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星の金貨 東日本大震災や音楽、語学、ゴルフについて語るブログです。

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「またか…」と、「まだか?!」

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そろそろ全国ニュースなどで東日本大震災が取り上げられると
「またか...」
と、被災地以外ではそう思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そうした思いをべつに責めるつもりで書いているのではありません。
被災地の真ん中にいても、毎日繰り返されるACのCMにはちょっと閉口しています。
地震とその被害が日本全国に及んでしまっては、日本の復興は何倍にも困難なものになってしまいます。

1984年フランス発行【解放40年】レジスタンスとノルマンディー上陸 ナチスドイツ占領下のフランスでは、女性を含め多くのフランス人が地下組織をつくり、「まだか?!」と、連合軍のヨーロッパ本土への上陸を待ちながら抵抗を続けた。1944年6月、ついに連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させるが、それまでに数多くのレジスタンスが命を落とした。

1984年フランス発行【解放40年】レジスタンスとノルマンディー上陸 ナチスドイツ占領下のフランスでは、女性を含め多くのフランス人が地下組織をつくり、「まだか?!」と、連合軍のヨーロッパ本土への上陸を待ちながら抵抗を続けた。1944年6月、ついに連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させるが、それまでに数多くのレジスタンスが命を落とした。

関東以西が健全に機能しているおかげで、東北の復興も早まることになります。
そのことは被災地の人間すべてがわかっていると思います。

ただ今回の大震災は東北に集中し、その被害は近代になってからの日本人が経験したことが無いのはもちろん、想像すらできないものだった為、被災地とそれ「以外」の地域のギャップも大きなものになってしまっています。
私は震災以来、私は新聞を読んで、デレビを見て、涙のにじまない日は1日もありませんでした。中でも津波で奥さんと息子さん2人ともを亡くしてしまった、名取市職員の男性について報じた新聞記事などは、内容を思い出すたび泣けてしょうがありませんでした。
しかし私個人がいくら涙を流したところで、それは私という一個の人間の生理現象であって、被災地のすべての人が望んでいる復興には、何の役にも立ちません。
それでも、今回の報道を見るたび
「またか...」
と、涙と縁が切れません。

しかし、涙ばかり流していても何の貢献もできません。
「自分も何かしなければならない」と、気ばかり焦ります。
被災した友人のもとを見舞って、足りないもの、手に入らないものなどを届けたりしていますが、宮城県・岩手県・福島県沿岸部の方々の復興はまだ始まったばかりです。
福島県南部沿岸では原発の問題がある為、手を付けることすら許されません。
いっこうに先の見えない問題の解決について、
「まだか?!」
という思いを、毎日強くされているに違いありません。

ゴールデンウィークに入り、全国からボランティアの方々が続々と被災地に入って来られました。
ボランティアの方に、津波で泥まみれになった家を片付けていただいた被災者は、皆一様に涙を流して感謝していました。
世界のメディアが賞賛した「被災しても互いに思いやることを忘れない東北の人々」の心と、ボランティアに訪れた人々の善意がつながりました。

でも、選挙の時にまで『善意』を持ってはいけません。
政治家に対してはその資質とこれまでの履歴に対し、冷静な判断を下さなければなりません。
でないと、人々の善意を利用したり、踏みにじったりする人間を権力の座に送り込んでしまうことになります。

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波に負けぬ花

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4月27日、28日に報道された「皇后様の水仙」の話題は、被災地に暮らす人々の心におおきな勇気を与えてくれたと思います。

西ベルリン 1980年発行

西ベルリン 1980年発行

27日の段階では宮城県内の避難所にいた女性が、津波で流された自宅の庭から摘んできた水仙を皇后様がお受け取りになった、というまでの報道でした。
しかし、宮城県民を始め被災地の人々がよりいっそう励まされたのは、翌28日の報道で、被災地から戻られた皇后様が夜、特別機のタラップを降りられる際、その手に受け取ったそのままの水仙の小さな花束をしっかりと抱いていらっしるお姿が映し出されたときでした。
避難所の女性は水仙の花をお渡しする際、
「この水仙は津波が押し寄せた庭に咲いた花です。私たちも津波に負けないようがんばります。」
と話されたそうです。
その水仙を皇后様が胸に抱いて、飛行機のタラップを降りられたということは
「あなた方被災された方々の思いを、しっかり受け止めましたよ。」
という無言のメッセージだったと思います。
現地にも行かず、国会の場やテレビカメラの前でだけ虚言を弄する政治家諸氏と比べ、何という違いでしょうか。

