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事故前も隠蔽を繰り返し、事故後も隠蔽を続ける、それが日本の原発 – 100年災害!福島第一原発の崩壊《3》

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所要時間 約 12分

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日本は地質学的に不安定な沿岸部に54基の原子炉を建設することに伴うリスクを、すべて隠蔽した可能性がある
福島の子供たちの甲状腺がんの急増という事実、日本政府は調査対象の数が多すぎた調査エラーとして却下した
『放射線障害』診断は認めない、『放射線恐怖症』と書き換えろ! : 保険請求を認めない厚生労働省
考案もされていない・可能かどうかもわからない技術を使ってメルトダウンした原子炉から溶け落ちた核燃料を搔き出し、確保の見通しもない最終処分場に永久に保管することを計画している日本

                   

                       

トーマス・A・バス / 原子力科学者会報 / フェアウィンズ 2021年3月10日

                     

では、現在、福島第一原発の溶融メルトダウンした原子炉から放出されている放射線量はとの程度なのでしょうか?
原子炉2号機が放出している放射線量の『最新の』測定値は、1時間あたり530シーベルトです。
これは原子炉2号機の炉心は、原子力発電所作業員の年間許容被ばく線量の10,000倍以上の放射線を1時間のうちに放出していることを意味します。

                   

福島第一原発の原子炉はまだまだ高い放射能を放出しています。
原子炉2号機に近づこうとする人間にとって十分に致命的であり、溶け落ちた核燃料の状態を確認するため送り込まれたロボットですらたちまち機能しなくなるほどなのです。

                    

2017年、東京電力はわずか2週間で2台のロボットを失ってしまいました。
しかし福島第一原発周辺の一部の居住困難区域は、少なくとも公式には、元の住民の帰還が認められ、日本政府はこの地域に移り住んだ人々には200万円を支払っています。

                  

原子炉内部ではありませんが事故現場では、これまでのべ約10万人の作業員が放射能に汚染された土地の表面を削り取り、袋詰めするのに10年を費やしました。
その結果、福島の沿岸部ではかつてエメラルドグリーンに輝いていた水田が、放射性廃棄物を詰め込んだ黒いプラスチックのゴミ袋が山のように積み上げられ、いっぱいになっています。

                

                     

Jヴィレッジでの聖火点灯式の後、オリンピックの聖火リレーが福島の帰還困難地域を3日間をかけて駆け抜けて行きました。
帰還困難地域は現在、アコーディオン・フェンスで囲まれた中にあり、閉鎖されたままの修復エリアやその他の場所がまるでチェッカーボードのように点在しています。

                            

日本は改装された学校や市庁舎、運行を再開した鉄道の駅、福島に建設された2つの新しい展示施設の方に人々の視線を集め、廃墟となった住宅や放射能に汚染のために放置されている廃車などがテレビカメラに映らないよう願っています。

                    

オリンピックの聖火は北西約65キロ離れた場所の福島市に運ばれますが、そこでは7月23日にオリンピックが正式に開幕すれば、ソフトボールと野球の最初の6試合が行われる予定です。

                

しかし、アスリートを帰還困難区域に送りこむことによって、日本のいわゆる『復興』の後押しをさせることは安全なのでしょうか?
帰還困難区域内は整備が進み、福島第一原発から放出されているセシウムの最新のデータを表示するLEDモニターが点在しています。
この計測機器は世界の他の地域でも大気中の放射線レベルを測定する機器同様のものです。

                

しかしこうした大気中の放射線量は放射能汚染全体の一部に過ぎず、さらには最も注意すべき部分でもありません。
2013年、科学者たちは爆発した福島第一原発の原子炉が、放射性セシウムとウランに汚染された微粒子、あるいは極小のガラスビーズ状物質を日本国内各所に拡散させた事実を発見しました。
こうした微粒子のホットスポットは、東京から遠く離れた地区で掃除機の集塵バッグや自動車のエアフィルターに存在が確認されました。

                  

福島県内ではこのように高い放射能を放つホットスポットが多数確認され、県の70%を占める森林に覆われた山々から微粒子が雨などによって洗い流されるにつれ、ホットスポットも移動を続けているとする報告が、ネイチャー・リサーチ社によって刊行されているオンラインの学術雑誌『Scientific Reports』に掲載されました。

                  

2019年にはグリーンピースが手がけた調査によりJ-ヴィレッジの駐車場でホットスポットの存在が確認されました。
その場所では、ユースサッカーの試合に参加している子供たちが昼食を食べていました。

                    

グリーンピースは、1時間あたり71マイクロシーベルト(1マイクロシーベルトはシーベルトの100万分の1、または1000分の1ミリシーベルト)の放射線量を測定しました。
これは福島第一原発事故前のこの地域の通常の測定値である1時間あたり約0.04マイクロシーベルトの実に1,775倍です。

                      

この測定値の上昇は1年間に換算すると約0.62シーベルトに相当し、J-ヴィレッジの競技場周辺でほこりなどを吸い込んでしまった場合、誰もが放射性粒子により体内被曝している可能性があることを意味します。
この調査以降、研究者たちの手により福島市のあずま球場とオリンピック聖火ランナーが通過したルートの至る所で放射性ホットスポットの存在が確認されています。

                

放射線に対するこうした無頓着な態度は日本国内に広く行き渡っています。
「世界の動向に無知であり、一般市民の安全を軽視していたことは明らかである。」
福島第一原子力発電所事故に関する国会独立調査委員会の報告書はこう述べています。
「原子力を取り扱う誰にとっても、どんな組織にとっても、無知と傲慢さは許されないということを委員会全員が確認した。」
報告書はこのように結論付けました。

                     

報告書はさらに次のように述べています。
「非常に苦痛なことですが、今回の事故は『メイド・イン・ジャパン』の災害であるということを認めなければなりません。」

                   

日本は地質学的に不安定な海岸沿いに54基の原子炉を建設することに伴うリスクを隠蔽していた可能性がありますが、結果的にその隠蔽は現在も続いています。

                      

日本政府が主導する福島県の放射線被ばくに関する研究は、人々の被ばくリスクを3分の2近く過小評価していました。

                    

核兵器廃絶国際キャンペーン(2017年ノーベル平和賞を受賞)の共同創設者であるオーストラリアのティルマン・ラフ医師は私に書簡を送付し、被災地で診療を行っている医師が鼻出血、流産、およびその他の病気の原因を放射線に起因するものだと診断した場合には日本政府が医療保険の支払いを拒否しているため、複数の医師たちが現地を去らざるをえない状況に置かれていると伝えてきました。
(日本政府が受け入れる診断結果は『放射線恐怖症』、神経質、ストレスのみです。)

                    

福島の子供たちの甲状腺がんの急増という事実については、調査対象の子供たちの数が多すぎたために生じた調査エラーとして却下されてしまったのです。

                        

                   

日本政府は福島で疫学調査を一度も実施していません。
福島第一原発の崩壊による災害の前と後の一般市民の健康状態を比較するための基礎すら確立されていないのです。
代わりに日本政府は全国の建設現場で、福島から排出された放射能によって汚染された土壌の使用を推進することにした、とジャパンタイムズは報じました。

                     

《4》に続く
https://www.fairewinds.org/demystify/fukushimas-first-decade-in-a-100-year-long-catastrophe?ss_source=sscampaigns&ss_campaign_id=604974fba3438c548995b0b4&ss_email_id=60497ef445867a5842acaa5a&ss_campaign_name=Fukushima%E2%80%99s+First+Decade+in+a+100-year+Long+Catastrophe&ss_campaign_sent_date=2021-03-11T02%3A22%3A59Z
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福島第一原発の崩壊・事故以降、電力料金の引き上げが繰り返され、福島第一原発の崩壊・事故のツケは確実に私たちに回ってきています。

国の予算からも福島第一原発の事故収束・廃炉作業・除染作業などのために多額の支出が続き、私たちは福島第一原発の崩壊・事故のツケを二重に負担させられているのです。

原発推進を決めた電力会社幹部の報酬はどうなっているのでしょう?

電力会社から繰り返し政治献金を受け取っていた政治家はどう責任を取ったのでしょう?

責任を取らされているのは原子力発電というものに無関心であり、原子力発電の推進を実質的に黙認していた私たち一般市民の方です。

                        

それでも原発難民にされてしまった人々がしっかり救済されているのなら、納得のしようもあります。

しかし現実に聞こえてくるのは差別やいじめなどの問題。

それに加え、現地の医師が『放射線障害』と診断すると医療保険の支払いを拒否され、医師は患者が来たら『放射線恐怖症』と診断することを無言のうちに要求されているという現実は、許し難いものです。

                     

安倍政権以降、政治に両親というものが感じられなくなった…

そう考えているのは私だけでしょうか?

事故前も隠ぺいを繰り返し、事故後も隠ぺいを続ける!それが日本の原発 – 100年災害!福島第一原発の崩壊《2》

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所要時間 約 10分

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10年が過ぎた現在も福島第一原発のいずれの原子炉炉心には近づくことすらできず、どこに何があるのかも正確にわからない
原子炉2号機の炉心はいまだに、原子力発電所作業員の年間許容被ばく線量の10,000倍以上の放射線を1時間のうちに放出している
福島はすでに推定されたよりも高い線量の、しかも予想を上回る量の放射能汚染物質を抱えこんでいる

                    

                        

トーマス・A・バス/ 原子力科学者会報 / フェアウィンズ 2021年3月10日

                    

福島第一原発を運営していた東京電力は職員に対し崩壊の始まった福島第一原発からの避難、放棄を命じました。
当時の菅首相は夜明けに東京電力本社に行き、社内の管理体制を再構築した上で、福島第一原発のこれ以上の崩壊を食い止めるよう要求しました。
その結果、志願した年齢の高い職員が自発的に崩壊を食い止めようと奮闘することになりました。

                  

『フクシマ50(フィフティ)』(実際には69人)として世界的に知られる事になった彼らは、約200km南にある東京から運び込まれた消防車を使って原子炉を冷却しようとしました。
危機管理のためのコマンドセンターはJ-ヴィレッジに移されました。

                  

福島第一原発がいったいどれだけの量の放射性物質を放出し、それがどこに固着したのかを正確に知る方法はありません。
ただ大部分は当時の東向きの風に乗って太平洋上に飛散しました。

                       

どれだけ世界中に汚染を広げたのかという点について、予測のうち最大のものは、福島第一原発はチェルノブイリよりより大きな被害をもたらした可能性があるとしています。
逆に原子力エネルギー研究所の最小に見積もられた数値では、福島第一原発が放出した放射性物質はチェルノブイリでの事故の10分の1です。

                      

2019年に著書『チェルノブイリ』を刊行したマサチューセッツ工科大学のケイト・ブラウン教授は、ロシアと中央ヨーロッパに5,000万から2億キュリーの放射性物質を散乱させたと推定しています。(1キュリーは370億ベクレルに相当します。)

