ホーム » アーカイブ
確実に安全な避難場所の目の前で、なぜ大勢の子供達が命を失ってしまったのか…
「津波が来ます!子供たちを早く丘の上に避難させてください!」「まあまあ、落ち着いてください、お母さん……」
リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日
地震発生当初の大川小学校の子どもたちは、当初模範的と言えるスピードで避難をしました。
机の下身を隠してからわずか5分後、子供たちはそれぞれ自分のロッカーに保管されていた硬いヘルメットを着用し、クラスごとに校庭に整列しました。
その後石巻市当局は、生存している証人へのインタビューと目撃談に基づき、その日の午後起きたことを分ごとに記録した資料を作成しました。
その記録は大地震の後の興奮とあきらめ、光明を見つけ出そうとする思いと恐怖という地震直後の心理状態を映し出しています。
子供:みんなが座って、点呼が行なわれました。
低学年の女の子たちが泣いていましたが、城田さんと紺野さんがその子たちの頭を撫でて「大丈夫よ。」と言っていました。
ひとりの6年生の少年が「自宅のゲーム機は大丈夫だろうか?」
と心配そうに話していました。
子供:地震ショック症候群の一種かもしれない。吐き気がこみ上げてきた子は他にはあまりいないから。
子供:友達がこう言いました。「ほんとうに津波が来るのだろうか?」
繰り返し余震が襲ったことで、幼い子供たちの警戒心はいやが上にも大きくなっていきました。
午後2時49分、東日本から東北地方にかけて本震によって引き起こされた余震が繰り返される中、気象庁は6メートルの津波が押し寄せる可能性があると警告を発しました。
特に東北地方沿岸の住民は、全員が高地に避難すべきだと告げたのです。
午後3時03分、午後3時06分、午後3時12分、立て続けに大きな余震がありました。
午後3時54分、気象庁はさらに警告を発し、津波の高さが10メートルに達する恐れがあると発表しました。
校庭にいた教師たちは桜の木の下に集まり、小声で議論を始めました。
他の多くの日本の教育機関同様、大川小学校もマニュアルによって運営と管理が行なわれていました。
学習指導要領と呼ばれる日本の教育計画は、倫理原則から卒業式の式次第にまで言及しています。
その中では、火災、洪水、伝染性疾患の流行などの緊急事態への対応について、1章が割かれています。
学習指導要領は国が定めたものであり、学校はそれぞれ置かれている環境によってそれを手直しし、運用しています。
海岸線に近い場所にある小中学校では大きな地震が発生した直後、教師と生徒たちは急こう配の道や階段を登ってできるだけ高い場所に避難するよう指示していました。
しかし大川小学校では学習指導要領の中身を学校の実情に合わせて改訂することを担当していたはずの石坂教頭が、基本マニュアルの表現その他をそのままにして運用していました。
その時校庭に立っていた石坂教頭本人は、こうした漠然とした表現を目の前の現実に当てはめようとしていたのです。
「一次避難場所:学校の敷地…津波の場合の二次避難場所は学校近くの空き地、公園、その他…」
しかしこんな曖昧な表現は現実の役には立ちませんでした。
「公園など」という表現がありましたが、田園地帯である大川小学校の周りには畑や丘があるばかりで公園などは見当たらず、こうした場所ではほとんど意味をなしませんでした。
そして「空き地」については、周囲のいたるところにありましたが、問題は避難すべき場所をどうやって選ぶのかという事だったのです。
現実には明らかに安全な場所がありました。
大川学校は一番高いところで標高が220メートルの森におおわれた丘のすぐ前にあったのです。
数年前まで子どもたちは理科の授業の一環として、シイタケの栽培を行うためにこの丘に実際に登っていたのです。
この丘は最年少の子供たちですら簡単に上り下りできるような勾配しかなく、5分もあれば一番高い場所に行く着くことが可能だったのです。
海抜をはるかに超える津波が襲ってきても、5分あれば大川小学校の子どもたちは全員がその影響が及ばない安全な場所まで避難することが可能だったはずでした。
年配の教師のひとり、遠藤淳二先生は逃げ遅れた生徒がいないかどうかチェックをした後で、石坂教頭と交わした短い会話を覚えていました。
「私たちがすべきことは何ですか?急いで丘の上に避難すべきじゃないですか?」
しかし私はこう告げられたのです。
「余震が続くうちはそんなことは不可能だ。」
しかし生き残ることができた6年生の女子の1人は、もっと劇的な場面を記憶していました。
遠藤淳二先生は学校から飛び出すと大声でこう叫びました。
「丘、丘の上!丘の上に走って逃げろ!」
