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星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

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「津波が襲ったちょうど10日前、日本の原子力保安院は東京電力の点検とメンテナンス作業に、相当な手抜きがあることを発見していた」

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9.11に焦点を合わせている間に、危なく大切なニュースを見落とすところだった!というのがこの記事を読んでの感想でした。
個人的感想はともあれ、この記事は今の問題を切り分けて考えなければならない、という視点を与えてくれます。
その2つとは
1. 原子力発電所そのものの危険性
2. 東京電力という会社に、原子力発電所という危険な発電施設を所有する資格はあるのか
ということになると思います。
少し長いため、今日と明日、2回に分けて掲載しますので、じっくりお考えいただければ幸いです。

もうひとつ指摘をさせていただきたいのは、日本の大マスコミはなぜこのように問題を取り上げないのか?! ということです。
毎月購読料金を支払って、新聞を購読されておられる方が大勢いらっしゃると思います。
その新聞は遥か遠くのドイチェ・ベレ(ドイツ国際放送)が伝えるこのような事実を、あなたにきちんと伝えていますか?
お金の使い道が、無言の意思表示になる事もあるのです。

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【 東京電力のサクセス・ストーリーの、暗い側面を明らかにした福島の原子力発電所事故〈前編〉】

ドイチェ・ベレ(ドイツ国際放送)2011年9月5日

半年前に襲った地震と津波は、チェルノブイリ以来最悪の危機を引きおこしました。
と同時に日本最大の電力会社・東京電力がこれまでに、どれだけの隠ぺいを行ってきたかも明らかにしたのです。

壊滅的な津波が3月11日に日本を襲った3日後、内閣総理大臣菅直人がキレました。
彼は東京電力本社の本部に飛び込んで行き、いったい今何が起きているのかを問いだだしました。
菅首相は東京電力の清水正孝社長に対し、情報提供が十分でないことを抗議しました。首相はテレビの報道で福島第一原発で爆発事故が起きたのを知りましたが、東京電力から報告があったのは、その数時間後だったのです。菅首相は東京電力内に首相自身の危機管理センターを設置し、自分のスタッフを送り込みました。
一方、清水社長は5月に不名誉な形で社長を辞任すると、公の場に姿を表さなくなりました。


「先の見えない」避難を強いられる人々

これまで政府のトップにある者が、このような巨大企業を公然と攻撃したことはありませんでしたし、部分的にであってもその決定権を取り上げたことはありませんでした。
このことに日本の原子力陣営は憤慨したのです。
東京電力は52,000人の従業員を有し、日本最大の企業の一つであり、日本の原子力エネルギーの四分の一以上を供給してきました。
東京大都市圏への電力供給を独占し、約4,500万の顧客に電力を供給しています。

1950年代に始まった日本の経済成長は、東京電力のようなかつての国策会社がエネルギー不足の国に、安い電力を供給してきたことの結果でもあります。
なぜならこの国には良質の石炭も、天然ガスも、石油などの資源はほとんど無いため、東京電力は1970年代に大規模な原子力発電事業を立ち上げ、三か所の原子力発電所と17基の原子炉を所有するまでになりました。
現在事故を起こしている福島第一原子力発電所は、1971年に初めて、同社の送電網に電気を送り込んだ原子力発電所なのです。

▽ スキャンダル、失望、そして失敗

日本の大衆は2002年8月、東京電力の成功の物語の闇の部分に遭遇しました。
20年以上にわたり、すべての事件、事故、そして設備の故障を隠していました。
そして疑われそうなことはすべてカモフラージュしていたのです。
安全性報告書は改ざんされ、長期間懸案となっていたメンテナンスや修理作業は延期されたままでした。
スキャンダルが明らかとなった時、国民はショックを受け、東京電力の役員数名が辞任を余儀なくされました。
政府は17基の原子すべての停止を命じました。
しかし、1年後、国民の抗議の声が大きかったにもかかわらず、原子炉は再稼働されたのです。
政府は新しい経営陣を信頼しましたが、実際には失敗も隠ぺいも続けられたのです。

津波が襲ったちょうど10日前、日本の原子力保安院は東京電力の点検とメンテナンス作業に相当な手抜きがあることを発見しました。
地震と津波の後、福島第一原子力発電所で事故を起こした原子炉の冷却ポンプ、 ディーゼル発電機、温度制御弁は11年以上も適切な点検が行われていませんでした。