                    

                   

この数値についてわかりやすくするために国際原子力機関(IAEA)のガイドラインで換算すると、広島型原爆400発分に相当します。
ノーベル賞受賞文学者の大江健三郎氏の表現を借りれば、広島や長崎とは違い、福島第一原発の崩壊は日本は自分自身に核攻撃を行った結果でした。

                 

放射能汚染の実態が不明という事態を招いたものは、津波によって福島第一原発内の線量計のほとんどが流されてしまったかあるいは機能しなくなっていたためでした。
上空を飛ぶ米軍機や沖合を航行する船からの測定した値は、東京電力が報告したものとは劇的に異なっていました。

                     

同じことが、福島第一原発周辺の大気中の線量測定と土壌サンプルの検査にも当てはまります。

                   

チェルノブイリや福島などでの原子力災害の実態を解き明かす際の鍵になるのが、「ソースターム」と呼ばれるものです。
これは崩壊した原子炉の炉心にはどんな核物質がどれだけの量存在し、事故によって何がどれだけ環境中に放出されたかをモデリングして得られるものです。

こうして造られたモデルは、風によってどの程度拡散したのかやその他の要因について詳しく検証する事により見直しを行い、精度を高めていきますが、それでも結局はモデルにすぎません。

                  

理想的には、原子炉の炉心自体を調べるのが一番です。

                  

                    

残念ながら、10年が過ぎた現在も福島第一原発のいずれの原子炉炉心に近づくことすらできず、どこに何があるのかさえ正確にわかりません。

                  

朝日新聞は2020年12月、日本の原子力規制委員会(NRA)が福島第一原発の事故収束・廃炉作業の進行状況について、「非常に深刻な」状況にあると判断した記事を掲載しました。。
福島第一原発の実情はこれまで考えられていたよりもはるかに悪いものである事が確認されたのです。

                         

東京電力は原子炉を覆っている巨大なシールドプラグ(原子炉格納容器の上部に設置されるコンクリート製の遮蔽構造)が1時間に10シーベルトの放射線を放出していることを確認しました。
これは人間が浴びたらたちまち死に至る放射線量です(ただし炉心内での検証作業はロボットにより行われています。しかしあまりに放射線量が高く、ロボットも度々故障に見舞われています)。

                   

福島はすでに過去に推定されたよりも高い線量のしかも予想を上回る量の放射能汚染物質を抱えこんでいるため、
「今回の問題は廃炉作業の全プロセスに大きな影響を与えることになるだろう。」
原子力規制委員会の更田委員長はこう述べました。

                     

人間に障害を起こしたり殺したりする放射線の実効線量は、放射線エネルギーの致死効果を初めて検証したスウェーデンの物理学者、ロルフ・シーベルトにちなんで名づけられた単位・シーベルトで表わされます。
0.75シーベルトの放射線を被ばくすると、人間は吐き気と免疫力の低下を引き起こします。
(シーベルトは人体に加えられた相対的な生物学的損傷を測定するために使用される単位です。一方、ベクレルとキュリーは放射性物質が放出する放射線量を表す単位です。)
一度に10シーベルトの被ばくをしてしまうと、人間は死亡します。

                    

                    

0.75から10シーベルトの間の放射線を被ばくした場合、その人が30日以内に死ぬ確率・生存確率は5分5分です。

                     

原子力産業に従事する労働者のガイドラインは、最大年間線量を0.05シーベルトまたは50ミリシーベルトを限度としています。(これは、一般の人々の許容被ばく線量の年間1ミリシーベルトと比較すると高い数値になっています。業界に詳しい物理学者は、原子力業界の労働者はリスクを引き受ける代わり暗黙のうちにいわば危険手当を支払われていると考えられていると説明しました。 )
これはCTスキャンを5回受けた際の被ばく線量に相当します。
出典はいずれもハーバード・ヘルスパブリッシングです。

                     

《3》に続く
https://www.fairewinds.org/demystify/fukushimas-first-decade-in-a-100-year-long-catastrophe?ss_source=sscampaigns&ss_campaign_id=604974fba3438c548995b0b4&ss_email_id=60497ef445867a5842acaa5a&ss_campaign_name=Fukushima%E2%80%99s+First+Decade+in+a+100-year+Long+Catastrophe&ss_campaign_sent_date=2021-03-11T02%3A22%3A59Z
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『廃炉完了まで30年〜40年』という『見通し』が原子力発電に知識を持たない『一般大衆』をなんとなく納得させるためのフィクションでしかないことに、改めて気づかされます。

不得要領(ふとくようりょう)という言葉はまさにこういう時に使うのでしょう。

考えてみれば福島第一原発の崩壊以降、日本政府と東京電力の話は不得要領ばかりです。

人間が近づくことができない極めて危険な溶け落ちた核燃料、それが「10年が過ぎた現在も福島第一原発のいずれの原子炉炉心に近づくことすらできず、どこに何があるのかさえ正確にわからない」状況なのに、作業完了の目安だけが示されています。

                    

東京電力がメルトダウンした核燃料について『2021年』、すなわち今年中に取り出しを開始すると公表していたことを私たちは忘れないようにしましょう。

事故前も隠ぺいを繰り返し、事故後も隠ぺいを続ける!それが日本の原発 – 100年災害!福島第一原発の崩壊《1》

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所要時間 約 17分

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福島第一原発・福島第二原発の10基の原子炉が全てメルトダウンしていれば、北半球全体が『帰宅困難地域』になっていた
莫大な費用を要しながら死にゆく宿命を背負いこんだ原子力産業に固執し続ける日本
1950年代に計算尺を使って設計された古くて時代遅れの20世紀の方法論、それが原子力発電

                    

                      

アーニー・ガンダーセン / フェアウィンズ 2021年3月10日

                 

福島第一原子力発電所事故の発生からちょうど10年が経過した今日という日も、私たちの心と思いは、日本全体で進行している放射能汚染の影響を受けている人々、そして2011年3月11日を境に半永久的避難を強いられることになってしまった人々と共にあり続けています。

                    

ご紹介したことがありますが、作家でジャーナリストのトーマス・バス氏がかつて彼の著作のために福島第一原発の事故をどう分析しているのか、フェアウィンズにインタビューしたことがありました。
私たちフェアウィンズのメンバーは彼の研究方向が的を得たものであり、原子力科学者会報(BAS)に掲載された彼の最新記事においてもその傾向が変わっていないことを確認しました。

                     

福島第一原子力発電所の3基の原子炉のメルトダウンしてから10年が経過したことに関するトーマスのBASの記事を読んだとき、フェアウィンズが2011年の段階で提唱していた先駆的な分析と解説が、ついに福島第一原発事故の一連のストーリーの核心の部分として公認のものになったことに感銘を受けました。

                      

                    

フェアウィンズを核としたコミュニティの長年のメンバーは、福島第一原発の廃炉に必要な本当の金額、ホットパーティクル(高温微粒子)による汚染、デトネーション(超音速衝撃波爆発)、女性と子供たちを優先して避難させるべき必要性、その他様々な事実についてフェアウィンズが先駆的な分析を行ってきたことを覚えておられるに違いありません。

                   

私たち、そして世界にとって幸いなことに、福島第一原子力発電所におけるメルトダウンはそれ以上の破壊は行いませんでした。
そして現実になれば地球の北半球全体に人間が住めなくなる福島第一原発・福島第二原発の10基の原子炉が全てメルトダウンするような事態も起きませんでした。

                    

私たちが使命感に燃えて提示した先駆的な見解と考察については、数百本という単位のビデオ、著作『福島第一原発 / 真相と展望』、そして数百回に及んだメディア・インタビュー(CNN、ワシントンポスト、ニューヨークタイムズ、その他多くの新聞各紙、テレビ、ラジオ、インターネットメディア)に記録されています。

                     

その結果としてフェアウィンズが注視すべきであると指摘した数々の問題、先駆的な言語、および原子力工学に関する評価について、2011年3月から今日に至るまで世界が福島第一原発事故をどうとらえるか評価する際の基準の一つとなっていることを誇りに思います。

                 

                   

そして改めてここに妻のマギー・ガンダーセンと彼女が設立した組織、コンセプト、タスクモデルに敬意を表します。
そのおかげで私たちは、福島第一原発の事故が進行している間、常にリアルタイムで的確な対応をすることが可能になりました。
さらに何より、フェアウィンズに寄付をしてくださっている皆さん、私たちの仕事を支援し続けている財団、そして私たちと協力しながら大切な研究を続けてくれている科学者の同僚のみなさんに特別な感謝を捧げます。

                    

私たち単独ではここまでの仕事をすることはできませんでしたし、成果もあげられなかったでしょう!
世界を見渡した時、原子力発電、核廃棄物の貯蔵、廃坑になったウラン鉱山からの放射能の漏出、そして実験用原子炉の著しい危険性を軽視する傾向を変えるため、私たち全員が協力し続ける必要があります。

                     

莫大な費用を要しながら死にゆく宿命を背負いこんだ原子力産業に固執し続けることは、世界に進むべき道を誤らせることになります。
私たちが進むべき方向には地球環境と地球上の生命にとって安全で、完全に持続可能で、数十億ドルの費用を節約することができ、新しい雇用を生み出し健全な経済を形成できる発電技術があるべきです。

                   

1950年代に計算尺を使って設計された、古くて時代遅れの20世紀の方法論から脱出すべき時が来ています。
早く21世紀にふさわしい場面に移りましょう。
私たちはすでに20年以上の時間を失ってしまっているのです!

