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【 地平線の彼方に再び姿を現した戦争の予感と元ゼロ戦パイロットの取り組み 】《後篇》

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所要時間 約 8分

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「戦争は私を殺人者に変えてしまった…それこそは決してなりたくない類いの人間だった…」
戦争が終わって20年もの間、殺した敵兵が繰り返し悪夢に現れ、苦しまなければならなかった
この国の子供たちを悲惨な戦争から守るための最良の方法は、絶対に戦争の記憶を風化させない事

 

マーティン・ファクラー(長野にて) / ニューヨークタイムズ 4月3日

戦闘機01
日本は今年、第二次世界大戦(太平洋戦争)に敗北、降伏してから70周年を迎えますが、再び戦争への道を歩みだすのではないかという懸念を多くの日本人が持っています。
国民のあらゆる層からこうした懸念が表明され、ついには皇太子殿下も今年2月、55歳の誕生日を迎えられた際の記者会見で、改めて平和の尊さを訴えるメッセージを発信される事態となりました。
「戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切です。」

ガダルカナルの戦死体
こうした懸念の広がりから、原田さんは講演者として引っ張りだこの状態になりました。
ここ数年、原田さんは何十回もの講演をこなしてきましたが、昨年とうとう過労のため浴室で倒れる事態となり、以後は講演回数を減らさなければならなくなりました。

原田さんは最近になって喉頭がんの診断を下されましたが、何人かの人々が涙を拭いながら聴き入る中、信念を持ち、熱心に聴衆に向け語り続けました。

太平洋戦争01
「私は54歳ですが、これまで戦争中に本当にあったことについて直接話を聞く機会がありませんでした。」
ヘアサロンのオーナーである勝山隆さんがこう語りました。
そしてここにいる聴衆の多くが、第二次世界大戦(太平洋戦争)の事実について学校で学んだことは無い、そうつけ加えました。
「日本人はこれまで以上に、これら現実の体験に耳を傾けなければなりません。」

原田さんは大日本帝国が太平洋の制空権を握っていた短い間、どう戦ったのかを生き生きと臨場感豊かに語り聞かせました。
1942年のミッドウェー海戦の際、日本艦隊の防衛任務に就いていた原田さんはアメリカ軍の雷撃(魚雷搭載)機を5機撃墜しました。

ミッドウェー海戦
原田さんは敵機の後部座席にいる機銃手の射撃をゼロ戦の機体を傾けながらかわし、相手にトドメをさすため接近して行った時の様子を描写して見せました。そして彼自身の敗北について語りました。
日本軍はミッドウェーに送り出した航空母艦4隻すべてを撃沈され、この戦いを機に日米の戦況は逆転しました。
原田さんは帰還すべき空母が撃沈されてしまったために、海面に不時着せざるを得なくなりました。

そして4ヵ月後、彼はガダルカナル島の上空で撃墜されました。
彼の飛行機はまっさかさまにジャングルに墜落しましたが、生き残る事が出来ました。
しかしその時、原田さんの腕は二度と操縦桿が握れなくなるほどひどく、たたきつぶされてしまったのです。
原田さんは日本に戻り、戦争が終わるまでの期間をトレーニング・パイロットとして過ごしました。

墜落ゼロ戦
日本の降伏後、原田さんは復讐心に燃える占領軍の報復を恐れ、しばらくの間国内で潜伏生活を送ることになりました。
原田さんはしばらくの間酪農場に隠れ住みましたが、悪夢にうなされ、不眠に悩まされることになりました。

夜中原田さんは、撃墜した敵機のパイロットの顔が恐怖に歪む夢を繰り返し見ました。
「戦争が私を殺人者に変えてしまったことに気がついたのです。」
原田さんがこう語りました。
「そしてそれこそは、私が決してなりたくないと考えていた種類の人間だったのです。」

原田さんは1965年、幼稚園を長野に開園させ新たな仕事に就いた時、ようやく悪夢から解放されることになったと語りました。

ミッドウェー海戦04
彼は幼い子供たちに、平和の尊さを教えることに専念することで、罪の意識の痛みを軽くすることができるのだと語りました。
現在原田さんはすでに引退していますが、子供たちの笑顔を見るため毎日幼稚園に出向いていると語り、できる間は続けるつもりだと付け加えました。

原田さんは自身が経験した戦争について話ができるようになるまで、相当の年月が必要だったと語りました。

きっかけは1991年の湾岸戦争でした。
彼は日本の若者が、空爆についてあたかも現実には無害なテレビゲームについて語るのと同じように会話する様子を見て、ぞっとしました。
その時原田さんは、声を挙げるべきだと決心したのです。

戦闘機03
以来原田さんはずっと、自らの戦争経験について話しをしてきました。
「死ぬまで、私はこの目で見、この身で体験したことを語り続けます。」
原田さんは講演をこの言葉で締めくくりました。
「この国の子供たちを悲惨な戦争から守るための最良の方法は、絶対に戦争の記憶を風化させない事です。」

〈 完 〉

+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

今日、原田さんのような方が特攻や玉砕を免れ、時代の証人としてご自分の経験を語られていることを慶賀しなければなりません。
戦争犯罪と言うと多くは他国民を殺害した事が取り上げられますが、私自身は特攻や玉砕などと言う無意味な大量死を国民に強いたことも日本の戦争犯罪のひとつだと考えています。

ドイツではベルリン陥落直前に300,000人のドイツ軍兵士が一度に降伏し、その対応のため連合軍の進撃が一時停止したほどでしたが、その際救われた人命に加え戦うはずだった連合軍兵士の犠牲を考えれば、ヒトラーが許さなかった降伏を現場の指揮官が決断したことにより、相当な数の人命が救われたことになります。(写真下)
ドイツ軍降伏
これに比べると日本の特攻と玉砕はあまりにも陰惨でした。
上から2番目の写真は第二次世界大戦(太平洋戦争)の激戦地、ガダルカナル島の海岸に散乱する日本軍の『玉砕』した兵士たちの死体です。
もはや戦略上も戦術上も何の成算も無いのに、たった一つしかない人間の生命を、それも命令に従うしかない立場の人間を大量死させた点について、私たちはどう考えるべきでしょうか?

降伏したドイツ兵の大半は悪名高いSS(親衛隊)などではなく国防軍の兵士たちで、戦後はドイツ、あるいはヨーロッパ再建のために働く機会を与えられることになりました。
しかし南太平洋の島々で腐乱死体となってしまった日本の若者たちには、どんな未来も無かったのです。

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