ホーム » エッセイ » 荒れ果てた故郷、目に見えない恐怖:2011年東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊《前編》
地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきた
3.11の災害現場、どんな心の準備も許さない容赦ない徹底的な破壊を見た
スティーヴ・チャオ / アルジャジーラ 2021年3月10日
※ 日本の北東海岸に4階建て相当の高さの高津波が襲来してから10年になりますが、スティーヴ・チャオはアルジャジーラのアジア特派員であり、2011年の東日本大震災・福島第一原子力発電所の崩壊が発生した際、最も早く被災地に入った海外リポーターの一人です。
名取の街に入った瞬間の事は決して忘れることはないでしょう。
私たちアルジャジーラの取材チームは地震発生の直後、東京を出発し夜通し運転して被災地に入りました。
冷たく澄み切った朝を、太陽が照らし出していました。
高速道路を降り、私たちは消防署に立ち寄り津波の被害を受けた場所がどこなのか署長に尋ねました。
彼は私たちに通りを進み数ブロック先で右に曲がるように告げました。
私たちが実際に目にしたものについて、どんな心の準備もできていませんでした。
私たちは海岸から何キロも離れた場所にいましたが、80,000人の人間が暮らしていたはずの都市のほぼ半分が平らにされていました。
それはまるで、海から出てきた巨大な手が名取市内に立っていた何もかもを一気に太平洋の海の中に引きずり込んだかのような景観でした。
残ったのは一面の泥の海とあたり一面に散らばるひっくり返った車、破壊された家屋などの文明の断片でした。
海岸に向かって歩いていくと、津波の衝撃であるいはがれきに押しつぶされた人びとの手や足がぐったりと動かないまま伸びていました。
この津波により死亡したのは15,899人でした。
そして2,500人以上が行方不明のままです。
現地で実況レポートを始めた途端、大きな余震が地面を揺るがしました。
また別の津波が発生したことを告げると警報が鳴り渡り渡り、私たちは被災地に唯一残された建物の2階に急いで駆け上がりました。
緊張したまま数分が過ぎ、やがてサイレンが止まりました。
それは誤報でした。
こんな事がこれから先何度も繰り返される事になるのでしょう…
▽ 喪失感、痛み
私たちの取材チームは、岩手県大槌町、宮古市、宮城県南三陸町、石巻市など、被災したコミュニティを次次と移動しました。
このうち岩手県田老町は1611年、1896年、1933年に大きな津波に襲われています。
こうした経験から住民は町を守るために高さ10メートルの護岸を建設していました。
しかし2011年の津波は高さ15メートルに達しました。
家々はまるで巨大な洗濯機でもみくちゃにされた後、あたり一面にばらまかれたようになっていました。
写真 : 2011年3月、田老町の被災地に立つスティーヴ・チャオ。
破壊を免れた堤防の上で、在宅介護の仕事をしている畠山房子さんに会いました。
彼女の家も流されて無くなってしまいました。
彼女の隣人や友人は皆亡くなってしまいました。
彼女は破壊された町をあてもなくさまよっていました。
畠山さんは国内の別の場所に住んでいる息子に自分の無事を伝えるために、携帯電話のバッテリーを充電する方法はないかと私たちに尋ねました。
写真 ; 岩手県田老町で自衛隊の捜索救助隊が残骸の中で発見された犠牲者のために黙祷を捧げていました。
救助隊のメンバーは、遺体が見つかるたびにに黙祷を捧げていました。
後に畠山さんは東京の郊外に引っ越すことになりました。
現場にも同行したアルジャジーラのプロデューサーである朝倉綾氏がこの時畠山さんを取材しましたが、彼女は自宅と故郷を失ってしまった事について、震災の影響をほとんど受けていない日本の日常をとても遠くに感じるし、自分が日本の普通の生活とはもはや別の場所で生きているように感じていると語りました。
「津波の犠牲者は、日本の復興が進んだ事をしたことを知っています。しかし彼らはまだなにもかも失ってしまったことの痛みを感じており、トラウマを抱えています。」
朝倉氏はこう語りました。
帰郷した人々のために、日本政府は沿岸部に最大高15メートル全長400キロメートルに及ぶ「巨大防潮堤」を建設するという前例のない計画に着手しました。
しかしこの計画には多数の批判が集中しました。
沿岸で暮らす一部の人々は壁は目障りであり、何世紀にもわたって家族を養うために大切にしてきた海から沿岸で暮らしてきた漁業関係者を切り離していると語っています。
しかし日本政府は、防潮堤の『防護』効果をはそうした心情的問題より優先されるべきだとしています。
この防潮堤がいついかなる時も津波を防ぎきれるのかどうかというのはまた別の問題です。
多くの生存者が前に進もうとしました。
津波が気仙沼の町を襲ったとき、牛乳配達業の千葉清秀さんは真っ黒な津波に飲み込まれました。
千葉さんが生き残る事ができたのは、一個の発泡スチロールの箱にしがみついていたおかげでした。
数時間後、彼はなんとか橋の上によじ登り、氷点下前後まで気温が下がった夜を震えながら過ごしました。
翌朝、千葉さんは妻と2人の娘が亡くなったことを知りました。
9歳の息子瑛太くんだけが生き残りました。
仮設の避難所で出会った際、千葉さんは瑛太くんを支えていくためにすべての時間と愛情を注ぐ必要があり、嘆いている暇などはない、そう語っていました。
牛乳配達の事業を再建するための努力を続けながら、千葉さんは努めて空いた時間を瑛太くんと一緒に野球をして過ごしました。
瑛太くんは野球が大好きでした。
千葉さんは『希望のヨーグルト』というマーケティング・キャンペーンを立ち上げ、瑛太くんのためにバッティングの練習施設を作るための資金集めにも挑戦しました。
同じ時期の始め頃、瑛太くんは母親と姉妹2人を喪ってしまった事にどう向き合えば良いのか、どう表現すれば良いのか苦しんでいました。
瑛太くんはいつの日か自分が生まれ育った町の再建に貢献し、母と姉妹の霊を慰めたいという願いを何とか口にしました。
現在、瑛太くんは東京の高校を卒業し、イギリスに留学する事になりました。
海外に行くことにより、故郷の気仙沼と世界の都市との新たな絆を築く方法を模索していくつもりだと語りました。
3月11日の荒廃の中から生まれた瑛太くんの誓いは、彼の中で力強く脈打っています。
しかし破壊はそこで終わらなかったのです。
地震と津波により何もかも破壊された後、今度は目に見えない恐怖を伴う徹底的な破壊が襲ってきたのです。
※英文からの翻訳のため、個人名の表記に誤りがある場合があります。
《後編》に続く
https://www.aljazeera.com/news/2021/3/10/devastated-communities-unseen-fear-japan-tsunami-2011