                   

では2020年5月に発行された原子力科学者会報(BAS)に掲載された、トーマス・バス氏の手による『メイド・イン・ジャパン』という題名の記事をお読みください。
トーマス・バス氏の記事はみずみずしい筆致の挿絵、そして福島の犠牲者が毎日直面しなければならない現実を鮮やかに描き出し、読み手を魅了していきます。

                   

                      

福島は今、森に覆われた丘陵地帯と深い緑色の水を湛えた川が流れる谷間に潜むすべての死に対して奇妙な静けさを保っています。

                  

これからの2か月間、フェアウィンズ・エナジー・エデュケーションは日本の福島第一原子力発電所、米国ペンシルベニア州スリーマイル島原子力発電所、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所、それぞれにおいて発生したメルトダウンとそれによって引き起こされた人災のフォローアップを継続していきます。

                  

さらに原子力発電は世界の緊急課題である気候変動の解決策のひとつであるという考え方が明確な誤りであるということを指摘し、議論していきます。

                   

私たち人類は、何百万人もの雇用を生み出し、環境を汚染したり極めて毒性の高い核廃棄物で地域社会を汚染したりしない、再生可能で持続可能なエネルギーに焦点を当てるべきです。

                     

放射線に国境など関係ないということを、どうか忘れずにいてください!
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福島の現在(いま):「生きているうちに自分の過ちに気づいて良かった…」
トーマス・A・バス/ 原子力科学者会報 2021年3月10日

                   

                      

福島の原発事故の後、周辺から避難した人々は一時的な仮住まいをするのだと思っていた仮設住宅に収容されました。
仮設住宅は福島県の内陸部の市町村の郊外にある駐車場や畑に建てられました。

                   

薄っぺらな鉄板を使って造られた仮設住宅は、日本の伝統的な畳数を基準に設計されました。
福島県の場合、畳1枚の大きさは通常は182cm×91cmです。
しかし結局小林武則さんと朋子さん夫妻は8畳の部屋しかない仮設住宅でその後5年間暮らす羽目になりました。
原発事故から避難した人々は一様に広さ12平方メートル程の居住空間で暮らすことになったのです。

                   

2016年、小林夫妻は福島第一原発の周囲20 km圏の立入禁止区域の端にある小高地区の、朋子さんが3代目の女将を務める旅館を営む自宅に戻ることを許されました。
小林さん夫婦が営む小さな旅館は共同浴場、そして家族連れその他の宿泊客が一緒に食事を摂る長いテーブルを備えた食堂のある伝統的旅館でした。

                    

朋子さんはボランティアを募って旅館を掃除したり、道端に花を植えたり、ギフトショップをオープンさせたり、この地区を特徴づける『サムライ馬』の救助に努めました。
しかし現在、この地域の有名な「侍馬」の何頭かの馬体には放射線を浴びたことを示す白いマークがつけられています。

                   

                  

昨年の9月、小林さん夫妻が経営する旅館は私の研究助手を務める阿部勇樹さんなどの宿泊客で賑わいを取り戻しました。
(現在は新型コロナウイルスCOVID-19の感染拡大のため、日本国籍を持っていない人は、たとえ長期ビザ保有者であっても日本への入国は許可されていません。)

                    

彼らは、アブラナ科アブラナ属の菜の花の秋の植え付けを記念する毎年恒例の祭りに来ていました。
セシウムに汚染されている土壌で菜の花を栽培することには2重のメリットがあります。
一つは土壌中のセシウムを吸収して土地を浄化してくれること。
さらにセシウムは油には溶けない性質を持つため、セシウムに汚染されている土壌で育った菜の花から採取された菜種油はセシウムには汚染されていないのです。

                    

この地域の伝統的な稲作農業を菜の花栽培に置き換えるというアイデアは、放射能で汚染された地域での生活方法を学ぶため、小林さんとその友人たちがチェルノブイリを訪れた際に手に入れたものです。

                      

小林さんたちは他にもチェルノブイリから重要な教訓を持ち帰りました。
妻の朋子さんが経営する旅館の周囲で忙しく飛び回っていた間、武則さんの方は南相馬市の郊外に放射線の検査施設を開設しました。
研究施設はテレビの特別番組を通して、資金、設備、そして人員の寄付が集まって出来上がった小林さんの検査施設は、土壌サンプルや栽培されたキノコ、さらには食料品店の店頭にある汚染された可能性のある食品などを持参してくる人々を誰でも受け入れました。

                   

                      

「チェルノブイリから得た教訓、それはすべてを測定し、測定作業を継続する必要があるということです。」
小林さんがこう語りました。

                  

チェルノブイリは福島第一原発の25年前に事故を起こしました。
しかし原発事故は数年で片がつく問題ではなく、チェルノブイリの周辺で暮らす人々にとって長期的な影響を抱えてどう生きていくかというのは、今まさに直面している問題なのです。
日本政府はすべてが正常に戻ったという公式見解を繰り返し表明し、2020年に開催予定だったオリンピックを「復興オリンピック」として宣伝してきました。

                    

しかし福島での生活は正常とはほど遠い状況にあります。

                      

新型コロナウイルスの感染拡大により開催は1年延期されましたが、現在もその名称は「オリンピック2020」ですが、オリンピックの聖火は、2021年3月25日に日本サッカー協会の所属選手の訓練施設であるJ-ヴィレッジで点灯される予定です。

                   

J-ヴィレッジは福島第一原発の南方約20kmの場所に位置しますが、2021年3月は別に大切な意味があります。
福島第一原子力発電所(F1)で6基の原子炉のうち3基がメルトダウンしてからちょうど10年の節目を迎えるのです。

                      

2011年3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が時速800キロ(ジェット機と同じ速度)で日本の東北地方の太平洋岸に向け、最大で高さ40メートルの津波を殺到させました。
津波は18,000人以上の命を奪い、原子炉でメルトダウンが発生、爆発し始めたのです。

                             

津波到達以前、福島第一原発はすでに地震によって被害を受け、高レベルの放射線を放出していました。
そこに襲い掛かった津波はバックアップ発電機と冷却システムを破壊しました。
原子炉の爆発が始まった事を受け、風向きと雨量によって破壊された原子炉から放出されたセシウム、プルトニウム、ストロンチウム、ヨウ素131、およびその他の放射性物質の堆積量に応じて、日本政府当局は福島第一原発を中心とする最大半径100キロメートル以内を指定避難区域としました。
福島県内の指定避難区域からは合計16万人が避難することになりました。

                    

                      

それから10年後、避難した人々のほとんどは小林さん夫妻とは異なり、いまだに避難生活を続けており、かつての自宅は都市の廃墟に巣を作る野生のハクビシン、サル、その他の動物の住み処となり、捨てられた町や村独特の不気味な風景を作り出しています。

                      

※英文からの翻訳のため、個人のお名前、固有名詞等の漢字が間違っている場合があります。

《2》に続く
https://www.fairewinds.org/demystify/fukushimas-first-decade-in-a-100-year-long-catastrophe?ss_source=sscampaigns&ss_campaign_id=604974fba3438c548995b0b4&ss_email_id=60497ef445867a5842acaa5a&ss_campaign_name=Fukushima%E2%80%99s+First+Decade+in+a+100-year+Long+Catastrophe&ss_campaign_sent_date=2021-03-11T02%3A22%3A59Z
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この稿はもっと早くご紹介するつもりでしたが、みなさんもご存知の松山英樹選手のマスターズ優勝で翻訳の手が止まったりしたため、このタイミングでのご紹介になりました。

加えてフェアウィンズの記事は速訳では文章にしたくないという気持ちもあります。

そのため要所要所を検証しながら翻訳作業を行い、自分として満足できるクオリティに仕上げたいと常々考えています。

みなさんにとって読む価値のある翻訳であることを願うのみです。

崩壊から10年 :『復興』の現実は無い《後編》

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所要時間 約 13分

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日本を福島第一原発の崩壊以前の状態に戻すことはできない
福島第一原発の崩壊という事実を記憶から消し去り、すべてを無かった事にしてしまいたい原子力行政と産業界
福島第一原発の放射能によって汚染された被災地は、オリンピック開催にとって邪魔な存在でしかない

約1,000万個の大きな黒いバッグにいれられ、福島県内各所に『一時』保管されている放射性廃棄物

                    

                      

アーニー・ガンダーセン / フェアウィンズ 2021年3月30日

                   

2. 関東以北の放射能汚染は解決していない

                      

核分裂の連鎖反応が停止した時点で、それまでに分裂したウラン原子の危険な残骸は婉曲的に『核分裂生成物』と呼ばれ、何世紀にもわたって放射能を出し続けます。
2011年3月の福島第一原子力発電所1号機、2号機、3号機の3回に及ぶメルトダウンと爆発により、これらの核分裂生成物が環境中に大量に放出されました。

                     

当時吹いていた風がこの放射性物質の80%を太平洋に運び出し、残りの20%が関東以北の各地に降下し、約16万人の日本人が先祖伝来の土地から避難せざるを得なくなりました。

                   

人の手が入らなかった場所では、汚染物質の半数以上を占めていた崩壊年数の短い放射性物質は、これまでの9年間ですでに放射性崩壊を終え、さらに多くの放射性物質が台風や雨風によって太平洋に流れ込みました。
日本政府により除染作業が行われた場所では汚染物質がさらに減少しました。
初戦の結果1000万トンを超える放射性物質が収集され、数百カ所に及ぶ一時保管場所で約1,000万個の大きな黒いバッグに保管されています。

                    

                     

しかし福島県の70%以上は山岳地帯のため、除染されていません。
福島県の70%以上は今後も除染されることはないのです。

                     

日本政府による放射能汚染を取り除く除染の取り組みは、メルトダウンによって住民が避難せざるを得なくなった都市部や住宅地にのみ焦点を当てていました。
我々は人間の居住地域と非居住地域、そして福島県内のオリンピック聖火リレーの予定通過道路を調査しました。

                   

聖火リレーの予定路線の10メートル以内は除染作業が行われたために放射能汚染が比較的少ないことがわかりましたが、同じ計測方法を用いて調査した路線から30メートル離れた森の中の汚染レベルは5倍近く高いことが判明しました。

                   

福島県内全域を完全に除染する事になればその労力も費用も天文学的な高さになるため、日本政府は人間の居住地域のみの除染に力を注いできました。

                

最初の限られた範囲での除染の後、避難によって放棄された市町村の再居住を促すため、放射線被ばくの『安全基準』を年間1ミリシーベルトから20倍の20ミリシーベルトに引き上げました。
20倍の量の放射線を浴びるようになれば、放射線が誘発するがんの発症確率は20倍に上ります。
制限が一気に引き上げられた事により危険性が高まってしまった事を認識したかなりの割合の住民が、もう戻らないという選択をしました。

                     

3. 再び放射能に汚染された『除染完了』地区

                       

                   

南相馬市は福島第一原子力発電所崩壊の危機が頂点に達した際、放射能に汚染され、全域から住民が避難しました。
数年後、市内の除染作業が完了し、かつての住民の再居住が許可されました。
南相馬市役所も除染が行われ、2011年のメルトダウンを受け、新たにエポキシ樹脂の屋根が設備されました。

                          

フェアウィンズのチームは2016年と2017年、すでに『除染が完了』した4階建ての屋根からサンプルを収集し、どこにでもあるはずの放射性セシウムが比較的少ない状態で高レベルのアルファ線の存在を確認しました。
これは除染が行われていない地域からの風などによって汚染物質が飛来し、居住可能であると宣言された地域を再日汚染していると解釈するしかありません。

                     

4. 汚染が残る福島県のオリンピック会場

                      

東京郊外は、福島第一原発の原子炉から約200km離れた場所にあります。
東京都内のオリンピック会場における放射線量は、世界中の他の都市と比較しても正常範囲内であることがわかりました。
しかしオリンピック会場以外の場所は、会場と比べ7倍の放射能汚染があることが確認されました。

                    

                  

