我が家では震災後3日程で電気が回復し、テレビが見れるようになり、さらに数日後インターネットを通してアメリカABC・NBCの報道番組を見れるようになりました。そして福島第一原発の事故の詳細が解るようになったのです。
それ以来ずっと、心に引っかかっていた事があります。
大体ゴルフなどというものは自分でコースを回るか、プロのトーナメントの観戦が面白いのであって、ちょっと上手な人の
「この前、今年のベストスコアが出たよ。」
なんて言う話は、まったくもって面白くないものです。
しかし、ベストスコアを出した方は、誰かに話したくて話したくて仕方がありません。
そこで、他人にとってはメイワクな自慢話でも
「すごいですねぇ、さすがですねぇ」
なんて言いながら、ガマンして聞いてくれる人がいると
「ああ、コイツは(自分にとっての)良きゴルフ・パートナーだ。」
なんて思って、いや、勘違いしてしまいます。
こういう「いいヤツだ」と思われる人間は、結果的に一緒にゴルフする、いわゆる「ゴルフ仲間」が知らず知らず増えて行くことになります。
でも、本人も人知れず練習を重ね、自分も「すごいですねぇ」と言ってもらえるよう努力をしているのです。
しかし何ともはや、運動センスや身体能力の点で生来恵まれてはいないため、中々結果に結びつきません。
それに最近、ゴルフをする上でさらなる重大な欠点がある事に気がついてしまいました。
それは「臆する」心です。
臆は臆病の臆。
今、4月18日現在、仙台市宮城野区の東部有料道路の上から海の方を見ると、松が密生した松林があったはずの方向に数本の松が透けて見えます。
ここはかつて仙台藩が開削した貞山運河が南北にまっすぐ伸び、その両岸には広大な松林があって、仙台市民の憩いの場となっていました。ホオジロ、シジュウカラ、アカゲラ、コゲラ、カワセミなど数えきれない程たくさんの種類の野鳥がいて、季節ごとに美しい鳴き声を聞かせていました。時にはヨシキリのようなにぎやかな野鳥も集い、静かな松林と好対照をなしていました。大量に落ちている枯れた松葉は、その上を歩くとクッションのようにふわふわで、歩いていると木々の間に何か野鳥の気配がしました。
そして3月11日の午後。
津波によって松林からたくさんの松の木が失われ、現在の惨状となっているようです。近くに行って見てみたいのですが、一ヶ月以上たった今も警察・自衛隊などによる捜索・復旧活動が続いており、個人的興味でそこに立ち入る事など許されていいはずがありません。
地震当日の証言の中で、押し寄せる津波の先頭を「家や立ち木がそのままの姿で、どどど...っと、迫って来た。みんな、必死で逃げた...」という直接津波の被害に遭われた方のお話には、本当に驚きました。
松林があった辺りのずっと手前には泥に埋もれたかつての田んぼが広り、数えきれない数の車が横転、反転するなどして散らばっています。
この辺りは、5月が過ぎると水が張られた緑の田んぼの中に真っ白なコサギ、チュウサギがじっと立って、えさ取りをしていたものです。
田んぼと道路には2メートル程の段差があるため、田んぼの縁にあたる部分に多数の乗用車が打ちつけられ、折り重なっています。その破損具合はひどく、押し寄せた津波の破壊力がいかにすごかったかを伝えています。
そんな中、点在する農家の中には片付けをしているお宅がありました。でも無人のまま、廃墟のようになっているお宅もあります。
私は原爆投下直後の広島市を撮影した記録写真を思い出しました。
一面に広がる生命なき世界。
でも、ここの人々はこれからも生き続けなければなりません。
そう、生きるという事は、自分の周囲に生命(いのち)の火をともして行くことなんですね...
庭木に野鳥がやって来る。
庭で花を育てる。
まっすぐ天に向かって立ち、夏に人々に木陰で憩わせてくれるのも樹木という生命。
掃除のゆきとどいた茶の間に射しそめる陽の光の中で猫が昼寝する。
そして、子供たち。
子供たちこそが、復興して行く社会の生命の火です。
復興に向かう今だからこそ、
社会がもっともっと子供たちを大切に守り育てて行かなければならないのではないでしょうか?
