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【 ヒロシマを訪問した初のアメリカ大統領、その重責を果たしたバラク・オバマ 】

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原爆投下は人道に対する犯罪の要件を充分に満たす / 第二次世界大戦終結のための切り札
アメリカの太平洋戦争退役兵士と日本の被爆者の減少は、日米関係に何をもたらすか?
きわめて残虐な破壊力を持つ核兵器が支配する現在の体制の破壊を!

 

エコノミスト 5月28日

オバマin広島
沿道に詰めかけた大勢の市民が見守る中、車中のオバマ大統領は広島市内を平和祈念公園に向けて走り抜けていきました。
そしてその場を去ってから1時間半の後、多数の市民が大統領が花輪を捧げた公園内の記念碑の前に集まりました。
オバマ大統領はアメリカが1945年8月6日に広島に投下した原爆の対価として、人間が支払わなければならなかった残酷この上ない結果を集めた原爆資料館(広島平和記念資料館)も初めて訪れました。

その後大統領は高齢になった被爆者たち、原爆が投下された運命の日広島市内に居ながら何とか生き残ることが出来た人々と直接面談しました。
被爆者は戦後70年以上を経た今、存命の人々は年々その数を減らしています。
歴史的場面をその目で確かめようと自転車に乗った子供たちと若い親たち、そして年配の人びとも争ってその場にやってきたため、それまでその場を支配していた重苦しい雰囲気は何か別の華やいだものに変わりました。

広島29
広島及びその3日後には長崎に原爆を投下し、多数の市民を殺害したことに対する正式の謝罪が行なわれなかったにもかかわらず、オバマ大統領の訪問は、広島市のみならず日本全国の人々が歓迎するところとなりました。

2回の原爆投下とその後に発生した放射線障害は20万人の命を奪いましたが、犠牲者の多くは一般市民でした。
原爆投下は人道に対する犯罪の要件を充分に満たすものと考えることができるかもしれません。
しかしこれまで長い間アメリカ人は、原爆投下により長期にわたり続いていた太平洋戦争の終結を早めることが出来たと主張してきました。
太平洋戦争における日本の立場は明らかに侵略者でした。

広島では日本人はオバマ大統領が謝罪を行なわないことについて仕方がないと考えているようでしたが、被爆者のひとりである角本寿昭さんは、オバマ大統領が無言の内にも謝罪していたことを望んでいると語りました。

広島12
人道的な見地並びに複雑な感情が交錯する状況の中で彼が置かれていた立場を思えば、爆心地におけるアメリカ大統領のスピーチは誰もが納得できる内容を備えていました。
「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。」
オバマ大統領の演説は人間の暴力の歴史から、第二次世界大戦(太平洋戦争)のすべての犠牲者が被った被害にまで、きわめて広範な事実を網羅するものでした。
オバマ大統領は核兵器が持つきわめて残虐な力について「原子の分裂を可能にした科学の革命には、倫理的な革命も必要なのです」と語り、ロシアとアメリカが圧倒的多数を保有している核兵器について、世界が核兵器を保有しているという状況を破壊するよう求めたのです。

大統領はさらに普段は顧みられることの少ない原爆の歴史的事実にも触れました。
数千人の朝鮮半島出身者と数少ない中国人は西日本に連行され、そこで日本の戦争遂行のため身を身を焼かれるほどの強制労働に従事させられ、そして最後は原爆によって文字通り焼き殺されてしまいました。
そして大統領と肩を抱き合った被爆者のひとりである森茂暁氏は、原爆犠牲者の中に12人のアメリカ兵捕虜がいたことを歴史に留めようと長い間運動を続けてきました。

長崎03
オバマ大統領が広島に滞在していた間、ほとんどの場でその脇に日本の安倍首相がいました。
安倍首相は、まさにオバマ大統領が広島で行った演説に象徴されるような考え方を快く思わない日本の右派自民党のメンバーです。
自民党は、オバマ大統領の演説の中身が日本国内の反戦運動家、もっと厄介な原子力発電の継続に反対する人々、さらには日米の安全保障同盟に反対の立場をとる人々に対する支援となることを危惧していました。

一方左派の人々は、アジア全域で大日本帝国の軍国主義の犠牲になった人々に対する公平な理解を欠いたまま、原爆資料館や原爆遺構が狭い意味でのみ強調されていると考えています。

安部首相、そして考え方が近い人々は、日本は太平洋戦争についてすでに充分以上の謝罪を済ませたと考えています。
しかしアジア地区における中国の軍事的台頭を前に、日本にとってアメリカとの強い同盟関係は重要であり、さらに安倍首相にとって広島を訪れたオバマ大統領の脇に常に付き添う事は、自分の立場を強化するためのひとつの方法でした。

真珠湾攻撃
無警告の奇襲攻撃として歴史上悪名高く、アメリカが第二次世界大戦に参戦する直接のきっかけを作った1941年12月の真珠湾攻撃の舞台となったハワイで、安倍首相は今年度末、犠牲となったアメリカ兵に弔意を捧げることになるかもしれません。
日本の有名な知識人である船橋洋一氏は、そうなれば日本人とアメリカ人の和解に関する長いプロセスを一挙に進めることになると語りました。

時の経過も有利な材料になりました。
1995年、ワシントンにあるスミソニアン博物館が50周年の記念日に企画した原爆展と関連するイベントについて、第二次世界大戦の退役兵士と一部の議員がアメリカが日本に対し限度を超えた暴力を行使したかのごとく扱っているとして、博物館の館長を厳しく非難しました。
結局この展覧会は原爆を広島に投下したB29爆撃機エイノラ・ゲイの展示ブース、そして連合国を勝利に導いた各種の兵器、アメリカ式戦争遂行のノウハウと軍事力がどんなものであったを具体的に展示しただけに終りました。
それから21年が経過し、第二次世界大戦の退役兵士の生存者も減少し、原爆投下について総合的局面から考えるアメリカ人が多くなり、相反する評価が存在するようになりました。

広島17
オバマ大統領の核兵器の無い世界の実現という高邁な理想が広島を中心に世界にこだましているそのさ中、歓迎されざる不気味な化け物が隅の方から式典を全く違う目で見ていました。
キム・ジョンウン、国際社会から孤立した凶暴な北朝鮮政府の若き独裁者は広島から800キロメートル離れた場所で、配下の技術者と将軍たちに核兵器開発能力を強化するよう強く迫っていました。
その実現の日は近いというのが専らの観測です。
アメリカがすぐに核兵器の無い国家に変貌することはなさそうです。
そして日本は、その事実を強調することはありませんが、アメリカの核の傘の下にいる限り、それ程心配することもなさそうです。

http://www.economist.com/news/asia/21699707-hiroshima-welcomes-first-serving-american-president-visit-city-its-destruction?zid=306&ah=1b164dbd43b0cb27ba0d4c3b12a5e227
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【 広島平和記念公園におけるバラク・オバマ大統領の演説 】(広島平和記念公園)全文