今回のオリンピックは福島の復興を世界にアピールする事に利用される事になっていますが、福島県のオリンピック会場は東京の会場よりも汚染されていました。
これら福島県内のオリンピック会場は、『ホットパーティクル(放射能汚染濃度の高い微細な粒子)』に関して平均で東京の会場より2~3倍汚染されていることがわかりました。

                  

さらに福島県の国立サッカー総合施設であるJヴィレッジでは、少量ではありますが統計的に有意なレベルのプルトニウムを検出しました。

                     

日本政府はこれら福島県内各所について徹底的に除染したと主張していますが、福島のオリンピック会場が汚染された状態にあることは驚くべきことではありません。
前述のように県内全域が除染される訳ではないため、除染が行われていない場所から風によって放射性物質が運ばれてくる状態が今後何世紀にもわたって続く事になるでしょう。

                 

▽ 靴ひもの科学

                    

福島第一原子力発電所の崩壊が続いていた当時、米国の原子力発電推進擁派はワシントン州議会で次のように証言していました。
日本の原子力発電所の全てが問題なわけではなく、原子力発電所で働くことは「トイザらスで働くより安全である」と…
当然のことながら、この当時と同じ原発推進派の人間たちは、福島の3基の原子炉のメルトダウンの直接の影響により癌によって死亡する人間が増えることはないと主張しています。

                  

                

しかし私たちが調査によって問題の存在を明らかにしたホットパーティクルによる汚染を除いても、国連は福島第一原子力発電所のメルトダウンは数千人から数万人の死者を生む可能性があると結論を出しました。

                         

さらに私たちを含め様々な分野の研究者が、実際には福島第一原発のメルトダウンによる癌の増加は、ホットパーティクル(高放射性微粒子)が環境中に散らばったことにより、10万人以上の死者の増加をもたらす可能性があると信じています。

                    

福島第一原子力発電所の3基の原子炉が立て続けにメルトダウンしてから10年が経ち、日本の放射能汚染の状況は当時と比べ改善したことは間違いありません。
しかし私たちの調査研究結果は、日本はまだ『復興』していない、そしてもちろん福島第一原発の崩壊以前の日本に戻ることはできないことを示唆しています。

                     

原子力発電の利害関係者による広報キャンペーンも、今後も発生し続ける福島第一原発周辺の人々が生活する空間の再汚染を隠蔽すことはできません。

                       

福島第一原発が崩壊した当時、福島第一原発近くのコミュニティの区長を務めていた長谷川氏はこう語っています。
「原発は私たちからすべてを奪いました……そして今、私たちはオリンピックにとって邪魔な存在です。結局、福島第一原発の放射能によって汚染された地域は、オリンピック開催にとって邪魔な存在でしかないのです。」
「彼らは福島第一原発の崩壊という事実を記憶から消し去る事によって、その事実が無かった事にしてしまいたいのです。」

                     

「こぼしたものをきれいにする最善の方法は、こぼれるようなものは置かないようにすることだ」というあまり使われなくなった古い格言があります。
規模ははるかに巨大ですが、これは福島第一原発崩壊の被災地全域の除染が経済的に実現不可能な日本にそのまま当てはまります。

                 

日本が放射能に汚染されたままである、その仮説が正しいかどうかを検証するため、あるテストを行う事を提案します。
それはオリンピック選手と福島第一原発周辺地区を訪れた人の靴ひもの放射線量を測定する事です。
靴ひもという織物は道路にあるほこりを閉じ込める性質があり、ある意味便利です。
このテストは東京と比較し、福島第一原発周辺の人口集中地域の汚染の程度を判断するのに役立つ可能性があります。

                

《完》
https://www.fairewinds.org/demystify/fairewinds-nuclear-spring-series-japan-hasnt-recovered-10-years-after-fukushima-meltdowns?ss_source=sscampaigns&ss_campaign_id=60635f5d4fab780f88c38da6&ss_email_id=6063713ec1bf7f39008bac2e&ss_campaign_name=Fairewinds+Introduces+New+%23NuclearSpringSeries&ss_campaign_sent_date=2021-03-30T18%3A43%3A37Z

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前回、相対性理論の公式 E = mc2 に関する個人的な話をご紹介しましたが、原子力発電もこの公式に基づくものであることは皆さんもご存知の通りです。

しかしアインシュタインが E = mc2 という仕組みを解き明かしたものの、人類はそれを完全に制御できるだけの公式を持っていません。

なのに世界中で原子力発電所を建設している人間の行為が、少し角度を変えて見てみれば、取り返しのつかないほど危険な行為である事に気づかされます。

福島第一原子力発電所の崩壊はそれを現実として私たちに突きつけました。

原子力発電は止めなければならない、それが良心の科学の答えであるはずです。

崩壊から10年 :『復興』の現実は無い / 福島第一原発《前編》

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所要時間 約 16分

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直接放射能汚染の被害を受けた場所は、何事もない穏やかな春を取り戻すため大変な苦労をする事になる

日本の放射線マップは、放射線被ばくの重要な要因を無視して作られている
被ばくすると健康に深刻な影響が及ぶアルファ線の存在の確認と線量を測定する必要がある

                    

2021年3月7日、福島県双葉町の集合住宅の前に置き並べられた放射性廃棄物の入った黒い袋

                 

マギー・ガンダーセン / フェアウィンズ 2021年3月30日

                     

日に日に空気が暖かくなり、いたるところから鳥たちのさえずりが聞こえ、太陽が明るさを増してきました。
皆さんと同様、私も春の訪れを感じています!
心も体も自分たちの庭でゆったりと時間を過ごす事を楽しみにしています。
サウスカロライナ州にある自宅で私は芝の手入れを始めました。
手入れされたばかりの芝生やクローバーから醸し出される空気は新鮮な香りに満ちています。

                        

しかし私を含めたフェアウィンズのメンバーにとって残念な事に、『原子力の春』は私たちの生活を永久に変えてしまいました。
私たちにとって『原子力の春』は、発生から何年も過ぎた過去の悲惨な原子力の悪夢の記憶を呼び覚まし、春が来る度、原子力 = 核エネルギーが私たちが住む地球の運命を永遠に変えてしまった事を改めて認識する季節になりました。

                       

                    

過去42年間、5回に渡り原子炉がメルトダウンを引き起こしましたが、発生はすべて春だったことはご存知ですか?

                      

3月は、それは2011年3月11日の福島第一原子力発電所での3基の原子炉のメルトダウンが発生した月です。
同じ3月、1979年3月28日はスリーマイル島でメルトダウンが発生しました。
そして史上最も悪名高いチェルノブイリ原子力発電所でのメルトダウン事故が発生したのは4月28日(1986年)の事でした。

                        

私たちの多くが福島、スリーマイル、チェルノブイリで原子炉のメルトダウンという悲劇がいつ始まったかを知っています。
しかしいずれの大惨事もどれも終わっていないので、いつ終わったかは誰にもわかりません。

                     

いずれのメルトダウンについても、その影響は今の今まで発生場所の周辺はもちろん世界的にも残っています。
大量の高レベル放射性物質が放出されたため、これらのメルトダウンの影響はわたしたちの大切な地球全体に何千年という単位で長く残る事になり、とりわけ直接放射能汚染の被害を受けた場所では、何事もない穏やかな春を取り戻すため大変な苦労をする事になります。

                   

                 

フェアウィンズのメンバーにとっては、春は報道機関の問い合わせに応え、原子力業界や各国政府が人為的に核反応を引き起こすときにもたらされる危険について、知っている限りの真実を話すという使命を果たすべき季節です。

                   

しかし1979年7月16日に米国ニューメキシコ州のナバホ・ネイションで発生したチャーチロック原発事故に言及しない事には、波のタイミングで5度にわたって発生したメルトダウンの忌むべき記録も不完全なものでしかないことにご注意ください。
チャーチロック原発事故が起きたのは1979年7月、スリーマイル島事故のわずか3ヶ月前の事です。

                         

しかし、どんな犠牲を払っても原子力の使用を続けるという典型的な近視眼的なやり方で、米国政府はまるで深刻なことなど何も起きなかったかのように行動しました。
各国の政府も原子力発電所によって生成された核物質をそのまま核兵器製造に転用する手法に磨きをかける中、どの国の政府も認めようとしない隠れた原子力災害とほとんど認識されていない大惨事が存在するのです。

                   

                        

この春、ご紹介した6度にわたる原子力災害を念頭に、フェアウィンズではあなたを含めた読者、サポーター、そして私たち自身が記憶を正確なものにするため、現在であると過去のものであるとを問わず、資料へのリンクを多数投稿していきます。

                     

気候変動の危機の解決策であるかのように喧伝される高度な新型原子炉については、それらは新しいものでも高度なものでもないことということを忘れないようにしてください!。
世界中に散らばる400以上の原子力発電所がすべて閉鎖された時はじめて、心穏やかに庭を手入れし、屋外の美しい景色を楽しみ、鳥のさえずりに耳を傾ける事ができるようになるのです。
私たち全員がこうして心から春を喜んで歓迎することができるようになるのです。

                   

今回は2011年3月11日に発生した日本の福島第一原子力発電所の3基の原子炉のメルトダウンの10周年に合わせ、Truthoutが公開した『福島メルトダウン・10年後の今も未解決』の記事をシリーズ掲載します。

                        

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【 発生から10年・未解決のままの福島第一原発・原子炉メルトダウンによる大崩壊 】

                     

                       

アーニー・ガンダーセン 2021年3月31日

                          

宮城県沖を震源とする巨大地震とそれによって引き起こされた巨大な津波が東北太平洋岸を文字通り壊滅させ、福島第一原子力発電所において3基の原子炉で炉心溶融を引き起こしました。
2020年の東京オリンピックが新型コロナウイルスの感染拡大を受けて1年間延期されるまで、日本政府はこのイベントを『復興オリンピック』と表現していました。
これは2011年に壊滅的な打撃を受けた東日本大震災の被災地の復興が実現した事を、オリンピックを利用して世界的に宣伝することを狙いとしたものでした。

                      

しかし、日本は本当に「復興」したのでしょうか?