天皇皇后両陛下は千葉・茨城から順番に被災地を回っておられます。そして訪問先では被災者と同じ目線に立たれ、お話をされていました。
誤解の無いようお話ししますが、私は皇室崇拝主義者ではありません。
しかし、明治帝以来、日本の天皇家が好戦的であったためしがない、と理解している点で私は日本の皇室というものを見誤ってはいない、と思っています。
明治天皇も日清戦争、日露戦争、ともに反対である事をはっきりと明言されています。特に日清戦争については、欧米の帝国主義的侵略の前に、同じアジアの国が相争う事の非を説かれています。
昭和天皇も昭和10年代、軍部が勝手に独走し、どんどん戦争を拡大して行くことに深い懸念を抱かれていたようです。昭和天皇は青年のときに、欧米への視察旅行をされるなど、開明的な立場を取られていましたが、陸軍などの一部が勝手に別の虚飾を施し、結果として当時の日本人に塗炭の苦しみ味あわせました。
昭和天皇は太平洋戦争の後半、日本の敗北が見えた段階で、一日でも早い終結を望まれていたという傍証があります。
当時の日本政府が昭和天皇の意思を体し、早くに戦争を終結させていれば、広島・長崎への原爆投下はもちろん、ソ連軍による満州での日本人大量虐殺を防げたかもしれません。どころか、北方領土はもちろん、千島列島や樺太の南半分でさえ日本領土のままだったも知れないのです。

戦争末期、米国兵士の消耗を恐れた『日本人嫌いの(don't like ではなく、hate の意味の)』アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、ソ連首相のスターリンに働きかけます。1945年、対ドイツの無条件降伏を勝ち取った暁にはソ連軍を極東に回し、日本に宣戦布告するように。
代償を求めるスターリンに対し、ルーズベルトはソ連は千島列島・樺太を「好きにしていい」と言い放ちます。
これが1945年2月のヤルタ会談の中のヤルタ秘密協定の内容です。
『一億総玉砕(ヒトラーやゲッベルス、ヒムラーやゲーリングの末路を知った当時の日本軍部高官が、敗戦後の自分たちの運命を予感し、国民も道連れにする事で自分たちの恐怖を薄めようとした、卑劣な動機によると思われる)』のスローガンを叫びながら、先の無い戦いをずるずる続けることで、日本の軍部は広島・長崎への原爆投下、満州移民の虐殺、そして樺太・千島の喪失という大災厄を日本にもたらしました。

現在の天皇陛下・皇后様はことあるごとに「日本の平和、世界の平和」ということを口にされます。
平和への思いを強く抱きながら、日本にまったく正反対の道を進ませるために利用されてしまった事への昭和天皇のご無念が、胸にきざみ込まれているのかもしれません。
皇后様が被災地で受け取った水仙の花を、帰路手を放すこと無くお帰りになられた事は、国民に深く静かな感銘を与えたと思います。

今、国会議事堂を始め『要路』に立つ人たちには、こうした皇后様に無念の思いだけは抱かせないよう、肝に銘じていただきたいものです。

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現場はほんとうに一生懸命働いている

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私たちが暮らす仙台市は、今回の東日本大震災の被災地のほぼ真ん中に位置しています。
そこで毎日一番多く目にするものは、『災害派遣』表示の自衛隊車両です。
装甲車両、各種トラック、各種ジープ。

