ホーム » エッセイ » 【 国内のすべてのイスラム教徒を監視対象に – 日本の最高裁 】
自分たちは人種差別を行っているかもしれない、という認識と危機感とに欠ける日本
ISISのようなテロ組織とイスラム教の宗教組織が同一視される、徒らに危機感が煽られている日本
ダグラス・ロバートソン(東京)/ インディペンダント 2016年7月1日
6月初旬のある日私が東京都心の公園を散歩していると、突然一人の子どもが私の視界に飛び込んできて、こう叫びました。
「パパ、パパ!ガイジンがいる!」
その子はいかにもおびえた様子で父親のもとに駆け去りました。
都内で生活している外国人は、皆似たような経験をしています。
日本国内で暮していれば、日本人かそうでないかはひと目でわかるため、皆こうした扱いをされることには慣れています。
日本人は一般的に、長い間『ガイジン(外国人 – 文字通り日本以外の場所からやって来た人)』という存在にある種の魅力を感じてきました。
ガイジンは日本国内の音楽チャート、テレビ、そしてその他あらゆるジャンルに登場します。
しかし魅力を感じさせる一方で、ガイジンという存在の根底にはしばしば恐れや不信といったマイナス感情が伴うことがあります。
日本の文化の根底のひとつを形作るものが『日本人』か『日本人ではない』かという二分法であり、それぞれの観点における日本というものの認識が異なっています。
例えば冒頭にご紹介した私の体験のように見た目で明らかに日本人ではない場合、あるいは考え方が『非日本的』である場合、そして『非日本的』宗教を奉じている場合にも、『区別』の対象になります。
こうした日本以外の場所との『違い』あるいは『区別』について日本人が抱いている感覚について、学術関係者はその時々の教育方針などによって故意に形作られている場合もあると主張しています。
もちろんそうした教育方針は表面上融和や友愛を説いてはいるものの、実際となると『非日本的』なものを無意識に区別するよう誘導しているという議論については、私も同意せざるを得ない面があります。
そして海外で生活した、あるいは留学経験のある日本人についても、日本から出て暮らしたことが無い人間とは、まったく違った扱いを受けることになります。
さらには『非日本的』な考え方に影響されて、そして敢えて言うなら『非日本的』な考え方に毒されてしまった人間に対しても、日本の人々の態度は一変します。
全部とは言わなくとも、少なくとも一部の日本人は明らかにそうした行動をとりたがります。
同じようなことから、日本においては外国の考え方に基づいていると広く認識されているキリスト教、イスラム教に入信することも、多少『非日本的』な行動だと見られる場合があります。
日本にはキリスト教徒とイスラム教徒を合わせた数よりもっとずっと多くの伝統的な考えを持つ日本人がいて、キリスト教もイスラム教も『非日本的』な思想に基づくものだと見ています。
こうしたことから日本の最高裁判所が、国内の小さなイスラム・コミュニティに対し政府が包括的な監視を行う事を承認したということを知らされても、日本国内で暮らす者にとっては思いもかけないことではないのです。
少し印象的だったのは、日本語の新聞やテレビがこの判決についてほとんど取り上げることが無かった、という点です。
この判決に対して目立った反応を示したのは英語の報道媒体でした。
それらの報道に共通してあったものは、一種の憤りでした。
最高裁のこの判決は「Islamophobic」、すなわちイスラム嫌い、イスラム恐怖症に基づくものではないのか?
しかしこうした報道が行なわれても、英字新聞だけでは日本国内での影響力も限られたものになってしまいます。
Islamophobia(イスラム嫌い、イスラム恐怖症)が社会にとって、ある特定の人びとを対象とした人種主義の概念であるという事はかろうじて認められています。
日本国内における人間の判別基準は、日本人であるか、そうでないかということです。
こうした観点から、少なくとも日本国内においては、日本人と人種差別という問題はほとんど話題にもならないと考えられます。
友人との何気ない議論において、現在世界的規模で『イスラム教の興隆』が続いているが、イスラム過激派のテロがそれと歩調を合わせるように拡大している訳ではなく、しばしばISISのようなテロ組織とイスラム教の宗教組織が同一視されるという混乱が生じているという結論に行きつきました。
ただし、この議論では世界中のあらゆる宗教、あるいは思想の名のもとにテロリズムが蔓延しているというような話にはなりませんでした。
それでも、日本の最高裁判所の今回の判決の基調にあるのは、イスラム教に対する不合理な恐怖感であり、論理ではなく感覚によって支配されているIslamophobia(イスラム嫌い、イスラム恐怖症)であると言わざるを得ません。
しかし私は今回の判決を導き出したものは、日本社会と文化のあらゆる場所に、より広く、より深く根を張っている歴史に対する姿勢を象徴するものだと考えています。
日本人は人種差別が自国とは関係の無い場所、どこか外国の問題だと考えています。
そのため日本の社会がこの問題とどう向き合うべきかという視点すらなく、外から見れば驚くべき事ですが、最先進国社会であるはずの日本には人種差別を禁じる法律はありません。
日本の最高裁判所の今回の悲しむべき判断は、根拠に乏しいイスラム恐怖症に基づくものであり、長い目で見て日本社会にどんな成果ももたらしません。
日本の反イスラム感情の高まりについては、その原因が何であるかをはっきりさせ、公の議論を行うことが必要です。
しかし日本で暮らすガイジンとして言わせていただければ、そうした議論が実現しても、近々に何かが変わるという大それた希望は抱いていません。
http://www.independent.co.uk/voices/muslims-japan-government-surveillance-im-not-surprised-islamophobia-a7113051.html