ホーム » アーカイブ
国民に大きな負担を強いる、人口減少と老齢化が急速に進む中での防衛費の急激な増大
F-35ステルス戦闘機を安倍政権の計画通り購入すれば、自衛の範囲を完全に超えることになる
宇宙空間にも持ち込まれる日米対中国ロシアの軍拡競争、増大に歯止めがかからない軍事予算
山口まり / AP通信 2019年8月30日
防衛省は8月30日金曜日、2020年度の5兆円3,200億円の予算要求を行ったと発表しました。
2019年度に対し1.2%の増額です。
今年末に財務省の承認を経て議会でこの予算案が成立する以前、トランプ政権が日本に対して要求しているアメリカ軍の駐留経費の日本負担分の増額やイラン近海のホルムズ海峡での哨戒任務に日本が参加することを受け入れれば、その金額はさらに膨らむことになります。
日本の軍事予算は2012年12月の安倍首相の就任以降、7年連続で増え続け、当初の金額と比べると13%増額されました。
2018年には、計算方法によって異なるものの総防衛支出で世界第8位または第9位にランクされました。
安倍首相が押し進めるのは、日本の自衛隊が国際紛争の場で自由に活動できるようにすること、装備を共通のものにすることによりアメリカ軍との共同作戦をより一層遂行しやすくすることです。
安倍首相はすでに2015年に日本の平和主義憲法について解釈の変更を行い、自国に加えその同盟国の防衛にも自衛隊が武力行使できるようにしました。
購入が計画されている中で最も高額なのが、短距離離陸と垂直着陸が可能なF-35Bステルス型戦闘機です。
安倍政権は2024年に配備するために1機140億円するこの戦闘機を6機(840億円)購入する計画です。
安倍政権はさらに今後数年間で42機(5,880億円)のF-35Bと105機のF-35Aを購入する計画を進めており、2つを合わせたF-35の保有数は147機になります。
この保有数は米国以外の国では最大であり、専門家はこの数はもはや自衛の範囲を完全に超えていると指摘しています。
今年度後半防衛省は現在ヘリコプター空母として機能している2隻の駆逐艦のうち『いずも』を31億円をかけて艤装し直し、飛行甲板を耐熱製のものに交換し誘導灯を取り付け、F-35Bを搭載できる航空母艦に改造する計画しています。
岩谷防衛大臣は8月初旬、アメリカ海兵隊所属のF-35Bも『いずも』を利用できるようにするが、当初は日米共同訓練の際だけに限定し、アメリカ軍が単独で利用することはないと語りました。
これは自衛隊とアメリカ軍の連携を一方的に強化すれば、アメリカが主導する国際武力紛争に巻きこまれる可能性があり、その危険を回避するためだと語りました。
アメリカ大統領トランプが日本に対し米国が主導する国際紛争への武力介入にもっと積極的に参加するよう要求する中、この取り決めは米国との同盟関係において日本の負担割合を高めていることを強調する意味があります。
第二次世界大戦中日本に侵略された過去を持つアジア太平洋諸国に対する配慮から日本はこれまで外用出撃的性格を持つ航空母艦の保有を避けてきましたが、いずもの改造は海上自衛隊の役割を大きく変化させることになります。
南シナ海における中国の増大する軍事的プレゼンスと能力の強化とそれに伴う権益強化の主張は、域内の多くの人々を不安にさせてきました。
日本は今後10年間、新しい防衛ガイドラインの下で宇宙専門の軍事部門を設置し、サイバー攻撃および電磁波攻撃に対する対策を強化していく計画です。
中国もロシアも軍事空間における軍事能力を強化しているのに対応するため、今年日本と米国は宇宙空間における軍事協力に合意しました。
日本の防衛省は524億円をかけ、航空自衛隊の20人の隊員を宇宙空間に送り込み、宇宙ゴミの影響と将来実用化される可能性のある日本の人工衛星に対する電磁波干渉攻撃を監視するとともに、高感度レーダーを使用した追跡システムと光学望遠システムを装備機能させる計画です。
高額なアメリカの武器を購入すれば米国の対日貿易赤字を削減し、互換性の高い軍事協力可能にしますが、発展途上の日本の軍需産業にとっては逆風が吹くことになります。
日本が老朽化したF-2戦闘機に代わる国産の後継機種を生産することが求められる中、防衛省は共同国際プロジェクトとして後継機の開発に着手する可能性があります。
人口減少と同時進行で急速に老齢化が進む日本にとって、防衛費の一方的増大は負担となります。
安倍政権が打ち出した今後5年間の中期防衛プログラムのために、日本は2024年までに27兆円の軍事支出をしなければなりません。
+ - + - + - + - + - + - + - +
なぜ戦争も起きていないのにこれほど多くの国家予算を軍事に費やさなければならないのでしょうか?
