクは義務教育しか受けていませんでした。
10代前半には学校を卒業すると海外に出て、船舶関係のさまざまな仕事に従事していました。
シントベルクは1931年にフランスの外国人部隊に入隊したこともありますが、数ヶ月で脱走しました。

                   

1934年に中国にやってきたシントベルクはデンマーク製のライフル銃の売り込みなどをしていましたが、程なく英国の外国特派員であるフィリップ・ペンブローク・スティーブンスのお抱え運転手として働くようになりました。
しかしスティーブンスは、1937年11月の日本軍の上海の侵攻を取材している際、日本軍の機関銃手に射殺されました。

                    

シントベルクは南京で目撃した残虐行為を記録し、虐殺事件の直後、米国に向け出発しました。

                 

彼は第二次世界大戦中、米国商船隊に勤務した後カリフォルニアに移住しましたが、南京で目撃した惨劇についてはほとんど語ろうしとませんでした。
そして1983年シントベルクはこの地で亡くなりました。

                  

写真 : 米国商船隊の制服を着たシントベルク

                 

南京におけるシントベルクの英雄的行為は、デンマークのバラ栽培家のローザ・エスケルントによって南京大虐殺メモリアル内に植栽された黄色いパラの花によって顕彰されることになりました。
シントベルクのドキュメンタリーを記したペーター・ハルムセン氏はBBCの取材に対し、次のように語りました。
「シントベルクは中国人難民のために扉を開きましたが、彼はその行為によって彼自身の中に偉大な魂が宿っていることを明らかにしたのです。」

              

「シントベルクの業績は人類にとって普遍的な価値を持つことになりました。それはぎりぎりの状況に追いつめられてなお、人間性を失わないということの価値について語っています。一人では抵抗しようのない巨大な不正義に直面させられた時、私たちはどう対応するでしょうか?見て見ぬ振りをしますか?逃げ出しますか?それともできることをしようとますか?」

                  

「幸いなことに、私たちはほとんどはそんな場面に遭遇することはありません。しかしシントベルクはその現実と向き合わなければならなくなり、一人の人間として可能な最良の行動をしたのです。」

                  

https://www.bbc.com/news/world-europe-49524779

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元の記事に『改ざん史観』などという言葉は出てきませんが、行間に日本人に対する嫌悪、特に歴史を書き換えようとする行為に対する強い嫌悪を私は読み取りました。

それゆえに私が書き足したタイトルです。

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