福島の大惨事の後、事故が終息するよう適切な制御を行い、事故を懸念する日本国民に正しい情報を伝えることが、東京電力にとってはどれほど難しいことであるか、世界中の知るところとなりました。
そして数日の間、なお悪いことには、青い色の作業服を着た東京電力の担当者は、公衆の面前に立ちながら、事故後適切な対応をとれたのかどうかさえ、説明することができなかったのです。
(続く)

http://www.dw.de/dw/article/0,,6611373,00.html
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[動画]【 親愛なるNASAのみなさん、あとかたづけをきちんとさせてね 】
[宇宙ゴミの掃除当番は国立科学アカデミーです]

アメリカNBCニュース 9月2日

「後片付けをきちんとしなさい!」世の始まりから両親が、子供たちに言い続けてきたこの言葉。
ところが今やこの言葉、NASAと他の宇宙関連部局から国立科学アカデミーに突きつけられているのです。
理由ですか?
実に22,000個もの宇宙ゴミが地球を周回する宇宙船や大切な衛星の軌道上に漂っていて、いつなんどき衛星などを傷つけるかわからない、というのです。
ネットや磁石、巨大な傘などを使って、それらのゴミを救い集めなければなりません。
NASAの職員はこう話しています。
「どの方法でやるかは、国立科学アカデミーが考えるさ。」

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【 父親を慕い続け、絆を懸命に探し続ける 9.11の子供たち 】

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障害を持つ子供たちに、改造した三輪車を贈り続ける夫妻について紹介した記事( http://kobajun.biz/?p=886 )を訳している時も、ともすれば涙がこぼれそうになりましたが、今回の記事もまた、涙がこぼれました。

妊娠中の妻を残したまま、9.11同時多発テロの犠牲者になってしまった「お父さんたち」。
彼らはもうすぐ自分の人生が終わる、という事がわかったとき、まだ見ぬ自分の子供の事を思い、その子をこれから一人で育てていかなければならない、未だ身重の妻の身を案じた事でしょう。
そしてもうどうしようもなくなってしまった状況が、無念の上にも無念であったに違いありません。

それにしても、ABC、NBCともに、子供たちを取り上げたニュースから私が感じ取るのは、「何としても子供たちを守りたい!」というあふれんばかりの『熱意』。
日本のニュースが子供たちを語る時、感じ取れるのは「そうあるべきだ」という『義務感』、そして彼らの片方の目は、力を持つ者の顔色をうかがっているのです。

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〈 9.11の子供たちが、一生会う事のできない父親について語りました 〉
『会った事は無いけど、心から愛してる』

アメリカABCニュース 9月9日

10年前、悲しい絆で結ばれた妊娠中の女性たちが、父親に一生会うことのできない赤ちゃんたちを出産しました。
父親は9月11日の同時多発テロで殺されてしまいました。
もうすぐこの赤ちゃんたちは、10歳になります。

この子供たちは父親と一緒の時間を過ごす事はできませんでしたが、身の回りの品々から父親の事を偲んでいます - ラクロスのラケット、自転車用のジャージ、あるいはロック・コンサートの通しチケットですら。

モルガン・ロドリゲスはまだ彼女の父、アンソニー・ロドリゲスの消防士のメダルを身に着けています。
ロン・ミラム・ジュニアは、父親のバスケットボールを持っていると話してくれました。
「これは私のお父さんの写真です。」
フェラン・ハローランはヴィンセント・ハローランについて、ABCニュースのダイアン・ソーヤーに語りました。
「私は心からお父さんを愛してるわ。お父さんがいなくて本当に寂しいけど。私は会ったことはないけど、でも私はお父さんを愛してるって、心から思ってるわ。」
「これはお父さんの写真」グレース・ダナヒューは管楽器を演奏している、額に入った父親の写真を見せてくれました。
「この写真を見つめていると、お父さんが演奏している姿が目に浮かんでくるの。」

