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【 広島・原子爆弾の展示施設、世界的に一層の注目を集める 】〈後編〉

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所要時間 約 9分

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日本の願い、それは人類社会の永遠の平和が実現することであったはず
広島の爆心地を訪れて初めて理解できる特殊な状況、その思いを大切にしたい
焼けただれた若い学生の弁当箱、コンクリートにくっきりと残された人の形

リチャードS.エールリッヒ / アメリカCNNニュース 年6月1日

広島04
▽廃墟からの復興を成し遂げた広島

「平和」の概念こそは、世界中の人々を広島に惹きつける最大の理由です。

「1945年人類史上初めて原子爆弾が投下されましたが、廃墟となった広島は特筆すべき復興を成し遂げました。以来広島市は人類社会の永遠の平和の実現を追求し続けてきました。」
「広島市はその荒廃から注目に値する回復を成し遂げたのです。」
広島観光コンベンションビューロー観光振興部の阿部部長がこう語りました。
「ここを訪れた人々は何よりも、希望を持つことに関する強いメッセージを感じると言います。そして平和の大切さに関する思いを新たにするのです。」
「広島について訪問者が受ける印象は、地元の人々と接する機会があったかどうかによってだいぶ違ったものになるようです。」
阿部氏がこう語りました。

広島に2度目の訪問を行った45歳のカナダ人英語教師のブルース・ボトムリー氏は、広島平和記念資料館、原爆ドーム、その他の原爆関連施設を訪問しました。
「私が最も強い印象を持ったのは、爆弾が爆発した瞬間に停止した腕時計です。」
「そして若い学生のものだという金属製の弁当箱は、表面が焼けただれ、中のコメが石化してしまっており、見ていて呆然としてしまいました。」
「それがいったい何を意味するものなのか、私には理解できません。しかし広島のその場所にいて、これらの展示品を見ていると、私は何かを感じ取ることが出来るのです。」

広島12
写真とともに掲載された生存者の体験談は見る者の胸を打ちますが、時には衝撃的でさえあります。
「私は広島に原爆が投下され、これ程の悲劇が起きていた同じ時間に、カナダにいた祖父が何をしていたかを考えずにはいられません。」
ボトムリー氏がこう語りました。
彼は2番目の原爆投下場所である長崎の平和祈念館も訪れた経験を持っています。

▽ どうすれば若い世代に原爆を実感してもらえるか?
「1998年初めて日本を訪れたとき、私は7月に広島を訪問しました。」
長崎で英語を教えている34歳のアメリカ人グラフィック・デザイナー、エヴァン・ヘイデン氏がこう語りました。
「私の学生グループは、広島平和記念資料館、原爆資料館、そして平和記念公園に行きました。そこで私たちは千羽鶴を見たのです。」
「その体験が私と同行した学生たちに、原爆についての印象を現実的なものにしたのです。」
教科書で学んだり、記録映画を見たりしましたが、それだけでは原爆は何か遠い世界の出来事のように感じていました。
「三輪車のような人間の手で作られたものが、たたきつぶされ、そして焼け焦げた状態になっているのを、そして爆発の瞬間叩きつけられた人の形が、コンクリートにはっきりと縁どられているのを実際に目にしたことは、決定的な体験になりました。」
ヘイデン氏がこう語りました。

▽ 難しい歴史上の評価

果たしてアメリカ合衆国が広島と長崎に原爆を投下する必要はあったのかどうか、その議論は未だに続いています。
「もちろん私は、日本に核兵器が使用されたという事には反対の立場です。しかし当時戦争はますます悲惨な局面を迎えていました。そしてアメリカにも日本にも、停戦の意思は無かったと思います。」
ヘイデン氏がこう語りました。
「悲劇と表現する以外ないと思います」

広島14
「広島を訪れることは、観光旅行を楽しいものにはしません。それは明らかです。しかし楽しい以上に大切な何かを学び取ることが出来る重要な経験となる事もまた明らかです。」
ヘイデン氏がこうつけ加えました。

しかし広島の地を踏むことをためらい続けている人々もいます。
「その気になれば私はいつでも広島に行けるはずです。でも実際に行くかどうかはわかりません。」
東京で出版と翻訳に従事する43歳の羽咋(はくい)まきさんがこう語りました。
「私は日本の一市民として、広島に行くべきだと思っています。娘を連れて。でも正直に言って、それが私にとって非常につらい体験になるだろうという事が解っており、そのためどうしても行く気になれないのです。」

こんにち、日本政府観光局(JNTO)は、広島の原爆遺構について、簡潔に次のように表現しています。
「人類が犯した過ちについて語る、負の遺産である」

※リチャードS.エールリッヒは、サンフランシスコ出身のフリーライターで、1978年以降香港、ニューデリー、バンコクに拠点を置き、国際メディアにアジアに関する記事を送り続けています。

〈 完 〉
http://edition.cnn.com/2014/06/01/travel/hiroshima-peace-museum/index.html?hpt=ias_t2
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「それがいったい何を意味するものなのか、私には理解できません。しかし広島のその場所にいて、これらの展示品を見ていると、私は何かを感じ取ることが出来るのです。」
というセンテンスを訳していて思い出したことがありました。

3.11が発生して数日後、私は南三陸沿岸で自宅も事務所も津波で流されてしまった友人を見舞うため、多種多様の見舞い品を積んで車で出かけました。
それまで私は写真も趣味にしていたため、被災地の状況をわが手で記録しようと大口径のレンズ数本も持って出かけたのです。

訪れたのは友人が避難していた彼の両親の家、海岸線から2キロほどの坂の上にありました。
しかし隣家まで津波が押し寄せてきたその一帯は、乗用車が家屋に突き刺さっていたり、家の部材がすだれのように落ちかかっていたり、すさまじい光景が展開し、近くでは消防隊員、自衛隊員などが懸命の片づけを行っていました。
結局私はついに一度もカメラを取り出すことなく、友人の避難場所を辞しました。
なぜ一枚も写真を撮ることが出来なかったのか、口では説明できません。
あの場所に立たなければ、理解できない事だったと思います。

明日27日(金)は掲載をお休みさせていただきます。
新しい記事は28日(土)に掲載いたしますので、よろしくお願いいたします。

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【 ヒロシマの記憶 】

アメリカCNNニュース 6月1日
(写真をクリックして、大きな画像をご覧ください)

広島原爆ドーム
広島市内の原爆ドームは、1996年のユネスコ世界遺産に指定されました。
アメリカが1945年8月6日に原子爆弾を投下した際、この建物の真上で爆発しました。(写真上)

広島平和記念資料館を訪れた海外の参観者は2013年、200,086人と史上最高を記録しました。(写真下・以下同じ)
広島平和記念資料館
広島平和記念資料館の壁面の展示、そして各種の写真・図版類は原爆による破壊のむごたらしさを実感させます。
広島平和記念資料館内
毎年8月、原爆犠牲者を追悼する式典が広島市内の平和祈念公園で開催されます。
広島平和記念公園
広島原爆を象徴するこの建物は1915年チェコの建築家によって設計され、広島県物産陳列館として開館し、後に広島県産業奨励館となりました。
アメリカが1945年8月6日に投下した原爆はこの建物の真上で爆発しましたが、爆風が到達する以前に熱線がドームの銅製の屋根を瞬時に溶かしてしまい、このため爆風が建物を通過、全壊を免れることになったのです。
広島原爆ドーム02
原子爆弾爆発の瞬間、空を覆ったきのこ雲の多数の写真が広島平和記念資料館内に展示されています。
広島資料館

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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