                     

最近、フェアウィンズ共同研究者であるウースター工科大学のマルコ・カルトフェン博士、フェアウィンズ・エナジー・エデュケーションのマギー・ガンダーセンと私アーニー・ガンダーセンは、日本の科学者と一般市民のみなさんのを協力を得て主に東北地方で収集した数百点の放射性物質サンプルを分析した、2番目となる査読付きジャーナル記事を公表しました。
ほぼ10年間に5回のサンプリングを行いましたが、延べにすると合計70日間の地上でのサンプリングを行いました。

                      

以下は私たちが確認検証した4つの項目です。

                    

1. 既存の日本の放射線マップは、放射線被ばくの重要な要因を無視している

                       

                       

北日本の放射線マップのほとんどは、市民や科学者が携帯用機器を使って測定した外部放射線量に基づいています。
外部放射線量は、その測定結果を大規模なデータベースにダウンロードされてGPS座標にリンクしていきます。
直接的な外部放射線に関するこうした情報は確かに重要ですが、日本の場合は被災した市町村のどこを再び居住可能地域にするのかその政策を決定する人間が最終的なデータ作成を行っています。

                      

こうしたやり方ではどのような政策を採用すべきかについて限られた選択肢しか提供できず、しかも2つの理由から被曝をしている可能性のある人の人数について最小の値しか提示しないことがわかりました。

                   

第1に外部線量計の測定結果は人体とは無関係に単に地面の上の放射線量を測ったものであり、「ホットパーティクル」として人体に吸着あるいは吸入された場合の放射線量などは無視しています。

                   

第2に、東北地方で指標として主に使われている放射線量は、外部測定された放射性同位元素のひとつであるセシウム137(Cs-137)から放出された放射線、その1種類だけに基づくものです。

                     

                  

これに対し、私たち(マルコ・カルトフェン博士、マギー・ガンダーセン、アーニー・ガンダーセン共著)の論文は、携帯型ガイガーカウンターでは検出できない、あるいは外部計測では検出不可能な多種多様な放射性物質に関する検証に基づき作成されました。。
そして被災地の人びとが吸い込む、あるいは飲み込んだりして体内に入り込んだ放射性ダストの中に存在し得る、あらゆる種類の放射性物質についても検証しました。

                    

私たちの論文で指摘してる事ですが、問題の放射性ダスト粒子の中には放射能濃度の差は100万倍にまで広がっています。
そして放射性ダスト粒子の中に5パーセントの割合で含まれている『ホットパーティクル』は平均値の10,000倍の放射能を持っています。

                 

私たちが調査した中で最も放射性が高い放射性ダスト粒子は、メルトダウンした福島第一原発から約480km離れた場所で採集されたものです。

                 

さらに私たちの調査では福島第一原発が放出した放射線のアルファ線、ベータ線、ガンマ線の各汚染物質は、それぞれが異なる拡散パターンを持っていた事が確認されました。

                     

                 

これはすなわち、セシウム137のようにベータ線だけを放出する放射性物質、あるいはガイガーカウンターを使った場合のように総ガンマ値のみを測定するだけでは、すべての放射性物質がどのような拡散固着したのか結果を完全にマッピングするのには十分ではないということを証明するものです。

                     

市民の健康と安全を確保するためには、アルファ線の線量も測定する必要があります。
アルファ線に被ばくすると健康に深刻な影響が及ぶ可能性があり、このことは特に重要です。

                   

《後編》に続く
https://www.fairewinds.org/demystify/fairewinds-nuclear-spring-series-japan-hasnt-recovered-10-years-after-fukushima-meltdowns?ss_source=sscampaigns&ss_campaign_id=60635f5d4fab780f88c38da6&ss_email_id=6063713ec1bf7f39008bac2e&ss_campaign_name=Fairewinds+Introduces+New+%23NuclearSpringSeries&ss_campaign_sent_date=2021-03-30T18%3A43%3A37Z

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実を申し上げると私はフェアウィンズの原稿を翻訳するのを楽しみにしています。

海外メディアの報道記事を翻訳している時とは少し異なる愉悦感のようなものがあります。

フェアウィンズの記事は長文のものが多いのですが、一向に苦になりません。

『良心の科学』に接しているという実感があるのかもしれません。

                        

私は父親が数学者の端くれ、息子は工学博士で一見理系の家系ですが、私自身は高校2年の物理でつまづいて以降、そっちの方はさっぱりの頭です。そのかわり世界史人物辞典を読みだすと面白くてやめられなくなるという文系の典型のような人間です。

アインシュタインの相対性理論の公式 E = mc2 について、私は速度の二乗という概念がどうしても理解できず、当時東北大工学部の博士課程にいた息子に「この公式について説明できるのか?」と尋ねた事があります。

息子は「できるよ。」と即答しました。

そして、「説明しても良いけど、父、説明されて理解できるの?」と逆に尋ねられました。

私は少し考えて、「説明してくれなくていい。」と答えました。

あの時程、自分の理科的能力の限界を思い知った時はありませんでした。                       

                        

そんな私ですが、アーニー・ガンダーセン氏の『科学』はすいすい頭に入ってきます。

平易でわかりやすいという事は、ごまかしが無い、という事の証明では無いでしょうか?

だからこそ福島第一原子力発電所の崩壊が続いていたあの時、ニューヨークタイムズやCNNやAPなどの米国メディアはもちろん、英国メディアもガンダーセン氏の見解を真っ先に引用していたのだと思います。

荒れ果てた故郷、目に見えない恐怖:2011年東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊《後編》

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所要時間 約 9分

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崩壊によってむき出しになった原子炉が、致命的な量のヨウ素-131、セシウム-134、セシウム-137を大気中に噴きあげた

避難した先で『放射線の運び屋』呼ばわりされ、嘲られた原発難民

                      

                   

スティーヴ・チャオ / アルジャジーラ 2021年3月10日

                

破壊はそこで終わりませんでした。
地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきたのです。

                   

東北太平洋岸で徹底的な破壊を行った津波は、福島第一原子力発電所において原子炉を損傷させ、1986年のチェルノブイリ原発事故に次ぐ前例のない3基の原子炉のメルトダウンという世界最悪の原子力災害の1つを発生させたのです。

                   

▽ 放射能汚染と混乱

                     

福島第一原子力発電所の崩壊により、急いで避難する人びとの車列

                     

放射能による汚染によって大きな混乱とパニックが引き起こされた事を、私は記憶しています。

                   

崩壊によってむき出しになった原子炉から大気中に噴きあげられたのは、致命的な量のヨウ素-131、セシウム-134、そしてセシウム-137でした。

                     

日本政府は当初、住民に屋内に避難するように告げましたが、福島第一原発の周囲20キロメートルに立入禁止区域を設置することを発表しました。
その範囲は30キロメートル、さらに80キロメートルと瞬く間に拡大していきました。

                   

そして約160,000人の住民に対し、通知からわずか数時間のうちに荷造りを済ませて自宅を放棄して避難するよう勧告が行われたのです。
その際、再び自宅に戻る事ができるかどうかについては何も知らされませんでした。

                    

                    

大規模な避難が行なわれてから数週間、避難先の市町村でまるで厄介者扱いを受けた経験がある、アルジャジーラの取材に避難民となった家族の多くがそう語りました。

                   

避難民の複数の家族が子供たちが転校先の学校でいじめに遭い、『放射線の運び屋』呼ばわりされ嘲られた経験を持っていました。

                  

そして10年が過ぎた今、人びとの中の恐怖は目に見えにくくなりました。
差別についても同様です。

                          

日本政府と関係当局は福島県内の放射能汚染地域の除染に何千億円もの費用をつぎ込んできました。
人が住む事ができない帰還困難区域は約307平方キロメートルに縮小しました。
10万人以上の住民が帰還を果たしました。

                       

「福島第一原子力発電所の崩壊が始まった当時、これ程の悲劇、その規模の大きさを忘れることなど考えられませんでした。」
とアルジャジーラの朝倉ディレクターがこう語りました。
彼女は2011年以降、取材スタッフを率いて被災地を何十回も訪れてきました。
「その記憶は一面に広がるとても広大なものであり、今なお私たちの心のから消える事はありません。しかし今では、多くの日本人にとってその記憶は遠いものになっています。今私たちが一番懸念しているのは新型コロナウイルスの方です。」

                       

                   

東京電力は崩壊した福島第一原発の事故収束・廃炉作業と放射性核廃棄物の安全な処分を行わなければなりませんが、その現状に関する報道はほとんどが新聞の中面の目立たない場所に小さく掲載されているだけです。

                   

しかし、福島の問題ははまだ何も終わっていません。

                   

3基の原子炉がメルトダウンしたことによって引き起こされた放射能汚染の脅威は残されたままです。

      

▽ 犠牲者を追悼する

                    

昨年、東京電力と日本政府は放射能汚染水125万トン以上(オリンピックサイズのプール約500個分の水量に相当)を太平洋に放出したいと発表しました。
理由は福島第一原発の敷地内にこれ以上保管場所を確保できなくなったことが理由です。

                     

これに対し様々な環境保護団体に加え、国連もこの決定を批判しました。

                      

                   

福島から放出された放射能はすでに広範囲にわたる漁業資源の汚染を引き起こしており、カリフォルニア沖で漁獲されたマグロからも検出されています。

                      

日本政府の発表を聞いて、私は田所忠義さんのことを思い浮かべました。
福島第一原発の原子炉がメルトダウンしてから数ヶ月後、私は彼が操船する漁船に乗っていました。
日本政府当局は福島県沖のすべての漁獲を禁止していたために、田所さんと船の乗組員たちは魚種ごとの放射性セシウムについてテストする見返りに、政府から少額の金銭的補償を受けていました。

                        

福島第一原発を正面に見ながら流し釣りをしながら原子力発電所の反対側をトローリングしていた際、誇り高き漁師の一団から尊敬されていた田所さんは、彼の家族と彼自身が経験している経済的困難について語りました。
田所さんは福島の海で生計を立てる漁師の家系が自分の代で終わってしまう事を心配していました。

                   

数年後、日本政府は福島県沖で漁獲された魚を再び市場で販売することを許可しました。
しかし計画されている放射能汚染水の放出が現実になれば、田所さんを初めとする漁業関係者は福島県沖での漁獲を再び諦めざるを得ない状況に追い込まれるでしょう。

                   

                  

日本政府は10周年を機に、東日本大震災の犠牲者を追悼する政府主催の公式の式典を終了させると述べています。

                     

先に進むことの大切さを認めながらも、東北地方太平洋岸のコミュニティは忘れられてしまうことへの懸念を表明しました。
多くの人が死者を悼むために、そしてさらに重要な意義として災害の教訓を忘れないようにするために、独自に追悼式典を主催し続けることを検討しています。

                       

※スティーヴ・チャオは、日本での3重災害発生当時、アルジャジーラのアジア特派員でした。
エミー賞にノミネートされた経験を持つジャーナリストであるチャオは現在、ドキュメンタリー映画の製作者として活躍しています。

《完》
https://www.aljazeera.com/news/2021/3/10/devastated-communities-unseen-fear-japan-tsunami-2011

  + - + - + - + - + - + - + 

                    

2011年3月11日に始まった福島第一原子力発電所の大崩壊を、人として忘れて良いのか?!

声を大にして言いたいのはその事です。

暮らしを、住む場所を、家族というつながりを台無しにされた原発難民の人びと。

私は絶対あのような形で自分の人生を壊されたくない!