現在権力中枢にいる人間たちといわゆる軍需産業との間に密接な利害関係があるからですか?
ウィキペディアには、安倍首相の祖父の岸信介氏について、次のような記述があります(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B)。
『満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満(途中略)軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物の1人に数えられた。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。
この(1936年〜39年)頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。その後、満州から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している。』
こうした言わばノウハウと『軍・財・官界に跨る広範な人脈』について安倍氏はどの程度継承したのでしょうか?
私個人は自衛隊の戦力について、中国もロシアも北朝鮮も、『軽率に日本との間に武力紛争を引き起こせば、自分たちが手痛い打撃を被る』レベルのものがふさわしいと考えています。
ただ自分は専門家ではないので具体的な指摘はできませんが、専門家が「この数はもはや自衛の範囲を完全に超えている」と指摘する現在の安倍政権の軍拡路線は明らかに行き過ぎのはずです。
そして一方では高等教育予算の減額や福祉政策の削減が行われています。
これは日本という国の質を『痩せさせてしまう』政策だと思います。
国として豊かさは教育や福祉が充実していることをもって測られるべきものであって、武器軍備ばかりが重厚な国家というのは、かつてのソ連邦のように崩壊の危うさを内包するものなのではないでしょうか?
日本軍の残虐行為に対するアメリカ軍の報復、その矢面に立たされたのは日本の民間人
女性と子供たちを標的にした大規模な空襲によって大量の市民が虐殺されても、大日本帝国とナチスドイツの戦争マシーンは関係なく動き続けた
日本国内では戦争を批判しただけで、血も涙もない憲兵隊によって即座に処断された
シェイン・クイン / グローバル・リサーチ 2019年6月18日
日米開戦のちょうど1年前の1940年12月19日、ルーズベルトは、長年日本と戦い続けてきた中国に対し、航空機の無償提供を含むの2,500万ドルの軍事援助を承認しました。
1940年当時の2,500万ドルは、今日の5億ドルに相当します。
1941年3月11日、ルーズベルトは中国を筆頭に、英国、ソビエト連邦、フランスなど、大日本帝国に対し一片の同情も持っていない国々により多くの資材を提供するプログラム、レンド・リース法に署名しました。
ルーズベルトは1940年9月の日本軍によるフランス領北インドシナ占領が周辺地域のアメリカの権益を脅かす結果となったことなどを受け、日本に対し数ヶ月に及ぶ経済制裁と禁輸措置をとっていました。
1941年7月26日、ルーズベルトはアメリカ国内のすべての日本の資産を凍結しました。
真珠湾攻撃のに先立つこと4か月のこの思い切った政策の実施は、日本に対する経済戦争の宣戦布告となりました。
ルーズベルトの決断により日本は石油輸入量の実に90%を失い、海外貿易の75%の途を絶たれてしまいました。
日本国内の石油備蓄量はそのままでは1943年1月までには使い果たされる見込みであり、日本軍がさらなる軍事侵略を行って石油資源を確保しない限り、現有していた供給源だけではどうにもならないところまで追い詰められました。
敵同士となった日米両軍の兵員数はほぼ拮抗していましたが、のちに戦争史上悪名高い存在となる日本兵の残虐な行為を免れるのは容易なことではありませんでした。
東京の戦争計画者は飢餓状態から解放されるためさらなる征服に食指を動かし、資源が豊富なビルマ、フィリピン、マラヤ、シンガポール、オランダ領東インド諸島(インドネシア)へと軍隊を進行させ、1942年前半までに征服事業を完了させました。
しかし戦争の進行とともに形勢はゆっくりと変化していきました。
連合国側による一般市民の生活圏に対する容赦ない爆撃は、その目的が戦争を迅速に収束させるというものでしたが、結局は効果がないまま悲惨な失策に陥っていました。