▽『お父さんはそれがあなただって、ちゃんとわかっていた』

「パトリックが抱いている赤ちゃんは自分自身だ、と考える事ができるのは、グレースが考えだした魔法だと思っています。」彼女の母、メアリー・ダナヒューが言いました。
「今では彼女も現実を受け入れていると思います。だからこそ私はグレースの心の中に、より一層の深い悲しみと尽きる事の無い涙を見てしまうのです。」
メアリー・ダナヒューは妊娠中、彼女の夫が自分たちの子供が、男女どちらの性別なのかを尋ねたことはないと話します。
「私たちが妊娠第2期の超音波検査のために行った時、私はトイレに行言っている間、彼(パトリック)は赤ちゃんの性別を尋ねましたが、私にはその事を話しませんでした。彼が死んでしまった後に、医師がその事を教えてくれたのです。」
「わかる?グレース、お父さんはそれがあなただって、ちゃんとわかってたのよ。」

「私はお父さんのシャツのどれかを、パジャマ代わりにして寝るのよ。」
父親の名にちなんで名付けられたショーン・オニールが話してくれました。
「だってそうすると、何となく安心して眠れるから。」

心理療法士のベス・カーペンターは、シャツは同じ重さの金と同じくらいの価値があると述べました。
「それだけが子供たちが見て、触れる事ができるものなのです。子供たちは具体的な思い出を作り上げる事ができるものを、探しているのです。思い出を作る事ができないとき、それはただひたすらに悲しいものになってしまいます。」
子供たちは自分はお父さんの子供なんだ、そのことを証明する絆となるものを探し続けているようです。
「それはこの子供たち自身と、そしてこの父親とともに生きる世界を結ぶ、目に見える絆なのです。」とカーペンターは語ります。

「ジャックはマヨネーズが好きじゃない、ということを取り上げるのは、馬鹿げた考えかもしれませんね。」
ジャック・エッセの母親のテリリン・パトリック - エッセは言った。
「そう、父親のジムもやはりマヨネーズが嫌いだったの。」

「お母さんは私の目はお父さんの目だ、って言うわ。」グレース・ダナヒューが言いました。
「お母さんはお父さんが自由奔放な人だった、っていってるけど、私もそっくりだって言うのよ。」

「ぼくはお父さんにそっくりらしいんだ。」ジェームズ・カーソンは父親のジェームズ・カーソンのことを話しました。

「ユーモアたっぷりの人だったらしいけど、ぼくも同じだって。」ショーン・オニールが話します。

▽ 9月11日の子供たちは絆を深める事に慰めを見いだす

ロン・ミーラム・ジュニアは、時折母親に自分が父親に似ているかどうかを尋ねます。
「似てるわよ。あなたはおとうさんにそっくりよ。」ってお母さんが言うんだ。それを聞くと、何だかお父さんに近づいたような気がして、ほっとするんだ。」

ケリー・リーは、彼女の夫ダニエル・リーはドラマーだったと語り、娘のアリソン・リーがやはり楽器が好きだと語りました。
「お母さんはいつも、お父さんはとてもエネルギッシュな人だった、って話してくれるわ。」とアリソンが話します。

ロバート・アトウッドの父、ジェラール・アトウッドは消防士でした。ロバートはお父さんの風貌が、彼の心に刻みこまれていると話しました。
「これがぼくのお父さんだよ。ラダー21の帽子をかぶってる。これは全部お父さんの道具なんだ。夜寝る前、ぼくはお父さんの写真を見て、それから鏡で自分を見るんだ。お互いよく似てるんだ、特に目のあたりが。」ロバート・アトウッドは語ります。
「キャリア・デイ(学校で様々な職業について学ぶ日)の時、ぼくはお父さんの消防士のユニフォームを着てみせたんだ。そしたら先生が『とっても大切なものだから、誰もさわっちゃいけません』て、言ったんだ。

子供たちは子供たち同士の絆が寂しさをまぎらせてくれる、と話します、『あの9.11の子供たち』同士の絆が。
「私はこの子たちが私を支えてくれなかったら、とてもここまでやって来れなかったと思います。」フェラン・ハローランが語ります。

ギャビー・ディックは彼の父、アリ・ジェイコブスについて学校で尋ねられた時、友達を避けようとした、と語りました。
「だって一度答えると、毎月毎月、何度も何度も同じ事を訊かれる事になるから。それがこれまで学校で体験した事なんだ。」

「ぼくたちがこうしてまた一緒にいる事はすてきな事だよ。」ダニー・ソーラスはダイアン・ソーヤーに話しました。彼の父の名前はティモシー・ソーラス。
「僕たちにとって、大きな意味があると思う。僕たちは一人じゃない、って感じられるから。ここにいるみんながそう感じているように.....」

