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【 安倍首相、平和憲法の改定を明言 】

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所要時間 約 18分

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戦争の惨禍を目の当たりにさせられた日本の人々だからこそ、平和憲法を支持し、他に類例のない平和大国を実現させた
強大な国力を持ちながら平和外交に徹し、世界有数の経済支援、人道的援助の提供国として声望を高めてきた日本

マーティン・ファクラー / ニューヨークタイムズ 2月5日

5日木曜日、安倍首相が来年2016年の早い時期に日本国憲法改定のための手続きを開始したいと語ったと、自民党の幹部級の議員が語りましたが、これは戦後日本の平和主義原則の土台となって来た平和憲法を、安倍首相が書き換えることをまだ諦めてはいない事を端的に表したことになります。

憲法改定をめざす自民党議員団のリーダーである船田元(はじめ)衆議院議員は、安倍首相が来年2016年の夏に予定されている参議院議員選挙の後が、憲法改定という政治的に難しい仕事に着手する最良のタイミングだと同議員に語ったことを明らかにしました。

船田氏のコメントははじめ、朝日新聞と産経新聞の2紙だけが報道しましたが、後に同議員の政治秘書である森氏が内容を確認しました。
森氏によれば、船田氏が憲法改定のための手続きを開始する時期として参議院議員選挙終了後を提案したところ、安倍首相は『そのあたりが常識的なところだろう。』と答えました。

森氏によれば、安倍首相は国際紛争の解決手段として武力を用いることを禁止している憲法第9条については、特に言及しませんでした。

しかしイスラム国により日本人2人が人質となり惨殺されたことから、安倍首相はこうした事件に対応するため特殊部隊の派遣等日本が実力行使できるように、法改正その他を行いたいと議会で答弁しました。

人質事件01
日本政府のスポークスマンを務める菅義偉官房長官は、5日の記者会見で安倍首相が船田議員と会談した事実、そして憲法改定のためにはさらに多くの一般市民の支持を取り付ける必要があるという点で合意した点について確認していると語りました。

「この問題について2人は、さらに議論を深めていくためにはさらなる時間が必要であるという認識で一致しました。」
菅官房長官はこのように語りました。
「来年夏の参議院選挙後という時期が明示された点について、私はこれが憲法改定手続きを進めるための最終期限だとは考えておりません。期限についてもさらなる議論が必要であり、改訂についてはより一層の取り組みが必要だと考えています。」

日本国憲法は国家として戦争手段である軍備を禁じていますが、この憲法は敗戦国となった日本で再び軍国主義が拡大しないように、第二次世界大戦後に日本を占領していたアメリカ軍関係者が書き上げたものです。
しかし戦争の惨禍を目の当たりにさせられた日本の人々は、これまで一度も改訂されたことが無いことに象徴されるように、この憲法を強く支持してきました。

憲法を改定するためには国会において3分の2以上の承認を得た後、国民投票で過半数の賛成を獲得しなければなりません。
昨年12月の総選挙で大勝したことにより、安部首相が率いる自民党は衆議院において3分の2近い議席を抑えていますが、参議院における議席数は3分の2には届きません。
来年の参議院議員選挙において再び自民党が大勝することになれば、憲法改定への可能性が現実のものになります。

GAZA 1
憲法第9条の改定が中国、そして韓国の怒りを買う事は必至です。
両国は、日本がアジアを侵略した歴史的事実についてありのままを認めていないとして、非難を繰り返してきました。

首相就任以前の2年前、安倍首相は軍備の本格化を進めるため憲法改正が必要だと主張しました。
そして早いスピードで変化を続ける世界において、げんざいの憲法では日本の民主主義が直面している現実には対応できないと語っていました。

しかし各種の世論調査の結果は他国の戦争に日本が巻き込まれることを現実にしてしまう憲法の改定には、国民の過半数が一貫して反対している事を示しており、恐らくはこのことが念頭にあった安倍首相は就任直後はこの件には言及しませんでした。