アメリカ大使館 2016年5月27日

オバマ広島訪問02
71年前の明るく晴れわたった朝、空から死が降ってきて世界は一変しました。閃光(せんこう)と炎の壁によって町が破壊され、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことがはっきりと示されました。
私たちはなぜ、ここ広島を訪れるのでしょうか。それほど遠くない過去に解き放たれた、恐ろしい力についてじっくりと考えるためです。10万人を超える日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮半島出身の人々、12人の米国人捕虜など、亡くなった方々を悼むためです。こうした犠牲者の魂は私たちに語りかけます。彼らは私たちに内省を求め、私たちが何者であるか、そして私たちがどのような人間になるかについて考えるよう促します。

広島を特別な場所にしているのは、戦争という事実ではありません。古代の遺物を見れば、人類の誕生とともに暴力的な紛争も生まれたことが分かります。人類の初期の祖先たちは、火打ち石から刃物を、木からやりを作ることを覚え、こうした道具を狩猟だけでなく、人間を攻撃するためにも使いました。どの大陸においても、原因が穀物の不足か、金塊を求めてか、強い愛国心か、熱心な信仰心かにかかわらず、文明の歴史は戦争で満たされています。帝国は盛衰し、人々は隷属させられたり解放されたりしました。その節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の人々が犠牲となりましたが、その名前は時間の経過とともに忘れ去られました。

広島、長崎で残酷な終結を迎えたあの世界大戦は、世界で最も豊かで最も力を持つ国同士の戦いでした。これらの国々の文明により、世界は素晴らしい都市と見事な芸術を得ることができました。これらの国々から生まれた思想家たちは、正義と調和と真実の思想を唱道しました。しかし、この戦争を生んだのは、最も素朴な部族の間で紛争の原因となったものと同じ、支配したいという基本的な本能でした。古くから繰り返されてきたことが、新たな制約を受けることなく、新たな能力によって増幅されました。わずか数年の間に、およそ6000万人の人々が亡くなることになりました。子どもを含む、私たちと同じ人々が弾丸を浴び、殴られ、行進させられ、爆撃され、投獄され、飢え、ガス室に送られて死んでいったのです。

世界には、この悲劇を記録する場所がたくさんあります。勇気と英雄的な行為の物語を伝える記念碑、言葉では言い表せない悪行を思い起こさせる墓地や誰もいない収容所などです。しかし、空に立ち上るキノコ雲の映像の中に、私たちは、人間が抱える根本的な矛盾を非常にはっきりと思い起こすことができます。すなわち、人間の種として特徴付ける、まさにその火花、つまり私たちの思想、想像力、言語、道具を作る能力、人間を自然から引き離し、自分の思いどおりに自然を変える能力が、比類ない破壊をもたらす力を私たちに与えたのです。

物質的進歩や社会的革新によって、この真実が見えなくなることはどれほどあるでしょうか。より大きな大義の名の下に、暴力を正当化する術を身に付けることは非常に容易です。全ての偉大な宗教は、愛と平和と正義に至る道を約束します。しかし、いかなる宗教にも、信仰を殺人の許可と考える信者がいます。国家というものは、自らを犠牲にして協力し、素晴らしい偉業を成し遂げるために人々を団結させる物語を語って生まれます。しかし、その同じ物語が、自分たちと異なる人々を弾圧し、人間性を奪うために何度も使われてきました。

科学によって人間は、海を越えて通信し、雲の上を飛び、病を治し、宇宙を理解することができるようになりました。しかし、こうした同じ発見を、これまで以上に効率的な殺人マシンに転用することもできます。

現代の戦争はこの真実を教えてくれます。広島はこの真実を教えてくれます。人間社会に同等の進歩がないまま技術が進歩すれば、私たちは破滅するでしょう。原子の分裂を可能にした科学の革命には、倫理的な革命も必要なのです。

オバマ広島訪問01
だからこそ私たちは、この場所を訪れるのです。この町の中心に立ち、勇気を奮い起こして原爆が投下された瞬間を想像してみるのです。目にしている光景に当惑した子どもたちの恐怖を感じてみるのです。 声なき叫び声に耳を傾けるのです。私たちは、あの恐ろしい戦争、それ以前に起きた戦争、そしてこれから起こるであろう戦争の犠牲になった罪のない人々のことを忘れてはいません。

単なる言葉では、このような苦しみを伝えることはできません。しかし私たちは歴史を真っ向から見据え、このような苦しみが二度と起きないようにするために、どのように行動を変えればいいのかを考える責任を共有しています。いつの日か、証人としての被爆者の声を聞くことがかなわなくなる日が来ます。けれども1945年8月6日の朝の記憶が薄れることがあってはなりません。この記憶のおかげで、私たちは現状を変えなければならないという気持ちになり、私たちの倫理的想像力に火がつくのです。そして私たちは変わることができるのです。

あの運命の日以降、私たちは希望に向かう選択をしてきました。日米両国は同盟を結んだだけでなく友情も育み、戦争を通じて得るものよりはるかに大きなものを国民のために勝ち取りました。欧州諸国は、戦場の代わりに、通商と民主主義の絆を通した連合を築きました。抑圧された人々や国々は解放を勝ち取りました。国際社会は、戦争の回避や、核兵器の制限、縮小、最終的には廃絶につながる機関や条約をつくりました。

しかし、国家間の全ての侵略行為や、今日世界で目の当たりにする全てのテロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、私たちの仕事に終わりがないことを物語っています。人間が悪を行う能力をなくすことはできないかもしれません。ですから私たちがつくり上げる国家や同盟は、自らを防衛する手段を持つ必要があります。しかし私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければなりません。

私が生きている間に、この目標を実現することはできないかもしれません。しかし粘り強い努力によって、大惨事が起きる可能性を低くすることができます。保有する核の根絶につながる道を示すことができます。核の拡散を止め、大きな破壊力を持つ物質が狂信者の手に渡らないようにすることができます。

しかし、これだけでは不十分です。なぜなら今日世界を見渡せば、粗雑なライフルやたる爆弾さえも、恐ろしいほど大きな規模での暴力を可能にするからです。戦争自体に対する私たちの考え方も変えるべきです。そして外交を通じて紛争を回避し、始まった紛争を終結させるために努力すべきです。相互依存の高まりを、暴力的な争いではなく平和的な協力を生むものであると理解し、それぞれの国を破壊能力ではなく、構築する能力によって定義すべきです。

