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【 アフター・フクシマ : 悲劇から5年が過ぎて – 人びとの素顔 】《2》

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所要時間 約 9分

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3.11の傷跡はあまりにも深く、その後の人生がまるで別のものになってしまった人も数多くいる
私たちがここで諦めてしまったら、被災地の悪い話がまたひとつ増えることになる

ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2016年3月10日

GRDフクシマ01
▽ 大船渡

東日本大震災の被災写真の中、最も心痛むものの一つは、がれきの山と化した陸前高田市街地の中に埋まった酔仙酒造の折れ曲がった、今にも倒れそうな看板を写した一枚でしょう。

日本国内でも屈指の酒造会社のひとつと見られている酔仙酒造にとって、57人の従業員のうちの9人が津波によって命を奪われたことが明らかになったことは、悲劇が未だ始まったばかりであることを告げるものでした。
「震災発生の数日後、父が生き残った従業員に対し、努めて冷静に私たちは酒造りを続けなければならないと語っていたことを覚えています。」
酔仙酒造の社長金野泰彦氏の子息、金野泰明氏がこう語りました。
泰彦氏の言葉通り、酔仙酒造は岩手県内のライバルとも言うべき同業者、岩手銘醸株式会社の醸造施設で酒造りを再開しました。
被災地では数多くの企業が被災したかつてのライバル会社の再建のため援助を惜しみませんでしたが、岩手銘醸と酔仙酒造もその代表的な例となりました。

GRDフクシマ酔仙酒造
現在、政府の補助金と愛する酒の復活を願う愛飲者の寄付などにより、酔仙酒造は大船渡港を見下ろす丘の上に上質の酒造りを再開すべく、新たな醸造施設を立ち上げました。
そして2014年には酔仙酒造の初の海外向け新商品『希望』の米国市場への輸出が実現したのです。
「私たちは当初陸前高田市の会社でしたが、しかしその水質はもう酒造りには向かないものになってしまったのです。」
同社の村上ゆき部長がこう語りました。

酔仙酒造は70年以上前に8軒の造り酒屋が合併してできた会社です。
現在の従業員数は東日本大震災前と比較し少なくなり、生産量は震災前と比較し40%程度に留まっています。

しかし目下のところ金野泰明氏にとっては、米を使って伝統的な日本酒を作る能力はこれで十分です。
「5年前の3月、私たちは冬の間に仕込んだ酒の輸出販売を始めようとするまさにそのタイミングで、津波に襲われたのです。」
金野氏はその時の出来事についてこう語りました。
「私は震災の翌日に醸造所があった場所に戻ってきたのですが、いったい何が起きたのかすぐには理解できませんでした。」

GRDフクシマ酔仙蔵人
金野氏は20種類の商品の品質管理を行っていますが、酔仙酒造はその商品を愛飲してきた人々に対し、再建の義務を負っていると語ります。
「もし私たちが酒造りを断念してしまったら、この町にとっても、そしてその多くが住む場所を失ってしまった愛飲者の皆さんにとっても、悪い知らせが一つ増えることになります。」
「もし私たちが再建のための努力を放棄してしまったら、陸前高田の人々にあわせる顔が無いと思いました。」

金野氏は酔仙酒造が設備その他を一新したことにより、製品の味が微妙に変わってしまったかもしれないことを認めました。
「酒はただ作ればいいというものではありません。そこには信じられない程複雑な深みがあります。」

「私たちの再建はまだ緒に就いたばかりです。私たちが本当の意味で森を抜けるには、あと10年はかかるかもしれません。しかし5年前、私たちが追い込まれた程悪い状況というのはもう考えられません。」
「あの状況を乗り切った私たちは、これからどんな状況に遭遇しても、きっと乗り越えられると思います。」

120120
▽ 陸前高田

変だと思う人がいるかもしれませんが、佐藤一男さんは自分自身を幸運な人間の一人だと考えています。

彼は故郷の陸前高田市1,700人の命を奪った津波によって、自分の家を失いました。
しかし彼自身と妻、3人の子供たち、そして佐藤さんの両親も震災を生きのびることができました。

一方で元漁師である佐藤さんですが、再び海に出て漁をするには、心に受けた傷が大きすぎました。
今佐藤さんたち一家は、かつて避難場所とし使われた元中学校の敷地に建てられた仮設住宅で、全員が生活しています。

子供たちのいる他の世帯は担保となる要件を何とか確保し、ローンを組んで自宅を再建し、仮設住宅を出ていきました。
佐藤さんたち、そしておよそ100人ほどの平均年齢が60歳を越える人々が仮設住宅に残されました。
中には90代後半の人びともいます。

GRDフクシマ陸前高田佐藤氏
78歳になる佐藤さんの父親の吉朗さんは、いつでも海に出てシラス漁を再開できるよう、漁網の修理に余念がありません。

東日本大震災発生以前は、吉朗さんと息子は、一緒に釣りに行くことがありました。
しかし一男さんは、この春、釣りに行く父親に同行しようとはしませんでした。

「私は、災害以前は漁師でした。」
50歳の佐藤さんはこう語りました。
「津波に襲われた後も、私は漁師を続けようと努力しました。しかし私はフラッシュバックに襲われ続け、心理面で影響されるのを避けることができませんでした。私はあの時、丘の上から津波がやってくる様子を見ていました。必死に逃げようとする人々、そして悲鳴…でも私はどうすることもできませんでした。」

《3》に続く
http://www.theguardian.com/environment/2016/mar/10/the-faces-of-japans-tsunami-disaster-survivors-five-years-on
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【 シリアの子どもたち 】《2》

アメリカNBCニュース 3月16日

子ども07
シリア内戦では250,000人以上が死亡、約2,300万の内戦前の人口のうち約半数の国民がそれまでの自宅を追われて流民化するなどしています。
そして国外に逃れ出た480万人のシリア人の約半数は子供たちです。

AP通信のカメラマン・マホメット・ムヘイセンは、ヨルダン国内のマフラクにあるシリア難民キャンプに数日間滞在し、ここに掲載されている子供たちの肖像写真を撮影しました。
現在最年少でも6歳になった子供たちは、故国シリアの記憶については曖昧になっていますが、それでも皆一様に故郷を恋しがります。
そして破壊されてしまった学校の事も。

3月中旬、国連の子どもたちのための機関は、難民化している70万人を含め、シリアでは300万人の子供たちが学校に通えなくなっていると報告しました。
ハサカから避難してきた7歳のマヤダ。・ハミド。
「シリアのことはもう何も覚えていません。」(写真上)

ハマから逃れて来た6歳のアヤ・バンダル。(写真下・以下同じ)
子ども08
ハサカから避難してきた5歳のモナ・エマド。
「私はシリアに帰りたいのですが、お父さんはアメリカに移住したいと言っています。」
子ども09
ハサカから避難してきた3歳のハマド・ハディル。
子ども10
ダマスカス東郊から逃れて来た11歳のヤスミーン・ムハンマド。
「私が願う事のすべては、シリアの私が通っていた学校に戻って、友達と会うことです。」
子ども11
ホムスから避難してきた12歳のマリアム・アローシュ。
「自分の家のことも通っていた学校のことも覚えています。帰りたいです。」
子ども12
ハマから逃れて来た13歳のムハンマド・バンダル。
「僕は人を助けることができるいしゃ医師になりたいです。」
子ども13
http://www.nbcnews.com/slideshow/portraits-capture-piercing-gaze-syrian-refugee-children-n540531

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