ホーム » エッセイ » 【 爆発し溶け出した核燃料、多量の堆積物を確認 】
炉心溶融(コア・メルトダウン)によって原子炉内がひどく損傷している様子が明らか
ドイチェ・ヴェレ 2017年7月23日
水中ロボットが撮影した画像は、福島第一原子力発電所の事故で破壊された原子炉の底の部分に、溶融した核燃料(いわゆる核燃料デブリ)と考えられるものが大量に堆積している様子を映し出しました。
これが溶解した核燃料であることが確認できれば、事故収束・廃炉作業にとって大きなマイルストーンになると考えられます。
福島第一原発を管理する東京電力によると、3号機の格納容器の底の部分に、厚さが1メートルに達する大量の固化した溶岩状の塊が幾層にも重なりあっている様子が確認されました。
東京電力の関係者は22日土曜日に行われた記者会見で、
「原子炉圧力容器から溶融した物質が流れ出したと考えるのが自然だ。」
と述べました。
2011年地震によって引き起こされた津波が海辺にあった福島第一原発に襲いかかり、4基の原子炉のうち3基が爆発事故を起こし完全に破壊されました。
また原子炉4号機の損傷も極めて深刻です。
2台のカメラを装着した全長30センチメートルの遠隔操作ロボットがこれらの画像を撮影したのは、20日から始まった3日間に渡る調査の2日目である21日金曜日でした。
▽ きわめて高い放射線量
ロボット探査によって得られた写真からは、炉心溶融(コア・メルトダウン)によって原子炉内がひどく損傷している様子が明らかになりました。
溶け落ちた核燃料は破壊された原子炉の部品と混じり合っていることが画像からも明らかであり、今後数十年に及ぶ廃炉プロセスが非常に困難なものになることを示唆しています。
東京電力の広報担当者である木本氏は、核燃料デブリを取り除く方法を検討するための画像分析を完了させるまでには、まだかなりの時間が必要だと語りました。
http://www.dw.com/en/fukushima-possible-melted-nuclear-fuel-found-inside-reactor/a-39807349
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【 放射線に対し恐怖を感じることは、非難されるべきことなのか? 】
捨てられた街、捨てられた思い出、壊されてしまった絆、壊されてしまった……
福島第一原発の事故現場と周囲の無人の街を目の当たりにすれば、「なぜ帰れないか?」を痛感させられる
モトコ・リッチ / ニューヨークタイムズ 2017年3月13日
6年前、巨大地震と巨大津波に襲われて3基の原子炉がメルトダウンを引き起こした福島第一原子力発電所内に入るとき、私たちは少々緊張気味でした。
私たちは中指にデジタルプリントを施され、もともと体に帯びていた放射線量を測定するため放射線スキャナに座り、さらに携帯電話とパスポートを一時的に預けなければなりませんでした。
しかしニューヨークタイムズのために定期的に働いている写真家の佐々木さんが指さした警備員のいる門に掲げられた看板の文字を見て、固い雰囲気が少しほぐれました。
「構内でのポケモン・ゴー厳禁!」
私たちはニューヨークから飛行機でやってきた映像作家のヴェーダ・シャストリ氏と東京支局の上野久子さんと一緒に事故収束・廃炉作業をこの目で確認するため、この日福島第一原発を訪れたのです。
福島第一原発での作業を管理する立場にある東京電力は、放射能を帯びた塵やほこりが構内を行き来して放射線量が上がるのを防ぐため、ほとんどの地面を舗装し、ごみの類はすべてコンクリート製か金属製の容器内に保管されています。
それでもなお私たちは自分たちが健康被害を免れることかできるのかどうか、確信を持つことはできませんでした。
私はかつてチェルノブイリを何度も訪れた経験を持つセキュリティ・アドバイザーに相談したことがありますが、彼は短時間の滞在であれば放射線の防護装置や防護服を身に着けてさえいれば安全だと請け合ってくれました。
私は3か月前にも福島第一原発を訪問したことがあり、今度で2度目の訪問でした。
最初の訪問では、私たちは構内を巡るバスから降りることは許されず、その分、身を護るために身に着けていたのはベスト、手袋、そしてビニールでできた靴カバーだけでした。
今回歩いて構内の各所を案内してもらうことになった私たちは、その分放射線から身を護るための装備を身に着けることになりました。
最初に足を踏み入れたのは、構内で働く6,000人の作業員の事務所、更衣室、食堂、休憩室を確保するため東京電力が新たに建設したビルディングの屋上でした。
私たちはベスト、布製の白い手袋、自分専用の線量計を身に着けましたが、特に女性にはピンク色で縁どりされ『女性』と書かれたベスト、ヘルメット、紙製のマスクとゴーグルが支給されました。
建物の脇にあるドアから屋外に出ると、東京電力の広報担当者は建物の側面に取り付けられた金属製の階段を指さしました。
その気温は摂氏5度ほどで、強風が吹いていましたが、屋上までは9階分の階段を登らなければなりませんでした。