とりわけ、私たちは人類の一員としての相互の結び付きについて再考すべきです。これも人類を他の種と区別する要素だからです。私たちは、遺伝子コードによって、過去の過ちを繰り返すよう定められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選択することができます。子どもたちに異なる物語、つまり共通の人間性を伝える物語であり、戦争の可能性を低下させ、残虐行為を受け入れ難くするような物語を話すことができます。

私たちは、こうした物語を被爆者の方々に見てとることができます。原爆を投下したパイロットを許した女性がいます。本当に憎んでいたのは戦争そのものであることに気づいたからです。この地で命を落とした米国人の遺族を探し出した男性がいます。彼らが失ったものは自分が失ったものと同じだと信じたからです。私の国の物語は簡潔な言葉で始まりました。「万人は平等に創られ、また生命、自由および幸福追求を含む不可譲(ふかじょう)の権利を、創造主から与えられている」というものです。こうした理想を実現することは、国内においても、自国の市民の間でも決して容易ではありません。

しかし、この理想に忠実であろうと取り組む価値はあります。これは実現に向けて努力すべき理想であり、この理想は大陸や大洋を越えます。全ての人が持つ、減じることのできない価値。いかなる命も貴重だという主張。私たちは、人類というひとつの家族の一員であるという基本的で必要な概念。これこそ私たちが皆、語らなければならない物語です。

だからこそ、人は広島を訪れるのです。そして大切に思う人々のことを思い浮かべます。朝一番に見せる子どもの笑顔。食卓でそっと触れる伴侶の手の優しさ。ホッとさせてくれる親の抱擁。こうしたことを考えるとき、私たちはこの同じ貴重な瞬間が71年前、ここにもあったことを知ることができます。犠牲となった方々は、私たちと同じです。普通の人々にはこれが分かるでしょう。彼らはこれ以上戦争を望んでいません。科学の感嘆すべき力を、人の命を奪うのではなく、生活を向上させるために使ってほしいと思っています。

国家が選択を行うとき、指導者が行う選択がこの分かりやすい良識を反映するものであるとき、広島の教訓が生かされることになります。

この地で世界は永遠に変わりました。しかし、今日この町に住む子どもたちは平和な中で一日を過ごします。なんと素晴らしいことでしょう。これは守る価値があることであり、全ての子どもに与える価値があることです。こうした未来を私たちは選ぶことができます。そしてその未来において、広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たち自身が倫理的に目覚めることの始まりとして知られるようになるでしょう。

http://japanese.japan.usembassy.gov/j/p/tpj-20160527-02.html

【 強制収容所の中でヒロシマ原爆攻撃の第一報を聞いて : ジョージ・タケイ 】

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所要時間 約 12分

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平和と外交による紛争解決の実現にこだわらなければ、私たちは想像もできない規模の大量破壊の恐怖を繰り返す
戦争はいつの時代にも罪のない人々を大量に死に追いやる、人類にとって最も過酷な状況を作りだす
力を合わせて軍備の縮小と核兵器の無い世界を実現し、原爆犠牲者と被爆者の願いを形にしよう

ジョージ・タケイ(日系アメリカ人二世の俳優) / ガーディアン 5月30日

広島14
広島に原爆攻撃が行なわれたその日、私たちは日系アメリカ人を実質的に投獄していた抑留キャンプの中にいました。
何が起きたかがわかると、私たちは希望を失うほどの悲しみに打ちひしがれました。

バラク・オバマ氏は5月27日、ヒロシマを訪問した史上初のアメリカ大統領になりました。
原爆を投下された広島は、アメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)の終了を早めるため世界史上初めて核兵器を使用した場所であり、市内全域が壊滅して70,000人が死亡、その後の2ヵ月間でさらに70,000人以上が死亡しました。
ヒロシマの犠牲者の中に、私の親族もいました – 私の母の姉妹とその5歳の子供です。
遺体は広島市内の運河に浮かんでいましたが、爆発によってほとんど見分けのつかないほどの火傷を負っていました。

このニュースに連合国側の市民は喝采を送りました。
彼らにとって、原爆攻撃の成功は第二次世界大戦の終了が早まることを意味していたからです。
さらには自分たち自身とその家族が、血なまぐさい戦場から解放されることを意味していたからです。

ヒロシマ02
しかし戦争が終了し平和が訪れた後に、広島への『原爆攻撃の成功』がどのような結果をもたらしたのか、本当に理解すべき時が訪れました。
人類はひとつの都市を完全に破壊しただけでなく、社会と文明を完全に破壊してしまう可能性がある新たな、そしてきわめて危険な時代に入ったのです。

攻撃の当日、私と家族はカリフォルニア州にあったトゥレレイクにあった日系アメリカ人の強制収容所に居ました。
真珠湾が日本によって奇襲攻撃を受けてから間もなく、西海岸にいた日系アメリカ人は米国政府の命令により強制収容所に投獄されることになりました。
収容所内では広島に関する虚実取り混ぜた噂とも事実ともつかない話が瞬く間に広がりました。
収容所では私たちは外部のあらゆるニュースから隔絶されており、公式の発表などに触れることはまったくできない状況に置かれていました。

母は広島にいる姉妹や親戚の安否を確かめようとヒステリックになっていました。
彼らの生死はまったくわからなかりませんでした。
母の家族は開戦直前、アメリカ国内からまさに広島に向かって帰国してしまっていたのです。

広島26
私たちはそうした噂を信じるべきかどうか、判断のしようがありませんでした。
それにたった一個爆弾を落としただけで、広島のような大きな都市を丸ごと破壊して市民を皆殺しにするようなことが果たして出来るのかどうかという疑問もありました。

しかし真実が明らかになると、私たちは恐怖と深い悲しみに打ちのめされました。
これだけの破壊をしてのけた爆発のものすごさを想像せずにはいられませんでした。

父は広島にいる親類は全滅したと考える方が良いとほのめかし、母は事実が何もわからないという状況の中で苦しまなければなりませんでした。
しかし一方で私たちは原爆の投下により私たちの強制収容所での暮らしに終止符が打たれるであろうこと、広島の犠牲が日系アメリカ人が自由を取り戻すための対価のひとつになるのだという事を考えていました。

広島32
それから70年以上が経ちました。
謝罪に関するいかなる意思表示が無かったとしても、オバマ大統領の広島訪問には、歴史的に重要な意義があります。
ヒロシマには未だ原爆の攻撃の的にされた人々が生き残り、その中には長い間放射線による障害に苦しんでこられた方々もいます。
被爆者と呼ばれている方々です。
彼らはこの地球上で二度と核兵器が使われないようにするための運動に、その後の人生を捧げて来られました。

