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10年では消えない!あの日の悪夢のような光景《前編》

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所要時間 約 10分

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もう戻らない命、鮮明に残る残酷な光景の記憶、歳月の経過では埋められない心の穴

原子力発電所の事故がもたらした荒廃は自然災害よりもなお一層深刻だった

                       

写真1 : 3.11東日本大震災によって破壊された岩手県陸前高田市内。のちに『奇跡の一本松』として有名になる右手の松は300年間防風林として陸前高田を守ってきた70,000本の森の中の1本です。

                    

城塚恵美子、ブレイク・エッシグ、小倉淳子、ダニエル・カンピシ / 米国CNN 2021年3月11日

                      

黒沢健一さんは、周囲の水面が上昇し、足下の道路が完全に浸水していく中、まさに死と隣り合わせの状況で木にしがみつきました。
2011年3月11日の午後2時過ぎ、約6分に渡りマグニチュード9.1の地震(日本で史上最悪の地震)が発生、巨大な津波が発生、黒澤さんがずっと住み続けてきた石巻市(東京の北東370 kmの場所にある太平洋沿岸の都市)に襲いかかりました。

                     

写真2 : 2011年3月11日時点の石巻市内の様子

                      

高さ10メートル(約30フィート)の津波が押し寄せる数分前、当時40歳だった黒沢健さんは急いで松の木を3メートルほどよじ登り、両足をしっかりと幹に巻き付け、全力で木にしがみつきました。
「あたり一面が海になったように感じました。水がとても冷たくて、骨まで凍えるほどでした。」
黒沢さんはこう回想しました。

                   

水面が膝の高さまで来た時と、黒沢さんはハンドルを握ったままの人が乗った車が次々と押し流されていくのを目撃しました。
黒沢さん同様他にも木にしがみついていた人々がいましたが、押し寄せる波が叩きつけ水中に沈んでいきました。

                     

黒沢さんは何時間もの間氷点下の気温に耐え、木にしがみついていました。
彼は彼の妻のことを考えました-彼は回線が途絶える前、木によじ登った後携帯電話で15秒間妻と話をしていました。

                       

写真3 : 市街地に津波によって打ち上げられた船舶が横たわるこの時の光景は、10年を経た今もなお多くの人々の心をかき乱します。

                   

やがて夜が明けると、黒沢さんは遠くにいる誰かが最後の力を振り絞るようにして助けを求めているのを聞きました。
彼はその人のその後の運命を知らないと言います - しかしこの瞬間黒沢さん自身は日本の歴史の中で最も破壊的となった自然災害を生き延びたことになったのです。

                      

巨大地震と引き続き発生した津波により2万人以上の人々が死亡または行方不明になりました。
しかし、しかし原子力発電所の事故がもたらした荒廃は自然災害よりもなお一層深刻でした。
東日本大震災の被災地にあった福島第一原子力発電所は、それ自体が大惨事の震源になったのです。

                    

写真4 : 2011年3月11日宮城県名取市。津波は各地で大規模な火災を引き起こしました。

                   

最初の地震から50分も経たないうちに、原子力発電所を守るはずだった高さ10メートル(33フィート)の護岸設備を乗り越えて津波がやってきました。
原発の敷地内に水がなだれ込み、原子炉の冷却システムが機能を停止した結果、3基の原子炉で核燃料が溶け落ち、人が浴びればたちまちのうちに死んでしまう高放射性物質が周辺地域に向け放出されました。

                     

予定されていた東日本大震災・福島第一原発事故10周年を記念する式典は新型コロナウイルスの感染拡大のため、人の密集を避けるためなどの理由から、ごく小規模な形で行われることになりました。
東京では、菅義偉首相、今上天皇・皇后両陛下が追悼式に出席し、10年前の地震が発生はた時刻である午後2時46分に黙祷を行います。

                    

写真5 : 行方不明になった息子を捜索しながら泣き崩れる男性。男性の長男は津波で大量の犠牲者を出した大川小学校の教師でした。

                    

東日本大震災による破壊は徹底したものでしたが、生存者の多くは自分たちの生活と地域社会をなんとか再建しました。
それでも災害の深い傷跡は永遠に残りることになにるでしょう。

                        

写真6 : 犠牲者の遺族の多くは、大切な家族の遺品として写真アルバムだけが手元に残ることになりました。

                     

▽ 津波の破壊力

                      

宮城県で2番目に大きな都市である石巻は、津波による被害が最も大きかった市町村の1つでした。
国際津波情報センターの記録では、津波は約5平方キロメートル(約500ヘクタール)の土地を浸水させ、都市のほぼ15%が水没しました。

津波は石巻市内だけで5万戸以上の家屋や建物を破壊し、かつては賑わっていた市の中心部や港湾設備などインフラのほとんどを破壊しました。

石巻市内だけで3,100人近くが命を落としました。

                      

写真7 : 震災発生から一夜が明けた宮城県気仙沼市内。この場所で暮らしていた人々の中には、10年を過ぎた今もまだ仮設住宅で暮らしている人がいます。

                         

配管の仕事をしていた黒沢さんは、地震が発生したときは自分の街から約12 km離れた隣の町で働いていました。

彼は銀行に避難していた妻に電話をし、自分が行くまで自宅で待つように伝えました。

                    

写真8 : 行方不明の家族を探すため、情報を求めるメモが大量に貼られた掲示板

                    

その数分後、津波警報が発令されました。

                   

黒沢さんはもう一度妻に電話をかけようとしましたが、もう電話はつながりませんでした。
妻の身を案じる黒沢さんは車に飛び乗り、自宅に向かって車を飛ばしました。妻を車に乗せて一緒に高台に避難するつもりでした。
たくさんの車が黒沢さんとは逆の方向に向け走り去って行きました。度々地震が発生するこの国土で、制度的に設定された指定避難区域に向かう車列でした。

                   

写真9 : 宮城県利府町の公共施設に並べられた東日本大震災の犠牲者の棺の列。しかし遺体が見つからないままの人もまだ大量に残されていました。

                      

自宅に近づくと、遠くに真っ黒な津波の壁のようなものが見えました。
近づくとそれは津波にのみ込まれ、波頭で浮き沈みしている何台もの車であることに気がつきました。。

                    

それを見て必死に車をUターンさせていたとき、足元まで水に浸かりながら歩いて逃げようとしていた男性の姿が目に飛び込んできました。
「私は車の窓を開けてその男性を車の中に引きずり込み、スピードを上げて津波から逃れようとしました。」
「でもまさにその瞬間、津波が頭上から襲いかかってきたのです。」
黒沢さんが当時の様子についてこう語りました。

                 

写真10 : 宮城県南三陸町で瓦礫の上を乗り越えて生存者の捜索を続ける救助隊員。

                        

《後編》に続く
https://edition.cnn.com/2021/03/10/asia/japan-tohoku-fukushima-tenth-anniversary-hnk-dst-intl/index.html

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