そう痛感するから、こうして福島第一原発の問題を取り上げている海外の記事をいちいち翻訳しているのです。

                       

荒れ果てた故郷、目に見えない恐怖:2011年東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊《前編》

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所要時間 約 10分

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地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきた

3.11の災害現場、どんな心の準備も許さない容赦ない徹底的な破壊を見た

                      

                    

スティーヴ・チャオ / アルジャジーラ 2021年3月10日

                    

※ 日本の北東海岸に4階建て相当の高さの高津波が襲来してから10年になりますが、スティーヴ・チャオはアルジャジーラのアジア特派員であり、2011年の東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊が発生した際、最も早く被災地に入った海外リポーターの一人です。

                  

名取の街に入った瞬間の事は決して忘れることはないでしょう。
私たちアルジャジーラの取材チームは地震発生の直後、東京を出発し夜通し運転して被災地に入りました。
冷たく澄み切った朝を、太陽が照らし出していました。

                    

高速道路を降り、私たちは消防署に立ち寄り津波の被害を受けた場所がどこなのか署長に尋ねました。
彼は私たちに通りを進み数ブロック先で右に曲がるように告げました。

                    

私たちが実際に目にしたものについて、どんな心の準備もできていませんでした。
私たちは海岸から何キロも離れた場所にいましたが、80,000人の人間が暮らしていたはずの都市のほぼ半分が平らにされていました。
それはまるで、海から出てきた巨大な手が名取市内に立っていた何もかもを一気に太平洋の海の中に引きずり込んだかのような景観でした。

                     

2011年3月12日、東日本大震災の津波に襲われた翌日の岩手県田老町

               

残ったのは一面の泥の海とあたり一面に散らばるひっくり返った車、破壊された家屋などの文明の断片でした。
海岸に向かって歩いていくと、津波の衝撃であるいはがれきに押しつぶされた人びとの手や足がぐったりと動かないまま伸びていました。
この津波により死亡したのは15,899人でした。
そして2,500人以上が行方不明のままです。

                        

現地で実況レポートを始めた途端、大きな余震が地面を揺るがしました。
また別の津波が発生したことを告げると警報が鳴り渡り渡り、私たちは被災地に唯一残された建物の2階に急いで駆け上がりました。
緊張したまま数分が過ぎ、やがてサイレンが止まりました。
それは誤報でした。
こんな事がこれから先何度も繰り返される事になるのでしょう…

                   

▽ 喪失感、痛み

                       

2011年3月12日、東日本大震災の津波に襲われた翌日の岩手県大槌町

                       

私たちの取材チームは、岩手県大槌町、宮古市、宮城県南三陸町、石巻市など、被災したコミュニティを次次と移動しました。
このうち岩手県田老町は1611年、1896年、1933年に大きな津波に襲われています。
こうした経験から住民は町を守るために高さ10メートルの護岸を建設していました。

                       

しかし2011年の津波は高さ15メートルに達しました。
家々はまるで巨大な洗濯機でもみくちゃにされた後、あたり一面にばらまかれたようになっていました。

                       

写真 : 2011年3月、田老町の被災地に立つスティーヴ・チャオ。

                 

破壊を免れた堤防の上で、在宅介護の仕事をしている畠山房子さんに会いました。
彼女の家も流されて無くなってしまいました。
彼女の隣人や友人は皆亡くなってしまいました。
彼女は破壊された町をあてもなくさまよっていました。
畠山さんは国内の別の場所に住んでいる息子に自分の無事を伝えるために、携帯電話のバッテリーを充電する方法はないかと私たちに尋ねました。

                          

写真 ; 岩手県田老町で自衛隊の捜索救助隊が残骸の中で発見された犠牲者のために黙祷を捧げていました。
救助隊のメンバーは、遺体が見つかるたびにに黙祷を捧げていました。

                    

後に畠山さんは東京の郊外に引っ越すことになりました。
現場にも同行したアルジャジーラのプロデューサーである朝倉綾氏がこの時畠山さんを取材しましたが、彼女は自宅と故郷を失ってしまった事について、震災の影響をほとんど受けていない日本の日常をとても遠くに感じるし、自分が日本の普通の生活とはもはや別の場所で生きているように感じていると語りました。
「津波の犠牲者は、日本の復興が進んだ事をしたことを知っています。しかし彼らはまだなにもかも失ってしまったことの痛みを感じており、トラウマを抱えています。」
朝倉氏はこう語りました。

                    

帰郷した人々のために、日本政府は沿岸部に最大高15メートル全長400キロメートルに及ぶ「巨大防潮堤」を建設するという前例のない計画に着手しました。
しかしこの計画には多数の批判が集中しました。
沿岸で暮らす一部の人々は壁は目障りであり、何世紀にもわたって家族を養うために大切にしてきた海から沿岸で暮らしてきた漁業関係者を切り離していると語っています。
しかし日本政府は、防潮堤の『防護』効果をはそうした心情的問題より優先されるべきだとしています。
この防潮堤がいついかなる時も津波を防ぎきれるのかどうかというのはまた別の問題です。

                        

多くの生存者が前に進もうとしました。
津波が気仙沼の町を襲ったとき、牛乳配達業の千葉清秀さんは真っ黒な津波に飲み込まれました。
千葉さんが生き残る事ができたのは、一個の発泡スチロールの箱にしがみついていたおかげでした。
数時間後、彼はなんとか橋の上によじ登り、氷点下前後まで気温が下がった夜を震えながら過ごしました。

                        

岩手県田老町の防潮堤の上に立つスティーヴ・チャオ特派員。

                     

翌朝、千葉さんは妻と2人の娘が亡くなったことを知りました。
9歳の息子瑛太くんだけが生き残りました。
仮設の避難所で出会った際、千葉さんは瑛太くんを支えていくためにすべての時間と愛情を注ぐ必要があり、嘆いている暇などはない、そう語っていました。
牛乳配達の事業を再建するための努力を続けながら、千葉さんは努めて空いた時間を瑛太くんと一緒に野球をして過ごしました。
瑛太くんは野球が大好きでした。

                     

千葉さんは『希望のヨーグルト』というマーケティング・キャンペーンを立ち上げ、瑛太くんのためにバッティングの練習施設を作るための資金集めにも挑戦しました。
同じ時期の始め頃、瑛太くんは母親と姉妹2人を喪ってしまった事にどう向き合えば良いのか、どう表現すれば良いのか苦しんでいました。
瑛太くんはいつの日か自分が生まれ育った町の再建に貢献し、母と姉妹の霊を慰めたいという願いを何とか口にしました。

                       

現在、瑛太くんは東京の高校を卒業し、イギリスに留学する事になりました。
海外に行くことにより、故郷の気仙沼と世界の都市との新たな絆を築く方法を模索していくつもりだと語りました。
3月11日の荒廃の中から生まれた瑛太くんの誓いは、彼の中で力強く脈打っています。

                     

                    

しかし破壊はそこで終わらなかったのです。
地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきたのです。

 

※英文からの翻訳のため、個人名の表記に誤りがある場合があります。                        

《後編》に続く
https://www.aljazeera.com/news/2021/3/10/devastated-communities-unseen-fear-japan-tsunami-2011

福島第一原発事故 – 日本政府と東京電力『欺瞞と妄想の10年』

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所要時間 約 13分

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福島第一原子力発電所を完全廃炉にするための取り組みは先行き絶望的
放射性物質が直接降り注いだ地域では、人々の生活は取り返しのつかないほど、そして永遠に変わってしまった
日本列島の北側半分から国民全員を避難させる計画が、密かに作成されていた

                   

写真 : 2021年3月1日、津波で被害を受けた福島第一原子力発電所の原子炉建屋の脇を歩く作業員

                    

ジュリアン・ライオール / ドイチェ・ヴェレ 2021年3月11日

                 

環境保護団体は、事故によって破壊・機能不全に陥った福島第一原子力発電所を完全廃炉にするための取り組みは先行き絶望的であると述べています。
一部の地元住民は、福島第一原発が放出した放射性物質が降り注いだかつての故郷に戻ることは安全ではないとの不安を隠せません。

                    

日本史上最大の破壊を行った自然災害とそれによって引き起こされた原子力発電所事故が発生してからちょうど10年が過ぎました。
福島第一原子力発電所を運営していた東京電力は、事故収束・廃炉作業が予定通りに進んでいることを確信していると公表しました。

                    

しかし原子力発電に反対する活動を行っている人々はそうした見解を明らかにすることに批判を強めています。
メルトダウンに見舞われた3基の原子炉の廃炉措置を完了することができるという東京電力の計画は、「成功の見込みがなく、妄想に過ぎない」と主張しています。

                  

2011年3月、福島第一原発が吹き上げた放射性物質が直接降り注いだ地域では、人々の生活は取り返しのつかないほどそして永遠に変わってしまったと語りました。

                    

福島第一原子力発電所の危機は、2011年3月11日午後、マグニチュード9.1地震が襲った東日本大震災に続くものでした。
地震災害に関する近代的な記録管理が始まったのは1900年のことですが、それ以来世界史上4番目に強力な東北太平洋沖地震が場所によっては高さが40メートルを超える巨大な津波を引き起こしました。

                   

                

▽「戻っても安全だとなど告げられるべきではない…」

                      

津波は福島第一原発でも防波堤を乗り越えて殺到し、施設内の6基の原子炉建屋のうち4箇所の階下部分を浸水させ、原子炉の冷却水を循環させるウォーターポンプを稼働させるために必要な非常用発電機の機能を破壊しました。
その結果原子炉炉心が過熱状態になり、メンテナンスのため稼働を停止していた4号機以外の3基の原子炉がメルトダウンしたのです。

                       

事故の翌日、日本政府は周辺の市町村で生活していた154,000人以上の人々に避難を命じました。
そしてさらに多くの原子炉格納容器が破壊され、大量の放射性物質が大気中に放出された場合に備え、日本列島の北半分の広大な地域から住民を避難させる計画が密かに作成されました。

                   

福島の事故はチェルノブイリ事故に次ぐ史上2番目に深刻な原子力事故に分類されていますが、日本の国土の半分が汚染されてしまうというシナリオは現実にはなりませんでした。
しかし専門家は、約18,000テラ・ベクレルの放射性セシウム137が太平洋に放出され、同時にストロンチウム、コバルト、ヨウ素およびその他の放射性物質も海に流出したと推定しています。

                      

福島県の伊藤信義さんは10年前の震災の際、飯舘村郊外にある自宅から避難するよう求める当局の要請を無視しました。
伊藤さんは自分はすでに高齢であり、放射線による被曝が今後の寿命に影響を与える可能性は低く、自ら人間の実験台としての役割を果たすため、そのまま留まる決意をしました。

                     

                         

現在76歳になった伊藤さんは過去10年間、周囲の丘や、自分が栽培している作物や野生の果物や野菜の放射線レベルを計測・記録してきました。
「3年前、日本政府の当局者は避難命令を解除し、それ以来人々に帰還するよう促してきました。」
「私は事故発生以来、放射線量を記録してきました。確かに線量は下がってきましたが、ここの土壌は今後何年も汚染が続くでしょう。私はここが安全だとは思っていません。ですからかつての住民たちにもう戻っても安全だなどとは言うべきではありません。」

                       

福島第一原子力発電所の責任者であり事故収束・廃炉作業の最高責任者である小野晃氏は3月上旬のインタビューの中で、2041年から2051年の間に設定された原子炉を安全にするための作業完了の目標を修正する必要はないと語りました。
「私たちは30年から40年の最終目標にこだわっており、それに応じてタイムラインと技術および開発計画をまとめていきます。」
小野氏はAP通信の取材にこう答えました。

                     

この発言は、2基の原子炉の一次格納容器のセシウムの放射線量がこれまで予測されていた量よりもはるかに高いという新たな事実が判明し、事故収束・廃炉作業を一層困難にするであろうと予測される中、行われました。
さらにはメルトダウンした3基の原子炉の格納容器の底部に落下した溶融核燃料については、まだ不明の点が数多く残されています。

                  

またこれ程の規模の廃炉事業はこれまで試みられたことすらなく、一部の分野においては作業を完了させるための技術がまだ開発されていません。
それでも東京電力は作業を前進させられるとしており、3月末までにスケジュールを更新の上、公表することにしています。

                     

▽ 欺瞞と妄想の10年?

