ホーム » エッセイ » 10年では消えない!あの日の悪夢のような光景《後編》
津波の破壊力の凄まじさは、体験したものでなければ理解できない
福島第一原発の事故の影響を受けたか?受けなかったか?それがその後の運命を大きく変えた
城塚恵美子、ブレイク・エッシグ、小倉淳子、ダニエル・カンピシ / 米国CNN 2021年3月11日
黒沢さんと黒沢さんが救助した男性が乗った車はたちまち脱輪したため、2人は車を捨てて避難所を求めて走り出しました。
黒沢さんは急いで木によじ登ろうとしましたが、枝が折れて土手に墜落しました。
それでも再び木に登ろうと木に飛びついた瞬間、津波が押し寄せてきました。
黒沢さんが救助した男性も同じように木にしがみつきました。
「私はもうダメだと思いました。」
黒沢さんがこう振り返りました。
「津波の破壊力の凄まじさは、体験したものでないと理解できません。津波はその通り道にあるすべてを飲み込み、そして破壊し尽くす驚異的な的力を持っています。」
▽ 福島第一原子力発電所事故
津波は東北地方の太平洋岸一帯に押し寄せました。
宮城県に隣接する福島県に押し寄せた津波は、福島第一原子力発電所において原子炉のメルトダウンを引き起こしました。
日本は1986年のチェルノブイリ事故以降最悪の原子力災害に落ち込み、2011年3月11日午後4時36分、原子力緊急事態を宣言しました。
赤十字の資料によると、福島第一原発の近くに住んでいた30万人以上が一時避難を余儀なくされました。
さらに5万人が自主的に放射線量の高い区域から移動しました。
その後の数ヶ月そして数年で、福島第一原発周辺の一部の地域はゴーストタウンと化し、東京電力(TEPCO)の職員、安全検査技術者、そしてあえて危険な場所に行くスリルを求める観光客だけが訪れる場所になってしまいました。
東京電力は原子力発電所事故を引き起こして以降、原子炉を冷却して放射性物質の流出を止めるため、毎日数百トンの地下水を汲み上げ原子炉に注入する作業を続けてきました。
あたり一面に散乱した放射性物質を取り除く作業と事故収束・廃炉作業には数十年かかり、数十兆円の費用がかかると予想されています。
福島当局によると、事故が始まってから10年が過ぎた現在でも、35,000人以上が避難を余儀なくされたままです。
原子力発電に反対する公益団体である東京の原子力情報室のスポークスマンである松久保肇氏は、東日本大震災で地震と津波の被害だけを受けた地域では、復興はほぼ実現したと語っています。
しかし福島第一原子力発電所周辺の復旧作業は多額の費用が注ぎ込まれたにもかかわらず、2010年以降人口が半減したことも加わって、メルトダウンした後ほとんど進展がありません。。
「事故発生から10年、私たちが学んだことは一度原発事故が発生してしまったら、環境を元どおりにすることはほとんど不可能だということです。」
松久保氏がこう語りました。
現在東京電力は、原子炉を冷却するために使用された100万トン以上の放射能汚染水を福島第一原発敷地内の巨大なタンク群に貯蔵しています。
しかし貯蔵スペースは急速に減少し、環境大臣を含む日本政府当局は唯一の解決策はそれを海に放出することであると発言しました。
しかしこの計画は環境保護活動家と漁業関係者からの強い反対に直面しています。
2014年、日本政府は年間放射線量が20ミリシーベルト未満になった指定避難区域の避難命令の解除を始めました。
20ミリシーベルトは国際的な原子力安全監視機関が推奨する最大被ばく値であり、2度の全身CTスキャンによって浴びることになる放射線量に相当します。
日本の環境省は2020年3月の時点で、居住者も立ち入りが禁止される帰還困難区域のままになっているのは福島全県の2.4%にとどまり、これら地域の一部では短期間の訪問なら可能だと述べています。
しかし関西学院大学が2020年に実施した調査では、除染作業が実施されたにもかかわらず、避難した人々の65%は福島県に戻りたくないという意思を明らかにしました。
全体の46%が環境の残留放射能汚染を恐れており、45%がすでに他の場所に定住したと回答しました。
福島第一原発の事故は日本の原子力発電への長年の関わり方をも揺るがすことになりました。