しかし今回、安倍首相はイスラム国に人質となっていた2人の日本人が殺害された事件について、日本の軍隊(自衛隊)の行動を規制しているたがを外すためのまたとない機会ととらえ、この問題に飛びつきました。
日本には人質を救出することが出来なかったと語り、海外にいる日本人を保護するため、救出作戦、避難、その他自衛隊が海外において純粋に防衛目的の行動を行う事が出来るよう、行動規制の緩和を要求しました。

憲法解釈変更 6
シリアとイラクに支配地域を広げるイスラム国に人質となったジャーナリストの後藤健二氏と冒険家の湯川遥菜氏は、身代金として2億ドルの支払いを求める同国の戦闘員により1週間間隔で首を切り落とされました。
この残酷な殺人劇は日本人を憤慨させるとともに、中東地域での軍事行動に対する報復として様々な暴力に直面せざるを得なくなりある程度免疫が出来ているアメリカなどの国々とは異なり、先行きに大きな不安を抱かせることになりました。

1945年以降日本は平和外交に徹し、強大な国力を持ちながら一切武力行使をすることの無い特異な存在として、中東を始めとする各地で世界有数の経済支援、人道的援助の提供国として声望を高めてきました。

今回の日本人人質事件がきっかけとなり、日本国民が安倍首相が主導するタカ派路線への移行に同意するかどうかはまだわかりません。

安倍首相は事件発生直前、イスラム国と対立状態にある中東各国を歴訪し、2億ドルの非軍事援助を行う事を表明しましたが、人質の殺害されて以降、野党の政治家は武装組織に対する同盟国アメリカの武力攻撃に対する同調姿勢を露わにしたことにより、イスラム国の反発を招き、結果今回の人質事件につながってしまったとして、阿部首相への批判を強めてきました。

世界 6
しかし木曜日には日本の衆議院が、人質殺害を非難し、テロリズムを撲滅するための戦いを国際社会とともに進めていくという決議を満場一致で採用しました。


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憲法改定の国民投票について、政府が投票権を与える年齢を『18歳以上』とすることにこだわっていますが、若年層に対する『思想教育』の結果に自信があるのかな?と思っています。
私も高校で日本史を習った際、第一次大戦後の『建艦競争』の最中、ワシントン条約、ロンドン条約において日本が米国英国と比べ、所有してよい海軍艦船の数を低く制限されたことについて、論理的にでは無く感覚的に「不当な制限」だと感じました。

その後、中公文庫の分厚い『日本の歴史』『世界の歴史』併せて30巻程を3回ずつ読み通したのを皮切りにシュリーマン、ヘロドトス、史記、十八史略、司馬遼太郎さんのエッセイやライシャワー博士の著作まで、歴史関係の書籍を読みあさりました。
アメリカのモヒカン族の滅亡を伝えるものからギリシア神話やホメロス物語あたりまで含めると、その数はさらに膨らみます。
古事記や日本書紀、太平記や平家物語などは現代語訳ですが小学生のときにすでに読み終えました。
全部を網羅したなどとは言いませんが、かなりの量を読んだと思います。
読んだ中でとりわけ面白かったのは『世界史人名事典』で、今でもいくら読んでいても飽きることがありません。

ネットなどに書いてあることや、明らかに一種の思想宣伝としか思えない本ばかり読んで、『反日』などと言いがかりをつける感覚は私の中にはありません。
歴史は科学であり、したがって『自虐史観』などというものも存在しません。
『異なる見解』の存在を『自虐史観』などと罵る考え方があるとすれば、それはもう歴史ではなく、プロパガンダであるはずです。

書籍に加え、NHKの『映像の世紀』全巻の購入を始め、世界中で制作されたドキュメンタリー映画を買ったり見たりして、どうやらこの辺りが公平な歴史観だろう、という基準が自分の中に出来上がりました。
そして日本史の教科書が、特に近代史において体系的な記述がされていないことに気がつきました。
これでは面白くないし、読んでも理解することが出来ません。
最初に書いた『建艦競争』も、各国の利害思惑はともかく、日本はフランスやイタリアを上回る『枠』を獲得しており、国力を冷静に比較すれば『不当』と言うには値しません。