              

                    

グリーンピース東アジアの原子力発電の専門家であるショーン・バーニー氏は、東京電力が示したスケジュールが実現できる可能性はなく、日本政府当局は人々の生命への危険がまだ存在している事を無視し続けていると主張しています。
「これまでの10年間、歴代の日本政府は…原子力災害について偽りの神話をつくり上げようと試みてきました。」
バーニー氏はドイチェ・ヴェレに寄せた声明の中でこう述べています。

                  

「東京電力と日本政府は除染作業の有効性を不当表示し、放射線リスクを無視することによって、日本国民を欺こうとしてきたのです。」
「同時に彼らは福島第一原子力発電所が今世紀の半ばまでに『緑の大地』状態に戻すことが可能だと主張し続けています。」。
「日本政府と東京電力が続けてきた『欺瞞と妄想の10年』は終わらせなければなりません。廃炉計画を作り直す事は避けられない現実なのに、なぜ今やっている偽りをこのまま続け、さらに時間を無駄にしようとしているのでしょう?」

                   

グリーンピースが実施した調査によると、福島第一原発の放射性物質による汚染が最も深刻だと特定された840平方キロメートル(324.3平方マイル)の面積のうち、除染が行われたのはわずか15%にとどまっています。
そして放射線量が安全基準を上回っているにもかかわらず、日本政府は浪江町と飯舘村は住民が帰還しても安全であると発表したのです。

                   

                  

バーニー氏は福島第一原発の事故収束・廃炉作業を実現させるためには「アプローチの根本的な見直しと新しい計画」が必要であると述べています。
グリーンピースは、最悪の選択は溶融核燃料の残骸を含め、放射線で汚染されたすべての物質を『仮に回収できた場合』でも、それをそのまま無期限に保管することであると考えています。

                   

「福島第一は、すでに放射性核廃棄物の長期にわたる貯蔵場所になっており、今後もそうならざるをえないでしょう。」
バーニー氏はこう結論付けました。

                

福島第一原子力発電所が引き起こした事故は、前例が無い程多量の放射性物質を太平洋に流し込みました。
しかしそれ以前も、海は度重なる核実験と原子力発電所が放出する放射性廃棄物によって汚染されていました。
その影響は今日、見過ごせないレベルに達しています。

                      

写真集
2011年の地震で被害を受けた水戸市のアートセンター(写真)は、日本のアーティストの目を通して10年前の大惨事を振り返る「アーティストと震災:10年目の想像」展を開催しました。

                     

02
帰宅困難区域の魅惑的な風景
アーティストの加茂晃氏は作品の中で、帰宅困難区域における災害後の風景に対する心情の二面性を描いています。
放射性物質による汚染のリスクのため、誰も入ることができない場所の美しい風景が描かれています。
2019年作品のこの絵のタイトルは『福島県双葉郡浪江町北井手近くに立つ』というものです。

                  

03
『二層の町』
津波で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市の復興過程と、その変貌を動画、執筆、絵画で表現した作品です。
写真は映像作品『二層の町、私たちの立場を置き換えるための歌を作る』からの1シーンです。

                    

04
恐怖と差別に向き合う
ドキュメンタリー映画『赤い線で仕切られた教室』の中で、藤井光氏は、見えないものへの恐怖と苦悩に苦しめられた福島の人々が経験した差別の問題に取り組んでいます。

                   

05
絆を作る
実在の人々との出会いを題材にしたこのビデオシリーズでは、原発事故が大災害後の人々の日常生活に与える影響と、日本社会に生じた放射線リスクに関する混乱を描いています。

                     

06
『山が砂を積み上げた山に変わった』
佐竹真希子さんの絵は、被災地の景観が東日本大震災の後に劇的に変化した様子を描いています。
「ひよりやま - ハローアゲイン」と題されたこの作品は、仙台の蒲生にあった日本で最も低い山の印象を描いたものです。
津波に襲われた結果、蒲生地区は荒れ地に変わり果てました。

07
『Don't Follow the Wind - DFW (風を追わないで)』は、2015年から複数の『帰宅困難区域』で行われている共同プロジェクトです。
12人のアーティストが帰宅困難区域内で作品を展示しています。
しかし、制限が解除されるまで誰も実際に会場を訪れることはできません。
プロジェクトに関わったアーティストの一人であるグランギニョール・ミライは、アーティストが帰宅困難区域を訪れた際のビデオを制作しました。

                 

https://www.dw.com/en/japan-fukushima-nuclear-disaster/a-56825937

10年では消えない!あの日の悪夢のような光景《後編》

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所要時間 約 13分

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津波の破壊力の凄まじさは、体験したものでなければ理解できない
福島第一原発の事故の影響を受けたか?受けなかったか?それがその後の運命を大きく変えた

                    

地震と津波が襲った数日後、事故を起こした福島第一原子力発電所が煙とともに大量の放射性物質を噴き上げました。

                     

城塚恵美子、ブレイク・エッシグ、小倉淳子、ダニエル・カンピシ / 米国CNN 2021年3月11日

                  

黒沢さんと黒沢さんが救助した男性が乗った車はたちまち脱輪したため、2人は車を捨てて避難所を求めて走り出しました。
黒沢さんは急いで木によじ登ろうとしましたが、枝が折れて土手に墜落しました。
それでも再び木に登ろうと木に飛びついた瞬間、津波が押し寄せてきました。
黒沢さんが救助した男性も同じように木にしがみつきました。

                 

「私はもうダメだと思いました。」
黒沢さんがこう振り返りました。
「津波の破壊力の凄まじさは、体験したものでないと理解できません。津波はその通り道にあるすべてを飲み込み、そして破壊し尽くす驚異的な的力を持っています。」

                   

▽ 福島第一原子力発電所事故

                   

                   

津波は東北地方の太平洋岸一帯に押し寄せました。
宮城県に隣接する福島県に押し寄せた津波は、福島第一原子力発電所において原子炉のメルトダウンを引き起こしました。
日本は1986年のチェルノブイリ事故以降最悪の原子力災害に落ち込み、2011年3月11日午後4時36分、原子力緊急事態を宣言しました。

                    

赤十字の資料によると、福島第一原発の近くに住んでいた30万人以上が一時避難を余儀なくされました。
さらに5万人が自主的に放射線量の高い区域から移動しました。

                  

               

その後の数ヶ月そして数年で、福島第一原発周辺の一部の地域はゴーストタウンと化し、東京電力(TEPCO)の職員、安全検査技術者、そしてあえて危険な場所に行くスリルを求める観光客だけが訪れる場所になってしまいました。

                

東京電力は原子力発電所事故を引き起こして以降、原子炉を冷却して放射性物質の流出を止めるため、毎日数百トンの地下水を汲み上げ原子炉に注入する作業を続けてきました。
あたり一面に散乱した放射性物質を取り除く作業と事故収束・廃炉作業には数十年かかり、数十兆円の費用がかかると予想されています。

                   

                   

福島当局によると、事故が始まってから10年が過ぎた現在でも、35,000人以上が避難を余儀なくされたままです。

                     

原子力発電に反対する公益団体である東京の原子力情報室のスポークスマンである松久保肇氏は、東日本大震災で地震と津波の被害だけを受けた地域では、復興はほぼ実現したと語っています。

                 

しかし福島第一原子力発電所周辺の復旧作業は多額の費用が注ぎ込まれたにもかかわらず、2010年以降人口が半減したことも加わって、メルトダウンした後ほとんど進展がありません。。
「事故発生から10年、私たちが学んだことは一度原発事故が発生してしまったら、環境を元どおりにすることはほとんど不可能だということです。」
松久保氏がこう語りました。

                   

                     

現在東京電力は、原子炉を冷却するために使用された100万トン以上の放射能汚染水を福島第一原発敷地内の巨大なタンク群に貯蔵しています。
しかし貯蔵スペースは急速に減少し、環境大臣を含む日本政府当局は唯一の解決策はそれを海に放出することであると発言しました。
しかしこの計画は環境保護活動家と漁業関係者からの強い反対に直面しています。

                        

2014年、日本政府は年間放射線量が20ミリシーベルト未満になった指定避難区域の避難命令の解除を始めました。
20ミリシーベルトは国際的な原子力安全監視機関が推奨する最大被ばく値であり、2度の全身CTスキャンによって浴びることになる放射線量に相当します。

                     

                 

日本の環境省は2020年3月の時点で、居住者も立ち入りが禁止される帰還困難区域のままになっているのは福島全県の2.4%にとどまり、これら地域の一部では短期間の訪問なら可能だと述べています。

                      

しかし関西学院大学が2020年に実施した調査では、除染作業が実施されたにもかかわらず、避難した人々の65%は福島県に戻りたくないという意思を明らかにしました。
全体の46%が環境の残留放射能汚染を恐れており、45%がすでに他の場所に定住したと回答しました。

                    

福島第一原発の事故は日本の原子力発電への長年の関わり方をも揺るがすことになりました。
原子力業界団体である世界原子力協会によると、事故前、日本は約50基の原子炉が国内の電力需要の30%以上を供給していました。

                   

                      

この状態は最後に稼働していた北海道内の原子炉が検査のために停止した2012年5月5日に途絶し、日本は45年以上ぶりに原子力発電所がまったく稼働していない状態になりました。
※大飯原子力発電所の2基の原子炉は2012年に一時的に再稼働されましたが、1年後に再び停止しました。

