ホーム » エッセイ » 【 追悼 : スタジオジブリ・高畑勲氏の永眠 】
それまでアニメーションでは不可能と考えられていた表現を実現させ、人々の期待を大きく上回る成果をあげたスタジオジブリ
あなたがもし『火垂るの墓』の兄妹の親であったなら、自分の子供たちにこのような死を強制する国家をどう思いますか?
ジャスパー・シャープ/ガーディアン 2018年4月8日
※写真は高畑勲監督1988年の作品、哀切なエピソードに満ちた感動的な反戦映画『火垂るの墓』
2018年4月に82歳で亡くなった高畑勲氏は、日本のアニメが国際的な名声を得ていく過程で50年以上にわたり重要な役割を果たしてきました。
彼は日本のアニメ界を文字通り代表するスタジオ・ジブリを1985年に宮崎駿氏と共に設立しました。
代表作には一人の少女の悲劇的な死を題材にし、世界的にも大変高い評価を受けた反戦映画『火垂るの墓』(1988)、10世紀の日本のおとぎ話を基に伝統的な日本の画法である筆と墨を使ったタッチで描きアカデミー賞にもノミネートされた「かぐや姫」(2013年)などがあります。
周囲がデザイン画を基本として様々な技法を用いて作品を量産する中にあって、それとは対照的に高畑氏は自らがペンを持って紙に描くという手法にこだわり続けました。
にもかかわらず高畑氏の洗練された個性豊かな登場人物たちはその都度異なるテーマや美的世界の可能性を大きく広げ、それまでアニメーションでは不可能と考えられていた表現を実現させ、人々の期待を大きく上回る成果をあげたのです。
映画『火垂るの墓』は太平洋戦争末期に連合軍の爆撃で母親が殺害され孤児になった兄と妹が、二人きりで自活していかなければならなくなった状況を感動的に、その悲痛さを描いた作品です。
野坂昭之氏の短編小説を原作に置いたこの作品で高畑氏は、自身が9歳の時に体験側した岡山市の夜間爆撃で妹と一緒にパジャマのまま裸足で逃げるため必死に走った体験など、自らの記憶を作品の随所に重ね合わせていました。
1991年の作品『想ひでぽろぽろ』は東京で働くひとりの女性が少女時代を過ごした山形に戻ったとき、周囲を山々に囲まれた風景を見て1960年代後半の高度成長期のこども時代の懐かしい思い出が次々に蘇って来る様子を描きました。
高畑氏は空想的な作品も数多く手がけました。
東映動画に入社した高畑氏は長編アニメーション作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』で監督に抜擢されました。
この物語は悪魔の魔術師の手から村を守ろうとする少年の冒険物語で、後にスタジオジブリが設立された際に実現した作風と志向を予測させる作品となりました。
1994年作品の『平成狸合戦ぽんぽこ』は、人間の手によるニュータウン開発の犠牲になる里山のいたずら好きなタヌキたちの物語です。
ここでは環境破壊によって形を変えざるを得なくなった環境を守ろうとする姿が、タヌキという生き物に仮託されて物語性豊かに表現されています。
高畑氏は1943年三重県宇治山田に生まれ、7人兄弟の末っ子として生まれ、1943年に家族とともに岡山に移り住みました。
父親が校長を務めていた岡山県立高校を卒業し、1954年に東京大学文学部フランス文学科に進みました。
ここで高畑氏はフランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品と出会い、さらにその後の人生を変えることになるフランスのアニメーターであるポール・グリモーと出会います。ジャック・プレヴェールが脚本を手がけたアニメーション『王と鳥』(フランスでは1952年公開、日本公開は1955年)
スタジオジブリは2006年にこの作品のグリモー監督自身によるオリジナル版を公開しました。
同じ年高畑氏はプレヴェールの作品を日本語に翻訳した詩集を出版しました。
大学を卒業した1959年、高畠氏はディズニー映画並みのクオリティのアニメーション制作を目標に掲げる東映動画に入社しました。
1963年『わんぱく王子の大蛇退治』で助監督をと詰めるとともに、テレビシリーズ「狼少年ケン」(1963~65)のうちの数編で監督としてデビューを果たしました。
この年歳下の宮崎駿氏が入社しましたが、このときはまだ主要なシーンの間の作画を担当する低い地位にいました。
しかし高畑氏と宮崎氏はすぐにその50年以上続くことになる緊密な友情と仕事上の協力関係を築くことになりました。
高畑氏も宮崎駿氏も、入社した東映が子供向けの映画やテレビ番組により一層力を注ぐようになったのとは対照的に、もっと劇的で壮大なスケールのアニメーション映画を制作したいという野心を共有していました。
高畑氏がアニメ映画の監督としてデビューした当時、宮崎氏はシーンデザインと主要なアニメーション制作という重要な仕事を任されるようになっていました。
しかし制作された作品はどれも予算オーバーの上にスケジュールも遅れに遅れ、その挙句観客の動員にも失敗しました。