復興には10年、20年という歳月を費やす事でしょう。
その頃には、今の子供たちが社会の担い手となっていきます。
大人になった彼らがさらにたくさんの生命の火を灯し、
豊かな社会を築く事ができるよう、
大切に守っていきましょう。
私は19世紀、世界に冠たる大英帝国が存在したその時代において、英国保守党の政治家として生きた者です。
大震災以降混乱する日本の皆さん、あなた方の『政治』について、一言申し上げたくてペンをとりました。
私は生涯において2度、英国の首相を務めました。
後世の方々が私の『功績』としているのは
1. スエズ運河の国有化 これは議会に承認を得ること無く、独断でロスチャイルドから借金し、売りに出ていたスエズ運河の株式を購入。英国~地中海~紅海~インド洋の航路の安全性を確保し、大英帝国の植民地経営・政策に大きな貢献をしたこと。
(日露戦争の際、日本は英国と日英同盟を結んでいたため英国はバルチック艦隊の航行を様々な形で妨害した。このため日本海に向かうバルチック艦隊はスエズ運河を通行できず、アフリカ大陸の南端・喜望峰周りの航路を航行するしか無かった。)
2. ロシア・トルコ戦争の際、ベルリン会議でプロシアのビスマルクの協力を得て、ロシアの南下政策を阻止したこと。
などです。
典型的な『帝国主義者』と言われることもありますが、世界の趨勢が帝国主義であった時代に、英国の政治家として自国の弱体化に向けて舵を切るわけにはいかなかったこと、ご理解いただけると思います。
私は大英帝国の繁栄と女王陛下の栄光のため、ただひたすらその目的のための政治を行いました。
1875年、私はスエズ運河を英国のものにする際、ユダヤ人のロスチャイルド家から議会の承認を経ずに買収資金を借り入れました。
この行為がイギリスの憲法制度に反すると自由党のウィリアム・グラッドストン氏に告訴されました。
我が生涯のライバルであったグラッドストン氏は、その持ち前の雄弁によって徹底的に私を追いつめました。
グラッドストン氏の追求は辛辣を極め、議会において進退に窮したことは1度や2度ではありません。
しかし、その事によってうろたえたり、あわてて政策変更をしたり、ということはしていません。
さて、大震災、津波、そして原子力発電所の事故という未曾有の国難にある中での、あなた方の国の政治についてです。
結論から申し上げれば、政治とは言っていいのかどうか......
政治家という職業は、実現したい政治理念があってなるべきものだと思っています。
しかし日本では政府も野党も、つまり日本の政治家諸氏がいったい誰のために政治をしているのか、誠に理解に苦しみます。
もし右足をくじいたら、人はまずその治療に専念しながら、両手と左足で補いながら暮らす事を考えるはずです。
しかるにあなた方の政治は、ひとつの体の中で主導権を右手がとるのか、左手がとるのかで争っておられる。
右手と左手がケンカしていたのでは頭が何を考えても、実現できるものなど何も無いのではありませんか?
いま政権に必要なのは復興を可能にする現実的な政策であり、野党に必要なのは対抗する具体的なプランです。
これら異なる政策を議会において比較・検証し、国民を最も幸福にできる方法を導きだすのが『政治』であると、私は考えます。
唖然としたのは、政権与党内ですら - 今はひたすら被災者を迅速に救済する事を第一に考えなければならない人たち - が、まるで『遺恨試合』のような泥沼の争いを始めようとしていることです。
被災地・被災県の日本のみなさん、あなた方の困難は天災によってのみ、もたらされているのではないようです。
でもあなた方も、訴え続ける必要があります。
むしろこれからがたいへんなのだと。
小さな子供、育ち盛りの子供を抱えていながら、職を失ってしまっている人々が大勢いる、彼らには仕事が必要です。
被災地で育つ子供たちや青年には、健全な地域以上に環境に対する配慮が必要です。
なのに大学、高校をはじめとする教育機関などでは重要な機材が破壊され、失われてしまいました。
次代をになう子供たちには、できる限り最大のことをしなければなりません。
あなた方の「政治家」はこのために今、懸命に働いていますか?
そうでないなら、あなた方は声をあげなければなりません。
ほんとうの政治をしてくれ、と。
国民のための。
あの震災からひと月程して、25歳になる娘が女房殿に言ったのは
「食べ物が無くなって、本当に怖かった。」
という感想だったそうです。
考えれば、昭和60年に生まれた娘が何か「売っていないから、手に入らない。」という経験などはしたことが無いかもしれません。