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【 日本とアメリカの2011年9月11日 】

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所要時間 約 11分

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〈動画 : 新たに公開されたアメリカ9.11の記録ビデオ〉

今日、2011年9月11日は東日本大震災からちょうど半年、そして9.11同時多発テロから10年です。
東日本大震災では2万人近くの人々が死亡・行方不明となり、9.11同時多発テロでは約3,000人の市民が犠牲となりました。

ここ仙台市でも膨大な数の人々の命が失われ、その惨烈さを思うとき言葉は出てきません。
涙ばかりがこぼれます。
肉親を一人も失わずに済んだ私ですらそうなのですから、大切な人を失った方々の胸中はいかばかりでしょうか。

少し長くなりますが、どうしても2011年9月11日の今日は、この二つの事件に関する記事をアップしたいと思っていました。
ご了解ください。

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【 災害の証人 】
〈 東日本大震災から半年を経て(後編) 〉

アメリカCNNニュー ス9月5日 - 釜石、日本

海を見下ろす崖の上に誇らしげに建つ4階 建てのホテル蓬莱館は、皮肉にも避難を求める近隣の住民のための指定避難場所になっていました。 しかし、何人かの人は3月11日には48フィート(約15メートル)の高さの津波が襲ってきたのではないか、と考えています。
津波は、入り口とキッチンを破壊し、ホテルの2階までのフロアを水没させました。 岩崎さんは、奇跡的に生機残ることができましたが、彼女は数名の従業員や親しい友人を失いました。
しかし、彼女はすべてを建て直すことを決心しました。
彼女にとって臨死体験は、人生に向かい合う姿勢を変えた、と話します。
「私は毎日どう生きるべきか、ということを考えるようになりました。」彼女は語ります。
「その答えがわかったような気がするときもありますが、やはりわからない、と思い直すこともあります。しかし、私はその答えを探している間にも、私には人生において重要な役割がある、と考えようと努力しています。」
「私はまだ明確な答えを持ってはいません。でも、生き残った私は、私は亡くなった人々のためにも、最後まで自分の人生を生き抜かなければならない、と考えています。」
津波から半年、彼女は政府によって建てられた仮設住宅のひとつに住んでいます。
その場所は彼女のホテルから12マイル(約20km)離れて いますが、彼女は復興作業を見るために毎朝ホテルまでやって来ます。
朝8時には、労働者は大変な仕事に取りかかっており、電気ドリルやハンマーの音が朝の空気の中に響き渡ります。

岩崎さんが最初に彼女の母親が開始されたホテルを再建することを決めたときに、8月までには再建を終え、営業を再開したいと思いました。
そして最大の障害は融資先を確保することだ、ということがわかりました。
他の多くの津波の生存者と同じように、岩崎はホテルの再建のため2重のローンを背負う必要がありました。彼女は政府から少しばかりの義援金を受け取っていましたが、個人として彼女にお金を貸すよう、銀行を説得しなければなりませんでした。
伊藤さんは、ホテルの支配人として残りました。
地元の自治体も、政府も、被害者を助けるために迅速な対応を取ってはいない、と彼は話しま す。
「政府の復興に関する意思決定には、時間がかかりすぎています。」伊藤さんは言いました。
「私は彼らの対応が、あまりにも鈍重だと思います。」
融資に関する手続きは8月上旬までかかりました。
この月の半ばまでには、電気も回復し、水は再びホテルのバスルームの蛇口まで供給されてい ました。
津波に襲われなかった3階と4階にはお湯の出が悪いという問題はありますが、客を迎える準備はできています。
彼らの新たな目標は、10月までに新たな客を迎え入れることです。

釜石全体では、復興はゆっくりと進んでいます。かつて街の通りを埋めつくしていた膨大な量の瓦礫は片づけられ、多くの全半壊した建物が将来的に再構築するため、その基礎を残して解体されました。
震災で船を失わなかった漁師が海に戻っていきました。
かつて鉄鋼業界が反映して有名だった釜石市の復興が始まりました。
約900人が命を失い、200名が行方不明のままのこの街にも、ゆっくりではありますが人々の日常が戻りつつあります。
岩崎さんのように決意も新たにした人々が、この再建の中心にいます。
彼女の夢はホテルを再建するだけではなく、かつてそこにあった近隣の人々との付き合いを取り戻すことです。
彼女はいつの日か野外ステージを建設し、人々が一緒になって音楽を楽しめるようにしたいと考えています。
岩崎さんはこう語ってくれました
「自分のことだけではなく、他の人々のことや故郷について考えることが、私にとってはますます大切なことになっています。」
「私は子どもたちの未来のために、この場所にあったコミュニティを再建したいのです。そして、ここを訪れる人々のために、美しい釜石を回復したいのです。」