オバマ大統領の広島訪問の中で、最も感動的な出来事はその被爆者の中のひとりとの出会いによるものでした。
私と同じ79歳という年齢の森重昭さんはオバマ大統領を抱きしめながら、シンプルに次のように語りかけました。
「今日という日はアメリカが広島に与えた最高の一日になりました。」
私も含め多くの日本人と日系人は、この一言に込められた深い意味を理解すると同時に、心からの賛辞を送ります。

真珠湾
広島・長崎に投下された原爆は戦争を終わらせましたが、真珠湾に無惨酷烈な攻撃を行って戦争を始めたのは日本であるという事実により、一部の人々は広島・長崎に原爆を投下されたことについていかなる意味意義があるか、より深く検討する以前に、米国政府が公式の謝罪を行うべきかどうかについて疑問に思っています。
私自身は立場は違っても、戦争はいつの時代にも罪のない人々を死に追いやる、最も悲しむべき出来事であるという認識だけは共有できれば良いと思っています。

被爆者が思い描いているように、過去の定義にこだわる代わりに私たちが焦点を合わせるべきなのは、核兵器使用が本当に過去の出来事で終わるようにすることです。

私はオバマ大統領が求める核兵器のない世界の実現という理想を共有します。
この言葉の意味するものをただの理想で終わらせてはなりません。

原爆実験第1号
拡散防止を実現するために必要な対応は一層厳しい制裁を課すことなのか、それとも条約等の拘束力を強化することなのかは、熱心に議論が行なわれているところです。
いずれの方法とをとるにせよ、各国各地の人々がより密接に協力し合わ打事を誓わなければなりません。
そして核兵器そのものの数を減らすことも大切ですが、それを保有したり手に入れようとする国の数を減らすことも重要です。

こうしたことから私は日本、韓国、サウジアラビアが核兵器保有国の仲間入りをし、国の防衛に核兵器を装備すれば良いという最近のドナルド・トランプの提案を心から嫌悪せざるを得ません。
もしそんなことをすればこれらの国々が核兵器使用への第一歩を踏み出すことになるだろうという見解を私は支持します。
新たに核兵器を保有すれば、その国は未知の、そして一度動き出したら誰も止められなくなる危険を抱え込むことになるでしょう。

空襲01
私はこれまでもしばしば訪問したことがある広島に、つい最近も行ってきました。

あの灰燼の中からこれ程の近代都市へと生まれ変わった広島市を見ると、人類の技術的才能がこの70年の間にどれ程進歩したかを改めて思い知らされる一方で、相変わらず紛争の解決に戦争という手段を取りたがり、より強力な武器の開発に狂奔する人類の現実を思わないわけにはいきません。

平和と外交的解決の実現にこだわり続け、その実現に具体的に取り組まなければ、私たちは想像もできないスケールで量破壊の恐怖を繰り返すリスクを冒しつづけることになります。

どうかみなさん、軍備の縮小と核兵器の無い世界の実現のため、力を合わせて改めて取り組みを行うことにより、広島原爆の犠牲者と被爆者の方々の願いを現実のものにしましょう。

http://www.theguardian.com/commentisfree/2016/may/30/hiroshima-family-members-among-dead-george-takei
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【 硫黄島の星条旗に関わるミステリー 】《3》

アメリカNBCニュース 5月30日

硫黄島03
カリフォルニア州グラス・バレーで暮らすダスティン・スペンスのような硫黄島の歴史家にとって、消えてしまったすり鉢山の星条旗の写真は探求すべきテーマの一つになりました。
「将来的にはすり鉢山の山頂でバーンズ上等兵が撮影した写真が発見されることになるだろう、私はそう考えています。」
「有名な写真を撮影したローゼンタールが、すり鉢山の山頂にいるバーンズ上等兵の写真を撮影している訳ですから。彼が何も撮影しなかったとすることの方が不自然であり、私たちが未だ見つけることができずにいるという事のほうが真実だと思います。」

硫黄島05
バーンズ上等兵とバーマイスター軍曹はローゼンタールに数時間先んじて標高170メートルのすり鉢山の山頂に居て、後に有名になった大きな星条旗が打ち立てられる以前に掲げられていた小さな星条旗の周りでポーズをとる海兵隊員の写真を撮影していました。
彼らは山頂付近にとどまり、そこにローゼンタールと別の海兵隊のカメラマン2名が加わりました。
ボブ・キャンベル上等兵とビル・ゲナウスト軍曹、さらに氏名不詳の沿岸警備隊カメラマン1名です。
ゲナウスト軍曹はこの時、動画も撮影しました。

硫黄島06
1968年3月16日のニューヨーク・ミラー誌に掲載されたバーンズ上等兵の寄稿文の一部が、この日の彼の行動について最も完全に証明していると判断されます。
「すり鉢山の山頂に大きな星条旗が掲げられた時、私とジョー(ローゼンタール)は並んでそのシーンの写真を撮影しました。」
「有名になったローゼンタールの写真は私の写真と一緒にグアムにあった海軍検閲局に送られ、ともにそれぞれのもとに戻されました。」
バーンズはさらにこう書きました。
「そのとき、世界的に有名になった一枚の写真を選び出したのはマレイ・ベフェラーという名の写真コーディネーターでした。」

硫黄島07
ベフェラー氏は1968年8月に亡くなりましたが、息子のマイク・ベフェラー氏はNBCの取材に対し、彼の父親はバーンズの写真のその後の運命には直接関わってはいなかったはずだと語りました。
「私は父がローゼンタールについて語るのは聞いたことがありますが、ジョージ・バーンズという名前は一度も耳にしたことはありません。」
父が軍関係者が撮影した写真を見たかどうかははっきりしません。父はAP通信の写真を扱うのが仕事でしたから。」

ローゼンタールの『スクープ写真』の扱いについて戦場カメラマン協会は、アメリカ軍当局の官僚体質を批判する記事を機関紙に掲載しました。

「同じ題材を撮影しながら、バーンズだけが不運を背負い込むことになりました。彼の写真は軍の検閲によって故意に発表が遅らされ、ローゼンタールの写真だけが歴史的な評価を得ることになってしまいました。」
署名なしの記事にはこう書かれていました。
しかしこの記事中にも、バーンズの写真がその後どうなったのかについては書かれていません。

硫黄島08
「バーンズがすり鉢山頂上で撮影したし一連の写真にはローゼンタールの有名な写真に似たものがあったはずですが、軍のカメラマンたちの写真にはそうしたものは一枚も見当たらないのです。」

http://www.nbcnews.com/news/us-news/star-spangled-mystery-what-became-lost-iwo-jima-flag-raising-n581741