そして未だに戦争犯罪として位置付けられることもありません。
こうした倫理観がまるでない戦略には結局は第二次世界大戦を長引かせただけでしたが、未だに誰も説明責任を負おうとはしません。一般市民を血まみれにした空襲はその士気を打ち砕き、敵の戦争指導部に対する市民の反感を助長し反乱を誘発すると長い間信じられてきましたが、それは全くの幻想に終わりました。
1945年の夏になるとアメリカの海上封鎖により日本国内には徐々に飢えが広がり、日本の民間人にとっては食料を手に入れることが最大の関心事になり、それ以上のことは考えられなくなりました。
日本国内では戦争を批判しただけで、日本の軍警察、血も涙もない憲兵隊によって即座に処刑されました。
欧米の指導者たちは、1940年代初頭にナチスドイツが行った英国本土大空襲からどのような教訓を得るべきか学び損ねていました。
仮借ない空襲が英国市民の戦意をくじくどころか、逆に強くしたことを。
この現実から教訓を得たのはドイツ国防軍の上層部の方でした。
結局ウィンストン・チャーチルのような連合軍の指導者は、1945年2月ドイツの中世の遺跡が大量に残るドレスデンを無意味に破壊することを提案し、実行してしまいました。
女性と子供たちを標的にした大規模な空襲によって大量の市民が虐殺されても、ドイツと日本の戦争マシーンは関係なく動き続けました。
ナチスの軍需大臣であるアルベルト・シュピアは、ドイツ全土に対する連合国の空襲が度々工業地帯に向かわずに市民を標的としていることに唖然としていました。
おかげでシュピアは1944年段階においてもなお航空機と戦車の生産を続けることができ、ヒトラーの歓心と称賛を買うとともに、1944年12月のアルデンヌ攻勢のような『反攻』を可能にしました。
空爆(空襲)の背後にある現実は、カーティス・ルメイ将軍や彼の英国の同僚だったアーサー「ボマー」ハリス将軍やその他の人々の意図に反するものだったのです。
すべてが終わった後、ハリスは回顧録の中で次のように認めました。
「軍事施設ではなく市街地を徹底的に破壊するという攻撃の根底にある戦略は、完全に不健全な考え方であったことが証明されただけだった。」
そして次のように記しています。
「連合軍の指導者は、そのパイロット達をナチスドイツと大日本帝国の工場、通信施設、補給基地への攻撃に向かわせるべきだった。そうしていれば戦争は1945年よりもっと前に終わっていたであろう…。」
ルメイ将軍は350万世帯以上の家屋を破壊し日本人を大量に殺したことに関しては話をしていましたが、1945年半ばに日本のインフラの多くが未だに手つかずのまま残されていることには言及しませんでした。
北海道と本州を結ぶ石炭運搬船や国内の鉄道網など、大日本帝国の極めて重要なライフラインは1945年8月まで健在でした。
ルメイ将軍の指揮下にあったB-29の大群が気づかないまま通過していったいくつかの工業地帯も同様だったのです。
(完)
https://www.globalresearch.ca/us-military-destroyed-66-japanese-cities-before-planning-wipe-out-same-number-soviet-cities/5680934
+ - + - + - + - + - + - + - +
この稿を翻訳してわかったことは、日本が2度にわたり核兵器攻撃を受けた理由ははっきりしているという考え方があることです。
これまではドイツが核兵器攻撃を免れ、日本だけがその惨禍を被ったことについて、「ドイツ人は白人であり、日本人は黄色人種だったから」という人種差別に基づくまことしやかな言説もありました。
しかしこの稿を読むとドイツが降伏した1945年5月初頭の時点ではまだ『実用可能な』原子爆弾が用意できなかった形跡があり、人種論に基づきアメリカがドイツに対する原爆投下をためらったというような話は出てきません。
逆に私たち日本人にとって衝撃的なのは、戦地における日本軍の残虐な行為に対する『報復』としてアメリカ軍が日本の市街地に原爆を投下した、とする見方があるということです。
日本の一般市民はその報復対象になり、都市部への空襲と合わせ100万人を超える無抵抗の人々がただただ殺されたことになります。
戦地で直接残虐な行為に及んだ日本兵も、その事実を知らずに自国の兵士の支援を続けた女性や子供たちも同罪だということでしょうか?
