ホーム » エッセイ » 【 散り散りになったもの、まき散らされたもの 】〈第2回〉
デア・シュピーゲル(ドイツ)12月22日
▽ゴーストタウン
9カ月の間、浪江町はゴーストタウンとなっています。
清水なかさん、市長のアシスタントは、定期的に放棄された市庁舎の現在の状態を確認するため、出かけて行きます。
今日もまた、彼は数時間の間、旧市街に戻っていきました。
立ち入り禁止のバリケードの2キロメートルほど手前で、彼は防護服、防護マスク、そして手袋を身に着け、靴を青いビニールのカバーで覆いました。
バ リケードの向こうに山並みが見えます。
植物が道路の半分以上を覆っていますが、牧草地や農場だけでなく、地震によっててできた道路の亀裂からは雑草が生え、人間の背丈と同じぐらい異常なほど大きくなり、伸び放題のままになっています。
清水さんは車のフロントガラス越しに、放射性物質を吸収した植物の様子をじっと見ながら、こうつぶやきました。
「セシウムの草…」
彼は微笑んでいるようにも見えましたが、むしろ泣き顔に近かったかも知れません。
黒毛の牛が放たれたまま草を食んでいました。
電話ボックスに灯る灯りが、その内部にも雑草がはびこっている様子を浮かび上がらせています。
一軒のバーの入り口の前には腰掛けが並べられたままになり、家々の前には黄色く変色した洗濯物が乾されたままになっています。
浪江駅の線路は、野生のブドウの蔓と葉ですっかりおおわれてしまっています。
太平洋に面した地区は何もかも津波にさらわれ、すっかり平らになってしまっています。
自衛隊の隊員とその他の作業員が、ひときわ大きな瓦礫の山の前に集まっていました。
清水さんが車から降り、コンクリートのビルのひとつを指さしました。
請戸(うけど)小学校です。
「先生が完璧な対応をとったため、子供たち全員が助かりました。徒歩で高台まで避難したのです。」
そう清水さんが説明してくれました。
しかし町以外の行政機関は、人々が放射能汚染から逃れるため、結局は役に立ちませんでした。
「日本政府も、福島県も、どちらも私たちを助けてはくれませんでした。」
清水さんは避難区域を運転している間ずっと無言でしたが、彼は突然記者の方を向いてこう言いました。
「どうか、私たちを助けてください、福島を!ヨーロッパの皆さん、助けてください!」
▽緊急避難
3月12日へと続く夜、この場所には誰からも助けの手はおよびませんでした。
家屋を津波や地震によって破壊されてしまった何千人という人々が、浪江市役所または市内の学校に避難しました。外からの情報伝える唯一の手段は、テレビとラジオだけでした。
福島第一原発を抱える双葉町と大隈町では、夕刻前に警告が発せられ、人々を避難させるためにバスがやって来ました。
一方、制御不能に陥ってしまった福島第一原発からほんの数キロしか無いにもかかわらず、浪江町では馬場町長も、そして町民も何も知らされなかったのです。
バスの運転手の菊池則人さんと、彼の息子の32歳になる拓也さんはその夜テレビの前に座り、繰り返し放映される今世紀最大の津波の様子と、どんどん不吉な様相を帯び始めた福島第一原発の様子を食い入るように見つめ、そして呆然となりました。
いつもなら彼らの家からは、飛行機などにその存在を教えるための、発電所内の塔の赤いランプの点滅を見ることができました。
しかし、その夜は真っ暗でした。
拓也さんは身の回りのものを袋に詰め、父親に避難を促しましたが、父はもう少し様子を見たい、と言ったのです。
土曜日の朝、午前6時ごろ、ニュースキャスターが福島第一原発の周囲10km以内にいる人々に、避難を呼びかける当時の内閣総理大臣菅直人からの警告を読み上げました。
その時点で、発電所の技術者は過熱している原子炉内の圧力を下げる操作を行う必要があり、結果として放射性物質が浪江町に向かって飛来することが明らかになりました。
拓也さんは飛び上がり
「みんな逃げなければならない!」そう言いながら妹を起こしました。
則人さんも母親を揺り起こし、仏壇から亡くなった妻の遺影を急いでつかみ出しました。
拓也さんは、自分のポータブルプレイステーションを、妹は小さなぬいぐるみが4つぶら下がっている携帯電話を握りしめました。
家を飛び出して10分後、祖母は自分の心臓の薬を忘れてきたことに気づき、家に戻ろうとしました。