政党による教育現場への介入が繰り返された挙げ句の『歴史観』を今の若い人々が持っているとすれば、世界的規模の中で日本を創っていかなければならない今、決してプラスにはならないと思います。

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【 あのとき、戦場にいた人々の記憶 】《抜粋》
第二次世界大戦が終わってもう何十年も経つのに、日本には話し合うことを拒否し、今だに戦争を続けようとしている人間たちがいる

ニューヨーカー 6月5日〈再掲載〉
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

WW2-15

2010年、初めての個展を開催するためにロシアを訪れていたカメラマンのサーシャ・マスロフは、後に連作となる『戦争経験者』の最初の一枚になる写真を撮影しました。
ソビエト赤軍の航空整備士ピョートル・ドミトリヴィッチ・コシュキンの肖像写真でした。
こうして彼の4年越しの連作がスタートしました。
彼はこの間、写真撮影とインタビューを繰り返しました。
題材になったのは兵士だけではなく、医師、技術者、パルチザン、地下抵抗運動の参加者、そして捕虜。
そしてホロコーストの生存者と一般市民は、戦争のはざまで最も苦しんだ人々でした。

マスロフは私にこう語りました。
「人々はそれぞれの場において、戦争という衝撃的な出来事を、自分自身の膚で感じたのです。」

マスロフはウクライナ出身の30歳のカメラマンで、5年前ニューヨークに移り住みました。
『戦争経験者』という大作に取り組むことになった理由について彼は、生と死のぎりぎりの境を体験した世代の記録をしっかりと残したいという思いがあったと語りました。
そして彼は国籍の違いによって、『戦争』の体験が著しく異なることも記録に留めようとしています。
「この連作の中で、最も興味深かったのは地理的要因による運命の違いでした。」
どの国の出身であるかによって、人々を視覚的にはっきりと分けてしまう事が可能です。
私が撮影したすべての人が第二次世界大戦という、かつてない規模の巨大な事件の当事者でした。宇宙で起きたビッグバンのように、彼らは世界中至る所でこの巨大な事件の渦中に巻き込まれたのです。居間、寝室、そして台所でさえ、戦争と無関係ではありませんでした。

「あなたは、視覚的に人々がどこの出身であるかについて比較することができて、彼らの
マスロフにはここまで18カ国を旅し、写真集を完成・出版する前にさらにインド、オーストラリア、南アフリカ、そしてギリシャを周る予定です。

『戦争経験者』の写真を撮影していて、何が一番印象に残ったかマスロフに質問してみました。
「ある人々は大きな寛容を示しました。そして別の人々の中には尽きることのない憎しみが消えることなく残っています。その対比の極端なことには驚かざるを得ません。」

▽ ハロルド・ディンゼス(ニュージャージー州パッセーク、米国)
「捕虜を得て尋問するため、私たちは原住民を使って日本兵の捜索を命じました。しかし彼らは手ぶらで戻り、首を振って見せるのが常でした。私たちが見たいのはお前たちが首を振る様子ではなく、日本兵なのだと言いました。初めて日本兵の捕虜を得た時、私たちは何とか情報収集に役立てようとしました。降伏して来る日本兵はほんとうにわずかしかいなかったからです。数百マイル行ってやっと一人といった割合でした。日本兵は戦闘行動を止めることを、頑として聞きいれようとしませんでした。」
「そして第二次世界大戦が終わってすでに何十年も経つのに、日本には話し合うことを拒否し、今だに戦争を続けようとしている人間たちがいるのです。」(写真上)