戦争というものの愚劣さをこれほど象徴的に物語る事実はない、そう思います。
日本の軍組織もひときわサディスティックで残忍であり、第二次世界大戦が始まる前から各地で残虐行為を行っていた
アメリカ軍の『報復』によって1945年の夏までに900万人以上の日本の市民が住む場所を失った
東京大空襲「夢が叶った…一面が火の海となり、東京は枯葉のように燃え上がった」米国メディアの論評
シェイン・クイン / グローバル・リサーチ 2019年6月18日
アメリカ政府が行ったこの核兵器攻撃に対し、西洋のメディアはほとんど例外なく支持を表明しました。
1945年8月上旬から1945年12月下旬まで広島・長崎への原爆投下に関して書かれた595の新聞社説のうち、200,000人以上を殺した核兵器攻撃に反対したのはわずか2%未満にとどまりました。
これら報道機関はまた、ドイツと日本の都市を次々と焼き払った大規模な空襲に揺るぎない支持を表明しました。
事実、彼らは工業地帯や軍事拠点に対する空爆よりも、むしろ「民間人を標的とした空襲を強く要求」したのです。
たとえばニューヨークのタイム誌は100,000人の一般市民を殺戮した東京大空襲について次のように称賛しました。
「夢が叶った…一面が火の海となり、日本の都市は枯葉のように燃え上がったことだろう」
アメリカが日本に対して核兵器を使用した本当の理由。それは戦争を終わらせることでも、連合軍兵士の命を救うことでもありませんでした。
一方、日本の強硬派の軍国主義者は最後の一人になるまでの戦いを主張しましたが、さらなる核兵器攻撃の脅威にさらされた結果、日本政府は1945年8月15日に降伏を発表せざるを得なかった。
事実1945年8月10日、アメリカの原爆プロジェクトを指揮していたレスリー・グローブス将軍はマーシャル将軍に対し、別の長崎型プルトニウム原子爆弾の『目標設定』が完了し、「1945年8月24日以降」に使用可能になると通知していたのです。
1945年8月8日の夕刻、ソ連が日本に宣戦布告したことも大日本帝国の降伏に影響を与えました。
翌日以降、赤軍は満州国内の日本のエリート部隊である関東軍を、熱く熱したナイフでバターで切断するようにしてバラバラにしてしまいました。
もう1つの降伏要因は、1945年8月11日に第三者を介して伝えられたアメリカの保証でした。
これは当時神のような存在であった裕仁天皇が日本の降伏後、政治権力の一切を失いはするものの天皇であり続けることができるというものです。
最初の原子爆弾攻撃の直後、当時の鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長であった迫水久常(さこみずひさつね)は、日本が持ちこたえられるのはせいぜい2か月間、1945年10月までだと見積もっていました。
日本にはすでに制空権も制海権もなく、原油、ゴム、鉄鉱石の輸入の道も途絶えていました。
そして日本軍はビルマ及び太平洋諸島から駆逐されていました。
さらに、チェスター・ニミッツ提督(太平洋艦隊司令官)やウィリアム・リーヒー(トルーマンの参謀長)などのアメリカ軍高官の手元には、海上封鎖と絶え間ない空襲により日本は数週間以内に降伏せざるを得ない状況にあり、今さら日本本土への上陸作戦や原爆の投下は必要ないという詳細な資料がもたらされていました。
1944年3月の段階でグローブス将軍が強調していたように、原子爆弾は新たに登場した長期にわたるアメリカの敵となるソビエト連邦への実物警告として広島と長崎に投下されたのです。
核兵器を使わない空爆とはいえ、カーティス・ルメイ少将の下で行われた日本国内の数十の都市に対する戦術的空爆は大量殺戮の度合いを強めていきました。
ただし日本の軍組織もひときわサディスティックで残忍であり、第二次世界大戦が始まる前から各地で残虐行為を行っていたことを忘れてはなりません。
しかしそのことで、アメリカの軍事力の矢面に立たされたのは日本の民間人でした。
1945年5月30日、ルメイは記者会見を開き、米国の空爆が100万人以上の日本人を殺したと公の場で自慢しました。
1945年の夏までに900万人以上の日本の市民が家を失い、そのほとんどが農村や山村に避難しました。
原爆投下の直前まで、アメリカ軍機によって破壊された日本の病院は969もの数に上っていました。