【消防200年】1974年イギリス発行

【消防200年】1974年イギリス発行

子供の頃、タミヤのプラモデルでこうした車両をたくさん作った世代としては、平時なら見かければちょっと興奮したのですが、今はただ頭が下がるばかりです。
実はこの白地に『災害派遣』の文字を染めた、あるいは手書きされた布地が風雨にさらされ、かなり痛んできているのが遠目でも解るようになって来ました。
これらの車両は朝、西から東に向かい、夕刻になると今度は西に向かって走って行きます。
言うまでも無く、津波で大きな被害を受けた太平洋岸の地区で遺体の捜索をしたり、がれきの撤去作業に従事されています。
それが数えれば、もう50日になろうとしています。現場の自衛隊員の方は大分消耗され、疲労が蓄積されて来ているとうかがいました。
先日、女川町の友人のもとを見舞った際にも、一面のがれきの中で自衛隊の方々だけが黙々と働いておられました。
友人の家族は
「自衛隊の人たちは朝8時になると、一斉に展開し捜索・がれきの撤去を始めるんです。夜は被災者の人たちの入浴の世話をしたり、何でもやってくれるんです。本当にこれものです。」
と言って、両手を合わせて拝むジェスチャーをされていました。
考えてみてください。
被災された方々の遺体は、まれに報道写真で部分的にだけ見る事がありますが、それだけでも悲惨の思いを強くします。
また、女川、石巻、多賀城などの津波の被災地に行くと、誰もが破壊の凄まじさに口がきけなくなる程の衝撃を受けます。
その中で、自衛隊の方々は毎日毎日がれきを片付け、亡くなられた方々の遺体を捜しておられるのです。
その労苦、私たちに理解できるでしょうか?
まして遠隔地から派遣されている部隊の方は、石巻市内で見かけましたが、テントを張って『野営』されているのです。
眠る事はできても、疲れが取れるとは思えません。
今回の被災地では、現場におられる方々が本当にがんばっておられます。
自衛隊に加え、警察、消防、そして福島第一原発の作業員の方々......
遥か70年以上も前、日本にも『軍隊』があった頃。
イギリスだかの観戦武官が日本の軍隊組織について、こう語ったそうです。
「日本の軍隊というのは実に不思議な組織である。将校の中で最も愚かな人間が参謀肩章を吊っている。」
太平洋戦争では、これらの参謀が兵士の命をどぶに捨てるような作戦を数多く立案し、失敗すると責任をすべて現場のせいにしています。
現在の自衛隊はそんな事は無いと思いますが、タモ○○なんて人も居ましたから、ちょっと心配になります。
今日も国会議事堂の中で怒号したり、野次ったり、被災地から見ると空騒ぎをしているとしか思えないセンセイ方にぜひ申し上げたい。
一日、たった一日でいいから現場を手伝え!と。
天皇皇后両陛下だって被災地にいらして、ひざを折って避難所で暮らす一人一人を、現場で働く人々をしっかり励まして行かれたんですから......

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被災地の悲しみ

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被災地で暮らしていて感じる悲しみのひとつ。それは余震のたび、街が少しずつ壊れて行く事です。
3月11日の震災の後、当然の事ながら被災地ではどこも、再び立ち上がるための様々な作業が始まりました。店舗も少しずつではあっても片付けが進み、営業再開直後は店舗の前にワゴンを並べて商売していた店も、本格的な営業を再会するところが増えて来ました。
オランダの道何より、JR在来各線の復旧・運行再開は、孤立した地区が近隣とつながる事の安堵感を与えてくれました。
そこへ今度は4月7日の大地震です。
仙台市の中ではこの地震で数多くの建物、店舗が本格的に破壊されてしまいました。
道路も大きく陥没したり、地割れができたり。
徐々に回復していたライフライン、電気や水、特にガスの復旧には大きくブレーキがかかり、せっかく再開できたのに、再び不通になった地域が続出。
JR東日本の在来線は再びストップ、新幹線の再開見通しもずれ込んでしまったのです。
それでも4月にはJR新幹線を含む様々なライフラインが復活し、全国から仙台に集合していた「都市ガス開栓隊」の解散式が行われたりしました。
けれども、道路のひび割れは増え続けているのです。
私は震災以来、一時ガソリンが街から消えかかったこともあり、悪天候の日は車で通勤しますが、それ以外は自転車で片道7キロの通勤をしています。途中、仙台市東郊を流れる大きくもない川の両岸に作られた自転車専用道路を走ります。
この道の地割れが余震が起きる度、毎日増えているのです。
今回の地震で東日本が地盤沈下してしまった事はすでに伝えられている通りですが、仙台市内はこのため、市内各所の橋と道路の間に大小の段差ができています。幹線道路と言えど例外ではなく、油断してスピードを出すと車が大きくバウンドしてしまうほどです。仙台市の幹線道路のひとつ、国道4号線も段差の応急修理が終わったと思ったら、震度4の余震が起きたときには、今度は縦に10メートル程の亀裂が入ってしまいました。
こうした亀裂が大小あちこちで増え続け、
「何だかどんどんこわれて行くなァ…」
と、少し悲しくなって来ます。
昨日もそんな事を考えながら、自転車のペダルをこいでいたら、目の前をサッと何かが飛び過ぎていきました。
目で追いかけると、ツバメが一羽、颯爽と空に舞い上がっていきます。
「ツバメ、もういつの間にか春、か…」
被災地の悲しみのひとつ、それは季節の移り変わりが感じにくくなっている事。