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【新たに公開された9.11の記録が混乱と恐怖を証明】

アメリカNBCニュース 9月8日(日本時間9日)

私たちは今、9.11同時多発テロからちょうど10年を迎えようとしています。
今夜我々は初めて、当時特に飛行管制塔とハイジャックされた航空機との間で、どのような緊張したやり取りが行われていたのかを聞く事になります。
あなたがこれから聞こうとしている録音テープは、元々9 / 11事件調査委員会のために準備されていたもので、今まで公開されたことの無い、新しく公表された当時の資料の一部です。
今夜NBCの社会部特派員ピート・ウィリアムズが、9 / 11の当時のこれらの記録についてレポートしてくれます。

レポーター:ある晴れた朝に、アメリカン航空11便はボストン空港からロス・アンジェルスに向け離陸しました。進路の確認が行われ、それが同便との最後の交信となりました。

「アメリカン航空11便、20度右に曲がってください。」
「了解、右に旋回します。」

「こちらボストン、アメリカン航空機は左に20度の進路変更を行いました。同機と交信しようとしましたが、応答がありません。」

記者:その直後、アメリカン航空から連絡が入りました。

「パイロットと乗務員が刺されてしまっている、という我々の担当者に助けを求める客室乗務員の呼び出しをモニターしました。」

そしてその直後にハイジャック犯人モハメッド・アタの声が入りました。
「ちょっとでも動いてみろ、お前もこの飛行機もこの場で吹き飛ばしてやる。静かにしていろ。」
「おお、飛行機が降下しているぞ、それに何で減速なんかしてるんだ?!」

「ケネディ空港管制塔から報告。世界貿易センターで火災が発生している。あの場所は我々が飛行機を見失った、まさにその場所だ。」

レポーター:管制官と他のパイロットはすぐに、さらに別の飛行機がハイジャックされたということに気づきました。

「たった今175便と連絡が取れなくなってしまった、どこに行くつもりなんだ?!」
「すぐに窓の外を見てくれ!その機もビルに突っ込むつもりじゃないか?!」
「急降下してるぞ!」
「ビルに突っ込んだ!」
「ビル全体がバラパラになってしまう.....」

「聖なる煙…」

レポーター:ワシントンの南郊では3機目の飛行機と交信ができなくなっていました。
「アメリカン航空77便、交信できますか?
レポーター:近くを飛んでいたパイロットが、77便が衝突するのを見ていました。
「その航空機はペンタゴンに突っ込んだ。 」

レポーター:さらにその後、4機目のハイジャックされた飛行機のパイロットは、絶望的な呼び出し交信を行い、すぐにレーダーから消えまてしまいました。
「ユナイテッド93便の位置がわかるか?」
「変な音が聞こえるぞ、位置を確認したいんだが、93便の状況がわかるか?」
「わからない。」
「最後に報告した場所あたりに黒煙が上がっている。」
「ジョンズタウンの15マイル南側だ。」

録音された音声の終了間際、軍用無線の交信には、起きた事がそのまま記録されていました。
「これは新しい形の戦争だ、まさにそれだ。」

レポーター:そしてブライアン、我々は今週末9月11日の記念日を控えています、今日からの数日間について当局はテロを懸念している、という新しい情報が入りました。
治安機関がチャタリングと呼んでいる会話などからこの24時間諜報活動を行い、彼らは特定の情報につながると判断されるものをピックアップしていますが、確認がとれたものはありません。それは内部的に見ても矛盾しているのです。
そして今夜、現在の状況がどの程度深刻かを判断するための会議が開催されます。
そして予測されるテロの脅威の程度を判断し、国土安全保障態勢を強化するかどうかに関する議論が進行中です。
彼らは警戒態勢をとらせるため、地元の警察にも情報を提供するでしょうが、それを一般に公開するかどうかを決定するまでにはまだ時間がかかるでしょう。

