私は19世紀、世界に冠たる大英帝国が存在したその時代において、英国保守党の政治家として生きた者です。
大震災以降混乱する日本の皆さん、あなた方の『政治』について、一言申し上げたくてペンをとりました。
私は生涯において2度、英国の首相を務めました。
後世の方々が私の『功績』としているのは
1. スエズ運河の国有化 これは議会に承認を得ること無く、独断でロスチャイルドから借金し、売りに出ていたスエズ運河の株式を購入。英国~地中海~紅海~インド洋の航路の安全性を確保し、大英帝国の植民地経営・政策に大きな貢献をしたこと。
(日露戦争の際、日本は英国と日英同盟を結んでいたため英国はバルチック艦隊の航行を様々な形で妨害した。このため日本海に向かうバルチック艦隊はスエズ運河を通行できず、アフリカ大陸の南端・喜望峰周りの航路を航行するしか無かった。)
2. ロシア・トルコ戦争の際、ベルリン会議でプロシアのビスマルクの協力を得て、ロシアの南下政策を阻止したこと。
などです。
典型的な『帝国主義者』と言われることもありますが、世界の趨勢が帝国主義であった時代に、英国の政治家として自国の弱体化に向けて舵を切るわけにはいかなかったこと、ご理解いただけると思います。
私は大英帝国の繁栄と女王陛下の栄光のため、ただひたすらその目的のための政治を行いました。
1875年、私はスエズ運河を英国のものにする際、ユダヤ人のロスチャイルド家から議会の承認を経ずに買収資金を借り入れました。
この行為がイギリスの憲法制度に反すると自由党のウィリアム・グラッドストン氏に告訴されました。
我が生涯のライバルであったグラッドストン氏は、その持ち前の雄弁によって徹底的に私を追いつめました。
グラッドストン氏の追求は辛辣を極め、議会において進退に窮したことは1度や2度ではありません。
しかし、その事によってうろたえたり、あわてて政策変更をしたり、ということはしていません。
さて、大震災、津波、そして原子力発電所の事故という未曾有の国難にある中での、あなた方の国の政治についてです。
結論から申し上げれば、政治とは言っていいのかどうか......
政治家という職業は、実現したい政治理念があってなるべきものだと思っています。
しかし日本では政府も野党も、つまり日本の政治家諸氏がいったい誰のために政治をしているのか、誠に理解に苦しみます。
もし右足をくじいたら、人はまずその治療に専念しながら、両手と左足で補いながら暮らす事を考えるはずです。
しかるにあなた方の政治は、ひとつの体の中で主導権を右手がとるのか、左手がとるのかで争っておられる。
右手と左手がケンカしていたのでは頭が何を考えても、実現できるものなど何も無いのではありませんか?
いま政権に必要なのは復興を可能にする現実的な政策であり、野党に必要なのは対抗する具体的なプランです。
これら異なる政策を議会において比較・検証し、国民を最も幸福にできる方法を導きだすのが『政治』であると、私は考えます。
唖然としたのは、政権与党内ですら - 今はひたすら被災者を迅速に救済する事を第一に考えなければならない人たち - が、まるで『遺恨試合』のような泥沼の争いを始めようとしていることです。
被災地・被災県の日本のみなさん、あなた方の困難は天災によってのみ、もたらされているのではないようです。
でもあなた方も、訴え続ける必要があります。
むしろこれからがたいへんなのだと。
小さな子供、育ち盛りの子供を抱えていながら、職を失ってしまっている人々が大勢いる、彼らには仕事が必要です。
被災地で育つ子供たちや青年には、健全な地域以上に環境に対する配慮が必要です。
なのに大学、高校をはじめとする教育機関などでは重要な機材が破壊され、失われてしまいました。
次代をになう子供たちには、できる限り最大のことをしなければなりません。
あなた方の「政治家」はこのために今、懸命に働いていますか?
