ホーム » エッセイ » ビートルズ、『たったひとりの公式伝記作家』が振り返る50年[ガーディアン]
【 ビートルズ・デビューシングル発売50周年 】
ハンター・ディヴィス / ガーディアン 10月5日
ああ神様、始めから全部説明しなければならないのでしょうか?
1962年10月5日、ビートルズの最初のシングル・レコード『ラヴ・ミー・ドゥ』が発売されました。
ヒットチャートでは17位までしか上りませんでしたが、しかしそれこそがビートルズの始まりだったのです。
そして50年後、彼らの出発は世界中で祝われることになりました。通りに出て踊る人々、人気沸騰のシンポジウム、テレビ、そしてラジオの特集番組、何千という、まさに世界中で何是という記念イベントが行われるはずなのです。
そこに、ここ英国で開催される2、3のイベントが加わることになります。
すべてが始まり、すべてが終わった、この英国で。
ここイギリスではそれほどの話題にはなっていませんが、海外のビートルマニアの人々の盛り上がりは大変なものです。海外のマニアはビートルズに関して豊富な知識を誇り、情熱的に愛し、後ろ向きでもなければ、食傷もしていません。
私が、サヴィルロウ3番地の屋上に行かなければならないのは、オランダのテレビ番組に出演するためです。だいぶ質問されるでしょうが、満足に答えられるかどうか。
今日では私などよりビートルズに関してはるかに博識な人々がたくさんいて、彼らは控えめではあっても私などが知らないことも、たくさん知っているはずです。
世界中のビートルズ・ファンなら『ラヴ・ミー・ドゥ』のシングル・レコードが発売されたこの日の重要性を、たちどころに解ってくれるでしょう。
しかし海外のテレビ局にとっては、今日という日に、アメリカの衣料品チェーン店のアバークロンビー・アンド・フィッチが大きな店舗を構え、子供向け専門店すら準備をしているサヴィルロウ・ストリートにやってきて、アップル・レコードがあった建物を見つけ出し、屋上に上って撮影を敢行することは容易なことでは無いでしょう。
たった3分間のビートルズに関するニュース映像の撮影のため、そこまでやる会社があるとは。
たった一人で誰かのインタビューを5分間収録するより、多分難しいことだと思うのですが。
アップル・レコードがかつてこの場所にあった1970年頃、私はサヴイルロウ3番地に出かけていきました。
ジョンは落ち込んだ、しかもなんだかウンザリしたような様子で、打ち合わせが始まるのを待っていました。
そこで私はビートルズのPRに関する打ち合わせをするため、デレク・テイラー(アップル社の広報担当)に会いにいくことにしました。
彼の事務所に入ると、髪を長く伸ばした女の子がやってきて、今日はデレクの誕生日だからと言いながら、湯気の立つ、焼き立てのジンジャー・ケーキをオーブンから取り出し、わたしにもふるまってくれたのです。
素晴らしい出来のケーキで、私は二切れ平らげてしまいました。
それから、我々は昼食に出かけたのですが、そこで急におかしな気分になってきました。ケーキの中には麻薬が入っていたのです。麻薬なぞというものを体験したのは、これが最初で最後の事でした。
章家記的な体験でしたが、これも私が60年代を生きた人間だからかもしれません。
多分孫にはそう説明すると思います。
一度私は『ラヴ・ミー・ドゥ』の曲について、ジョンと話をしたことがあります。
しゃれたハーモニカの感想が印象的ないい曲でしたが、歌詞はつまらないかもしれません。
「ユー」「ドゥ」「トゥルー」、あまりにありきたりな韻を踏んでいます。
もう少しましな詩は無かったのでしょうか?