ごわごわしたマスクをつけたまま階段を上り続けた私は、途中眩暈を感じました。カメラを持って登っていたヴェーダは、気を失いそうだと語っていました。
屋上は叩きつけるような風が吹いていましたが、カメラを抱えていた佐々木さんもヴェーダも、思いベルトを身につけさせられていたので、撮影中に転落したり吹き飛ばされたりする心配はありませんでした。
この建物の屋上は福島第一原発で行われている事故収束・廃炉作業の規模を直感的に理解するのに最適の場所であり、私たちの見学をこの場所から始めたのは正解でした。
あらゆる方向に汚染水を貯蔵するための1,000基のタンクが立ち並び、その向こうには2011年3月に福島第一原発に致命的な被害をもたらした太平洋が広がっているのを見渡すことができました。
屋上を後にした私たちは窓が汚れ切った、そして通気口をテープで密閉したバスに乗り込みました。
バスがメルトダウンした原子炉の周囲を巡る道路をガタピシ言いながら進む間、同乗していた東京電力の社員が大きな線量計を捧げ持ち、線量の変化を注意深く監視し続けていました。
私たちは原子炉3号機から約80メートル離れた場所で短時間バスを降りることを許されましたがその場所では線量計が1時間当たり260マイクロシーベルトの線量を示していました。
これは16日間防護装置を何もつけずこの場所に立っていれば、ガンの発症リスクが著しく高くなるという放射線量です。
できるだけ詳しく事故収束・廃炉作業の現場を見るため、私たちここに来る前に使用済み核燃料が保管されている大きな核燃料プールがある建物に入る許可を求めていました。
そのために私たちは駐車していたトレーラーに案内されました。
その中で私たちは冬用コートの上にフード付きの分厚い紙製の防護服を着用させられました。
靴下を二重に履き、綿製の手袋の上に2重にゴム手袋をはめました。
そして頭を紙製のカバーで覆った上にヘルメットをかぶり、ろ過装置の付いたガスマスクとゴム製のブーツを着用しました。
その姿で使用済み核燃料プールに向って歩き出した私たちの姿は、映画『ゴーストバスターズ』の中でパッドの入ったボディスーツを着ていた主人公たちの倍の厚さに膨らんでいました。
そして使用済み核燃料プール済みに入ると、私たちはここまで履いてきたブーツは脱ぎ、用意されていた別のブーツに履き替えなければなりませんでした。
使用済み核燃料プールのある広い部屋は不気味に静まり返っていました。
ここで東京電力の担当者同士が、佐々木氏とヴェーダ氏に写真撮影を許可するかどうかでしばらくの間話し合っていましたが、少々奇妙な感じがしました。
プールの横に設置された看板には訪問者が近づき過ぎないように警告していましたが、驚いたことに子供の手を握って離さないようにとも警告していました。
果たしてこの場所に子供を連れてくる人間がいるのでしょうか?
ヴェーダが使用済み核燃料プールに近づくと、付き添っていた東京電力の社員からこう注意されました。
「持っているカメラをプール内に落とさないようにしてください。」
それを聞いて、彼女は不自由なマスクの下で言われた通りにするつもりだろうと、私は確信しました。
私たちの現場見学はバスの中で終了しました。
最初の建物に戻り身につけていた各種の防護装置を取り外すとそれらは皆廃棄処分にされました。
そして再び放射線量の測定が行われ、携行していた線量計の値の確認作業が行われました。
私たちの福島第一原子力発電所内の滞在時間は5時間でしたが、4人とも被ばく線量は30ミリシーベルトあるいはそれ以下で、原子力発電所で働く作業員の年間被ばく線量の上限の0.06パーセントでした。
その夜、私は放射線の安全に関わるコンサルタントに福島第一原発を訪問した際の報告書を送り、ある質問をしました。
「放射線防護服の下に着ていた個人の洋服と靴は捨てなければなりませんか?」
返ってきた返事には「その必要は全くない。」と書かれていました。
しかし私は言いようのない恐怖感を払拭することはできませんでした。
翌日福島第一原発の周囲の幾つかの避難指定区域内の市町村と、捨てられたままの街を巡っている間もこの恐怖感情は続いていました。
福島第一原発の中と周囲の町並みをこの目で見て、科学者や専門家が「もう安全だ」と保証しているにもかかわらず、なぜ今だに多くの住民がこの場所に戻ろうとしないのか、その思いを私は初めて実感することができました。
捨てられたままのすべてのものに、私の心は痛みを感じないわけにはいきませんでした。
ガラス越しに一軒の家の中を覗き込むと、山になった衣類のと本や雑誌、DVDが置き捨てられていました。
ピンク色のウサギのぬいぐるみがテーブルの上に横たわっていました。
台所には野球のユニフォームを着た少年の写真の脇に。2008年の日付のある墨文字で書かれた優勝の賞状が壁にかかったままになっていました。
その裏庭にある柚子の木には、熟した実がたわわに実っていました。
https://www.nytimes.com/A Reporting Team’s Nuclear Stress Test: Hazmat Suits, Face Masks and 9 Flights of Stairs