【「広島の教訓を平和な社会の実現のため役立てる」そんな気持ちは持ち合わせていない安倍首相 】《後篇》

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所要時間 約 10分

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安倍政権による憲法の解釈変更は、憲法第9条を空文化するための法的整合性の無い目晦まし行為
安倍首相の軍事拡大路線を支持しない日本国民、しかし『経済優先』の表看板に惑わされ続けている
安倍政権の軍拡路線を支持させるため、ことさらに強調される『中国、北朝鮮の脅威』

 

ジョナサン・ソブル / ニューヨークタイムズ 5月26日

NYT広島01
安部首相による『戦後体制の変更』はオバマ政権に歓迎されました。
アメリカはアジア地区における軍事的プレゼンス(存在感)を強化するため、軍事部門への投資を拡大しようとしていますが、実現するためには同盟国の援助を必要とします。

しかし安倍首相のこうした取り組みは、大日本帝国による侵略と植民地化の記憶がまだ生々しく残るアジアの多くの地域で、中でも特に中国において不安を引き起こしました。

安倍首相は彼の政権が『憲法の再解釈』を行った直後、安全保障関連法案を国会で強行採決しました。
法律関係の学識経験者や原爆に関わる平和活動団体などはこの動きについて、日本国憲法の平和条項である第9条を骨抜きにするための法的に整合性の無い目晦まし行為だと非難しました。

安全保障法案03
原爆投下70年目を迎えた2015年8月、被爆者を代表する7つの団体の代表が安全保障関連法案を取り下げるよう求める書簡を安倍首相に送りました。
しかし安倍首相はこれを拒否、法案はその翌月、国会で成立しました。

平和団体はこの法律の違法性を法廷の場で争う準備を進めています。
しかし日本の最高裁判所はこれまで、安全保障問題に関して日本政府とは別の立場から検証し直すことはしたことはありません。

第二次世界大戦についての日本の謝罪
世論調査の結果を見る限り、日本国民の大多数は安倍首相の軍事拡大路線『積極的平和主義』を支持していません。
しかしこの問題は多くの日本人にとって最優先事項ではないようです。

日本経済
多くの国民は安全保障に関わる問題よりも、長期にわたり停滞が続く日本経済始めとするもっと具体的な問題の方を重視しています。
安全保障関連法案反対の立場で一致した野党各党の支持率が一桁で低迷する一方、自民党の支持率はこれらをはっきりと上回っています。

安全保障関連法案を含む安倍首相の方針は相当程度の一般国民の抵抗に遭遇しました。
しかしこうした国民の抵抗感情も、それを担うべき野党間の内紛とリーダーシップの不在により、それを政治的な力としてまとめ上げることはできませんでした。

「多くの人々は安倍首相が行なっている防衛政策の転換を良く思ってはいません。」
現在大阪経済法科大学の浅井基文教授がこう語りました。
「しかし国民の多くは安倍首相とその支持者たちが『中国、北朝鮮(の脅威)』と声を張り上げると、(日本が軍事力を強化することも)仕方がないと考えるのです。」

広島原爆ドーム04
安倍首相の側近たちはオバマ大統領の広島訪問が、安倍首相に対する支持率を押し上げるだろうと期待しています。
オバマ大統領は被爆者が望んでいた謝罪こそ行いませんでしたが、その広島訪問を多くの日本人が歓迎しました。
そして安倍首相はオバマ大統領への好評価の余禄を得ることが出来た一方、局面の打開に悩む反安倍派は指をくわえているしかありませんでした。
「オバマ大統領が広島を訪問すれば、安倍首相の株はその分上がることになります。その事は結局、憲法第9条を恐ろしい結果へと導くことにつながってしまうのです。」
被爆者プロジェクト「証言の航海」を企画してアメリカを始めとする世界各国を訪問し、被爆者の体験を伝えた日本のNGO組織ピースボートの吉岡達也氏がこう語りました。

安倍首相はこの夏、上院にあたる参議院選挙の指揮をとらなければなりません。
首相側近は国政への直接的な影響力を持つ衆議院の解散総選挙も検討されていると語りました。
もし衆参同日選挙で自民党が勝利すれば、安倍首相はさらに4年間の任期を手にすることが出来、彼の支持者とともに憲法改定のゴールへと駆け込むことが出来ます。

安全保障関連法案の成立に拍手を送る与党議員たち

安全保障関連法案の成立に拍手を送る与党議員たち

広島で長年平和運動に携わってきた森滝春子さんは、オバマ大統領の広島訪問について、素直にうれしいと語り、もし可能であれば原爆投下は誤りであったと認めてくれればなおうれしいとも語りました。
彼女の父親は原爆投下で部分的に視力を失い、後に原水爆禁止日本協議会の設立者の一人になりました。

森滝さんは安倍首相の政策こそは広島が象徴する歴史的教訓を風化させてしまおうとするものだと語り、オバマ大統領がその安倍首相と一緒にスポットライトを浴びる場に立たざるを得なかったことについて、きわめて残念だったと語りました。
「私は原爆慰霊碑の前に立つオバマ大統領をこの目で確かめたいと思います。でもその脇に立っている安倍首相の姿は見たくありません。」
「私は広島の原爆犠牲者を悼むための施設が、安倍首相の政治目的に利用されるのを見たくはないのです。」

〈 完 〉

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【 硫黄島の星条旗に関わるミステリー 】《2》

アメリカNBCニュース 5月30日

硫黄島03
硫黄島で歴史的写真の撮影を行ったアメリカ陸軍カメラマンのバーンズ元上等兵は1988年5月7日亡くなりましたが、彼の遺品の中に1945年2月23日すり鉢山の頂上に大きな星条旗を打ち立てた瞬間を記録した写真はありませんでした。
国防総省にも、個人のコレクションの中にも見当たりませんでした。

こうしてバーンズの証言は次第に誰にも顧みられなくなっていったのです。
実際に星条旗を掲げた兵士の証言やローゼンタールの有名な写真にもバーンズの存在は確認できません。
『すり鉢山に掲げられた星条旗の影に("Shadow of Suribachi: Raising the Flags on Iwo Jima.")』の共同著者である歴史家パーカー・アルビーは、失われてしまったことにより一層興味をそそられると語りました。
「これこそは本当のミステリーです」
彼はNBCニュースの取材にこう答えました。
「我々はジョージ・バーンズがその時にその場所にいたということを知っています。しかし彼が撮影したとする写真に関する記録はほとんど見当たりません。」