9.11以降、少なくともアメリカ国内においては大規模テロは発生していませんし、そして現在も平穏が保たれています。今後の報道に注目したいと思います。
ピート・ウィリアムズ、いつものことですが、ありがとう。

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[ あれから半年 – 日本の3.11 ]

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所要時間 約 5分

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あの日、皆さんは何をしていらっしゃったのでしょうか。

3月11日午後2時40分、私がいた仙台市若林区の会社にある地震発生警告装置が警告を発しました、
「地震が来ます、地震が来ます、10、9、8、」とカウントダウンを始めたのです。
これまでは「1、0」になっても何も起きない事も度々ありましたので、はじめはさほどの緊張もありませんでした。
ところがカウントダウンが「8、7、6」間で来た時、体が持ち上げられるような大きな縦揺れが来て、顔が引きつりました。
地震というのは最初に来るプライマリー・ウェーブが縦揺れ、次ぎに来るセカンダリー・ウェーブが横揺れ、という知識があったため、「縦揺れでこの強さなら…」と一気に緊張したのです。
そして長い長い横揺れ。
会社の同僚と部屋の真ん中に立って体を支え合っていましたが、耳をつんざくような金属音や破壊音がいつまでも続きました。

あとはすべて報道されている通りです。
3.11以来、人生が変わった、という方が大勢いらっしゃいます。
今日ご紹介する記事(ビデオ)も、そうした中の一人の方を紹介しています。
長い記事ですので、本日10日、そして明日11日の2日間に分けてご紹介します。

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【 災害の証人 】
〈 東日本大震災から半年を経て(前編) 〉

アメリカCNNニュー ス9月5日 - 釜石、日本

岩崎明子さんは津波にのまれながら、そこにたどり着ければ助かるかもしれない、という高い場所があるのを見つけました。
しかし彼女はどうする事もできませんでした。
巨大な津波が車も、家も、通り道にあるすべてのものをのみ込みんで行く中、岩崎さんは流される建物や車からわずか数フイートのところにいました。
始め彼女は、ここで人生が終わるだろうと思いました。
しかし、彼女は恐れるのをやめたのです、まだここで死んでなんかいられない、と。
「私は生きていたかったのです。」
約6ヶ月前、東北太平洋沖地震によって引き起こされた巨大津波が東北地方を襲った時の事を、岩崎さんが振り返りました。


震災直後の釜石市内

「私は水面に向かって泳ぎ始めました。一台のボートが私の真上にありましたが、手が届かぬうちに流れていってしまいました。すると頭の上の方に光を感じました。水面にさえ出る事ができれば私は助かる、と思いました。」
岩崎はさんは釜石市内の経営していたホテルの裏から、小高い丘に通じる細い道を通って避難しようとしていましたが、突然押し寄せる水に体を持っていかれたのです。
すでに丘の上高く登っていた蓬莱館の従業員や近所の人は、彼女の渦の中に消えていくのを見ていました。
彼女は一緒に流される車やがれきと一緒に、水面の下に沈んで行きました。
岩崎さんの娘が消えていく母親に向かって叫んでいました。

「私は生き残ることができました。だから、私は亡くなった人々のためにも、私の人生を全うすべきだ考えています。」

その日ホテルの支配人の伊藤聡さんは、すでに丘の上に避難していました。
彼のスマートフォンに記録された映像には、ホテルの従業員が津波から逃げようとする姿が映っています。
彼が後ろを振り返ると、岩崎がわずか数秒前にいた山腹に大きな破片がぶつかり、砕け散るのを見ました。

「私たちが岩崎さんは死んでしまったかもしれない、と気づくまでにしばらく時間がかかりました。」と伊藤さんは語ります。
しかし、しばらくして彼女が消えた場所か50フィートほど離れた場所で、岩崎さんは水面の上に浮かび上がり、がれきなどと一緒に近くの丘の中腹あたりに打ち上げられたのです。
彼女はどうやって生き残ったのか、説明することはできません、なぜ災害後に死亡、または行方不明のままの20,000人のうちの一人にならずに済んだのかを。
「私はただ単に、幸運だっただけでした。」
「私が生き残ることができたのは、一瞬の間に起きた偶然によるものでした。それがもう少し早くても遅くても、私は死んでいたでしょう。」