そうでないなら、あなた方は声をあげなければなりません。
ほんとうの政治をしてくれ、と。
国民のための。
あの震災からひと月程して、25歳になる娘が女房殿に言ったのは
「食べ物が無くなって、本当に怖かった。」
という感想だったそうです。
考えれば、昭和60年に生まれた娘が何か「売っていないから、手に入らない。」という経験などはしたことが無いかもしれません。
仙台市、4月14日朝8時30分、仙台市北東の利府町・多賀城市・塩釜市方面から仙台市中心部に向かって車の大渋滞が発生していました。
仙台市から宮城県の北東方面、仙台 ~ 多賀城 ~ 塩釜 ~ 松島 ~ 石巻を結んでいたJR仙石線が3月11日の大震災で沿岸部を中心に壊滅し、全線不通となりました。その後一度、仙台 ~ 松島あたりまで復旧したものの、4月7日夜中の大地震でふたたび全線不通となり、現在に至っています。
『3月11日の東日本大震災で津波に流された遺体の一部や家屋、車などが太平洋を渡り、1-3年後には米西海岸に達するという見通しが発表された。
津波で流された被災地・東北地方の家屋を含むがれきは現在、太平洋海流 に乗り、米国方面へ流されている。米ABC放送は8日、「米海軍第7艦隊が、津波で流された車や家屋などからなる巨大な「がれきの島(garbage island)」が太平洋を渡り、米西海岸に移動しているのを発見した」と報じた。津波によりできたがれきの島には、今回の大震災で流された犠牲者の遺体をはじめ、家屋20万棟・トラクター・トレーラー・船舶が含まれているという。
米国の海洋学者カーティス・エッベスマイヤー博士は「今回の津波で流された遺体のほとんどは海に消えてしまうだろうが、運動靴のように硬いものに包まれた足など遺体の一部は水に浮かび、米西海岸の方へと移動し続ける可能性もある」と語った。
複数の科学者は、こうした「がれきの島」について、1日に約16キロずつ移動し、早ければ1年、遅くても3年以内に、海流に乗りカリフォルニア・オレゴン・ワシントン州など米西海岸に漂着するものと予測している。船・車・家屋のがれき・プラスチック製の人形など浮力を受けやすい物体が先に漂着し、その後にプラスチックのいすや漁の網なども米海岸で発見されるとみられている。また、一部のがれきはその後も海流に乗り、ハワイ・東南アジア方面へも流れていくと予想される。』
このがれきの島、長さが111km、面積はアメリカのテキサス州3個分と言いますから、気の遠くなるような大きさです。かつて仙台市の震災ごみ置き場について書いた時、『悲劇が積み上げられている...』旨の事を書きました(http://kobajun.biz/?p=234)が、がれきの島には多数の遺体が含まれている可能性があるところから、悲劇の大きさは計り知れないものがあります。
日本には『船幽霊』という言い伝えがあります。科学的考察も一部では行われ、自然現象の偶然が生む産物と言う解説もなされています(詳しくはWikipedia『船幽霊』の項をご参照ください)。
しかしこの大震災を経た今、船幽霊とは1,000年前に起きた貞観大地震・大津波が生んだ『がれきの島』を見た当時の人が考えだしたのでないか、と考え込んでしまいました。津波の犠牲者の多数の遺体を含んだ長さ100km超える大量の漂流物の集まりが、行くあても無く太平洋上をさまよっている様は、悲劇、といってもあまりに大きすぎて言葉を失ってしまいます。
今度の大震災では、想像を絶する悲劇が数限りなく生まれてしまいました。
それに比べれば、渋滞の中、車を進ませようとする人々には行くあてと進む目的があるはず。ある意味すでに立ち直っている人々である、という事もできるでしょう。
いら立ってむやみにクラクションを鳴らしたりせず、空いている方の手を、未だに立ち上がれずにいる人々に差し伸べられないか、お考えいただくわけにはいかないでしょうか?
まず次の3つの言葉を理解してください。
【1】科学
科学的な方法の古典的な基本は、17世紀にデカルトが『方法序説』で示した以下の原則である。
• 明瞭判明の規則:明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。
• 要素分解:解決可能な要素に分解して考察する。
• 具体から抽象へ:単純なものから複雑なものへと順番に認識をすすめる。
• 総合:見落としがないことを十分に確かめて、完全な列挙と再構成により全体を再構成する。
【2】デマゴーグ
【3】衆愚政治
有権者の大半が知的訓練を仮に受けていても適切なリーダーシップが欠けていたり、判断力が乏しい人間に参政権が与えられている状況。その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな政策が実行される状況をさす。また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。
エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどを含む。
次に『福島県』という言葉からあなたが連想するものを思い浮かべ、もう一度【1】【2】【3】を読み返してみてください。
あなたは非科学的でもないし、エゴイズムとも関係ありませんよね...?
