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【 津波の後の姉妹都市 】第1回

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所要時間 約 7分

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「太平洋を隔てた遥か遠くの町の人々が、東日本大震災の被災地を助けるために立ち上がる」

アメリカCBSニュース 10月2日

3月の巨大津波は日本の大槌町を破壊しましたが、カリフォルニア州フォートブラッグとの絆を断ち切ることはできませんでした。
そして今、フォートブラッグは、姉妹都市である大槌町を救うべく立ち上がろうとしています。

[姉妹都市]という定義は往々にして、二つの都市間での握手や写真の交換よりは、少しばかり発展した関係を意味します。
しかし、日本の大槌町で2011年3月11日、巨大地震と巨大津波が人々を虐殺した時、太平洋を隔てて数千キロの彼方のカリフォルニアにあるフォートブラッグの町は、精神的にも金銭的にも最大限の援助をすることにしたのです。
アメリカCBSニュース特派員、ボブ・サイモンがレポートします。
〈以下のスクリプトは2011年10月2日 に放映された番組『津波の後に』からのものです〉

これまであなたがどれほどの写真を見たとしても、そしてどれほどたくさんのニュースを視聴したとしても、ここに立つことはまさに衝撃的です。
日本の東北沿岸を海の中に叩き込んだのは原子力発電所の事故でも、巨大地震でもありません。
それは津波、悪夢よりも暗い、真っ黒な波でした。

3月の津波で大槌町ほどの被害を受けた街はありませんでした。ほんの数分で、15,000しかいない人口のうち、少なくとも1,500の命が失われました。
大槌町は非常に辺鄙な場所にあり、行ったことのある人はほとんどいません。
しかし14年前、アメリカ人のグループがこの町との絆を生み、震災を経てその絆は強くなる一方です

世界は原発事故にばかり目が行き、しばらくの間、これらの沿岸の町の存在は忘れられていました。
私たちは実際に大槌町に行ってみて、この町がまさに絶滅の瀬戸際にあることに気がつきました。

我々は大槌町に着いた途端、忘れられない儀式を目の当たりにすることになりました。
仏教の僧侶は経を唱えながら、800年の歴史を持つ旧市街の残骸の中を練り歩いていました。

大槌町の惨状は、ここが66年前の広島市の一部分であるかのような連想を引き起こします。
そこにある光景は原子爆弾による破壊の後のようです。
この町の一割に上る人々が押し流されてしまいました。
それは文明の脆さについて啓示する、致命的な教訓を与えたのです。
地震そのものも非常に強力で、地盤を沈下させ、日本列島全体を東に約25メートル移動させました。

毎日、満潮時には町の中は洪水のようになります。
数ヶ月を経た現在、生存者はまだ仮設住宅に住んでいます。しかし、こうした生活が長引かざるを得ないことを誰もが理解しています。
この映像は津波の前の大槌町です。
そして2011年3月11日15:25、大槌町のすべてが停止してしまいました。

佐々木ケンさん「これが私の家です...」
ボブ・サイモン「あなたの家?」
佐々木「そう...」

佐々木ケンさんは消えてしまった町の役場に勤務していました。

サイモン「どのくらいの期間ここに住んでいた?
佐々木「ええと、20年以上。」
サイモン「さて、あなたが津波の後に最初にここに戻った時、あなたの持ち物で何か残っているものはありましたか?」
佐々木「何も残ってはいませんでした。」

ケンさんは地震発生当時、港の近くで会議中でした。
30分後、彼は海の方から不気味な音が聞こえてきました。
佐々木「ああ、津波が来るに違いない!丘の上に逃げなければ!そして、振り返ると、そこには……」
サイモン「そこには地獄の光景が見えたんですね。」
佐々木「そう、確かにそれは地獄でした。」

彼の親戚9人が津波で死亡しました - 叔母、従兄弟……
ケンさんは三週間の間、車で暮らさなければなりませんでした。
佐々木「それはひどかったし、それはとても寒かった。ガスはもちろんのこと、ウィスキーもなければ、ビールもない。」
ケンさんは日本人の中でもユニークなキャラクターです。
音楽愛好者でギタリスト、彼はビートルズを聴いて英語を学びました。

佐々木さんがビートルズのゲット・バックのワンフレーズを歌いました。
『もとの住処に帰ってこいよ…(Get back to where You once belonged...)』

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【 放射能のない日本への戦い[ 苦難の道を歩む東北地方のコミュニティ ]】の連載がまだ終わっていないのに(全8回のうち、あと4回分残っています)、別の連載を始めてしまいしまた。
どちらもも保留のままにしておくのが忍びないので、交互に連載していきたいと思います。

被災地の真ん中(仙台)にいて7ヵ月、全国の『一般の方々』には本当にあらゆることで助けていただきました(もちろん自衛隊・消防の方々も)。
すべての費用をご自分で負担され、宮城や岩手でボランティアをされた方々には本当に頭が下がります。

そして、海外からもたくさんの支援をいただきました。
自国の独立記念日に何をすべきか、と考え、「7月4日独立記念日には、東日本大震災の被災地でボランティア活動をする」と決心したアメリカの青年たちもいました( http://kobajun.biz/?p=693 )。
線路までぐちゃぐちゃに折れ曲がった東松島で、JRの復旧に汗した人たちの中には、アメリカ海兵隊の兵士の姿がありました。

これから被災地は冬に向かいます。
東北の冬は長く、厳しく、そして時には暗い日々が続きます。
しかし、私たちは孤立しているのではない、と思うことで、前を向いていけると思っています。

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ほんとうの「今」を知りたくて、ニューヨークタイムズ、アメリカCNN、NBC、ガーディアン、ドイツ国際放送などのニュースを1日一本選んで翻訳・掲載しています。 趣味はゴルフ、絵を描くこと、クラシック音楽、Jazz、Rock&Pops、司馬遼太郎と山本周五郎と歴史書など。 @idonochawanという名前でツィートしてます。
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