則人さんは自分に落ち着くよう言い聞かせていましたが、思わず悪態をつきました。
道がだんだん混みはじめていました。則人さんはホンダの小型車を運転し、国道114号線を北西に向かい走り始めました。その道は彼が39年間、バスの運転をしていた道でした。
車が浪江町近くの山上にたどり着いた時、彼らは車を止めて町を見下ろしました。
車が数珠つなぎになって、渋滞が続いていました。
「まるでアルマゲドンのようでした。」
「それが現実の出来事だとは、すぐには信じられませんでした。」
〈つづく〉
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ゴースト・タウン段落の最後、
「どうか、私たちを助けてください!」
という訴えには胸を突かれます。
そして同時に私たちは何という事をしてしまったんだろう、という後悔にも苛まれます。
現在この稿と同時進行で翻訳しているニューヨークタイムズの論文にこんなくだりがあります。
「私たちは原子力発電に関し、これまで何の教育も受けてこなかった。」
その通りだ、その事実が福島第一原発の事故につながった原因の一つなんだ、という事に気づかされました。
これからの日本の社会が行き先を間違わないようにするためには、今起きている現実を、真実を丹念につまびらかにして行く必要があると思います。
尚、原文が英語のため、登場される方々の漢字表記には誤りがあるかもしれません。
失礼があった場合には、お詫び申し上げます。
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【 日本人とベートーヴェン第九 – 佐渡さん米国CBSニュースにも登場 】
アメリカNBCニュース 12月26日
今年は特別の意味を持つ、12月にベートーヴェンの『歓喜に寄す』を歌うというこの日本の伝統は、その起源を第一次世界大戦当時に求めることができます。
私たちにはそれぞれ年の瀬に聴きたい音楽があり、『選択の余地は無い』などという事はありません。
しかしここ日本においては、どうやらみんなが同じ曲を聴きたいと思うようです。
そして今年は…いつもの年よりそのことに大きな意味があるようです。
ほとんどの人々が仏教の宗派、あるいは日本古来の神道により色分けされる日本 では、クリスマスの行事に熱中するような人々はむしろ少数派に属します。
しかしある日本のクリスマスの季節の伝統行事は、目立たないものではありません。
この時期、ベートーヴェンのあの傑作、交響曲第9番の第4楽章『歓喜に寄す』に対する日本人の熱の入れ方には、ちょっと驚かされるものがあります。
12月に『第九』、すなわちベートーヴェンの交響曲第9番の感動的な 演奏が行われることなく、その年が終わってしまう、そんなことは考えられないのがこの日本、それほどにこの曲は愛されているのです。
いったいなぜ、と言いたくなるほどの日本人のこの曲へのこだわりは、第一次世界大戦当時にその起源がありま す。
捕虜として日本に抑留されていたドイツ兵が行った演奏が、この曲の日本での初演でした。
日本人はこの曲をたちどころに気に入り、以来第九は20世紀の半ばまでには、年末の定番として親しまれるようになりました。
12月いっぱい、演奏会場からデパートまで第九が演奏され、そして歌われます。
第九はこの季節もっとも好まれる曲であり、音楽家、そして指揮者にとっては必須演目です。
「私はもうこの曲を150回以上演奏しています。」
指揮者の佐渡裕さんが話しました。
一部の熱狂的なファンはこの曲を原語で歌うことができます。
「私はところどころ覚えているだけです。後は口パクしてるだけ。」
9歳の女の子はこう答えました。
規模の大きさでいえば、大阪で開催された1万人による『第九の合唱』を超えるものはありません。
才能のある人も無い人も、等しくこのステージに立つチャンスがありました。
3月に発生した大災害に思いを巡らせるとき、第九の歌詩にはさらに深い意味を 持つことになります、特に津波を生き抜いた人々にとっては.....
「あの災害は私たちに、助け合うことがどれだけ大切なことかを教えてくれまし た。」
合唱団のメンバーが語りました。
「この曲は何もかも破壊されてしまった日本の人々への、なぐさめと励ましなのです。」