遠藤先生の警告に従おうとしたのは6年生の男子生徒、紺野大介くんと友人の佐藤裕樹くんです。彼らは担任の佐々木隆志先生にこう訴えました。
「先生、丘の上に逃げましょう。
遠藤先生が発した警告にすぐに反応した生徒たちがいました。
6年生の今野大輔くんと友人の佐藤優樹くんです。
二人も自分たちの担任の佐々木隆先生にこう訴えました。
「丘の上に避難すべきです。このままここにとどまっていたら、地割れが起きてそこにのみ込まれてしまうかもしれません。ここにいたら死んでしまいます!」
少年たちは丘の上の椎茸の栽培場に向かって駆け出しました。
しかし遠藤先生の提案は却下され、避難しようとした生徒たちもクラスのみんながいる場所に戻るよう命じられました。
このとき2つの異なるグループの人々が学校に集まり始めていました。
最初は両親や祖父母で、子供たちを迎えに車と徒歩でやってきました。
2番目は地元集落の人々でした。
大川小学校は近隣の釜谷地区の住民の指定避難場所だったのです。
このことが事態の展開を一層複雑なものにしてしまいました。
そして2つグループの間には明らかな意見の違いがあり、時に表立って意見がぶつかり合うこともありました。
教育委員会がまとめた記録には、この時の心情が綴られていますが、両親は、子供たちをできるだけ早く避難させたいと考えていました。
子供:私のお母さんが私を迎えに来てくれました。
私は佐々木先生に親と一緒家に帰りますと告げました。
でも私たちは、「今家に帰るのは危険だから、学校にいるほうがいい」と言われました。
親:私は佐々木先生に、
「ラジオでは10メートルの津波が来ると警報渓谷しています。」と言いました。
そして丘の上を指差してこう言いました。
「丘の上に避難してください!」
しかし私は、こう言われたのです。
「まあまあ、落ち着いてください、お母さん。」
この時地元の住民たちは、多くが大川小学校にとどまることを望んでいました。
学校にやってきたのはほとんどが専業主婦の母親たちでした。
そして留まり続けるよう主張していたのはほとんどが退職者、高齢者、男性でした。
それは何世紀も前に津波が襲ってきた時に記録されていた、人々の行動の再現であったかもしれません。
早く対応するよう訴えかける女性たちの声と、年老いたものたちの傲岸とも見える否定的な態度のぶつかり合いでした。
-《3》に続く –
欧米メディアに大きく取り上げられているドキュメンタリー、その著者自らが綴る3.11の最大の悲劇
眼前に広がる無数の死や無惨な様子、そのとき受けた衝撃、心と体は……
リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日
2011年、東北地方の太平洋岸を津波が襲いました。
この津波では18,000人以上が犠牲になりました。
災害発生からすでに6年が経過しましたが、たった数秒間で運命を暗転させてしまった取り返しのつかない当時の決断により、未だに苦しみ続けている地域があります。
リチャード・ロイド・パリー/ロング・リード/ ガーディアン 24 August 2017
2011年3月11日金曜日に日本の東北太平洋岸を襲った地震は、世界の地震学の歴史上4番目に強力なものでした。
この地震は地軸を6インチ(15センチメートル)傾けるほど強力なものでした。
そして日本をアメリカに4メートル近づけました。
この地震によって発生した津波によって18,000人以上が死亡しました。
津波の高さは最大で40メートルに達しました。
50万の人びとが住む家を失いました。
そして福島第一発電所の3基の原子炉が崩壊して周囲の国土に放射能を撒き散らし、チェルノブイリ以来の世界最悪の原子力事故が引き起こされました。
地震と津波は2億1,100万ドル以上(約2兆3,000億円)の被害をもたらし、これまでで最も費用が高額な自然災害となっています。
苦痛と不安は様々な側面で計り知れない程、そして急激に膨れ上がりました。
それは直接的な被害を受けなかった人々ですら同様であったのです。
突然自分たちが育てた農産物を売ることができなくなった農民たちは、途方に暮れるしかありませんでした。
福島第一原発の事故に直接責任が無い電力会社の労働者は、自分たちが非難と差別の対象となってしまっていることに気づかされました。
眼には見えない放射能汚染への恐怖が人々の中で一般化され、空気を介し、そして多分水をも介して拡大し、母親たちの母乳すら汚染が疑われる事態となったのです。
戦場や被災地で働く人々はしばらくすると、現実を自分の頭の中から追い出すコツをつかみます。
これは職業上必要なことです。
医師、救助隊員あるいは報道関係者が、眼前に広がる死や無惨なありさますべてに衝撃を受けていたのでは心も体ももつはずがなく、仕事を続けることは不可能になってしまいます。