多くの歴史家はバーンズ上等兵とバーマイスター軍曹が撮影した『第2の星条旗の掲揚』の瞬間を撮影したとされる写真が、ローゼンタールの有名な写真の印象を弱めてしまう事を避けるために、米国政府が故意に抹殺したと考えています。
APによって配信された瞬間からローゼンタールの写真には、あらゆる分野から賞賛が寄せられ、アメリカ国中の何百という新聞の一面を飾り、国内の愛国的熱意を最高潮へと盛り上げました。

硫黄島04
「ローゼンタールの写真を一番に強調したかったアメリカ海兵隊当局は、その目的のためそれ以外の写真を公開あるいは他部門に一切渡さなかった可能性があります。」
アルビー氏がこう語りました。
彼もまたアメリカ軍当局による他の写真の故意の隠滅を疑っている一人です。

すり鉢山の頂上に星条旗を打ち立てる第5軍米海兵隊第28連隊の兵士。ジョー・ローゼンタール撮影、ピュリッツァー賞受賞。

バーンズ上等兵の家族や親族は、彼が硫黄島で体験したことを世代越えて共有してきました。
彼らはアルビー氏の疑いはもっともであり、バーンズ上等兵の業績について正当な評価が下されるべきであると考えています。
「アメリカ陸軍のジョージ・バーンズ上等兵と海兵隊ルイス・バーマイスター軍曹は軍のカメラマンとして、星条旗を打ち立てる歴史的瞬間を撮影しました。それこそが事実です。」
ローゼンタールの業績にだけ光が当てられた歴史を振り返りながら、ニューヨークで暮らすバーンズ上等兵の甥のクリス・ビュレク氏がこう語りました。


http://www.nbcnews.com/news/us-news/star-spangled-mystery-what-became-lost-iwo-jima-flag-raising-n581741

【 「広島の教訓を平和な社会の実現のため役立てる」そんな気持ちは持ち合わせていない安倍首相 】《前篇》

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大日本帝国の軍国主義は、結局日本全土を焼き払われるという悲惨な結末を招き寄せた
国家として一切戦闘に関わらない日本の平和主義は、世界史上最長の記録を更新し続けている

ジョナサン・ソブル / ニューヨークタイムズ 5月26日

NYT広島01
東京は日本の政治、そして商業分野における首都です。
京都はいたるところに寺院がある伝統文化の宝庫です。
その一方、71年前にアメリカが投下した原子爆弾によって消滅させられた後、平和と経済的繁栄の下で新たに再建された広島は、現代日本の国家のアイデンティティの核心部分において多種多様な価値観の下に置かれています。

20世紀の前半、軍国主義者が支配する大日本帝国はアジアを引き裂きましたが、その戦争は結局日本全土を焼き払われる悲惨な結果を招きました。
そして迎えた敗戦により、日本は一夜のうちに民主主義と非好戦的姿勢を全面的に受け入れたかに見えました。

その日本の平和主義は1945年に同じように民主主義国家へと変貌したかつての同盟国であったドイツさえも上回り、国家として一切戦闘に関わらずにきたという記録を更新してきました。

しかしオバマ大統領が5月27日に広島を訪問したことにより、あらためてこの都市の存在と歴史的意義に世界的な注目が集まる一方、日本国内では被爆地広島が世界に向け訴えてきた理想にどんどん陰りが生じてきていることに対する懸念が深まっています。
これまで日本人の中に深く根付いてきた泥沼化する軍事紛争に対する心からの嫌悪は、安倍首相率いる保守タカ派による、軍事復権とも言うべき運動のかつてない攻撃の的になっています。

「ヒロシマという言葉には、ただの都市の名前という以上の意味があります。」
ノーベル賞受賞の文学者であり、直接の犠牲者だけでも併せて200,000人を超える広島と長崎への原爆攻撃、そしてその後の出来事について幅広く著述活動を行ってきた平和運動家でもある大江健三郎氏がこう語りました。
「ヒロシマという言葉には日本人の感性の中で最も大切な願いのひとつが込められていましたが、現在も尚その通りかどうか、私には確信がありません。」

NYT広島02
「日本国憲法は日本政府の憲法である以上に、広島の体験に基づく憲法なのです。」
大江氏は第二次世界大戦の敗北後、アメリカ合衆国によって導入され、日本社会の在り方を一変させた国家の基本法についてこのようにつけ加えました。

日本国憲法は戦争の放棄を宣言し、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定しています。

しかし国外における危険の度が強まりつつある中、平和憲法とそれを基底に持つ平和主義的法律は絶えざる攻撃にさらされることになりました。
広島を中心に長く続いてきた平和主義運動は、現在若い世代の人々への引き継ぎに困難が見えるようになりました。
これら若い世代の人々は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了して、すでに数世代を経ています。
「オバマ大統領の広島訪問は、都市として直面する現実と国家レベルで起きている現実のとのギャップが大きくなり続けているタイミングで行われました。」
秋葉忠利元広島市長がこう語りました。

安倍首相の与党である自由民主党は、かつて軍国主義に基づく侵略を行ったがゆえに課されることになった軍事的制約について、第二次世界大戦が終了して70年が経った現在においては時代遅れであり、日本を弱体化させるものだと主張しています。
そして日本の平和主義を後退させる条文も含め、現在の日本国憲法を大幅に書き換える提案を行っています。

NYT広島03
安倍首相は軍事的台頭を続ける中国と核武装した北朝鮮の脅威は日本のすぐそばにまで迫っており、こうした憲法の書き換えは不可欠だと主張しています。
安倍首相は日本を他国と変わらない軍隊を持ち、国際的な軍事紛争にも積極的に関わる「普通の国」に変えるためのキャンペーンを展開、広島・長崎への原爆投下によって日本国民が持つようになった内向的な平和主義に対し全く別の選択肢を突きつけたのです。

こうした一連の動きは、広島市内の爆心地に原爆の記憶を永遠に残すために保存されている原爆ドーム近くにある原爆慰霊碑に刻まれた一文、「過ちは二度と繰り返しません」というメッセージへの挑戦であると考える人々がいます。
「安部首相のアプローチは戦争を国家の当然の権利だとする、いわば『軍事的平和主義』です。」
元外務省の官僚で、2005年から2011年まで広島平和研究所の所長を務め、現在大阪経済法科大学の教授を務める浅井基文氏がこう語りました。
「もし日本人がこれを受け入れてしまえば、日本国憲法の下で築き上げてきた平和主義を否定することになります。」

日本の平和主義には常に多くの矛盾がつきまとってきました。
「平和憲法」は日本が軍隊を再建することを止めることはできませんでした。
ただし実質的な軍隊であるこの自衛隊は、これまで海外で実戦に携わったことはありません。
日本の指導者たちは自国での核兵器開発は否定してきましたが、米国が提供する『核の傘』の下に入ることは歓迎してきました。