その結果東映は数週間後には映画の制作と配給の事業から撤退し、高畑氏はテレビ番組制作部門に降格されてしまったのです。
高畑氏と宮崎駿氏は憤慨していましたが、そこに同じ東映のアニメーターである大塚康生氏が加わった3人はAプロダクションに移籍、『ルパン三世 』のテレビシリーズを手がけることになりました。
ルパン三世はモーリス・ルブランの架空の泥棒アルセーン・ルパンの孫という設定の主人公が活躍するモンキーパンチの人気漫画をアニメ化したものです。
さらに高畑氏と宮崎氏はテレビのアニメ史上に残る名作『アルプスの少女ハイジ』(1974年)と『赤毛のアン』(1979年)など古典的名作に題材をとったテレビアニメの分野で互いに協力し、高畑氏は演出を宮崎氏はアートワークを担当しました。
1981年には『じゃりン子チエ』、1982年には宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』を演出し、そしていよいよ宮崎駿氏の代表的作品のひとつ「風の谷のナウシカ」(1984)のプロデューサーとして活躍しました 。
この映画の大成功はスタジオジブリの設立につながりました。
ジブリとは飛行機愛好家である宮崎駿氏がイタリアの第二次世界大戦中の飛行機の名前からとったものです。
そして高畑氏はスタジオジブリとしての初の大作『天空の城ラピュタ』(1986年)のプロデュースを行いました。
高畑氏は『火垂るの墓』を皮切りにスタジオジブリの5つの大作の制作を指揮しました。
しかし1999年公開の『ホーホケキョ となりの山田くん』は評判が悪く商業的にも失敗しました。
この作品は新聞に掲載されていた四コマ漫画そのままに、日本の家族の日常的エピソードをラフスケッチ風に寸劇的なスタイルで表現したものです。
スタジオジブリそのものは宮崎駿氏の作品が国際的な舞台でますます評価が高まって行きましたが、高畑氏はその表舞台から姿を隠すようになりました。
高畑氏は2013年に決定的に高い評価を得た『かぐや姫の物語』で監督としての仕事に復帰しました。
そして2016年、オランダのアニメーター、ミハエル・ドゥドク・ドゥ・ヴィット(MicaëlDudok de Wit)監督によるジブリの初の外国人監督作品「レッドタートル ある島の物語」の制作を行い、ジブリに新たな創作分野を拓くという重要な貢献を行いました。
この映画は会話がなくとも力強い表現が可能だという高畑氏のアイディアが、完全に正しかったことが証明されたのです。
https://www.theguardian.com/film/2018/apr/08/isao-takahata-obituary
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恥ずかしい話ですが、私は当時小学生だった長女長男と一緒に映画『火垂るの墓』を初めて見ていて、ラストシーンで少女が高熱を発して亡くなるシーンで涙が止まらなくなり、続きは見たいし子供達の手前どうしようと思ったことを憶えています。
この映画もまた、私の反戦への決意を強くしてくれた主要な動機のひとつを作ってくれました。
でも全編あまりに切ないシーンの連続で、もう一度見るという勇気がありません。
ポーランドの作曲家のグレツキーという人の『悲歌のシンフォニー』という作品があります。
ナチスドイツの強制収容所に入れられたユダヤ人少女の日記を題材に作られた交響曲ですが、初めて聴いて『絶望』というものを音楽にしたらこうなるのだなと痛感しました。
聴いているうちに絶滅収容所に入れられた少女の姿が眼前にありありと浮かび上がり、悲しいというより呼吸ができないほど苦しくなりました。
この曲も二度と聴かなくていい、そう思いました。
その代わり自分の中に、民族差別は決して許さないという決心が形成されました。
国家というものは古代、共通項を持った部族同士が協力して外敵から自らを守るために形成されていきました。
それを個人に還元すれば、家族と自分の命を守るために国家の形成に参加したということになります。
別の項で描きましたが、人間というのはたった一個の命を授かり、たった一度だけの人生を過ごすことを許された存在です。
ところが太平洋戦争をやった昭和期の軍国主義国家日本は、国民に極端な耐乏生活と隷属的思想教育を強いた上、国民の命をめちゃくちゃに浪費しました。
あなたがもし『火垂るの墓』の兄妹の親であったなら、自分の子供にこのような死を強制する国家に何を感じるでしょうか。
わずか小学生かそれ以下の子供たちを飢えたまま放浪せざるを得ない状況に追いやり、命に関わる病気に罹患しても救命措置もしてくれない。
もし私がこの子らの親だったらと考えると、「そんな国は潰れろ!」と叫びたい衝動に駆られます。
実際に軍国主義国家日本は潰れたわけですが、今再び日本をその方向に動かそうという人間が現れ、それが国政の枢要な地位に座っています。
この異常さだけはなんとかする必要があります。