その4年前、フランクリンD.ルーズベルト大統領が述べたハワイのパールハーバーにある米海軍基地に対する日本の「挑発的で卑劣な攻撃」が行われた背景には、実際に根拠のある懸念が日本側にはありました。
1941年12月7日の真珠湾攻撃に先立つ5か月間、ワシントンはB-17重爆撃機をパールハーバーを始めとする太平洋の米軍基地、フィリピンのクラーク空軍基地とデルモンテ空軍基地に移動させていました。
1941年半ば以降、アメリカの大型の爆撃機の半数が大西洋側から太平洋側に移動していましたが、こうした状況については日本の軍参謀たちも気づいていました。
この太平洋方面軍の増強の背景にある理由は1940年の後半、有名な戦前の軍事構想の専門家である空軍将官のクレア・シェンノートが具体化したものでした。
彼はB-17爆撃機がどのようにして「焼い弾で大日本帝国の産業中枢を焼き尽くす」のかその方法を説明しました。
「大量のアリが群らがっている竹で作った蟻山が集中している本州と九州への攻撃」…
シェンノート将軍の計画を聞いたルーズベルト大統領は「ただただ喜んで」いました。
日本が真珠湾攻に踏み切る1941年以前、日米両国はすでにアジア大陸と太平洋地域において互いに相容れない野望を持つ主要なライバル同士だったのです。
アメリカ政府は大日本帝国に宣戦布告することにためらいはなかったはずです。
真珠湾攻撃の3週間前の1941年11月15日、マーシャル将軍は記者団に対し、『オフレコのブリーフィング』で、アメリカ軍航空機が『紙で作られた日本の都市に火をつけることになるだろう』と語っていました。
「相手がたとえ民間人であろうと、我々は爆撃をためらうことはない。」
(後編に続く)
https://www.globalresearch.ca/us-military-destroyed-66-japanese-cities-before-planning-wipe-out-same-number-soviet-cities/5680934
+ - + - + - + - + - +
10数年前に80代で亡くなった同じ町内に住む男性が、太平洋戦争時代のことについて話してくれたことがありました。
この男性は戦後警察官僚として定年退職を迎えましたが、太平洋戦争当時は下士官として中国にいました。
「自分が軍から命令されて中国でやったことは、一生誰にも話すつもりはない。」
「家族にも話したことはないし、絶対に口にするつもりもない。あんなことをやったなんて他人に言えるはずがない…このまま墓まで持っていくしかないんです…」
こう語ると男性は絶句して下を向き、そのまま動かなくなりました。
何も具体的なことは話してくれませんでしたが、それだけ苛烈な体験を、そして多分忌まわしい体験を強いられたのだと思います。
その時の男性の姿は鮮明な記憶として残っています。
歴史修正主義者の無恥無反省の都合の良い話ではなく、自国で食い詰めた挙句ににやってきた外国人の日本に対するおべんちゃらでもなく、日本人が再び戦争という最低最悪の選択をしないように、市井で暮らし続けているこうした日本人自身の実体験を一つでも多く記録していきましょう。
広島、長崎ともに核兵器攻撃によって殺戮されたのはほとんどが民間人、軍関連施設は無傷のまま残った
「当初の日本侵攻計画では、3次にわたる攻撃によって9発の原子爆弾を投下する予定だった…」
広島と長崎の両方で多くの医療施設が破壊された結果、死亡者数が大幅に増加することになった
シェイン・クイン / グローバル・リサーチ 2019年6月18日
第二次世界大戦中に米軍が日本に与えた被害の程度は、今日でも尚広く知られてはいません。
2,500人近くのアメリカ人が殺された日本軍による真珠湾攻撃に対する報復として、アメリカ軍は1942年4月18日午後から首都東京をはじめ、横浜、大阪、名古屋、神戸、横須賀の日本の5大都市に対し攻撃を行いました。
「ドリトル奇襲作戦(Doolittle Raid)」と名付けられた日本の領土へのこの初めての侵入作戦に参加したのは、アメリカ軍の16機の B-25中型爆撃機でした。
与えた損害は日本人の死者が約50人、受けた損害は全体的なものでしたが軽微なものでした。