【1】【2】【3】ともにWikipediaより引用。一部割愛。
私の名はGaius Julius Caesar Octavianus Augustus(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)、紀元前63年9月23日に生まれ、 紀元14年8月19日に冥界に入りました。76年生きたことになります。
暗殺されてしまった大叔父カエサル(シーザー)の後をついで、我が愛するローマに史上もっとも平和な - Pax Romana - パクス・ロマーナ時代をもたらした、と後世の歴史家の皆さんに評価していただきました。
私はこの度の東日本大震災という未曾有の災害に遭われた皆さんにぜひ一言、お話をさせていただきたくてペンをとりました。
私が生きた紀元前後のローマ帝国は史上空前のインフラ社会でした。ローマ帝国の威令が届く地中海世界は、まっすぐで舗装された街道が整備され、さらには水道網も張り巡らされていました。その他の制度・システムも整備されており、この部分では21世紀の皆さんの暮らしとさほど違ってはいませんでした。
当時の世界水準から見れば驚異的高水準にあった、と言えるでしょう。皆さんの国日本では、また歴史が記録されていなかったころの話です。
一部には奴隷制の社会ではなかったのか ? というご指摘があるかもしれません。
しかし歴史を正しくご検証いただければわかることですが、ローマ社会の奴隷の職業は家庭教師や料理人といったところが一般的で、蓄財によって一般市民になることも可能だったのです。鞭で打たれながら過酷な肉体労働を強いられる奴隷の姿は、昔のハリウッド映画が作り出した架空のものです。
なぜ、私がこのような話をするのか?
それはローマ帝国の「属州統治」が決して力ずく・権柄ずくのものではなく、地域・民族の慣習や生活スタイルを最大限尊重したものだったことをご理解いただきたかったからです。実質的に当時のローマは広大な地中海社会の首都でしたが、スペイン、フランス(ガリア)、パレスチナ(小アジア)、北アフリカの人々にローマ式の生活や社会を強制したことはありません。
私たちは地元の人々の意向を無視した統治を行うことによって、その地の民族の活力をそぎ、反抗を誘発し、その地が不安定になる。
結果として地中海社会の平和や安定、すなわち今日 Pax Romana と言われている状態が不安定化することこそ、第一に避けたいことだったのです。
東京辺りにいる○○評論家とか、○○先生などと称する人々が地元の心を無視して作り上げた構想、あるいは既にどこかにあるような街並や施設を東京以西の業者が商業ベースで提示するプラン、そんなものを実現させてしまっては、本当にあなた方が幸せに暮らせる社会ができない可能性が高いのではないでしょうか。
今後の東北地方の復興の中心には、その地に暮らしてきた人々が担い手となるべきです。
人間は責任感と自負心を持ったときにもっとも良く働く、ということを思い出していただきたいのです。
惨禍に見舞われ、今すぐに責任感や自負心を持て、というのは不可能のようにも思えます。
しかし震災の翌日から、満身創痍の身に責任感、自負心をあふれさせた東北の人々が、復興に立ち上がっていく姿が海外も含めたたくさんのメディアによって紹介されました。
東北地方日本人の皆さん、責任感と自負心を併せ持ったあなた方が、常に復興の中心にいるようにしてください。
そして誰の為でもない、あなた方の為のコミュニティーを自信を持って築き上げていってください。
東日本大震災の「被災者」である私たちには、むしろこれから数多くの試練が待っています。被害の内容が明らかになるにつれ、立ち行かなくなる会社が出てきています。すでに従業員の解雇に踏み切らざるを得なくなった企業が2、3にはとどまらなくなっています。
しかも4月7日の夜中、2度目の大地震が宮城県を襲い、復興に向けて動き出していたライフラインを再びずたずたにしてしまいました。
しかし、大震災で亡くなられた30,000人近い方々のことを考えれば、何度地震が襲って来ても私たちは立ち上がらなければなりません。
ちょうど70年前、英国で同じようなことがありました。
1940年、西ヨーロッパに侵攻したドイツ軍はたちまちのうちにオランダ、ベルギー、フランスを席巻、イギリス軍・フランス軍を主体とする連合軍を海に追い落とします。ヒトラーは英国にも降伏を迫りますが、英国は拒否。ヒトラーは英国上陸作戦を標榜、同年7月の英国船団、飛行場への航空機攻撃により、英国・空の戦いが開始されました。
当初ドイツ軍は英国の戦闘能力を奪って降伏を迫るため、軍事施設に的を絞って攻撃しました。しかし、英国のベルリン報復爆撃に激怒したヒトラーの命令により、8月末になってロンドン市街の無差別爆撃に切り替えます。
この日からロンドン市民の長い苦しみが始まりました。
ドイツ軍は爆撃機・戦闘機あわせて1,700機で来襲するなど,毎晩のようにやってくる爆撃機の編隊は、ロンドン市街のありとあらゆる場所に爆弾の雨を降らせ、犠牲者がうなぎ上りに増え続けます。人々は地下鉄の駅構内や地下壕に退避、イギリス空軍が迎撃に向かいますが、敵味方ともに損害が激しく、まさに予断を許しません。
昨晩 - 4月7日夜も11時30分過ぎに大きな地震がありました。直後に近所にお住まいの知り合いの方の安否の確認に行きましたが、夜中とは思えない程車と人が行き交い、異様な雰囲気でした。2度目の大地震で不安も頂点に達し、とりあえず避難所に向かわれた方も多かったと思います。
何軒かのお宅ではガスその他の警報機が鳴り放しになり、あちこちでブロック塀が倒壊していました。『半壊』にとどまっていたお宅が『全壊』してしまい、住むところを完全に失ってしまった方もいらっしゃいます。
復旧に向かっていた各ライフラインが再び寸断され、復興への動きがたとえ一時的とはいえ中断させられるのも痛手です。
でも、最も大きいのは人々が心に負わされた傷です。お子さんをお持ちの方はとりわけご心配だと思います。
飼っていたワンちゃんの看病をしていたのに、再び襲った地震のため容態が絶望的となり、もうどうしたらいいの、という方からお電話をいただきました。
なんでここばっかりこんな目に遭わされるんだろう?! と苛立つ気持ちも大きくなっています。
私の人生にとって、この時間・この体験はいったいどんな意味を持っているのだろう、いや、意味なんてあるのだろうか?!