【 9.11の再来を防げ!】

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所要時間 約 6分

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いよいよ9月11日が近づいてきました。
アメリカでは2001年9月11日の同時多発テロからちょうど10年、そして東日本大震災からちょうど半年。
偶然とはいえ、きっかり半年をおいて、10年をおいて、2つの命日が重なりました。

すでにこのブログでは[ ビン・ラディンが残した一枚のメモ / 原子力発電所の新たなリスク / いったい、何が、誰が、アルカイダに最悪のシナリオを与えた?! / 対応を急ぐアメリカ国土安全保障省 ]( http://kobajun.biz/?p=753 )でアルカイダが福島第一原発の事故をヒントに、どうやら原子力発電所等に狙いを絞っているらしい事、そして[ 9.11の再現を呼びかけるアルカイダ ]( http://kobajun.biz/?p=833 )では実際に世界に対し、アメリカへの攻撃を「呼びかけた」ことをご紹介してきました。

一部の報道で、アルカイダは「自家用飛行機」と「原子力発電所」にテーマを絞っている、という情報も伝えられています。

ただそこに暮らしている、というだけの一般市民が、なぜ殺されなければならないのでしょうか?!
どうか何も起きませんように!
東日本大震災の被災地からの祈りです。

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【 あれから10年「9.11の 再来は防げるのか?」】

アメリカABCニュー ス / ブライアン・ロス、マシュー・コール 9月6日

10年前のこの日、ジョージ・ブッシュ米国大統領はテキサスの休暇から戻ったところでした。彼はテキサスで「ビン・ラディンがアメリカ国内での攻撃を決意した」というCIAのレポートについて、報告を受けていました。
同じ日、世界を半周した先のアフガニスタンで、アルカイダ指導者オサマ・ビン・ラディンは、その攻撃の日付の最終決定のメモを受け取りました -『9月11日』。
ペンタゴンと世界貿易センタービルに突入する予定の、19名のハイジャッカーのある者は、地方にある彼らのジムで、キックボクシングと防御術に集中した準備をしていました。ある者は使わなかった現金をまとめて中東のアルカイダの銀行口座に戻す準備をしていました。
ハイジャック犯の一人、モハンド・アルシヤーリは、彼の9月11日の予約にある彼の名前のスペルを修正するため、2001年9月6日にユナイテッド航空を訪れました。
19人はすべて彼らの実名で発行された正式なビザで米国にいましたが、背後関係を調べられた事はありませんでした。

「抜け穴だらけだったのです。」もと運輸省の調査官メアリー・シャーボは語りました。
「9月11日当日、ハイジャック犯人を捕まえるチャンスはほとんどありませんでした。」
事件から10年後の現在、空港の安全大勢を見直し、移民に制限を課すことにより、ニューヨーク、バージニア、そしてペンシルベニアで3,000人の犠牲者を出した事件が再び起きないよう、警備当局は様々な手段を持つに至りました。

かつての政府の報復テロ攻撃担当職員で現在はABCニュー スのコンサルタントを務めるリチャード・バックは語ります。
「名前がテロリストの名前に似ている、というだけでも、アメリカへの入国ビザを取得する事は、非常に難しくなっています。」
10 年前のこの日、ボストンのローガン空港にフロリダから2人のテロリストたちが到着、遅れてやってきた別のテロリストは大型カッターやナイフ を所持していたにもかかわらず、空港のセキュリティ・チェックをやすやすと通過する様子が、9月11日 の防犯ビデオに記録されています。
そ のごろ当時、空港のセキュリティチェックは航空会社自身が運営していました。
連邦政府はまもなく9 / 11テロ直後に連邦運輸保安局を創設、今日では、数万人に上る検査官を配置しています。
「今や検査体制は全く別物になっています。我々は安全確保ため、専門の法執行機関を擁しているのです。」とシャーボは語ります。
しかし、会計検査院の検査で、運輸保安局の装置はすべての爆発物を発見できるだけの信頼性は無い、と指摘を受けました。
さらに運輸保安局の検査官は、何らかの理由により、空港のセキュリティ検査で膨大な数の銃や武器の持ち込みを見逃し続けています。

国 土安全保障省の元監察官クラーク・ケント・アービンは、こう語ります。
「検査官は給与として十分な報酬を受け取っていませんし、必要なだけの訓練を受けているわけでもありません。私たちはそのことがもたらす、当然の結果と向かい合わなければならないのです。」

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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