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そして7人全員が生きのびた……

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所要時間 約 7分

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やっと女川に住む友人のもとを尋ねることができました。

仏切手帳

仏切手帳

4月23日土曜日雨、朝7時前に自宅を出発、仙台市東部道路(有料道路)仙台東インターから一路石巻を目指します。5キロほど走ってすぐに渋滞に巻き込まれました。いっこうに進む気配がなく、仕方なく一般道に出て北へ。松島海岸インター近くに来て見上げた有料道路は車がスイスイ。あわてて同インターから再び有料道路にのったところ、今度は1キロも進まないうちにまた渋滞。そんなことを繰り返しながら、約2時間後、普段の3倍ほどの時間をかけて石巻市内北部に入りました。まず驚いたのは石巻市総合運動場に並ぶおびただしい数の自衛隊のトラック、その隣には無数の野営テント。しかし市内の道路はあちこち亀裂が入り、地割れし、陥没しており、脇見なんかしていられません。行き交う車すべてが慎重に進路を選び、その為にあちこち渋滞が発生しています。市街地に向かう方は大渋滞、通じようのルーとは使えそうにありません。幸い多少の土地勘があった為、女川街道の裏道を通り、山越えをして万石浦のところから街道に出ました。
出た途端、津波で舗装がかはがれ、大穴だらけの砂利道を走らされるはめに。幸い100メートルほどで舗装された道に戻りましたが、やはり陥没や亀裂があってスピードを出す訳にはいきません。
そして9時30分、女川町内へ。しかし、牡鹿半島と町内への岐路に自衛隊の人たちが交通整理をしていて、町内には入れなくなっています。友人に電話をしてそこまで迎えにきてもらいました。後で聞くと、町内のがれきの本格的な撤去に着手する為の通行止めであったようです。
友人は女川町内で経営していた事務所と少し離れた場所の自宅の2棟ともに津波に流され、町内の小高い場所で隠居されているご両親のお宅に避難していました。
尋ねる前、その場所をGoogle Mapの航空写真で確認したとき、そのお宅の回りががれきだらけになっている様子が写っていましたが、その拡大映像が目の前に広がっています。まるで砲弾の直撃をくらったように上部構造がメチャメチャになったワゴン車が道ばたに放置してあります。さらに進むと壁が破壊されたたくさんの家と、奇妙な角度でその家に寄りかかったり、壁に突き刺さる破壊された乗用車。決まり事のようにその組み合わせが目の前に次々と現れ、津波の持つ想像もできないほど大きな破壊力に唖然とさせられます。
町内の4分の3が壊滅した女川町、そこから先、海に向かってはがれき以外のものを見る事はできませんでした。
半ば感覚がおかしくなったまま、友人のご両親の家の前に車を止め、家の中に招じ入れられました。
幸いご両親、男の子3人を含め家族7人が全員無事でした。しかし、『あの時』のお話を聞くと、何ごとも無くここに全員そろっているのではない事を教えられました。

当日、本人は今避難している場所からずっと海に近い、埠頭から350メートルの場所にある事務所で仕事をし、中学生の男の子1人、小学生の男の子2人はそれぞれ学校に、奥さんは「浜の方へ」買い物に行っていました。ご両親は今いるご自宅に。
午後2時48分、友人は恐ろしい揺れが収まると、事務所を飛び出しました。とりあえずまず、小学生2人を引き取りに小学校に向かいます。校門を入ると、子供たちが校庭の真ん中にかたまって避難しているのが見えました。
友人のパニックは、その中に自分の子が2人ともいなかった瞬間から始まったのです。
あわてて小学校を飛び出し、通学路をたどります。通学路は町中を迂回する山の斜面にありますが、2人とも見つかりません。「もしや?!」と思い、ご両親のお宅を確かめると三男の息子さんが避難していました。町の中学校は高台にあるため、長男が学校から出ていない事を祈りつつ、次男の姿を求め再び通学路の斜面に向かいました。そして、3時15分、町に津波がやって来たのです。
たちまちに町内には真っ黒な水があふれ、凄まじい勢いで町をのみ込んで行きます。