▽ R・オーバートン(テキサス州オースティン、アメリカ)
「私は、戦争になど行きたくありませんでした。
でも陸軍省は私を指名し、私は徴兵に応じる事になりました。
戦争を始めてしまったら、他に選択肢など無いのです。
向かった戦場は南太平洋、その後硫黄島に上陸しました。
それまで幸せに暮らしていた人間たちが、目の前で殺されていきました。
私の周りにいた人々がどんどん殺されていった、戦争の記憶はそれだけです。
幸いに私は戻って来る事が出来ましたが、多くの人間が二度と戻りませんでした。
本当に多くの友人を亡くしました。
部隊の全員が仲間だったのです。
私は戦争に行った事を本当に後悔しています。
一方で私は多くの事を学ぶ事が出来ました。その事だけは後悔していません。」(写真下・以下同じ)
WW2-6
▽ 菊池白秋(茨城県つくば市)
「昭和天皇の手の中には、すべての国民の生殺与奪の権がありました。私は戦争が終わったと聞いた時には、もう何もかもおしまいだと思いました。次にどうなるかなどという事は、考えることすらできませんでした。
私たちは戦争に勝っているのだと言われ続けていました。最初の内は信じられませんでしたが、天皇陛下が現人神であるという洗脳は徐々に浸透して行きました。
天皇陛下自らご自分は人間なのだと告白された後は、我々はもはや戦う意志を失いました。戦争では本当に多くの人々が死んでいきました。私たちはなぜそれほど多くの人々が犠牲になってしまったのか、割り切れない思いです。」
WW2-5
▽ フロレッティ・アコスチーヌ(ウディネ、イタリア)
「我々は国境付近で一人のギリシャ兵士を逮捕しました。
彼は部隊のたった一人の生存者だったようです。私は8人の仲間とともにこの捕虜を連行していくように命令されました。
私は彼が逃げ出そうとしていると直感し、逃げられないように彼の肩に手りゅう弾を結び付け、脅しました。いつでも爆発させられるように、私は手りゅう弾のピンを握ったまま彼の後ろから歩いて行きました。
その時歩いていた場所は岩だらけの滑りやすい場所で、わたしか彼がつまづいた拍子に手りゅう弾のピンが抜けてしまったのです。
これ以上の話はしたくありません、あまりにむごたらしいありさまでしたから。
とにかく、捕虜は私たちの前から消滅してしまったのです。」(写真下)
WW2-4
▽ アイマンツ・ゼルタンズ(バウスカ、ラトビア)
「私たちは数週間のゲリラ戦を行いました。そして私は、1944年9月14日に負傷し、そこで私の戦争は終わったのです。
私は、28台のソビエト軍のT-34戦車に対し、徴兵された200人のラトビア兵が立ち向かった戦いで負傷しました。
我々は川を渡ろうとしていましたが、ソ連軍は全方向から我々に向かって来ました。
上空には敵の戦闘機がいました。
多くのラトビア兵が、川を泳いで渡ろうとして殺されました。
私たちには6丁の迫撃砲がありましたが、操作できる兵はもういませんでした。
私は屋根の上にそのうちの一丁を運び上げ、戦車に狙いを定めました。
しかし戦車は私が居た建物に砲弾を撃ち込みました。次の瞬間、わたしが経っていたその下で建物全体が崩れ落ちていったのです。」(写真下)
WW2-13
▽ ヘルベルト・キリアン(ウィーン、オーストリア)
「ソビエト軍の捕虜になった私は、ひたすら東をめざして、数週間というものずっとソビエト連邦を横切る列車の中で揺られていました。私は殺人者、あるいは泥棒の一団の中にいました。犯罪者などと言う抽象的な表現は当てはまりません。
私が連れて行かれたのはシベリアの東端、コリマ川の流域のマガダンという場所でした。
私たちは金鉱掘りをさせられたのです。しかし私は食べ物の不足から体が弱ってしまい、役に立ちませんでした。彼らは私が仕事ができない分、さらに食事を減らしたのです。おかげで私の体重は36キログラムにまで落ちてしまいました。」(写真下)
WW2-14
http://www.newyorker.com/online/blogs/photobooth/2014/06/faces-of-the-second-world-war.html#slide_ss_0=1

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