この爆撃により東京の大日本帝国の首脳部は面目をつぶしましたが、もっと深刻だったのは日本国民に与えた心理的恐怖感でした。
さらに日本側に衝撃を与えたのは、B-25爆撃機がただの1機も撃墜されなかったことでした。
それは次に来る事態を暗示するものになりました。
月日が過ぎるごとに年を追うごとにアメリカ軍の爆撃による被害は拡大していきました。
1945年6月15日までに、主に新しいB-29 4エンジン重爆撃機によって放たれた爆撃によって、66の日本の都市が米陸軍空軍によって全滅しました。
こうしてアメリカ軍に破壊された日本の都市の数、66という数字は1945年9月中旬に米国国防総省が計画をまとめ上げたソビエト連邦の国家機能を完全に奪うために破壊しなければならない都市の数とぴったり一致するものでした。
1945年9月2日に日本の代表が降伏文書に署名して第二次世界大戦が終結したわずか2週間後、アメリカはソビエト連邦領内に204発の原子爆弾を投下して66都市を消滅させる計画をまとめ上げていたのです。
大日本帝国に対する核兵器攻撃の提案に関し、米陸軍参謀長のジ ョージ・マーシャル将軍は1954年に次のような事実を明らかにしました。
「当初の日本侵攻計画では、3次にわたる攻撃によって9発の原子爆弾を投下するつもりでした。」
しかし広島への原爆投下直前、ペンタゴンが所有する原子爆弾の数は6個に満たない数だったのです。
世界で初めての核兵器による攻撃は1945年8月6日現地時間の午後8時15分、広島上空でB-29重爆撃機から15キロトンの原子爆弾が空中に放出された瞬間に始まりました。
44秒間落下を続けた後、リトルボーイは広島市中心部にあった志摩病院の真上で爆発しました。
瞬く間に医師、看護師、患者全員が灰になりました。
周囲ではさらに数十の病院、学校、歴史的建造物が吹き飛ばされ、あるいは倒壊しました。
地上の温度は瞬間的に摂氏3,000℃~4,000℃に達し、数万人が焼き殺されました。
爆心地から2キロメートル圏内にいた人々のうち、112,000人が1年以内に死亡しました(1946年8月10日)。
それに加えて何万人もの人々が放射線障害と重度の火傷によって死亡しました。その中には爆心地から2km圏の外側、数百メートル〜数キロの場所にいた人々も含まれます。
直接の死者も後から死んだ人々もそのほとんどが民間人でした。
多数の女性と子供たちに加え、軍隊の任務をこなすには年齢が高すぎるか徴兵検査を通らなかった男性たちです。
広島市の周辺に点在する軍の施設や重要な武器製造施設は完全に無傷のまま残りました。
これらの工場は、総産業生産高の74%を占めていました。
太田川デルタ地帯に存在していた広島の重要な港湾施設や軍港も無傷でした。
さらに広島の工場労働者のほぼ95%も原爆投下後も無傷のままだったのです。
投下から数時間後、第一報を耳にした米国のハリー・トルーマン大統領は、原子爆弾の爆発を「歴史上最大の出来事」であり、「圧倒的な成功」だと誇らしげに宣伝しました。
3日後の8月9日、長崎は現地時間の午前11時02分に広島型原爆より高度な技術を用いた21キロトンの原子爆弾『ファットマン』で攻撃されました。
これは教育、文化、宗教施設が集中する長崎市の中心地で炸裂しました。
広島と同様、長崎に投下された原爆も市内にある軍関係の施設をほとんど無傷のまま残しました。
この『ファットマン』も数万人を殺戮しました。
市内の主要な病院、教会や寺院、学校を破壊するとともに、数百数千という単位で子供達が犠牲になりました。
広島と長崎の両方で多くの医療施設が破壊された結果、死亡者数が大幅に増加することになったのです。
《中編に続く》
+ - + - + - + - + - + - + - +
今日から3回に分けて
戦争がいかに無益であり
一旦戦争が始まってしまえば国民の生活がどれほど悲惨になり
どれほど多くの人命が無益に奪われるかを
そして
なぜ日本が
2度も核兵器攻撃を受けることになったのか
その見解の一つをご紹介します。
この問題について専門的に研究したことなどはありませんが、根拠とされているのが当事者自身の発言である点も考慮し、これまで読んだ中で最も真実に近いのではないかと考えています。
ともあれ私たち日本人にとって極めて興味深い事実と考察が明らかにされます。
ぜひ3回すべてお読みいただければ幸いです。