                        

福島第一原発で原子炉がメルトダウンしたことを受け、ドイツなど数カ国は2022年までにすべての原子炉を閉鎖することを宣言しました。
しかしその事故から10年後、日本の専門家の間では、化石燃料を燃やすよりも環境に良いとされる技術の利用継続について意見が分かれています。
その間にも原子力発電の存在意義は徐々に失われていきましたが、2015年8月、九州南部の鹿児島県川内市にある原子炉が再稼働しました。

                   

▽ 歳月の経過

                    

東日本大震災直後の石巻市門脇小学校の校舎から眺めた石巻市内の様子。

                  

3月12日の朝になって、黒沢さんはやっと松の木から降りることができました。
彼が暮らしていた街は巨大な爆弾によって破壊されたかのようになっていました。
自宅に戻るためにはがれきや陸に打ち上げられた船の残骸を避けて歩かなければな李ませんでした。

                     

倒壊した建物は水に浸かり、火災の煙が充満した中で呼吸をするのにも苦労しなければなりませんでした。
黒沢さんの奥さんは、高台の学校に避難して無事でした。
しかしたった1日で、黒沢さん夫妻は自分たちの生活を構成していた友人、そして生活手段も財産その他身の回りにあった一切のものも、何もかも失ってしまいました。

                    

福島県南相馬市で生存者の捜索をする救助隊員

                  

それから半年の間、黒沢さん夫妻は賃貸住宅、そして友人の事務所で暮らしました。
そして2011年8月になり、彼らは3年以上にわたって自宅になったプレハブ作りの仮設住宅に引っ越しました。
黒沢さんは配管技術を生かして地域社会で必要とされる仕事を不定期で手伝うボランティアをしました。

                      

黒沢さんはまだ石巻に住んでいます。
「私の暮らしはあたりまえだと思っていた日常から異常な日常に移行し、それがあたりまえになりました。そして1年が過ぎ、2年が過ぎました。そして今やっと異常な現実が正常に戻りました。」

                     

彼は5年間、夜毎瓦礫と化した故郷をさまよい歩く夢を見ました。

                     

                     

今日の石巻において原子力発電に対する人々の感情は、東日本大震災発生から10年間の人々の体験がそれぞれ異なるのと同様、一言では言い表せないと黒沢さんが語りました。
「この10年について私はどう感じているのかと尋ねられることがあります。でもその時間はまだ終わってはいません。私はとにかく最善を尽くたいと願っているだけです。」

                  

写真 : 2011年4月10日、宮城県石巻市で車のヘッドライトで照らされた看板に「がんばろう!」と大書きする黒沢健一さん(中央)とその仲間。

                     

黒沢さんは長年にわたり自分の人生、ビジネス、そしてコミュニティを再建するために戦ってきました。
今日、沿岸には故郷の石巻を海から守るため、高さ10メートル近い堤防が約56キロメートルに渡って築かれました。
市の郊外に新しい災害公営住宅が出現しましたが、他の住宅はまだ再建途上です。

                      

黒沢さんによると、人々の感情的な傷跡が言えるためには、少しずつ環境を整備していくのと同じくらい時間がかかります。
しかし過去に生きることには意味はないと語りました。

                       

宮城県亘理町で泣き崩れる女性を慰める男性

                  

今日、黒沢さんは災害への備えについて他の人々に教えることに積極的な役割を果たし、前進し続けています。
「この災害から私が学んだことの一つは、人々はお互いに支え合う必要があるということです。私たちには希望があると思います。」

                   

時々、彼は自分の命を救った木の脇を通り過ぎることがあります。
彼はもう一度だけ、その木に登ろうとしたことがあります。

                    

※英文記事からの翻訳のため、個人のお名前、固有名詞の表記に誤りがある場合があります。ご容赦ください。

《完》
https://edition.cnn.com/2021/03/10/asia/japan-tohoku-fukushima-tenth-anniversary-hnk-dst-intl/index.html
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10年では消えない!あの日の悪夢のような光景《前編》

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所要時間 約 10分

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もう戻らない命、鮮明に残る残酷な光景の記憶、歳月の経過では埋められない心の穴

原子力発電所の事故がもたらした荒廃は自然災害よりもなお一層深刻だった

                       

写真1 : 3.11東日本大震災によって破壊された岩手県陸前高田市内。のちに『奇跡の一本松』として有名になる右手の松は300年間防風林として陸前高田を守ってきた70,000本の森の中の1本です。

                    

城塚恵美子、ブレイク・エッシグ、小倉淳子、ダニエル・カンピシ / 米国CNN 2021年3月11日

                      

黒沢健一さんは、周囲の水面が上昇し、足下の道路が完全に浸水していく中、まさに死と隣り合わせの状況で木にしがみつきました。
2011年3月11日の午後2時過ぎ、約6分に渡りマグニチュード9.1の地震(日本で史上最悪の地震)が発生、巨大な津波が発生、黒澤さんがずっと住み続けてきた石巻市(東京の北東370 kmの場所にある太平洋沿岸の都市)に襲いかかりました。

                     

写真2 : 2011年3月11日時点の石巻市内の様子

                      

高さ10メートル(約30フィート)の津波が押し寄せる数分前、当時40歳だった黒沢健さんは急いで松の木を3メートルほどよじ登り、両足をしっかりと幹に巻き付け、全力で木にしがみつきました。
「あたり一面が海になったように感じました。水がとても冷たくて、骨まで凍えるほどでした。」
黒沢さんはこう回想しました。

                   

水面が膝の高さまで来た時と、黒沢さんはハンドルを握ったままの人が乗った車が次々と押し流されていくのを目撃しました。
黒沢さん同様他にも木にしがみついていた人々がいましたが、押し寄せる波が叩きつけ水中に沈んでいきました。

                     

黒沢さんは何時間もの間氷点下の気温に耐え、木にしがみついていました。
彼は彼の妻のことを考えました-彼は回線が途絶える前、木によじ登った後携帯電話で15秒間妻と話をしていました。

                       

写真3 : 市街地に津波によって打ち上げられた船舶が横たわるこの時の光景は、10年を経た今もなお多くの人々の心をかき乱します。

                   

やがて夜が明けると、黒沢さんは遠くにいる誰かが最後の力を振り絞るようにして助けを求めているのを聞きました。
彼はその人のその後の運命を知らないと言います - しかしこの瞬間黒沢さん自身は日本の歴史の中で最も破壊的となった自然災害を生き延びたことになったのです。

                      

巨大地震と引き続き発生した津波により2万人以上の人々が死亡または行方不明になりました。
しかし、しかし原子力発電所の事故がもたらした荒廃は自然災害よりもなお一層深刻でした。
東日本大震災の被災地にあった福島第一原子力発電所は、それ自体が大惨事の震源になったのです。

                    

写真4 : 2011年3月11日宮城県名取市。津波は各地で大規模な火災を引き起こしました。

                   

最初の地震から50分も経たないうちに、原子力発電所を守るはずだった高さ10メートル(33フィート)の護岸設備を乗り越えて津波がやってきました。
原発の敷地内に水がなだれ込み、原子炉の冷却システムが機能を停止した結果、3基の原子炉で核燃料が溶け落ち、人が浴びればたちまちのうちに死んでしまう高放射性物質が周辺地域に向け放出されました。

                     

予定されていた東日本大震災・福島第一原発事故10周年を記念する式典は新型コロナウイルスの感染拡大のため、人の密集を避けるためなどの理由から、ごく小規模な形で行われることになりました。
東京では、菅義偉首相、今上天皇・皇后両陛下が追悼式に出席し、10年前の地震が発生はた時刻である午後2時46分に黙祷を行います。

                    

写真5 : 行方不明になった息子を捜索しながら泣き崩れる男性。男性の長男は津波で大量の犠牲者を出した大川小学校の教師でした。

                    

東日本大震災による破壊は徹底したものでしたが、生存者の多くは自分たちの生活と地域社会をなんとか再建しました。
それでも災害の深い傷跡は永遠に残りることになにるでしょう。

                        

写真6 : 犠牲者の遺族の多くは、大切な家族の遺品として写真アルバムだけが手元に残ることになりました。

                     

▽ 津波の破壊力

                      

宮城県で2番目に大きな都市である石巻は、津波による被害が最も大きかった市町村の1つでした。
国際津波情報センターの記録では、津波は約5平方キロメートル(約500ヘクタール)の土地を浸水させ、都市のほぼ15%が水没しました。

津波は石巻市内だけで5万戸以上の家屋や建物を破壊し、かつては賑わっていた市の中心部や港湾設備などインフラのほとんどを破壊しました。

石巻市内だけで3,100人近くが命を落としました。

                      

写真7 : 震災発生から一夜が明けた宮城県気仙沼市内。この場所で暮らしていた人々の中には、10年を過ぎた今もまだ仮設住宅で暮らしている人がいます。

                         

配管の仕事をしていた黒沢さんは、地震が発生したときは自分の街から約12 km離れた隣の町で働いていました。

彼は銀行に避難していた妻に電話をし、自分が行くまで自宅で待つように伝えました。

                    

写真8 : 行方不明の家族を探すため、情報を求めるメモが大量に貼られた掲示板

                    

その数分後、津波警報が発令されました。

                   

黒沢さんはもう一度妻に電話をかけようとしましたが、もう電話はつながりませんでした。
妻の身を案じる黒沢さんは車に飛び乗り、自宅に向かって車を飛ばしました。妻を車に乗せて一緒に高台に避難するつもりでした。
たくさんの車が黒沢さんとは逆の方向に向け走り去って行きました。度々地震が発生するこの国土で、制度的に設定された指定避難区域に向かう車列でした。

                   

写真9 : 宮城県利府町の公共施設に並べられた東日本大震災の犠牲者の棺の列。しかし遺体が見つからないままの人もまだ大量に残されていました。

                      

自宅に近づくと、遠くに真っ黒な津波の壁のようなものが見えました。
近づくとそれは津波にのみ込まれ、波頭で浮き沈みしている何台もの車であることに気がつきました。。

                    

それを見て必死に車をUターンさせていたとき、足元まで水に浸かりながら歩いて逃げようとしていた男性の姿が目に飛び込んできました。
「私は車の窓を開けてその男性を車の中に引きずり込み、スピードを上げて津波から逃れようとしました。」
「でもまさにその瞬間、津波が頭上から襲いかかってきたのです。」
黒沢さんが当時の様子についてこう語りました。

                 

写真10 : 宮城県南三陸町で瓦礫の上を乗り越えて生存者の捜索を続ける救助隊員。

                        

《後編》に続く
https://edition.cnn.com/2021/03/10/asia/japan-tohoku-fukushima-tenth-anniversary-hnk-dst-intl/index.html

このサイトについて
ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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