その時、買い物中だった奥さんは埠頭から250メートルほど、町の指定避難所だった少し小高い場所にある町立女川病院に避難しました。病院の駐車場には避難して来た車でいっぱいなり、ほとんどの人が車に乗ったまま不安そうにしています。病院の入り口には車椅子に乗った数人の高齢者が、これも不安そうに外を見ていました。
奥さんはとりあえず病院1階の待合室に入り、子供たちの身を案じていました。
その時、真っ黒な水が病院の玄関から突入して来たのです。
たちまちに病院の一階全部が水につかり、水かさはどんどん増して来ます。奥さんはなす術も無いまま、どんどん天井の方へ押し上げられて行きました。
そして、水かさは天井までの高さ残すところあと30センチで止まったそうです。
徐々に水が引いて行き、再び床に足が着いた時は立っているのがやっとでした。
視線をあげると、病院の入り口付近にいたはずの車椅子の高齢者も、駐車場の車も、何もかもが流されてなくなっていました。

津波はご両親の自宅までやって来ました。まさにそこが津波の末端だったのです。
一番近い埠頭から1,100メートル前後、なだらかな坂を上って来たところにご両親の家があります。
津波は周囲の家を破壊しながらその敷地まで入り込み、床下を水浸しにし、そこで止まりました。
数メートル少し下がった隣家、南側と東側のお宅は全壊しました。
生きた心地もしなかったでしょうが、それ以上に衝撃であったのは、津波が来るすぐ前に飛び出して行った息子さんの生死については、『絶望的』と思わざるを得なかった事でした。
たった一人残った孫を抱きしめ、廃墟となった窓の外を呆然と眺め続けたと言います。

そして、再会。
まず友人が車を運転して帰って来ました。
ずぶぬれの奥さんは徒歩で。
生死不明の次男は数人で帰宅途中のところを、車で通りかかった近所の人に全員保護されており、その人に送られて。
中学生の長男は津波の被害を免れた学校から、歩いて帰って来ました。
長い一日が終わろうとする夕刻、それぞれの生死をかけた戦いから解放され、再び家族7人がそろいました。
外では雪が降り出していました。

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野球オ・ン・チ

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社会に出てからというもの、自分がプロ野球ファンだなどとは一度も思ったことの無いワタシ。
私が曲がりなりにも野球に興味を持ったのは小学校高学年の頃で、当時の読売ジャイアンツというのは
監督が川上哲治、ファースト王貞治、セカンド土井。ショート黒江、サード長嶋茂雄、レフト柴田、センター高田、ライト末次、ピッチャーは堀内、または金田正一
という、今やコーチや監督すら引退している方々が現役の頃。
中学以降は部活で野球とは全く関係のないスポーツをしたこともあって、以来、興味というほどの興味は持ちませんでした。
現在のジャイアンツについては監督が原辰徳、選手は慶応大学出身の高橋由伸、それに日本ハムから移籍した小笠原、他にバッティングのうまい阿部という選手がいる、程度の知識しかありません。

だから震災後、プロ野球の再開が近づいて、楽天野球団の選手たちが、「自分たちが頑張ることで、被災地のファンを勇気づけたい」等々の話をしているのを見たり聞いたりしても、今ひとつピンと来るものがありませんでした。
仙台で暮らしているので、地元のニュースで楽天野球団がたびたび取り上げられます。そのせいで楽天の選手については他の球団のそれよりは、自然に詳しくなります。
でも、積極的に誰か選手を応援しているというほどではありません。
ところが、4月16日、甲子園での対オリックス戦で田中将大投手が勝利の雄叫びをあげた瞬間、見ていた自分は正直感動しました。最後の打者を打ち取って、田中選手がガッツポーズをとった瞬間には、からだがシビレました。

いま、楽天の選手たちは遠征する先々で、試合前に球場の前に並んで被災地への寄付を呼びかけているようです。
「ああ、彼らもがんばっているんだなぁ。」
と、正直思います。仕事として野球をする他に、
こうなれば義援金・寄付金の募集は、あらゆる人が、あらゆる場で、長い間続けていく必要があると思います。
ただ、いつまでも好意にぶら下がってばかりでもいけません。
歪んだ『権利意識』、『我々は被災者なんだから、コレぐらいの事はしてもらって当然』という考え方だけはしないようにしなければなりません。
楽天の田中投手だって、相手チームに『勝たせてもらった』訳ではないでしょう?!
トレーニングを重ね、練習をし、そして最後は自分の力で勝負を挑んで勝ったのです。
その努力と立ち向かっていった勇気を正しく理解する。
それが『勇気をもらう』ということなのではありませんか?

