ホーム » エッセイ » 【 「私は戦争中の日本人を決して許さない!」泰緬鉄道から長崎まで:地獄を歩かされた英国人70年目の告発】《2》GRD
悪名高い『地獄行の船』に乗せられ、連れて行かれたのは『枕木1本に死者1人』の強制労働の現場
日本本土の強制労働の現場に比べれば、まだしも泰緬鉄道の建設現場の方がましだった
日本軍兵士による終ることの無い虐待、しかし最悪の日々は日本本土に連行されてから始まった
ジ・オブザーバー / ザ・ガーディアン 7月26日
ジャン・ブラス氏は植民地で農園を経営するオランダ人の父のもとに生まれました。
オランダ領インドネシアで8人兄弟の末っ子として生まれましたが、このうち2人の兄は夭逝していました。
幼い時の最も初期の記憶のひとつは、仕事に行く父親について行ってジャングルの中でトラと遭遇した事でした。
その時はそんなに怖くなかった、トラが人間を襲う事はそう多くない、そう考えていた事を彼は思い出しました。
「私たちが恐れていたのはクマの方でした。クマは木のぼりが得意であり、頭上から突然人間を襲う事があったからです。」
太平洋戦争が勃発する3か月前、ブラス氏は兄と一緒にオランダ陸軍に入隊しました。
1941年12月の真珠湾攻撃の後、日本はオランダ領東インド諸島を含む東南アジア地域を占領するため、軍事侵攻して来る可能性があったのです。
そして1942年前半になると、ブラス家の家族全員が日本軍の捕虜になっていました。
ブラス氏と兄のゲリットは、当時すでに悪名高い存在になっていた『地獄行の船』に乗せられ、数千人の捕虜のひとりとしてタイへ運搬されて行きました。
載せられた運搬船は重撃を受け、船室にいたブラス氏は爆弾が周囲の海中で爆発する不気味な音を聞き続けていました。
友軍にいつ殺されても不思議のない、危険な航海でした。
「とても恐ろしい思いをしました。」
ブラス氏が当時の状況を思い出しながら、こう語りました。
「私たちはネズミのように溺れながら殺されるのだと思っていました。私たちは船倉深く監禁され、頭の上にはシートがかぶせられていました。そのせいで2人が窒息死しました。目的地に着く前から悲惨な状況に置かれていました。」
彼ら捕虜たちはタイから牛を運ぶ貨車に乗せられ、泰緬(タイメン)鉄道の建設現場に連れていかれました。
そこで彼らは絶望的な労働条件の下で、枕木を並べるための5メートルの溝を掘る強制労働者の列に加えられたのです。
全長415kmの鉄道線路を建設するため、約13,000人の捕虜と100,000人の現地労働者の命が犠牲になりました。
この事実は後に『枕木1本に死者1人』という言葉で有名になりました。
ブラス氏は本当の危険は、日本兵が無差別にこれといった基準も無く与える暴力にあったのではないと冷静な口調で語りました。
日本兵は捕虜を現場の労働者として働かせる必要があったため、体罰を加えるのも一時的なものであり、ブラス氏はそれを『行きがけの駄賃』暴力と表現しました。
本当の危険はコレラ、そして栄養失調だったのです。
ブラス氏は常に空腹であったことを覚えていますが、死なずに済んだ理由として、英国本土からやって来た兵士たちと異なり、もともと熱帯地方で生まれ育ったために生き残ることができたのだと考えています。
彼の兄は病理学が専門の見習い中の医師で、現地の水は飲む前に一度沸騰させなければならないという知識を持っていました。
その手間を省いた人間たちは皆「ハエのように死んでしまいました」。
高い降水量のため、クワイ川は季節によって水位が変動しました。
ある日水位が下がった後、それまで水面下にあった木の枝にコレラで死んだ人の遺体がいくつも引っかかっているのを目撃したことを、ブラス氏は憶えています。
「私たち捕虜は一列に整列させられ、隣にいる相手を殴るように命令されたことがありました。殴り方が弱いと、警備の日本兵がやって来て私たちを殴りつけました。」
ブラス氏は鉄道建設現場で2年間働かせられました。
彼と兄の食事はわずかばかりのコメ、そして筍を細く切ったもの、そしてタンパク質は見たことが無い種類のリスなどの小動物を捕えたものが与えられていました。
ブラス氏に映画『戦場に架ける橋』を見たことがあるかどうか尋ねました。