でも、当たり前のことですが周囲はみな同じ被災者。あらためて、みんなが辛い思いをしているのだ、と思うと、なおさらやりきれない思いが募ります。
でもこのサイトの一番最初に自分が揚げた原稿に、自分はこう書いていたはず - 支えることで支えられた、と。
折しも、震災当初一週間程我が家に避難し、その後中国に一時帰国していた友人夫婦のうち、旦那さんの方が今日、仙台に戻ってきます。彼も奥さん、子供さんを中国に残したままであり、しかも個人的にも問題を抱えています。
精一杯支えよう、親切にしよう、それは彼に対してだけでなく。
寛容になろう、落ち着こう。
支え合うための、自分への戒めです。
日曜日など、「政治討論」番組が目白押し。
最近気がついたことですが、政治家、あるいは政治評論家のみなさんがテレビの政治討論番組などで主張している通りの政治が行われていれば、この国はずいぶんと『いい方』に向かうはずなのではないでしょうか。
ところが、現実は皆さんが見ての通り。
アメリカでつい最近、二大政党の民主党と共和党の国会議員が、国会で互い違いに並んで腰掛け、「ささいな利害は捨てて、力を合わせて国難に立ち向かおう」というパフォーマンスを行ったその日に、もっと深刻な『国難』に見舞われていたはずの日本の国会中継では、ただひたすらに足を引っ張り合う国会議員の姿がありました。そして今、まさに未曾有の『国難』が日本を襲っています。
最近「若手」国会議員なんて人たちがテレビに良く出てきます。はっきり言って私は政治にかけるビジョンなんか無いくせに、やたら声の甲高い人が虫酸が走るほど嫌いです。中身も無ければ品性も無し、人々のため、名も無い市民のために「このような政治を実際のものにしたい」なんて理念も無く、ただただ人の悪口。でもこういう人をやたらとテレビに登場させるのも日本のテレビ局なら、それを当たり前のことと受け取り、あげく本人をどこかで見かければキャアきゃあ言いながら、ケータイのカメラで撮りまくるのも日本人。言われた本人はますますその気になって、国会で表現だけがセンセーショナルだけど無内容なことを激烈にしゃべりまくる。するとまた、テレビ局が引っ張り出す......
でも忘れないでくださいね、世界はこういう人を国会議員に選んでいるのはあなたや私、つまりはそれが日本人なのだ、と見ているのです。
テレビの前だけで何だかちょっと正論めいたことを言っていながら、国会へ行けばひたすら足の引っ張り合い。
そこには陸前高田市のことを、南相馬市のことを、今度の震災で数多く生まれてしまった震災孤児のことを、鋭い痛みとともに考えているとはとても思えません。
でも、「知り合いに頼まれたから」「地元だから」「何かあったら、個人的な頼み事をきいてくれるかもしれない」なんて理由で、そういう人を選んでいるのがニッポン国民。
そしてニッポン国民とは、つまりはワタシと......
こんな時ぐらい、やってこなくともよさそうなものなのに...
