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死ぬほど働かされるか、ほんとうに死んで楽になるか、私たちにはそれ以外の選択肢は無かった
アメリカNBCニュース 4月15日
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ウクライナからやってきた87歳のペトロ・ミストシャクは、ブーヘンヴァルト強制収容所に収容されていたときの囚人服を着て、収容所の追悼記念館近くに立っています。
1937年7月から1945年4月まで、ナチス・ドイツはブーヘンヴァルト強制収容所に25万人を収監しました。
場所はドイツのワイマール市の近くです。
強制収容所が1945年4月11日、アメリカ軍部隊によって解放されるまで、約56,000人がこの場所で殺されました。
68年後、強制収容所解放の記念日を祝うためにビュッヘンヴァルトに戻ってきた数名の元収容者に、ロイター通信のカメラマン、リージ・ニースナーがあって話を聞くことができました。
ウクライナからやってきた88歳のビクター・カーパスが、かつて強制収容所の収容者が夜明け前に整列させられ、毎日点呼を受けていた場所に立っていました。
カーパスは数カ所の強制収容所を点々とさせられ、都合3年間収監されていました。
彼は一度脱走を試みましたが、捕らえられこのビブーヘンヴァルト収容所に連れて来られましたが、幸いにもアメリカ軍による解放まで生き延びることができました。
ハンガリーからやって来たエヴァ・プシュタイは、車いすに乗って再製された絞首台の前に静かに座っていました。
1944年6月、彼女はビルケナウの収容所に連れて行かれ、その6週間後にブーヘンヴァルトに136箇所あった支所のひとつ、ムエンシュミューレ収容キャンプに連れてこられました。
武器工場、あるいは採石場での強制労働は体力の限界ぎりぎりまで酷使されるものでした。
「私たちはかろうじて生きていられるだけの食物しか与えられませんでした。私の場合は体重が3分の2に減り、もう少しで餓死するところでした。」
エヴァがこう語りました。
彼女は当時のナチの囚人たちに対する態度について回想し増したが、自然と涙が流れほおを濡らしました。
「働く能力があった人々も、徹底的な酷使により壊れるようにして倒れていきました。」
彼女はこみ上げるもののため言葉に詰まってしまいましたが、自分を落ち着かせるようにし、そして微笑んでみせました。
1924年、ポーランドで生まれたヤコブ・シルバースタインは贖罪(しょくざい)の日(ユダヤ教の大祭日)にナチの高官にこう問いかけました。
「お前たちの神はどこにするのだ?お前たちの神はこんな行為を許したまうのか?!」
彼はブーヘンヴァルトとアウシュヴィッツで6年の歳月を生き延び、その間ナチの残忍な行為を目撃し続けました。
彼はこの言葉を言い放った後、一週間独房に入れられ、重労働を課された上、雨水しか口にすることができませんでした。
彼はビルケナウの収容所ではいったんガス室に入れられましたが、親衛隊員に職業について尋ねられた際、電気技術者である旨返答しました。
「その一言が私の命を救うことになったのです。」
戦争が終わった時、彼は家族も友人たちも、残らず殺されてしまったことを知りました。
彼は現在はイスラエルに住んでいますが、当時のことを飽かず語り続けました。
ノルウェーからやって来た94歳のエリング・クヴァンム教授は、第22棟のバラックの前にたたずんでいました。
彼はオスロ大学医学部で教えていた1943年、地下活動との関係を疑われナチに逮捕されました。
「学生たちの中に密告する者が必ずいました。そうした際、ナチの反応はきわめて素早いものでした。」
彼はブーヘンヴァルトに送られ、そこにあった病理学工房でドイツ至上主義活動の一端を担うことを強いられました。
死体を焼却炉で灰にする前、彼は死体から殺人の痕跡を消すための実験を強要されました。
死体の中からサンプルを選び出し、様々な解剖実験を行いました。
ルーマニアからやって来た83歳のバシーレ・ナスバームは、アウシュヴィッツとブーヘンヴァルトで1年を過ごしました。
「ブーヘンヴァルトは、アウシュヴィッツと比べれば、療養所のようなものでした。」
彼はためらうこと無く、こう断言しました。
ナスバームは毎年、解放記念日には必ずブーヘンヴァルトを訪れてきました。
「この世の中は何が起きるか解りません。私はもう83歳です。ここに来れるのも、もう今年が最後かもしれません。」
最後にウクライナからやって来たカーパスがこう語りました。
「死ぬほど働かされるか、ほんとうに死んで楽になるか、私たちにはそれ以外の選択肢は無かったのです。」
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おのれの人種のみが他に優越しているという人種主義が、第二次世界大戦において史上例を見ない残虐な行為を呼びました。
一国民として他に恥じることの無いよう、一定の矜持を保ちましょう、というなら解りますが、領土問題がきっかけなのかどうか、日本では極端な民族主義的主張を臆面も無く声高に叫ぶ人間が目立つようになっています。
こうした土俗的民族主義、人種差別主義者「レイシスト」は、アメリカ・ヨーロッパ社会では「最悪の部類の人間」、「最も軽蔑すべき人間」とされています。