原子力業界団体である世界原子力協会によると、事故前、日本は約50基の原子炉が国内の電力需要の30%以上を供給していました。
この状態は最後に稼働していた北海道内の原子炉が検査のために停止した2012年5月5日に途絶し、日本は45年以上ぶりに原子力発電所がまったく稼働していない状態になりました。
※大飯原子力発電所の2基の原子炉は2012年に一時的に再稼働されましたが、1年後に再び停止しました。
福島第一原発で原子炉がメルトダウンしたことを受け、ドイツなど数カ国は2022年までにすべての原子炉を閉鎖することを宣言しました。
しかしその事故から10年後、日本の専門家の間では、化石燃料を燃やすよりも環境に良いとされる技術の利用継続について意見が分かれています。
その間にも原子力発電の存在意義は徐々に失われていきましたが、2015年8月、九州南部の鹿児島県川内市にある原子炉が再稼働しました。
▽ 歳月の経過
3月12日の朝になって、黒沢さんはやっと松の木から降りることができました。
彼が暮らしていた街は巨大な爆弾によって破壊されたかのようになっていました。
自宅に戻るためにはがれきや陸に打ち上げられた船の残骸を避けて歩かなければな李ませんでした。
倒壊した建物は水に浸かり、火災の煙が充満した中で呼吸をするのにも苦労しなければなりませんでした。
黒沢さんの奥さんは、高台の学校に避難して無事でした。
しかしたった1日で、黒沢さん夫妻は自分たちの生活を構成していた友人、そして生活手段も財産その他身の回りにあった一切のものも、何もかも失ってしまいました。
それから半年の間、黒沢さん夫妻は賃貸住宅、そして友人の事務所で暮らしました。
そして2011年8月になり、彼らは3年以上にわたって自宅になったプレハブ作りの仮設住宅に引っ越しました。
黒沢さんは配管技術を生かして地域社会で必要とされる仕事を不定期で手伝うボランティアをしました。
黒沢さんはまだ石巻に住んでいます。
「私の暮らしはあたりまえだと思っていた日常から異常な日常に移行し、それがあたりまえになりました。そして1年が過ぎ、2年が過ぎました。そして今やっと異常な現実が正常に戻りました。」
彼は5年間、夜毎瓦礫と化した故郷をさまよい歩く夢を見ました。
今日の石巻において原子力発電に対する人々の感情は、東日本大震災発生から10年間の人々の体験がそれぞれ異なるのと同様、一言では言い表せないと黒沢さんが語りました。
「この10年について私はどう感じているのかと尋ねられることがあります。でもその時間はまだ終わってはいません。私はとにかく最善を尽くたいと願っているだけです。」
写真 : 2011年4月10日、宮城県石巻市で車のヘッドライトで照らされた看板に「がんばろう!」と大書きする黒沢健一さん(中央)とその仲間。
黒沢さんは長年にわたり自分の人生、ビジネス、そしてコミュニティを再建するために戦ってきました。
今日、沿岸には故郷の石巻を海から守るため、高さ10メートル近い堤防が約56キロメートルに渡って築かれました。
市の郊外に新しい災害公営住宅が出現しましたが、他の住宅はまだ再建途上です。
黒沢さんによると、人々の感情的な傷跡が言えるためには、少しずつ環境を整備していくのと同じくらい時間がかかります。
しかし過去に生きることには意味はないと語りました。
今日、黒沢さんは災害への備えについて他の人々に教えることに積極的な役割を果たし、前進し続けています。
「この災害から私が学んだことの一つは、人々はお互いに支え合う必要があるということです。私たちには希望があると思います。」
時々、彼は自分の命を救った木の脇を通り過ぎることがあります。
彼はもう一度だけ、その木に登ろうとしたことがあります。
※英文記事からの翻訳のため、個人のお名前、固有名詞の表記に誤りがある場合があります。ご容赦ください。
《完》
https://edition.cnn.com/2021/03/10/asia/japan-tohoku-fukushima-tenth-anniversary-hnk-dst-intl/index.html
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