がれきの中に立ち尽くす少年

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4月22日金曜日、写真雑誌FRIDAYの『緊急増刊号』を見ました。
私も50歳を過ぎ、同年代の方がよくおっしゃるのは「とにかく涙もろくなる」という事ですが、この写真集を見ていると年のせいなのかどうか......
数限りない被災写真の中でも、救助された大型ヘリコプターの窓に顔を押しつけ不安そうに外を見ている幼い子供、リュックサックを背負ってがれきの中に立ち尽くす少年の写真を見るとたまらない気持ちになります。

フランス子供 フランス1976年発行

フランス子供 フランス1976年発行

とにかく助かって良かった、という思いと、これから誰がこの子供らを守っていくのか、という思いが交錯します。
誰が守っていくのか、それは私たち自身であるはずなのですが......
今度の大震災では、地域によっては復興まで10年、あるいは4半世紀(25年)を超える歳月を要するだろうとも言われています。
今10歳の子どもたちは20歳になり、35歳になっているはず。
その子らがその時、かつて大人だった人間について、日本という国について、どう考えるのか。

健康に関してですが
「現在のその人の体は、その人の10年前の食生活が作っている。」
という言葉があります。
「現在のその国の社会は、その国の10年前の子供たちが作っている。」
という事は言えないでしょうか。
私たちは子供のとき、知らない大人の人に親切にされ、幸せな気持ちになった事があるはずです。
私たちは子供のとき、大人の心ない行為に傷ついた事があるはずです。
私たちには大人の理不尽な振る舞いに「なぜ?!」と、強烈な疑問を持った少年少女時代があったはずです。
私たちには困難を乗り越え、何ごとかを成し遂げた大人に「自分もそうなりたい」と、強いあこがれを持った少年少女時代があったはずです。
それらの思いが組み合わさり、今の自分の日本という国に対する、日本の社会に対する態度、考え方が形作られているはずなのです。

一口に被災地と言っても、我が家のように家も家族も誰一人欠けること無く大地震を乗り切った家庭もあれば、家屋・家族・親類知人友人を数多く失ってしまった子供たちもいます。彼らは普段にもまして傷つきやすくなっており、中にはすでに心に大きな傷を負ってしまっている子供たちもいます。
私たち大人のちょっとした心ない振る舞いが、彼らを打ちのめしてしまうかもしれません。
興味本位で廃墟となった街を『見学』に来て記念撮影する、そこにゴミを捨てて帰る......
そんな人間が被災地を横行していることが地元紙で報じられました。
大切な人が逝ってしまった地でそんな人間を見かけたら、子供たちはどう思うでしようか?
さらには避難を強いられて、見知らぬ土地に連れて来られたあげく、線量計を突きつけられたり、「放射能がうつる!」と言われた子供たち。
彼らが社会を理不尽なものと思い、憎むようになったとき、彼らを責められますか?

健全な精神を持った人間が集まれば、やがて幸福な社会を作ることができる。
10年後、20年後、私たちが幸福な社会の住人でいるためには、何より子供たちを守り、彼らの成長を見守る必要があると思います。

臥薪嘗胆から解放を

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福島第一原発の現場で作業を続ける方々を見守り、そして彼らのために声をあげましょう

昨日も福島第一原発で作業を続けておられる方々について書きました。
みなさんは臥薪嘗胆と(がしんしょうたん)いう言葉をご存知だと思います。
念のため、wikipediaからその項を引用します。
                                              

ニケの像 ポーランド1964年発行 福島第一原発の現場で闘う人々はこの像のように崇高である

ニケの像 ポーランド1964年発行 福島第一原発の現場で闘う人々はこの像のように崇高である

『史記』によると、紀元前6世紀末、(中国南東部の)呉王闔閭(ごおうこうりょ)は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した(臥薪、この記述は『史記』には存在せず、『十八史略』で付け加わっている)。
まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践(えつおうこうせん)の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆とともに富国強兵に励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥(ごししょ)を処刑するなどした。ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王位への復帰を認めなかったために、自殺した。