そして日本は世界各地で行われてきたアメリカの軍事介入を支持する一方、日本自身がこうした戦闘に加わることはしませんでした。

「日本の平和主義は、日本はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実によって実現が可能になりました。」
防衛大学の前校長である神戸大学の五百旗頭真(いおきべまこと)教授がこう語りました。

day01
現在、安倍首相はこの日本の矛盾した状況を変えるよう求めていますが、そのやり方は国民の多くを不信と不安に追いやっています。

「日本は、新しい役割を演ずるよう求められています。」
五百旗頭教授はこう語り、次のように続けました。
「そしてその事が、戦後日本の伝統的な平和主義者の間で危機感を生むことになったのです。」

安倍首相は憲法を変えてしまうほどの支持は得ていません。
そして多くの専門家が安倍首相にその力は無いと考えています。

ハードルは高いと言わなければなりません。
どのような変更でも、憲法を書き換えるためには衆参両院の3分の2以上の賛成と、国民投票における過半数の賛成が必要です。
日本国憲法は1947年に実施されて以来、一度も変更されたことはありません。

しかし、安部首相は日本国憲法の理念の下で戦後作られた体制を少しずつ破壊してきました。

2012年に自民党をふたたび政権の座に据えて以降、安倍首相はまず10年間続いてきた防衛予算の縮小を中止し、大幅な増額を要求しました。
次に数十年間続いてきた武器輸出禁止令を解除しました。
そして戦後初めて、自衛隊に海外での戦闘を可能にする安全保障関連法案を国会の場で可決成立させたのです。

〈 後篇に続く 〉

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【 硫黄島の星条旗に関わるミステリー 】《1》

アメリカNBCニュース 5月30日

硫黄島03
歴史の女神はアメリカ陸軍のジョージ・バーンズ上等兵と海兵隊ルイス・バーマイスター軍曹に対し、微笑んではくれませんでした。
1945年2月23日硫黄島のすり鉢山頂上に6人の米国軍兵士が星条旗を打ち立てる写真が配信された時、世界はここでの戦いがアメリカ軍の勝利に帰したことを確信しました。
この世界史に残る写真によってAP通信のカメラマン、ジョー・ローゼンタールは後にピューリツァー賞を得ました。
この時軍のカメラマンとしてその場所にいたバーンズ上等兵とルイス・バーマイスター軍曹はともにそれぞれが独自にこの時の写真を撮影し、その写真が存在するはずだと主張しています。

しかしその事実はアメリカ軍史上謎とされたままです。
誰もその写真を見たことが無く、永遠に失われた可能性があります。
海兵隊は、そもそもそのような写真は存在しなかったのではないかとの見解を示しています。

硫黄島01
(写真上)
この写真はAPカメラマン・ジョー・ローゼンタールの手になる有名な写真が撮影される数時間前に、バーンズ上等兵が撮影したもの。
すりばち山に実際に最初に翻った星条旗の写真。

海兵隊が硫黄島の戦闘記録の中で本来永遠に記録されるべき人間が一人抜け落ちてしまったのかどうかについて再検証を始めたことにより、ローゼンタールが撮影した写真が再び話題になるとともに、2名の軍カメラマンの存在と失われた可能性の高い写真に注目が集まっています。
もしどちらかの写真が見つかれば、3日早朝すり鉢山の頂上に立てられた小さな星条旗に代えて大きな星条旗を揚げたのは誰なのかという、これまではっきりしていなかった事実が明らかになる可能性があります。

硫黄島02
(写真上)
硫黄島のバーンズ上等兵自身を撮影した写真。

バーマイスター元軍曹の申し立てによりアメリカ国防総省はこの件に関する再調査に着手、その結果1980年にバーマイスター軍曹が1945年2月23日硫黄島で撮影した70枚前後の写真が発見され、彼の証言に対する信ぴょう性が増すことになりました。
しかし問題の大きな星条旗が打ち立てられた瞬間の写真だけは見つからなかったのです。

この約70枚の写真とは別に、その日バーンズ上等兵が撮影した写真は彼が所属していた『ヤンキー』(アメリカ陸軍発行の兵士向け雑誌)に掲載されましたが、彼が撮影したとする大きな星条旗を打ち立てた瞬間の写真だけは掲載されませんでした。


http://www.nbcnews.com/news/us-news/star-spangled-mystery-what-became-lost-iwo-jima-flag-raising-n581741

【 子供たちをのみこむ格差社会の闇 – 日本の子どもたちの貧困問題 】

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日本の富裕な家庭と貧困家庭の子どもたちの格差は、アメリカよりも一層深刻、先進諸国の中で最悪の状態

貧しい子供たちの空腹を補うものはジャンクフード、口にできるまともな食事は学校給食だけ

キャッチフレーズばかりが派手で、弱者と誠実に向き合う姿勢を持たない安倍政権にとって、子どもたちの貧困は荷が重すぎる課題

エコノミスト 2016年5月14日           

 

ECO 貧困率
海外から日本を訪れた人が、何か貧しさを象徴するようなものに出会うことはめったにありません。
荒廃した住宅もありません。
都会で暮らすホームレスはたいてい公共の公園や川岸の粗末なテントの中でひっそりと暮らし、その姿を見かけることはあまりありません。

日本人は自分たちの国が平等社会であるという確信を大切にしています。
そうである以上、日本において子供たちの貧困率が非常に高いという事実は、日本人自身にとって衝撃的なことに違いありません。

幼児の貧困率に関する公式統計は、日本では2009年になってやっと公開されました。
子どもの貧困率は総体的な定義であり、税引き後の家計収入と移転所得(失業保険や年金など)を合算した金額が、その国の平均年収の半分以下の家庭の子どもたちがこの範疇に含まれることになります。
日本はこの割合が1985年に11%でしたが、2012年には16%に上昇し、OECD(先進)諸国の中で最も高くなっています。
日本の富裕な家庭と貧困家庭の子どもたちのギャップは、アメリカよりも一層顕著であり、メキシコやブルガリアとそう変わらないレベルにあることを2016年4月、ユニセフが明らかにしました。

日本では労働者の5分の2が賃金が安い非正規雇用または契約社員という身分に置かれています。
もし父親と母親の両方がこの身分である場合、その子供たちの経済的環境はことのほかひどい状況にあります。
しかし、貧しい子供たちのおよそ3分の1は、離婚またはその他の理由で独身状態になった母親と一緒に暮らしています。

大阪市内の経済的に恵まれない地区で2人の幼い男の子二人を育てている嘉門明子さんは、子どもたちに満足な食事をさせるだけでも大変な思いをしていると打ち明けました。

彼女は少しでも多くの収入を得るためできるだけ長い時間働きたいと思っていますが、8歳の息子にその話をすると急に泣き出してしまいました。
多くの母子家庭同様、嘉門さんも生活保護の申請はしないつもりです。
日本ではその額がそれほど多い訳ではないにもかかわらず、生活保護を受ける人々に対しては、厳しい目が向けられているのです。