私自身、海外特派員や戦場特派員として働く中で、いちいちの悲劇を個人として受け止めることなく思いやりを持って対応するという技術を身に着けました。
私は実際に何が起きたのかその事実を把握しており、それがどれだけぞっとするでき事なのかも理解していました。
しかし心の奥底では、ぞっとしてはいませんでした。
「一瞬にして、私たちは想像でしかなかったはずのものが現実に目の前に展開されていることを理解しました。」
ジャーナリストのフィリップ・グレビッチ(Philip Gourevitch)がこのように書き残しました。
「こうした立場に立てるという事が私を最も魅了していることなのです。何が本当であるかを私自身が考えて答えを出す必要があります。」
一口に災害と言ってもその構成要因であるひとつひとつのできごとはまったく異なり、それぞれが持つ意味合いもまた違っており、私自身揺るぎない真実を書き綴っているという確信などはみじんも感じていませんでした。
取材を続けていた数週間、私が感じていたのは疑問、同情、そして悲しみでした。
しかしほとんどの時間、私は通常の感覚を失ったまま孤立したように感じ、何か重要なポイントを見失っているような厄介な感覚に苛まれていました。
そして他とは比較にならない程の悲劇に見舞われた小さなコミュニティに関する情報を得たのはずいぶん後になってからのことで、津波による被害が発生した年の夏のことでした。
その地の名前は大川、丘の下の田んぼに囲まれた、日本各地にある普段は目立たないような場所にありました。
被災地での取材は数年間に及びましたが、その間私はこの地を何度も訪れることになったのです。
そして徐々に大川小学校のイメージが私の中に徐々に出来上がっていったのです。
大川小学校がある場所は首都の東京から300キロ以上北にあり、日本有数の大河である北上川が太平洋に注ぎ込む場所から3キロほど内陸の地点の釜屋という集落です。
その場所がある東北地方は寒く酷烈な気候と、かつては野蛮人や鬼たちが独自の王国を築いていた場所として有名でした。
今日でさえ都会の住人から見れば、その場所は辺鄙で人口も少なく、何となく憂鬱な典型的農村というイメージの域を出ません
大川小学生に通っていた生徒の一人、只野哲也くんは髪の毛を五分刈りにした、優しい快活な雰囲気を持った11歳の男の子でした。
毎朝、彼は9歳になった妹のみなさんと一緒に川沿いの道を20分歩いて学校に通っていました。
東日本大震災当日は、母親の40歳の誕生日でした。
その日の夜は自宅でささやかなお祝いをする予定でしたが、それ以外はふだんと変わらない金曜日の午後になるはずでした。
昼休みには、子供たちは校舎に囲まれた校庭で一輪車に乗って遊んだり、四葉のクローバーを探したり思い思いに遊んでいました。
しかし川の方からは刺すような冷たい風が吹いてきており、哲也くんとその友達は両手をポケットに入れ、風に背中を向けて一列に並んで寒さをしのいでいました。
その日大川小学校の授業は午後2時半に終了しました。
午後2時45分、スクールバスはエンジンをかけたまま出発を待っていました。
数人の低学年の子供たちはすでにバスの中にいましたが、ほとんどの子供たちはまだ教室にいて、今週の最後の授業を終えようとしているところでした。
その 1分後、6年生のクラスの子どもたちは、この日誕生日をむかえたまんのという同級生の女の子ためにハッピーバースデー歌っていました。
地震が襲ったのは歌が真中に差し掛かった時でした。
当時6年生だった男の子の佐藤壮真くんは、はじめ教室が非常にゆっくりと左右に揺れていたと語りました。
「小さい揺れではありませんでした。巨大でした。先生たちは『机につかまりなさい』と言っていました。」
図書室に具合が悪くなって保健室で休んでいた息子を迎えにきた男性、鈴木真一さんがいました。
鈴木さんは魚を飼育している水槽内の水が大きく波打つのを目撃しました。
5年生の哲也くんのクラスでは帰宅の準備が始まっていました
「地震が襲ってきたとき、ぼくたちは全員机の下に身を隠しました。」
「揺れが強くなるにつれて、みんな口々に『うわあ! これは大きいぞ! みんな大丈夫か?」
強い揺れが止んだ時、すぐに先生が「私の後についてみんな外に出なさい!」
と言ったので、私たちは全員ヘルメットをかぶって外に飛び出しました。
-《2》に続く –
+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +
この稿は今年8月30日に刊行され、エコノミストやガーディアンの書評で大きく取り上げられている『ツナミ・オブ・ザ・ゴースト』の著者であるリチャード・ロイド・パリー氏の自身の手になるものです。