この中で呉王夫差は自らの意思で薪(まき)の上に寝る訳ですが、福島第一原発の作業員の人たちは望んでもいないのに薪の上に寝せられているようなものです。写真雑誌Fridayの緊急増刊号ではその様子が生々しく伝えられ、「別の火力発電所に行く」と家族に嘘を言って現場に来られた方もいらっしゃることが書かれていました。別の報道はこの作業員の方々の中には今回の震災の被害者の方も含まれ、家を失ったり、家族を失ったりしていながら、この過酷な現場で働いておられる方が何人もいらっしゃると伝えています。
海外のメディアがこの方々を「犠牲的(献身的)奉仕者」と呼んで、その勇気を称えて以来、私はなぜ国や東電がこの方々のために最大限の配慮をしないのか、理解に苦しんできました。
震災後一ヶ月半も経つのに、食べるものは相変わらずレトルト、インスタント。石巻や大船渡にはやって来る有名人などによる『炊き出し』も、ここには決してやって来ません。
簡易ベッドぐらい運び込めそうなものなのに、伝えられるように床の上にごろ寝させられているのがFridayの写真からも解ります。
しかも、被爆量の上限を250ミリシーベルトまで引き上げられた上、東電がきちんと被爆量の管理をしていない疑惑まで浮上して来ました。
この方々も私たちの多くと同じように、命令され、指示されてこの場にいるのです。
にも関わらず、現場の方は取材に対しこう語っています。
「私たちにできることなのだから、私たちがやる。」と......

福島第一原発の事故とその後の対応、引き起こされた放射能汚染により、日本は戦後65年にわたって積み上げて来た信用に傷が付きました。今後の東日本の復興においても、今後さらに福島第一原発による汚染が拡大した場合には災害地の復興と日本経済の立ち直りが著しく遅くなる、とも予想されています。
今の日本は将来の命運を、福島第一原発の現場で懸命に闘う作業員の方々に負っている、いや負うしか無いのです。
今日も、今この瞬間も、作業員の方々が危険と向かい合いながら懸命の努力をしている事から、私たちは目をそらさないようにしましょう。
そして国や東電がこの方々のために最大限の配慮をするよう、私たちはあらゆる場で声をあげて行くべきなのではないでしょうか?!
私たち日本人にそれができるかどうか、世界は見ていると思うのです。

福島第一原発 現場の作業員を『人柱』にするな

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我が家では震災後3日程で電気が回復し、テレビが見れるようになり、さらに数日後インターネットを通してアメリカABC・NBCの報道番組を見れるようになりました。そして福島第一原発の事故の詳細が解るようになったのです。
それ以来ずっと、心に引っかかっていた事があります。

第二次世界大戦で廃墟になったフランスの都市/ダンケルク/ルーアン/カーン/サンマロ フランスの寄付金付き切手 1945年発行

フランスの寄付金付き切手 1945年発行

それはABC、NBCを始め英国BBCなども、福島第一原発の事故現場で、実際に懸命に働く作業員の方達の事を「勇気ある人々」、場合によっては『Sacrifice Operators』(犠牲的献身をする作業員)と表現し、その勇気と献身を讃えていたにもかかわらず、日本の報道にはいっこうにその気配がなかった事です。
その後、欧米のメディアの論調に引きずられるようにして、日本のテレビ局も作業員の方々の過酷な労働について少しは伝えるようになりました。
劣悪な環境の下、大量被爆の恐怖と闘いながらの毎日、心が痛みます。
それでも、こうした現場で作業をしている方々のうち、福島県に住んでおられる方などは周辺住民からの『刺すような視線』を感じる事があるそうで、そんな理不尽な目に遭われている事に同情を禁じ得ません。
そもそも今回のこの
天災×人災=福島第一原発事故
は、1000年前の貞観大地震の研究者が今回の規模程度の津波が福島第一原発を襲う可能性について、2009年に東京電力に対して指摘していたにもかかわらず、当時の東電の(担当者なのか経営層なのか部外者には解りませんが)回答が「参考にはさせていただくが、すぐに具体的な対応はとる必要は認めない」ということで、例によって日本的『責任棚上げ』企業の不誠実さが招いた事態です。
したがって現場で生命・健康を危険に晒し、床にごろ寝しながら働いている作業員の方には何の責任も無いはずです。
本当に責任のある人間については東電は明らかにしていませんし、毎日布団にくるまって寝ている事でしょう、昼間は『想定外、想定外!』と言い騒ぎながら......
欧米のメディアの一部は現場の作業員に対しては賛辞を惜しみませんでしたが、東京電力に対しては
あの隠蔽体質のウソつき東電
と表現していました。
大熊・楢葉・双葉・富岡町などの避難を余儀なくされてしまった住民の方も被害者なら、現場の作業員の方々も被害者なのです。
私たちが厳しい視線を注がなければならない相手は他にいます。私など気が鬱してくると、本当に責任をとるべき人間に対し「ゴム手袋とバケツを持って現場の手伝いに行け!」と言ってやりたい衝動に駆られます。
しかし、今必要な事は国内、いや世界の英知を集めてこのトラブルを終息させる事です。
4月21日付の新聞にこんな記事が掲載されていました。
『福島第1原発の復旧作業を担う作業員の被ばく線量を定めた特例措置があいまいに運用され、作業員の放射線管理手帳に記載されていないケースがあることが明らかになった。(途中省略)
元原発作業員が東電に損害賠償を求めた訴訟で原告代理人を務めた鈴木篤弁護士の話 原告は4年3カ月の累積70ミリシーベルトで多発性骨髄腫を発症したとして労災を認められた。250ミリシーベルトの上限自体が高すぎる。』
現場の作業をしておられる方々を、絶対に『人柱』にしてはいけません。