そう、花粉症です。
私は花粉症の季節には小青竜湯(しょうせいりゅうとう)という漢方薬を服用し、不快な症状を抑えていました。
※ 小青竜湯は鼻水、くしゃみ、目のかゆみ、湿った感じの咳に効果がある
ところが、震災の影響で物流がストップ、いつものんでいる顆粒の小青竜湯が手に入らなくなりました。
「困った...」
と私が言うと、女房殿が応えました。
「煎じ薬の小青竜湯をのめばいいじゃない。」
そうか、その方がもっと効くかもしれない。
幸いタキザワ漢方廠の小青竜湯のティーバッグがありましたので、耐熱容器を使って電子レンジで15分程煮だし、保温ボトルに入れて、暖かいまま一日数回に分けて服用するようにしました。
す・る・と
鼻水も、目のかゆみもピタッと治まりました。
漢方の液剤は新薬の静脈注射と同じぐらい、すぐに良く効く、と以前聞いた事がありましたが、まさにその通り。
私たちがふだん馴染んでいる漢方薬は顆粒、もしくは錠剤ですが、もともとは『草根木皮』といって、薬効成分のある植物のさまざまな部分を乾燥させ、砕いて、それを長い時間かけて煮だした汁を飲んでいたのですから、もともと煎じ薬の方が効果があるのは当たり前のことでした。
実は市販されている顆粒の漢方薬の中にも、「お湯に溶かして服用する」ものもあるのです。
小青竜湯の煎じ薬は漢方の中でも「マズい」方だと言われますが、暖かいとさほど飲みにくくもありません。
この春は、小青竜湯入りの保温ボトルがあれば乗り切れそうです。
それにしても漢方薬の煎じ薬、こんなに効くとはちょっと驚きでした。
今や絵画・西洋画と言えば、やはり最初に思い浮かぶのは『印象派』の絵の数々、この点はどなたも異論は無いと思います。そして印象派と言えば、マネ、モネ、セザンヌ、ルノアール。これ、呪文のようなものです。
実はマネの生まれた1832年からセザンヌが生まれた1839年までの間に、ドガ(1834年生)シスレー(1834年生)などが生まれているのですが、はじめの4人こそ印象派を代表するとする評価は不変です。
もっとも『印象派』という言葉には、彼らが活躍していた当時、あまりいい「印象」はなかったようです。作曲家のドビュッシーがこの当時、パリ音楽院の学生だったのですが、持ち前の輪郭のにじんだような作品を課題として提出した際、校長だったサン・サーンスに呼び出され、
「こんなボヤッとした、あの(ろくでなしの)印象派の連中の絵みたいな曲ばかり作ってると、将来ろくな作曲家にはなれないぞ。」
と注意を受けています。
大作曲家サン・サーンスと言えど、マネ、モネ、セザンヌ、ルノアール、そしてドビュッシーの評価については間違ってしまいました。
けれども絵画に少しばかり興味を持ち始めた10代の頃、まず開かなかったか、開いてもすぐに「バタン」と閉じていたのがこの4人の画集でした。
なんだか当たり前のことを、当たり前に描いているだけのような気がして、100年以上も後の人間が改めて見なければならない価値を感じませんでした。当時はロイ・リキテンシュタインやアンディ・ウォホールと言った人たちの『ポップ・アート』の方がずっと魅力的でした。
中でも気に入らなかったのがルノアールで、まるまるとした輪郭の裸婦・女性の肖像画については、まったく受け入れがたい印象を持っていました。たとえばモディリアーニ(アマデオ、1884 イタリア生まれ - 1920 フランスで没)の人物画が、一目見ればそこにある情感をストレートに伝えているのに対し、脂肪のたるみ(?)までもそのまま描写したような裸婦の絵画は、本格的に絵の勉強をしていた訳ではない10代には理解できませんでした。
そして現在、これまで何回か印象派~後期印象派の実物を見る機会がありましたが、モディリアーニの絵の美しさに対する憧憬は変わらないまま、ルノアールの作品に対しては驚嘆の思いを持つようになりました。
特に代表作の一つ、【ムラン・ド・ラ・ギャレット】という作品には、ただの人の集まりをこれほど美しく情感を込めて描けるものなのか、とあらためて賛嘆の思いを捧げるしかありません。頭上にある(画面の中にはありません)大きな樹の木の葉の間から降り注ぐ太陽の光が、人々の顔や洋服を様々な模様に染め上げ、そこにいる人物の表情と解け合い、まさにルノアールだけの世界を描き出しています。
この作品が個人の所蔵ではなく、パリのオルセー美術館が所蔵しているため、いつでも世界中の人々が鑑賞可能なことを神様に感謝したい気持ちです。かつてルノアールを見ても何も感じなかった人間が、です......
大震災に見舞われ、もうすぐ一ヶ月。でも、様々なアウトドアの楽しみやレジャーが震災前通りとはいかないでしょう。
もしご自宅にしまい込んだまま忘れてしまっているような画集などをお持ちなら、この機会に開いてみませんか ?
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