難民子供 5
5歳になったばかりであっても、母子家庭、父子家庭の子供たちは日中あるいは夜間親たちが働いている間、食事として弁当をあてがわれます、
上がり続ける貧困率は、学校の中退、さらにはホームレス状態へと子供たちを追い込んでいます。

未婚の母親と暮らす16歳の角千夏さんは、首都圏の埼玉県でパートタイムのアルバイトをしています。
しかしその程度の収入では修学旅行の積立金を支払い、学校の規則に基づく4種類の靴を用意し、さらには学校生活で必要とされるその他の費用を賄うにはとても足りないという現実に直面させられています。

特に貧しい子供たちはいじめの対象になりやすい、彼女はそう語りました。

                   

貧しい子供は飢えている訳ではありません。
しかしこの子供たちの空腹を補うものは往々にしてジャンクフードであり、口にできるまともな食事は学校給食だけという場合がしばしばです。

                  

子どもの貧困02

                                   

親が公共料金を支払うことが出来なければ、ガスも電気も止められてしまうため、公共のトイレで洗面などをする子どもたちもいます。
有人と一緒にカフェなどで時間を過ごしたり、あるいは大学進学のためすし詰め状態の進学塾に通うことなどは、選択の対象にもなりません。

                

                

日本政府はこの問題の存在にやっと気がついたようです。

               

2014年から採られた新しい方針は学校でソーシャル・ワーカーの数を増やし、この数年間で初めて片方の親しかいない子供たちへの手当てをわずかに引き上げました。
東京都立大学で貧困問題の研究に取り組んでいる阿部彩さんは、現政権の与党である保守派の自民党は、シングルマザーに対し離婚したことを厳しく責め立てる傾向があり、だとすれば驚くべきことだと語りました。

                 

しかし自民党は政権与党として、子どもたちの貧困問題への取り組みに本腰を入れるよう厳しく求められるようになるでしょう。
『一億総活躍社会』、このキャッチフレーズの下あらゆる日本の市民が活発な役割を演ずることができる社会を実現すると誓った安倍政権にとって、子どもたちの貧困は厄介な問題です。
安倍首相が座る官邸は、高額な年金を受け取って気前よく暮らしている年配の人びとより、若年層の人々の援護を目的とした経済政策への転換について検討しています。

              

子どもの貧困03

                   

しかし新聞の見出しなどに散見される貧しいが故の窃盗、売春、そして不潔な環境から貧しい子供たちをどう救い出すかという問題は、なお一層解決が難しいという事実を突きつけられることになるかもしれません。

                

http://www.economist.com/news/asia/21698687-japan-has-more-poor-children-it-thought-hidden-blight?zid=306&ah=1b164dbd43b0cb27ba0d4c3b12a5e227
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【星の金貨】では子供たちを守れという趣旨の記事の掲載が多い点に言及し、私が偽善者だという趣旨の指摘をされた方がいました。
なぜ自分は厳しい環境に置かれた子供たちのことが気にかかるのか、理由に気がついたのはここ数年のことです。

私は幼児期から少年期、父親から暴力による虐待を受けました。
小学校1年生の時、勉強の時間と決められていた時間に机には座ったものの何となく気が乗らずに手で定規をもてあそんでいたら、突然椅子ごと倒れる程の勢いで殴り倒されました。
無警告でした。

難民子供 1

小学校低学年の時、車にはねられたことがありますが、幸い軽傷で済んだ私を加害者の男性が自宅まで送ってくれたときは、父親に「面倒起こしやがって!」といって殴り倒され、加害者の男性が驚いて割って入ったこともありました。
そんな記憶がいくらでもあります。
その暴力は一度も殴られたことが無い弟が、見ていただけで後にPTSDになった程のものでした。
幸い私は幼稚園に入園するまで、母方の祖母の下で文字通り羽飼の中で温められるようにして育てられたため、決定的には曲がらずに済みました。
それでも日常の一部を暗黒が支配する幼少年期には、絶えず絶望がついて回っていました。

                

他人の方がましでした。

              

無警告で、思いもかけない理由で突然殴りかかってくることなど無いからです。
正義というものを切実に願い続けていました。
しかし同じく暴力の対象となっていた(後に解った事ですが)母親が助けてくれることはまずありませんでした。

難民04

                  

母親は仕事に逃げ、その結果子育てからも逃げることになりました。
私は父親を肯定的に思ったことは生涯の中でただ一度しかありません。
大学生の時、高田馬場駅前の大きな書店の一角に、父親の著した数学関係の本が『ロングセラー』として山積みになっているのを偶然見つけた時でした。
ほう、と思った次の瞬間、こうつぶやいていました。
「俺には関係ない…」

               

虐待は遺伝すると言います。
それを阻止したのは私自身の中にある弱い者いじめに対する強烈な嫌悪感、そして妻の協力でした。
無意識の行動を何度も妻に指摘されましたが、考えた上でのことではないため、そんな自分と向き合うことは本当に苦しいものでした。
しかし長女が育ち、長男が育つころには、子どもを叱る事もめったになくなりました。
それでも言葉の上では、妻にとっては見過ごせないこともあったようです。

kobani06


その父親が最晩年、妻の介助を受けなければ生活できなくなった時に私への不満を口にしたことがあります。
その時初めて妻がキレました。
「あなたはもっとずっとずっとひどいことを、○○さんがまだ抵抗も出来ない小さいときにさんざんやったでしょう!今その程度のことを言われて、あたりまえだと思わないの?!」

                    

その父親は数年前に亡くなりましたが、その時初めて私の中からある種の苛立ちと易怒的衝動が消滅しました。
虐待を意識するようになってから50年近く経とうとしていました。

               

子ども時代に受けた心の傷というものは容易に消えるものではありません。
そして自分にはまだ解決能力が無い状態での困窮の辛さは、何倍にも大きくなります。
今回翻訳した記事の中に登場する子供たちの心は、すでにずたずたになっているかもしれません。

           

難民03

              


子どもたちが自分から窮状を訴えることは無いと思います。
あらためて自分の惨めさを思い知ることになり、絶望の闇が深くなるだけだからです。
私もそうでした。
だからこそ、私たち周囲の大人が何かをしなければならないのではないでしょうか。
(写真はこれまでご紹介した記事の中のものを再掲載したもので、本文とは直接関係はありません)

              

[ストリートライフ(路上にしかなかった私の暮らし)]クルセイダーズ&ランディ・クロフォード

             

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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