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蒲生(がもう)の松林

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所要時間 約 4分

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今、4月18日現在、仙台市宮城野区の東部有料道路の上から海の方を見ると、松が密生した松林があったはずの方向に数本の松が透けて見えます。
ここはかつて仙台藩が開削した貞山運河が南北にまっすぐ伸び、その両岸には広大な松林があって、仙台市民の憩いの場となっていました。ホオジロ、シジュウカラ、アカゲラ、コゲラ、カワセミなど数えきれない程たくさんの種類の野鳥がいて、季節ごとに美しい鳴き声を聞かせていました。時にはヨシキリのようなにぎやかな野鳥も集い、静かな松林と好対照をなしていました。大量に落ちている枯れた松葉は、その上を歩くとクッションのようにふわふわで、歩いていると木々の間に何か野鳥の気配がしました。
そして3月11日の午後。
津波によって松林からたくさんの松の木が失われ、現在の惨状となっているようです。近くに行って見てみたいのですが、一ヶ月以上たった今も警察・自衛隊などによる捜索・復旧活動が続いており、個人的興味でそこに立ち入る事など許されていいはずがありません。
地震当日の証言の中で、押し寄せる津波の先頭を「家や立ち木がそのままの姿で、どどど...っと、迫って来た。みんな、必死で逃げた...」という直接津波の被害に遭われた方のお話には、本当に驚きました。
松林があった辺りのずっと手前には泥に埋もれたかつての田んぼが広り、数えきれない数の車が横転、反転するなどして散らばっています。
この辺りは、5月が過ぎると水が張られた緑の田んぼの中に真っ白なコサギ、チュウサギがじっと立って、えさ取りをしていたものです。
田んぼと道路には2メートル程の段差があるため、田んぼの縁にあたる部分に多数の乗用車が打ちつけられ、折り重なっています。その破損具合はひどく、押し寄せた津波の破壊力がいかにすごかったかを伝えています。
そんな中、点在する農家の中には片付けをしているお宅がありました。でも無人のまま、廃墟のようになっているお宅もあります。
私は原爆投下直後の広島市を撮影した記録写真を思い出しました。
一面に広がる生命なき世界。
でも、ここの人々はこれからも生き続けなければなりません。
そう、生きるという事は、自分の周囲に生命(いのち)の火をともして行くことなんですね...
庭木に野鳥がやって来る。
庭で花を育てる。
まっすぐ天に向かって立ち、夏に人々に木陰で憩わせてくれるのも樹木という生命。
掃除のゆきとどいた茶の間に射しそめる陽の光の中で猫が昼寝する。
そして、子供たち。
子供たちこそが、復興して行く社会の生命の火です。
復興に向かう今だからこそ、
社会がもっともっと子供たちを大切に守り育てて行かなければならないのではないでしょうか?
復興には10年、20年という歳月を費やす事でしょう。
その頃には、今の子供たちが社会の担い手となっていきます。
大人になった彼らがさらにたくさんの生命の火を灯し、
豊かな社会を築く事ができるよう、
大切に守っていきましょう。

ニュージーランド 1975年発行

ニュージーランド 1975年発行


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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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