この点『ストロベリー・フィールズ』の歌詞は秀逸だったと思います。
しかし人々は一語一語の意味を複雑に考えすぎ、ジョンはこの点を気に病んでいました。
ジョンは『ストロベリー・フィールズ』の歌詞も、その他の後期の曲の歌詞も、『ラヴ・ミー・ドゥ』の会とそれほど違いは無いのだ、と嘆いていました。
言葉は言葉、歌詞は歌詞。
試みにこの2曲の歌詞を口ずさむか、歌ってみてください。
今日でもなお、ビートルズの曲の歌詞の裏の裏にあるものを、読み解こうとする試みは続いています。
ましてデビュー(ビートルズはシングル発売前、すでにドイツ、英国でプロとしてステージに立っていた下積み時代が長く、正式なデビュー日時の特定は難しい - 訳者注)50周年ともなれば、なおさらでしょう。
この試みは海外で特に熱心に行われています。
アメリカと日本はこの中の最重要国であり、大学はもちろん、あらゆる場でビートルズの研究者が熱心に歌詞と取っ組み合いをしています。
歌詞は聖書と同じほど重要であり、ビートルズが残した走り書きのメモや書き損じは、ことのほか大切で貴重な資料です。
私は彼らの伝記を書きました。
そしてそれから何と数十年の歳月が過ぎ、彼らに関する伝記本は手を変え品を変え他に40冊も刊行されました。
しかしああ、「えへん」、ビートルズが公式に認めた記録は私が記した伝記一冊だけであります。
ビートルズのマネージャーを務めていたブライアン・エプスタインが契約の際、私が著した伝記が発売されてから2年間は、いかなる物書きもビートルズには接触させないという一項を付け加えたのです。
この本は1968年に出版されましたが、1970年にはビートルズは解散してしまったので、私の著作が唯一、ビートルズ活動中に編まれた伝記となりました。
こうした理由から、私の後半生は世界中でビートルズに関する講演をして回ることに、費やされることになってしまいました。
嘆かわしい…
私は1986年に珍しくビートルズとは関係なくロシアに行ったことがあります。英国人作家とロシア人の作家が、黒海のほとりで家族ぐるみの交流を行う、というイベントにロシアの作家連盟に招かれたのです。
私はビートルズの曲のすべての歌詞を暗記しているという、15歳の少年と出会いました。
彼は英語を流暢に操りましたが、そのアクセントには明らかにリバプールなまりがあったのです。
ビートルズの歌とインタビューを繰り返し聞くうちにこうなったらしいのですが、当時ロシアではまだ、ビートルズの音楽を聴くことは禁じられていました。
1998年、私は西インド諸島に関する旅行ガイドを書くため、キューバに行き、第2回世界ビートルズ会議がまさに開催されていることを知りました。
何で私が第一回の会議を知らなかったか、理由は解りません。
それは盛大なイベントでした。
ビートルズはキューバでもロシアでも演奏したことはありませんが、そこにも熱心なファンたちがいたのです。
私の新しい著作、『ザ・レノン・レターズ』はスペイン語、ロシア語を始め15か国語に翻訳の上、発売されますが、この数カ月間というもの、各国語版の翻訳の誤りを正すため、死ぬような思いをさせられました。
4日木曜日には、ドイツのテレビ局訪問を受けました。
そして金曜日、オランダのテレビの取材に出かける前はねポーランドのテレビ局がやって来ました。
すべては50周年の日のために。
英国のメディアの取材はたった一社、ラジオ・カンブリアが5日、私に電話でインタビューすることになっています。
英国メディアはこの企画に、あまり金を使いたくないようです。
オランダのテレビ局の出演料は果たしていくらなのか、楽しみに待つことにしましょう。
しかし彼らがサヴィルロウの屋上で、あまり難しい質問をしないようそればかりが心配です…
ハンター・ディヴィスの新しい著作、『ザ・レノン・レターズ』は、ヴァイデンフェルト&ニコルソン社より来週発売されます(価格は25英ポンド)。
http://www.guardian.co.uk/music/2012/oct/05/beatles-fifty-years-love-me-do
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
ビートルズ・ファンを自認する者にとって、好きな曲を10曲選べといわれても、「それじゃ少なすぎる」というのが正直なところでしょう。
という事で、今回は私にとって「印象的な曲」3曲を選んでみました。
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
ここで蛇足です。
ビートルズのカバーで「成功した例」というのは、非常に少ないと思っているのですが、私が一番の成功例と思っているのが、下のカーベンターズによる Ticket to Ride です。
聴き比べてみてくださいね。