「ありますとも!」
彼は大声で笑いながら答えました。
「あの映画は実に美しい物語でした。でも完全な作り話です。」
実際の捕虜たちは歌う事も無く、踊ることも無く、そして派手な演技をする余裕などまるでありませんでした。
「現実を体験させられた私たちにとって、『戦場に架ける橋』の映画は正直言って馬鹿げたものでした…冗談はやめてくれ、そう思いました。」
極めて劣悪な条件下で彼らは強制労働に従事させられましたが、驚くべきことに、ブラス氏は次に彼を待っていた運命に比べれば、鉄道建設の方がまだましだったと語ったのです。
《3》に続く
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/26/nagasaki-man-who-walked-through-hell-jan-bras
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
ブラス氏は捕虜として劣悪な条件の下で強制労働を強いられましたが、日本の一般兵士も末期にはそれ以上に無残な目に遭わされました。
玉砕と特攻です。
戦略的に無意味な上、戦術的にも勝算など無い中、南太平洋の島々では日本兵がアメリカ軍の多連装ロケット砲や重機関銃の前にむき身を曝すよう命令され、手足を吹き飛ばされ、内臓を引きちぎられ、挙句腐乱死体になって砂浜やジャングルに倒れていきました。
それもこれも他の部隊が玉砕したのに、自分が指揮する部隊が「おめおめと生き残った」のでは「面目が立たない」という愚劣極まりない理由で、何千人も何万人も殺されてしまったのです。
残された家族の方々は、生きていてさえくれれば、どんなやり直しでもできたものを…と思われたことでしょう。
巣鴨プリズンに収監された戦争指導者の多くが、その後『社会復帰』を果たしたのに…
自国の兵士をこれ程無残な目に遭わせたのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本軍だけでは無かったでしょうか?
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
【 今日の報道写真から : 8月4日 】
アメリカNBCニュース 8月4日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)
セルビア領内の駅で、マケドニア・ギリシャ行の列車の到着を待つシリア難民の女の子。父親によればこの子はシリアで化学兵器の攻撃により、皮膚がぼろぼろになってしまいました。
いま多くの難民がギリシャやマケドニア経由でハンガリーに向かっています。
ハンガリーはEUの中で、ビザなしで入国可能になっており、ここを起点に豊かな西欧社会に入っていこうとしているのです。(写真上)
ヨルダン領内マフラクにある、臨時の難民用テントに弟を抱いて歩くシリア難民の男の子。(写真下・以下同じ)
イタリアのメッシナで沿岸警備隊艦船からの下船を待つアフリカ難民の少年。
2隻の簡易ヨットに乗ってヨーロッパに向かおうとしていた約300人のサハラ砂漠南部のアフリカ難民が、3日の日にリビア沖で保護され、無事シチリア島に搬送されてきました。
イエメンの首都のサヌアの学校でなわとびをする少年。
学校内にはザイド派の武装組織が支配するイエメン北部サアダ州から、自宅を捨てて逃れてきた難民たちが収容されています。
サウジアラビア人いるアラブ同盟は、亡命中のマンスール大統領を復権させようとザイド派の武装組織に対し、3月26日軍事作戦を開始しました。
北フランスのキャンプで食料の配給を受けるために一列に並ぶ不法移民。
欧州連合は、フランス北部のカレー市付近で不法移民が増え続けている事態に、フランスに対し資金提供との様々な援助を行う事を決定しました。
8月3日カリフォルニア州クリアレイク・オークス近く、折からの大山林火災が続く中、バックファイアが発生した時の写真。
朝早く突風が吹き、火は瞬く間にハイウェー20号線まで飛び火しました。
http://www.nbcnews.com/news/photo/today-pictures-august-4-n404166