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【 津波の下に消えてしまったこどもたち : 3.11の想像を絶する悲劇の真相 】《第6回・完》

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所要時間 約 9分

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消えることのない苦痛や絶望を象徴する場所は、やがて生い茂る雑草に埋もれていった

朝目覚めると最初に思うことは喪ってしまった子供のこと、夜に眠りにつくときに心の中を占めているものは亡くなってしまった子供の思い出

 

リチャード・ロイド・パリー / ガーディアン 2017年8月24日

大川小学校の多勢の子供たちが犠牲になった事故調査委員会の報告書は、津波による事故発生から3年近く経ってから公表されました。
そして2014年3月10日事故発生から3周年の前日、周囲を驚かせるニュースが流れました。
大川小学校で死亡した23人の子供たちの家族が仙台地方裁判所に石巻市と宮城県への告発状を提出したのです。
遺族は市と県に過失があったとして告発し、失われてしまった一人一人の生命に対する補償を要求しました。
災害発生から3年と364日が経過していました。
この日は法的に告訴状を提出することができる最後の日でした。
遺族たちはこれまで計画をすべて秘密裏に進めてきました。

 

日本の法廷では何事も迅速には進みません。
2016年4月までは、ともに被告の立場に置かれた石巻市と宮城県に、過失があったとする証拠は提出されなかったようです。
原告の主張は、大川小学校の先生たちは津波が襲ってきた当時適切な判断ができなかったために子供たちを守ることができなかったのであり、その過失の責任は石巻市にあるというものでした。
今回の争点は2つに集中していました。
ひとつは現場の教師たちが津波の襲来を予見できたでしょうか?
ふたつ目は、彼らは子供たちを津波の襲来から救うことができたでしょうか?

仙台地裁は2016年10月26日判決を下しました。
私はその朝、東京から新幹線に乗って仙台に向かいました。
その日は暖かく陽射しがまぶしい明るい日でした。
津波の発生からすでに5年半が経過していましたが、目立った傷跡は目に入らなくなっていました。
東北の都市や町には復興資金が流れ込み、ある意味活況を呈していました。
10万人が依然として仮設住宅住まいを強いられたままでしたが、彼らが暮らす狭く不自由な住居は時折被災地を訪れるという程度の人々の視界からは消えていました。
津波によって完全に破壊された町や村が再建されることはありませんでしたが、瓦礫の撤去作業などはすでに完了しました。
繁茂する雑草が被災地の沿岸一帯を覆い尽くしてしまったため、所々に埋もれるようにして残ったままの建物の基礎や構造物は、消えることのない苦痛や絶望を象徴する場所というよりは、放置された遺跡のように目に映りました。

 

仙台地方裁判所の建物の前では記者やカメラマンたちが所在無げにウロウロしていました。
しかし原告の一団が照りつける陽射しの中を列を作ってゆっくりとやってくると、記者たちは一様に色めき立ちました。
原告である大川小学校の子供たちの母親、父親たちが3列になって歩道に沿って歩いてきました。

彼らは黒い喪服を身にまとい、幾人かの遺族は犠牲になった自分たちの息子や娘の額に入った写真を携えていました。
正面の3人の男性が大きな横断幕を捧げ持っていました。
横断幕には上下をふちどるようにして犠牲になった23人の子供たちの写真が名前を添えてちりばめられていました。
自宅や通学途中、あるいは外で遊んでいる時に撮影されたその写真の中で、子供たちは笑ったり微笑んだり、あるいは少し難しい表情をした子供たちの顔がありました。
中心には一文字一文字慎重に手書きされた文章がありました。
「先生の言うことを聞いていたのに!」

 

法廷の扉が開かれ、満員となった全員が着席しました。
私は黒い喪服に身を包んだ両親たちを見やりました。
何年にもわたって彼らと話をしてきた、いったいどけだけの時間が費やされたのでしょう。
ある時は激しい言葉がほとばしり、時には耐え難いほど細部に渡ったやりとりが行われました。
子を喪った親たちは幼児期、赤ん坊の頃、時には妊娠期、あらゆる段階の子供たちの人生について私に話しをしてくれました。

親たちの鼻の中には消えることのない、そしてまとわりついて離れない悲しみがありました。
親たちが朝目覚めると最初に思うことは決まって喪ってしまった子供のことであり、夜に眠りにつくときに心の中を占めているものは喪ってしまった子供の思い出でした。
彼らにとって学校とはすなわち亡くなった子が通っていた場所であり、家庭とは子供たちが中心的存在の共同体であったことを思っていました。
親たちは災害とその展開、その後に続いた現実から受けた衝撃、そして命を落とした子供たちと生き残った自分たちとという息のつまるような状況について説明してくれました。

 

ドアが不快な音を立てて開きました。
黒いガウンをはおった若い女性と2人の中年男性という組合せの3人の裁判官が着席しました。
中央の裁判官は着席するとすぐに、静かに、抑揚のない調子で話し始めました。
彼が話した文語調の日本語による法律用語は、私の理解を超えていました。
私は聴きとることをあきらめ、耳を傾ける親たちの顔に焦点を合わせました - 怒り、あるいは歓喜、私は彼らの表情を読み取ることより判決の内容を理解する子が出来ました。
その顔は真っ直ぐに裁判官に向けられていましたが、両親たちはみな一様に苦渋の表情を浮かべていました。。
そして何の表情も浮かんでおらず、一見すると限り無表情でした。

突然開始された裁判官の申し渡しは、唐突に終わりを迎えました。
法廷内にひしめいていた人々は立ち上がり、ぞろぞろと出て行きました。

そして原告の両親たちも立ち上がりました。
彼らは互いに言葉を交わすことも無く、うなずきあうこともしませんでした。
一様に深刻な表情を浮かべ、深い苦悩を感じさせました。

 

しかし最終的に私は、裁判官が下した判決の一部は原告の両親たちの意に沿うものになったと感じていました。
それは被告に対し聴いていた限り極めて多額の補償金の支払いを命じた部分です。

私は日本の記者が集まっていた廊下に出て、彼らとメモの交換をしました。
私は間違っていませんでした。
大川小学校の両親たちは勝利したのです - 彼らは1100万ポンド(約1,600万円)以上の補償金を受け取ることになりました。

しかし失われてしまったすべての子供の命は、取り戻しようがありませんでした。

 

-《完》 –

https://www.theguardian.com/world/2017/aug/24/the-school-beneath-the-wave-the-unimaginable-tragedy-of-japans-tsunami

+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

 

翻訳していて久しぶりに涙が流れました。

別の原稿にも書いたことがありますが、人間はたった一つの命を与えられ、たった一度の人生を歩んでいきます。

リセットもリプレイもありません。

そしてその人にとっての『世界」は生きている間だけのものです。

 

この原稿を訳し終えて思うことは、どんな時でもまずは命を守ることが大切だということです。

巨大災害はもちろんですが、犯罪や戦争といった命を奪うことを目的とした行為にも、私たちは鈍感になってはならないと思います。

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